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第一部 女武人、翠令の宮仕え
翠令、佳卓を賞賛する(一)
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「悪い方ではないのですよ」
姫宮の許を訪れた佳卓《かたく》が苦く笑った。
今日は薄曇りだが雨の気配はなく、姫宮は燕服をお召しで庭をハク……いや、ビャクと名前が変わった飼い犬と遊んでおられた。
そこに佳卓が訪れ、庭から邸内に続く階に姫宮と並んで腰を下ろす。話題はビャクから、白狼を犬と同列に扱った円偉の話となっていた。
翠令は近くの地面に膝をつき、女東宮と近衛大将の語らいを見守る。円偉《えんい》とは違い、佳卓のふるまいには堅苦しさがなく姫宮も寛いでいらっしゃるようだ。
佳卓の「悪い方ではない」という言葉に、姫宮は口を尖らせておっしゃった。
「でも、人間と犬をと一緒にするのはどうかと思うの。ハク、いいえビャクは可愛いけど……白狼は人間だわ!」
佳卓もこころもち憂い顔で目を伏せる。
「残念ながら貴族というのはそういうものです。さして身分が高くない者でも、相手の生まれが自分より悪いと見ればそれだけで蔑む。さらに白狼のように妖を思わせる怪異な風貌であれば嫌悪感はより大きい……」
彼は少し息を吐いて、姫宮を見た。
「もっと露骨に白狼を厭う貴族も多数おります。たまたま警備中の白狼を見かけただけで『妖を目にした今日は厄日だ』と騒ぎ立てる者も一人ではありません。彼がただの白人だと周知されても、未だに近衛に『妖が出た』と連絡が来ますよ」
「白狼は色が白いだけで普通の人間なんだって、いいかげん分からないのかしら?」
「そう分かった上での嫌味というか嫌がらせというか……もありまして」
姫宮は暫くお口を開けたまま言葉を失い、そして溜息をつかれた。
「佳卓も大変ね……。白狼を近衛に入れた責任があると思って、色んなことに気を遣ったり我慢したり……」
私のことなど、と佳卓はこともなげに笑い飛ばした。
「私は私が正しいと思うように仕事しているだけですのでね。白狼一味を朝廷側につけた意義は小さくありません。貴族達の快不快よりも京の治安の方が大事です。……ただ、大多数の貴族は宮城の外の世界に興味がない。彼らにとって目障りな容貌の男はそれだけで苛立たしいのでしょう」
「そう……」
「円偉殿も、右大臣家の嫡流ではなくともそれなりの身分です。基本的に白狼のような者を好む理由はない。にもかかわらず、最大限に良心的であろうとしていらっしゃるのだと思います」
翠令は心の中で佳卓の言葉を繰り返した。確かに「情けを与えてやる」という態度でも「最大限に良心的」ではあるのだろう……。
佳卓は意外な話をし始めた。
「円偉殿は、あの方なりに筋が通っておいでなのですよ。天子に大事な資質は徳だという考えにぶれはありません」
姫宮は困った顔で微笑まれた。
「うん、それは嫌と言うほど聞いているわ」
佳卓はちらりと翠令にも視線を送ってから続けた。
「実を言えば右大臣の姫君が帝に入内するという話が前々からございます」
翠令は些か緊張してそれを聞く。帝に御子が生まれれば、そちらが東宮とされる可能性が高い。そのとき姫宮はどうなるのだろうか。
当の姫宮は無邪気にお尋ねになる。
「右大臣に娘さんがいたの?」
「ええ、男子がいないので円偉殿を猶子とされましたが、実の娘はおられます。帝がご病弱ゆえ進展がなかったのですが、今のようにお元気な日が続くと話題に上ります。されど、円偉殿は乗り気ではない」
「円偉にとっては義理のお父さんの意向でしょう? 義理の姉妹に当たる姫君の入内に賛成じゃないの?」
「円偉殿は錦濤《きんとう》の姫宮を評価されているのですよ。燕語に巧みで読書家でいらっしゃる、と」
「……なんだか照れ臭いわね……。円偉の期待ほど難しいご本は読めないのよ、私」
「でも燕語で書かれた紀行文を受け取られたでしょう?」
「読むには読んだけど、あまり私は良い感想は持っていないの……」
「まあ、姫宮のご感想は翠令から聞いておりますが」
翠令は首を竦めた。円偉の書物に対する姫宮の辛口の評価を、何かの折に佳卓に話したことがある。
佳卓は姫宮に念を押すかのように、真面目な声をお掛けした。
「そのご感想はどうか円偉殿にはおっしゃいますな」
「うん……」
「円偉殿が紀行文を差し上げたのは、姫宮への期待の表れです。実際円偉殿はおっしゃった、『右大臣家の姫が入内して御子が生まれたとしても、その御子が燕の書物が読めるようになるとは限らないし、読めるようになるまで時間がかかる』『現在、東宮に相応しいのは錦濤の姫宮だ』と」
姫宮は呆れるような感嘆するような息を吐かれた。
「円偉にとって、帝の基準は本当に燕風の教養があるかどうかに尽きるのね」
「ええ、後見人が誰なのかよりも教養、つまりは天子の徳こそが帝に相応しいかどうかを左右する。その信念には一本の筋が通っている。気骨のある人物だと申せましょう」
「そうね、そこは立派なところかもしれないわね……」
佳卓がおどけてみせた。
「私なども円偉殿に叱られますよ」
「あら」と姫宮が可笑しそうな声をお上げになった。翠令も意外な話を聞くものだと思う。この、煮ても焼いても食えない近衛大将を叱る者がいるのか。
「私の東国統治のやり方は『民の損得勘定につけいるばかりで徳が伴っていない』と言われます。まあ、私は徳と縁の薄い人間ですから仕方ない」
翠令が思わず佳卓に声を掛けた。円偉が姫宮に好意的なのは翠令にとっても好ましいが、佳卓を非難することに納得しかねる。
「正智殿が佳卓様を褒めていました。私も佳卓様の東国統治は理にかなったものと考えます」
姫宮の許を訪れた佳卓《かたく》が苦く笑った。
今日は薄曇りだが雨の気配はなく、姫宮は燕服をお召しで庭をハク……いや、ビャクと名前が変わった飼い犬と遊んでおられた。
そこに佳卓が訪れ、庭から邸内に続く階に姫宮と並んで腰を下ろす。話題はビャクから、白狼を犬と同列に扱った円偉の話となっていた。
翠令は近くの地面に膝をつき、女東宮と近衛大将の語らいを見守る。円偉《えんい》とは違い、佳卓のふるまいには堅苦しさがなく姫宮も寛いでいらっしゃるようだ。
佳卓の「悪い方ではない」という言葉に、姫宮は口を尖らせておっしゃった。
「でも、人間と犬をと一緒にするのはどうかと思うの。ハク、いいえビャクは可愛いけど……白狼は人間だわ!」
佳卓もこころもち憂い顔で目を伏せる。
「残念ながら貴族というのはそういうものです。さして身分が高くない者でも、相手の生まれが自分より悪いと見ればそれだけで蔑む。さらに白狼のように妖を思わせる怪異な風貌であれば嫌悪感はより大きい……」
彼は少し息を吐いて、姫宮を見た。
「もっと露骨に白狼を厭う貴族も多数おります。たまたま警備中の白狼を見かけただけで『妖を目にした今日は厄日だ』と騒ぎ立てる者も一人ではありません。彼がただの白人だと周知されても、未だに近衛に『妖が出た』と連絡が来ますよ」
「白狼は色が白いだけで普通の人間なんだって、いいかげん分からないのかしら?」
「そう分かった上での嫌味というか嫌がらせというか……もありまして」
姫宮は暫くお口を開けたまま言葉を失い、そして溜息をつかれた。
「佳卓も大変ね……。白狼を近衛に入れた責任があると思って、色んなことに気を遣ったり我慢したり……」
私のことなど、と佳卓はこともなげに笑い飛ばした。
「私は私が正しいと思うように仕事しているだけですのでね。白狼一味を朝廷側につけた意義は小さくありません。貴族達の快不快よりも京の治安の方が大事です。……ただ、大多数の貴族は宮城の外の世界に興味がない。彼らにとって目障りな容貌の男はそれだけで苛立たしいのでしょう」
「そう……」
「円偉殿も、右大臣家の嫡流ではなくともそれなりの身分です。基本的に白狼のような者を好む理由はない。にもかかわらず、最大限に良心的であろうとしていらっしゃるのだと思います」
翠令は心の中で佳卓の言葉を繰り返した。確かに「情けを与えてやる」という態度でも「最大限に良心的」ではあるのだろう……。
佳卓は意外な話をし始めた。
「円偉殿は、あの方なりに筋が通っておいでなのですよ。天子に大事な資質は徳だという考えにぶれはありません」
姫宮は困った顔で微笑まれた。
「うん、それは嫌と言うほど聞いているわ」
佳卓はちらりと翠令にも視線を送ってから続けた。
「実を言えば右大臣の姫君が帝に入内するという話が前々からございます」
翠令は些か緊張してそれを聞く。帝に御子が生まれれば、そちらが東宮とされる可能性が高い。そのとき姫宮はどうなるのだろうか。
当の姫宮は無邪気にお尋ねになる。
「右大臣に娘さんがいたの?」
「ええ、男子がいないので円偉殿を猶子とされましたが、実の娘はおられます。帝がご病弱ゆえ進展がなかったのですが、今のようにお元気な日が続くと話題に上ります。されど、円偉殿は乗り気ではない」
「円偉にとっては義理のお父さんの意向でしょう? 義理の姉妹に当たる姫君の入内に賛成じゃないの?」
「円偉殿は錦濤《きんとう》の姫宮を評価されているのですよ。燕語に巧みで読書家でいらっしゃる、と」
「……なんだか照れ臭いわね……。円偉の期待ほど難しいご本は読めないのよ、私」
「でも燕語で書かれた紀行文を受け取られたでしょう?」
「読むには読んだけど、あまり私は良い感想は持っていないの……」
「まあ、姫宮のご感想は翠令から聞いておりますが」
翠令は首を竦めた。円偉の書物に対する姫宮の辛口の評価を、何かの折に佳卓に話したことがある。
佳卓は姫宮に念を押すかのように、真面目な声をお掛けした。
「そのご感想はどうか円偉殿にはおっしゃいますな」
「うん……」
「円偉殿が紀行文を差し上げたのは、姫宮への期待の表れです。実際円偉殿はおっしゃった、『右大臣家の姫が入内して御子が生まれたとしても、その御子が燕の書物が読めるようになるとは限らないし、読めるようになるまで時間がかかる』『現在、東宮に相応しいのは錦濤の姫宮だ』と」
姫宮は呆れるような感嘆するような息を吐かれた。
「円偉にとって、帝の基準は本当に燕風の教養があるかどうかに尽きるのね」
「ええ、後見人が誰なのかよりも教養、つまりは天子の徳こそが帝に相応しいかどうかを左右する。その信念には一本の筋が通っている。気骨のある人物だと申せましょう」
「そうね、そこは立派なところかもしれないわね……」
佳卓がおどけてみせた。
「私なども円偉殿に叱られますよ」
「あら」と姫宮が可笑しそうな声をお上げになった。翠令も意外な話を聞くものだと思う。この、煮ても焼いても食えない近衛大将を叱る者がいるのか。
「私の東国統治のやり方は『民の損得勘定につけいるばかりで徳が伴っていない』と言われます。まあ、私は徳と縁の薄い人間ですから仕方ない」
翠令が思わず佳卓に声を掛けた。円偉が姫宮に好意的なのは翠令にとっても好ましいが、佳卓を非難することに納得しかねる。
「正智殿が佳卓様を褒めていました。私も佳卓様の東国統治は理にかなったものと考えます」
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