錦濤宮物語 女武人ノ宮仕ヘ或ハ近衛大将ノ大詐術

washusatomi

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第一部 女武人、翠令の宮仕え

翠令、佳卓を賞賛する(二)

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 徳も大事だろうが、そんな抽象的なものの前に、その民が求める安寧と豊かさを与えるべきだろう。佳卓はそう務め、そして実際に現地での評価が高い。きちんと結果を出している。

 佳卓が翠令に顔を向けて、目を見開いて見せる。

「ほう、翠令が私を褒めてくれるのかい? これは嬉しいことだ」

 姫宮がうふふと忍び笑いを漏らされた。

「私だって褒めるわよ。医術とか土木術とかそういう実用的なことで、東国の人たちが必要とすることを叶えているのでしょう。佳卓は立派にやっていると思うわ」

 佳卓は「これはこれは痛み入ります」と大袈裟な仕草で頭を下げ、その仕草に姫宮はまたひとしきりお笑いになる。

 翠令も姫宮に合わせて軽く微笑みながら、佳卓の説明を待った。彼は民が必要とするものに対して十分に応じる善政を敷いてきた。それを円偉に遠く離れた京の都から一方的に非難されて、佳卓に不服はないのだろうか。

 佳卓は翠令の視線に少し表情を改め、静かに話し始めた。

「私も今のところは東国の民のための政ができているものと、その程度には自負しております。されど、それは暫定的なものに過ぎない。平和が訪れれば文化は成熟する。そうすれば人々は目先の利害や実用以上のものを求めるようになる。それはすなわち、統治者にも実利以外のものを求めるということです。それが徳なのでございましょう」

 翠令が反駁しようとし、そして言葉が見つからない。

「されど……。佳卓様だって……」

 その先は姫宮が引き取られた。

「佳卓も学問がすごーくよく出来るんでしょう? 円偉自身がとっても褒めていたわよ。この間も話が弾んで楽しかったって」

 佳卓は首を振りながら笑う。

「いやいや、なかなか大変なことでした。円偉殿に満足いただける会話をしようとして三日徹夜しましたからね。そしてしばらく寝込むという始末」

 それは佳卓の謙遜だと翠令は思う。だから姫宮にむかって同じ武人として言い添えた。

「武人にとって三日くらい夜を明かすのは普通なら負担とは限りません。仮眠を取りながら肉体的にはいつまでも戦いぬくよう武人は求められますから。しかし、今回は難解な書物を一気に読まなくてはならず、佳卓様には精神的に厳しいものがあったかと」

「いや」と佳卓が遮ろうとしたが、翠令は止めない。

「佳卓様の乳兄弟の朗風様によれば、佳卓様はかなり根を詰めておられ、円偉様との宴席を無事終えられてから、ふらふらで帰宅されたとか。あれほど辛そうなのに欠勤がただの一日で疲れが取れるのかと心配しておりました」

「朗風も余計なことを言うものだね。もう今はぴんぴんしているよ」

 佳卓は顔を顰めていた。

「私が普段不勉強なだけだよ。一夜漬けで書物を読み通す必要があったのに、昔読んだ内容を忘れているから三日もかかった。それだけだ」

 姫宮が佳卓を労《いた》わられる。

「でも、佳卓の分が悪かったわよね。佳卓は近衛の仕事があるし、もともと学問が専門じゃないでしょう? それなのに学問が専門の円偉を喜ばせるような話をしなくてはならなかったんだから、大変だったわね」

 翠令も佳卓を褒める。

「まことに。俄か勉強とおっしゃるが、それで文官の長をあれほど満足させるとは……」

「なんだね。翠令がえらく私を持ち上げてくれるのだね。翠令がそうだと落ち着かないよ」

 本当に居心地悪そうにする彼の様子を見て、翠令は心の片隅でしてやったりという気がする。いつもこの御方には振り回されがちなのだから。

「たまには、上官に手放しの賛辞を贈らせてください」

「上官は麾下から感心されるのが当たり前なんだ。いちいち口に出して言わなくてよろしい」

 姫宮が少し大きな声を出された。

「分かった!」

 佳卓が怪訝な顔を向ける。

「何がお分かりになったのです?」

「佳卓は照れ屋なのね!」

「は……?」と言葉に詰まる佳卓を尻目に、翠令は「なるほど」と申し上げる。

「いやいや」と佳卓が慌てて割って入った。

「今回の一件は、翠令が白狼のために何かしろと私を煽ったために、私が上官として有能なところを見せただけです。それを大袈裟に称えられるとこちらの居心地が悪くなる」

 姫宮はもっとお笑いになる。

「翠令、聞いた? 佳卓ったら居心地が悪いんだって!」

「近衛大将の思わぬ弱点をよく見抜かれましたね、姫宮」

「じゃあ、もっと言っちゃえ。文武両道で格好いいわよ! 佳卓!」

「いや、まことに。今まで佳卓様を食えない御仁と思ってばかりいたのを詫びましょう」

 佳卓は口をへの字に曲げて、姉妹のような女君二人にからかわれるままでいた。

 存分に笑い終えた姫宮が、それでも未だどこか弾んだ声でおっしゃる。

「ああ、可笑しい。ごめんなさいね、佳卓。からかってしまって」

 翠令も同様だ。

「近衛大将の要職に在られる自分の上官に無礼を致しました……」

 佳卓はこめかみに手を当て、呆れているといった身振りをして見せた。

「臣下をいたぶるとは東宮様もお人が悪い。それから、翠令、覚えていろ。今度厳しめの鍛錬を課してやるから」

 翠令は頭を下げて見せる。

「お咎め、いかようにも」

 佳卓は姫宮に体を向けた。

「姫宮にも諫言が必要なようです」

「あら、何でも聞くわよ」

 佳卓が続けたのは、しかし、軽口の続きではなかった。今日、昭陽舎に姿を見せてから最も真剣な顔をし、低い声で真面目に囁く。

「これから私が申し上げることは、きちんと実行して頂くようにお願い申し上げる。円偉殿が帝の必須教養だと考えている書物を、今すぐとは申しませんが、お読みになられて下さい」

 姫宮は佳卓の態度に合わせて、ご自分の表情も引き締められた。

「うん。分かった」

「それらの書物に姫宮が興味をお持ちになるかは分かりません。どんな感想をお持ちになろうとそれは姫宮の自由です。ただ、円偉殿が大切にしている価値観を尊重し、彼自身をも丁寧に扱って頂きたい――丁寧に扱われていると彼が思えるように振る舞っていただきたいのです」

「……佳卓は円偉に気を遣うのね」

「私は現在の東国の政治には向いているかもしれませんが、朝廷を束ねるほどの器量はありません。平和が続き、良くも悪くも文化が洗練された宮廷では、貴族が代々その家の格式を誇り、学や教養を身に着けた上で互いの利害を調整している。円偉殿のように穏やかで堅実なやり方が向いているのです」

「……」

「もう一つ申し上げれば。今上に代替わりしても、先帝の暴政の記憶はまだ生々しい。円偉殿には彼個人の事情もあって先帝を許せないという気持ちがあり、燕の哲学書の説く美しい理想を追うことに人生の意味を見出しておられる。やや潔癖なくらい公平な方で、だから貴族も安心して信頼を寄せることが出来る」

 彼個人の事情とは、竹の宮の姫君への恋情のことであろう。翠令も一度姫宮にも叔母にあたる姫君のことをお話するべきだろうとは思っているが、あまりに残酷な経緯ゆえそのきっかけがつかめないままでいる。

 姫宮は円偉よりも目の前の佳卓を気遣われた。

「佳卓も公平な性格だと思うけど……」

「私もそうであるつもりです。ですが、例えば白狼や翠令の登用などは誰もが賛成するものではありません。私も自分が癖の強い人間だと分かっております。ただ、円偉殿は幸い私を買って下さいますのでね、私の人事が朝廷に波紋を広げてしまったとき、事態の収拾を円偉殿にお願いできる。今回の白狼の件もそうです」

「そうね……」

「円偉殿は朝廷の要でいらっしゃる。京の都で帝位につかれるなら、円偉殿と協力し、彼の才能を上手く活かさなければなりません」

 姫宮は神妙な顔でゆっくりと頷かれた。その様子をみて佳卓は微笑む。

「幸い円偉殿が帝に求めるものは簡潔です」

「徳を備える、ということよね」

「さようです。そのためには……」

「ええ、分かったわ。円偉が勧める本をいっぱい読む。読めなくても読むふりだけでもする。できるだけ会話を合わせる。そうね、子どもに分かりやすい本を尋ねてみるわ」

 翠令もそう思った。姫宮が難しい書物を読みこなせるようになるには時間がまだかかるかもしれない。ただ、その前に円偉に向けて、自分も円偉の書物に興味があることを示しておくことはいいことだと思った。円偉も喜ぶだろう。

 実際、次に円偉に会ったとき、姫宮が「難しい本にも挑戦してみたいと思うの。何冊か貸してもらえるかしら?」とおっしゃると、彼は喜色満面だった。

 その翌日。書物がぎっしりと詰まった櫃が昭陽舎に届き、姫宮が少々ひきつった顔で受け取られる。

 その本を翠令もぱらぱらとめくってみた。

「難しゅうございますね……」

 燕語で書かれている点については姫宮も自分も問題ない。ただ、内容が高度過ぎるのだ。

「読む振りだけでもしないと……と思うけど。一日一頁でもしんどいかしらね……」

「姫宮……」

「ううん、私、頑張る。円偉を重んじているって分かってもらわないとね」

 翠令は難しい顔で考え込んだ。姫宮はまだ御年十歳なのだ。早熟ではいらっしゃるが、現時点では興味の乏しいものに無理に関心を持ち続けることはできるだろうか。
 先日の正智との会話では、風土記や医術、土木に関する書物などなら素直にお読みになりたいと意欲がおありであるのだが ……。
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