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第一部 女武人、翠令の宮仕え
翠令、街へ出る(二)
しおりを挟む「姫宮が外出なさりたいとの仰せ……白狼に遠くからついて来てもらうのは如何でしょう? そうすれば目立たず彼に護衛してもらえるのではないでしょうか?」
いつも通り執務机に向かっていた佳卓は、翠令のこの言葉にひょいと視線を上げた。
「どうして白狼にこだわるかね?」
「前回助けてもらいましたし。彼の腕なら安心できますから」
「彼の腕なら安心……。ほう、そこだけ切り取れば、まるで恋人との惚気話を聞かされているようだね」
翠令は呆れ、じとりと佳卓を見た。
「変な意味はありません。単純に武芸に優れた護衛が欲しいのです。姫宮をお外に連れ出して差し上げられるような……」
佳卓は筆をぽんと放り出した。
「いるじゃないか、今、翠令の目の前に」
「……!」
「翠令には初耳かもしれないが……」
佳卓がしてやったりという笑みを浮かべている。
「なんと、実はこの私、近衛左大将という重職を拝命していてね」
ある日の張れた朝。朝堂院に出勤する人の脚がまばらになる頃を見計らって、翠令は緊張した面持ちで近衛府の前まで歩いて来た。その右手で少女の手をしっかりと握っている。
女童に変装した姫宮がきょろきょろとあたりを見回しておっしゃった。
「ここが近衛府? 佳卓が普段お仕事しているお役所? 翠令もよく来るのよね?」
翠令が答える前に、ぱたんと戸が開き「うるさいよ」という声と共に佳卓が現れた。私的な外出だからか、梔子色の狩衣という目に鮮やかな格好をしている。
佳卓はそのまま姫宮の前にしゃがみ込み、小声で囁く。
「姫宮。恐縮ですが今日はただの女童として扱わせていだだきます。誰の耳に届くかわかりませんので、少々ぞんざいな口調となることお許しあれ」
「もちろんよ。今日はよろしく……ええと……お願いします」
佳卓は楽し気に立ち上がり、周囲によく聞かせるべく良く通る声で翠令に話しかけた。
「さあ、やあっと翠令が私と京の街に散歩に出かけてくれる。今までさんざん口説いてきた甲斐があった。物堅いこの美しき女武人に今日は楽しんでもらわなくてはね。さて、まずはお供の女童を馬に乗せて、翠令の機嫌を取ることにしよう」
左近衛から大内裏を出る陽明門。朗風《ろうふう》が二頭の馬を準備していた。
佳卓が葦毛の馬を翠令に勧め、自分は青鹿毛の馬に近づき姫宮を招く。
「朗風、このお嬢ちゃんを乗せてやれ」
朗風が膝をついて「さあ、どうぞ」とお声を掛ける。姫宮が「ええと」と呟きながら近づくと、彼はにこにこと笑いながら小声で申し上げた。
「抱き上げて差し上げますよ、姫宮」
「有難う、ええと朗風……佳卓の乳兄弟なんだっけ?」
「ええ。どうぞお見知りおきを。佳卓様と違って素直な性格である点も覚えておいてくださいね」
先に馬にまたがった佳卓が睨む。
「朗風、子どもに妙なことを吹き込むな。さあ、お嬢ちゃん」
朗風が抱き上げた姫宮を佳卓は片腕で抱き取り、馬の前にお乗せした。武人の筆頭である男君が操る馬に姫宮がお乗りでいらっしゃるのを見て、翠令はほっと息を吐く。
「さて、行こうか」
佳卓がすいっと馬を進める。翠令は錦濤の邸内で過ごすことが多かったため、あまり馬の扱いが上手くないが、どうにかして歩調を合わせた。
「今日は市まで行こう。そこで何か食べたら次は鴨川べりを馬で走らせて賀茂社の神域へ行く。そこの馬場で、私が騎射の腕前を見せてあげるから、翠令は思う存分私の美技に酔えばいいよ」
「ええと……」
「まずは市に行くまでこの道を東へ進む。西洞院 に出たら右に折れて南に下がるよ。市の東端に回り込むような道順で行くからそのつもりで」
「朱雀大路を通らないのですか?」
「以前私が翠令に言っただろう? 朱雀大路の風景はこの都の取り澄ました表情に過ぎないんだ」
佳卓と同じ馬の上、ちょこんと座る姫宮が斜め後ろに首を捻って佳卓の顔を見上げられた。
「私も朱雀大路の風景はもう牛車の中から見ちゃったわ」
同じ馬上であれば他人の耳にも届くまいと判断したようで、佳卓は姫宮とお呼びする。
「おや。姫宮が乗っていたのは窓のない糸毛車では?」
「後ろの御簾の隙間からそうっとお外を覗いていたの」
佳卓がふっと面白そうな顔をする。
「朱雀大路はあまり面白みのない風景だったでしょう?」
「初めてのところだから、珍しいとは思ったわ。でも、今日行くところの方がもっと面白いのね?」
「ええ、大内裏の中にもいろんな役所がありますが、宿所や工房は大内裏の外にございます。こういったものを官衙町や諸司厨町などと申します。非番の舎人がうろついていたり、職人たちが働く物音が聞こえたりしますよ」
人の行き来や物音が聞こえる──翠令はふと故郷の錦濤を思いだした。港で働く人々の怒号のような会話や、荷車の行き交う音、さんざめく商家の暮らしの物音……あの、街が脈打つ血潮のような賑やかさ。郷愁が翠令の胸を締め付ける。この京でも同じであれば、翠令はきっと嬉しいと思うだろう。
「わあ!」と姫宮の明るい声が聞こえた。
手綱を取る佳卓の両腕の間から、前方を指さしていらっしゃる。
「人がいるわ! いっぱい!」
「ああ、これから非番の衛士がみんなして遊びに繰り出すところでしょうな。この辺りは衛士の宿舎です。もう少し行けば修理職の町の北を通りますよ」
「本当! 何かトンカン木を叩いている音がする!」
翠令の耳にも職人たちの声が聞こえてくる。錦濤の船乗りの胴間声に比べれば京風の柔らかい口調であるが、離れた相手にものを言いつけたり、叱り飛ばしたりするそれらの声は大きい。
朱雀大路と違ってこれらの大路小路には築地塀から門が空けられていた。材木を二人がかりで担いだ男が塀の中に入ろうとする。瓦を抱えた男が出て来て、大内裏に向かい、翠令達とすれ違う。放たれた門からは、中でもろ肌脱いだ職人が材木を削っている様子が垣間見える。
姫宮も興味深げにご覧だ。
「あの木で大内裏のどこかを修理するのかしら。瓦を運んでいた人もいたわね」
佳卓が説明する。いくぶん真面目な声だった。
「宮城は百官の街であるうえ、帝や東宮の住まわれる内裏もございます。数多くの建物は、彼らが常に補修しているから維持されているのです。彼らの働き、どうかよく覚えてくださいますよう」
姫宮も表情を改めて頷かれた。
「うん。分かった」
角を折れて、佳卓と翠令の馬は並んで南の下町の方へ向かう。
さほど高級そうでない牛車がすれ違い、包みを抱えた水干姿の下男が東西を横切る。街角では下女たちが立ち話に興じており、かと思えばむしの垂れぎぬ 姿で静かに北に歩む女性もいる。その垂れぎぬ姿の女君は、姫宮と同い年くらいの童女をお供に連れていた。その童女がすれ違いざまに、馬上の姫宮を見上げる。
その童女は不思議そうな面持ちだったが、同年代の姫宮に何かの親近感を覚えたのか小さく手を振って寄越した。姫宮は軽く驚かれ、そしてご自分も小さく手を振り返してみられた。そして、過ぎてからも後を振り向いて、ずっとその童女を見送っておいでだった。
そして、嬉しそうに佳卓と翠令におっしゃる。
「ねえ、私にもお友達が出来たわ!」
翠令は嬉しいような、少し痛ましいような気持ちで姫宮に頷いた。
そして、このお出かけは、単なる気晴らし以上に姫宮に有意義なものであり、佳卓が乗り気なのもそのためかもしれないと思った。
ぴんと伸びた馬上の彼の背中を見つめながら翠令の期待が高まる。
──今日、佳卓様は何を見せて下さるのだろう……。
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