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第一部 女武人、翠令の宮仕え
翠令、失せ物騒動に遭う(四)
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「君子たるもの、弱く愚かな者をも許す度量も持つべきです。佳卓殿によると、あの白人は、あの妖のような容貌や賤しき生まれを蔑まれているとか。それは哀れなことです。本人は好き好んでそのように生まれてきたわけでもありますまい。こういった者にも情けを恵んでやるのが君子の務め。帝の御物に手を掛けても、教え諭し改心を促すべきでありましょう」
「ちょっと待って、円偉」
姫宮は、ことの発端となった蝙蝠をかざして見せた。
「教え諭すも何も……。後宮の物は何も盗まれていないわ。ほら、この扇はここにちゃんとあるでしょう?」
円偉は興味なさげに返答する。
「まあ、今回はそのようですな。盗賊であっても佳卓殿の情けで多少は物事を弁えるようになったのでしょう。これからも朝廷の威徳にふれれば従順な者となるでしょうな。そう、姫宮の飼い犬と同じように。ほら、ハクと呼んで可愛がってらっしゃるでしょう?」
「ええと……?」
姫宮が戸惑われる。翠令にも白狼と飼い犬との話の繋がりが分からない。
円偉が続ける。
「ああ、肌が白い畜生ということで連想したのです。犬であっても情けを掛ければ主に懐く。あの白人にも情け深く接してやれば、もとは粗暴であってもいずれ人間らしくなりましょう」
「……」
姫宮は暫く絶句し、それからおっしゃった。
「彼は人間であって、犬ではないわ……」
円偉はその言葉の方に意外そうな顔をし、それから笑みを浮かべた。壮年の男性が女子どもに向けて浮かべがちな、苦笑のような表情を。
「姫宮は慈悲深い。結構なことです。差別はよろしくありませんからな。姫宮は普段から飼い犬のことを可愛がっていらっしゃるとか。身分卑しき者にも飼い犬にも心優しいお気持ち、仁の基でございます」
「……」
円偉はいつも通り、ひとしきり天子は徳を備えて仁政を施すようにと述べ立てて帰って行った。
翠令と二人きりになった姫君が、手にした蝙蝠に視線を落として呟かれた。
「なんていうか……円偉とは話が噛み合わないわね……」
どこか疲れたお顔をなさっている。
「白狼たちは何も盗んでいないし、元から人間なんだから犬とは立場が違うんだけど……」
「まことに……」
翠令も姫宮の言葉に同意する。
貴族の男であれば白狼のような身分の者を賤しいものだと見下すのが当たり前なのかもしれない。ただ、円偉の場合は、自分は普通の貴族と違って情け深い言動を取っていると思い込んでいる。そこが独善的でいやらしい。
姫宮はため息をつかれた。
「ハクのこと、色が白いから単純にハクって呼んでたけど……。白狼を連想してしまうのなら名前を変えましょう。そうね、ビャクにしましょう。文字は『百』よ。数が多くて縁起もいいし」
「さようでございますね……。ハク、いやビャクにはとんだとばっちりですが、新しい名前に慣れてもらいましょう」
姫宮は困った顔で微笑まれた。
その夜、翠令は白狼の言葉を思い返していた。彼は言っていた。「情け」は一方的に上から施されるもの、「恩」は対等な立場で交わされるものだと。
佳卓と白狼は確かに対等だ。その前提でまるで友人であるかのように酒を酌み交わす。いや、友人であるかのように、ではなく本物の友人と言ってもいいだろう。彼らの間では、あれほど血の通った会話が交わされるのだから。
──もし、この二人の友情を円偉が知ったら何と思うだろう?
円偉は佳卓の学才を愛している。確かに自分と佳卓にしか読めない書物があれば、共通の話題がある得難い相手として、佳卓を求める気持ちが強くなるだろう。
しかし、当の佳卓が、自分が見下している賊の白狼とこそ友情を育んでいることを知ったなら……。円偉が佳卓に寄せる親愛の情は、嫉妬や羞恥のあまり、全く違った方向に暴走するのではないだろうか。
「ちょっと待って、円偉」
姫宮は、ことの発端となった蝙蝠をかざして見せた。
「教え諭すも何も……。後宮の物は何も盗まれていないわ。ほら、この扇はここにちゃんとあるでしょう?」
円偉は興味なさげに返答する。
「まあ、今回はそのようですな。盗賊であっても佳卓殿の情けで多少は物事を弁えるようになったのでしょう。これからも朝廷の威徳にふれれば従順な者となるでしょうな。そう、姫宮の飼い犬と同じように。ほら、ハクと呼んで可愛がってらっしゃるでしょう?」
「ええと……?」
姫宮が戸惑われる。翠令にも白狼と飼い犬との話の繋がりが分からない。
円偉が続ける。
「ああ、肌が白い畜生ということで連想したのです。犬であっても情けを掛ければ主に懐く。あの白人にも情け深く接してやれば、もとは粗暴であってもいずれ人間らしくなりましょう」
「……」
姫宮は暫く絶句し、それからおっしゃった。
「彼は人間であって、犬ではないわ……」
円偉はその言葉の方に意外そうな顔をし、それから笑みを浮かべた。壮年の男性が女子どもに向けて浮かべがちな、苦笑のような表情を。
「姫宮は慈悲深い。結構なことです。差別はよろしくありませんからな。姫宮は普段から飼い犬のことを可愛がっていらっしゃるとか。身分卑しき者にも飼い犬にも心優しいお気持ち、仁の基でございます」
「……」
円偉はいつも通り、ひとしきり天子は徳を備えて仁政を施すようにと述べ立てて帰って行った。
翠令と二人きりになった姫君が、手にした蝙蝠に視線を落として呟かれた。
「なんていうか……円偉とは話が噛み合わないわね……」
どこか疲れたお顔をなさっている。
「白狼たちは何も盗んでいないし、元から人間なんだから犬とは立場が違うんだけど……」
「まことに……」
翠令も姫宮の言葉に同意する。
貴族の男であれば白狼のような身分の者を賤しいものだと見下すのが当たり前なのかもしれない。ただ、円偉の場合は、自分は普通の貴族と違って情け深い言動を取っていると思い込んでいる。そこが独善的でいやらしい。
姫宮はため息をつかれた。
「ハクのこと、色が白いから単純にハクって呼んでたけど……。白狼を連想してしまうのなら名前を変えましょう。そうね、ビャクにしましょう。文字は『百』よ。数が多くて縁起もいいし」
「さようでございますね……。ハク、いやビャクにはとんだとばっちりですが、新しい名前に慣れてもらいましょう」
姫宮は困った顔で微笑まれた。
その夜、翠令は白狼の言葉を思い返していた。彼は言っていた。「情け」は一方的に上から施されるもの、「恩」は対等な立場で交わされるものだと。
佳卓と白狼は確かに対等だ。その前提でまるで友人であるかのように酒を酌み交わす。いや、友人であるかのように、ではなく本物の友人と言ってもいいだろう。彼らの間では、あれほど血の通った会話が交わされるのだから。
──もし、この二人の友情を円偉が知ったら何と思うだろう?
円偉は佳卓の学才を愛している。確かに自分と佳卓にしか読めない書物があれば、共通の話題がある得難い相手として、佳卓を求める気持ちが強くなるだろう。
しかし、当の佳卓が、自分が見下している賊の白狼とこそ友情を育んでいることを知ったなら……。円偉が佳卓に寄せる親愛の情は、嫉妬や羞恥のあまり、全く違った方向に暴走するのではないだろうか。
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