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第一部 女武人、翠令の宮仕え

翠令、街へ出る(一)

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 薫風が空け放した廂《ひさし》を爽やかに吹き渡る季節となり、晴れた日は姫宮も燕服でビャクと遊んでお過ごしになる。

 しかし、たまたま三日ほど雨天が続いた。雨なら雨で、姫宮は「さあ、部屋で円偉《えんい》の本を読むわよ!」と意気込まれていたものの、とうとう音を上げておしまいになる。

「読みたいと思ってるわよ、私だって……。でも、一度に沢山は無理……」

 翠令もその気持ちがとてもよく分かる。

「難しゅうございますから……。その本は少しずつ読み進めていかれればよろしいのでは……?」

「じゃあ何して過ごせばいいの? 雨だとお外で遊べなくてつまんない。いいのよ、この季節はまた晴れる日もすぐ来るから。でも、本格的に梅雨になったら本当に退屈するんじゃないかしら……」

 傍に侍っていた女房がとりなすように申し上げる。

「双六に貝合わせは……」

「ごめんなさい、飽きちゃったの」

 他の女房が溜息をついた。

「そのようでいらっしゃいますねえ」

 梨の典侍が思案気な顔を姫宮に向けた。

「姫宮は読書がお好き……。別に円偉様の哲学書に限らず、読みやすい本をお読みになってお過ごしあそばされればいかがでしょう?」

「好きなご本……そうね! 私、風土記とか実用書が読みたいわ。それに正智《せいち》にも会ってお喋りしたい!」

 典侍が姫宮の願いを叶えて差し上げようと手配する。
 
 正智は佳卓《かたく》の軍吏であっても後宮に正式に入るほどの身分がない。そこは佳卓とも相談の上、昭陽舎まで本を届けに来た下男ということにする。そして正智自身も佳卓について来たときと同じく床には上がらず地面に立ち、姫宮が簀子に座ってお会いすることとなった。

「なんだか悪いわね、正智」

 姫宮は訪れた正智に自分だけが座っていることをお詫びになる。

「いえいえ。私はこの齢でございますからね。膝を折ったり腰を屈めたりする方がしんどいものなんでございますよ。姫宮がこうして縁に座っておられると、私も立ったまま楽に会話できてかえってよろしゅうございます」

 ほら、と正智は持参した書物を広げた。

「何をご覧になられます?」

「ええと、あ、これは図が書いてあるのね」

「そうそう堤防の築き方でございますな。このように河が蛇行しているときには、ほら、こちらの堤防の方が重要なんでございますよ。といいますのも……」

 姫宮と正智が楽し気にお話されるのを、翠令は微笑ましく感じる。姫宮は活き活きと新しい知識に目を輝かせておられるし、正智は実の孫を可愛がるようににこやかだ。

 けれども、この二人にとって明るく温かい時間は、他の人々の冷たい視線を浴びてもいたのだった。

 その後しばらくして円偉が昭陽舎にやってきた。姫宮は、晴れた日差しの中、燕服を着て外の庭で遊んで過ごしていらしたが、円偉の来訪を受けて母屋に入り畳にお座りになる。

 邸内から眺める外では何もかもが明るい光の中で輝いて見えるが、その分、屋内の暗さが一層強く感じられた。

 円偉は無表情だった。彼は普段いつも円満そうな雰囲気でいるから、今日のような態度が酷く冷淡に感じられる。

「姫宮におかれては、正智という元地方官吏をお召しになることが多いとか」

「ええ、色々教わっているわ」

「大学寮の学生より苦情がきております」

 円偉の言葉に姫宮は心外だという顔をなさる。

「何が……いけないのかしら……?」

「あの者は大学寮に出入りはしておりますが、正式な学生ではありません。貴き東宮様に何かをお教えするような学識などないのです。そのような者が昭陽舎に招かれて自分たちが呼ばれないのは、何年も大学寮で学んだ者にとっては不快なことでございましょう」

「ええと……」

「……」

 円偉の厳めしい無言から、彼自身も不機嫌であることが窺える。

「あの……正智は佳卓の側で働く人よ。佳卓は『どうぞお会いなさい』と賛成してくれたわ」

 円偉は佳卓に好感を抱いている。佳卓の麾下だという点を強調すれば円偉も機嫌を直すのではないかと姫宮はお考えになられたのだろう。

 しかし、円偉の顔はますます険しくなる。

「佳卓殿は優れた方です。しかし、あの方の周りに集まってくる者達は下らぬ者が多い。あのような類に持ち上げられても仕方がないと佳卓殿はどうしてお気づきにならないのか」

「……」

 翠令は胸にひやりとしたものを感じた。円偉は佳卓自身に好意的だが、その周囲には必ずしもそうではない。

 姫宮は一瞬だけ唇を噛み、すぐにそれを隠してあどけない笑顔をお浮かべになった。

「あのね、私は正智に説話集を借りているのよ」

 翠令の目には、姫宮が自分の幼さをいつも以上にわざと強調していらっしゃるのが分かる。

「は……」

 円偉は幼い子供との接点など普段ないだろう。相手が十の少女に過ぎないという事実を思い出して当惑しているようだ。

「円偉から借りているご本を一生懸命読むけど、やっぱり難しいの。それでね、息抜きに説話集が読みたいなあって。正智は説話集を、特に東国方面のを沢山持っているんですって。それを借りているの。……駄目?」

「……」

「円偉の本も休み休みちゃんと読んでいるわ。気分転換した方がずっとはかどる……ううん、そうじゃないと読めない」

 円偉は息を吐いて「それでは仕方ございません」と申し上げ、そして引き下がって行った。

 この一件があってから、姫宮が「お外に行けたらなあ」と零されることが増えた。

「なんだか息が詰まるのだもの……」

 自分の一挙手一投足が誰かの好悪の念を掻き立ててしまうとなると、確かに息苦
しいとお思いなのも当然かと翠令も思う。それは梨の典侍を始め、女房達も同感だ。

「されど……」

 典侍が頬に手を当てて真剣に考え込む。

「姫宮の願いは叶えて差し上げたいと、この典侍も心から願っており申す。それに翠令殿の剣の腕も信頼しておりますとも。しかしながら、先日、姫宮が大学寮までお忍びで出かけられた際には危ない所でした。相手が多勢で狡賢い場合には翠令殿お一人では対処できないやもしれませぬ。白狼殿が同行できれば良いのじゃが……」

 翠令は黙って首を横に振った。彼は竹の宮への出立を控え準備に追われているところだし、何より未だ人の耳目を引く存在なのだった。

 姫宮は活発な反面、大人の間に漂う空気をよく読む御子でもいらした。

「いいわ。ええと、お絵かきでもしようかしらね……」

 何人かの女房が道具を取りに立ち上がったが、典侍の表情は晴れず、そして翠令も姫宮をお気の毒だと思うのだった。

 翠令は近衛府で佳卓に相談してみた。


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