後宮出入りの女商人 四神国の妃と消えた護符

washusatomi

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35. 女商人白蘭の奮起(二)

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「外に出る? 夜風にでも当たりたいか?」

 白蘭はクイッと顎を上げた。

「私は今から雲雀の家に行きます。字を教えに」

「何……?」

「春賢に襲われる前と同じように、私は雲雀達に字を教えに雲雀の家に行きます。そして、今夜から西市の近くの私の宿に戻ります」

「白蘭……」

「冬籟様のおっしゃるとおりです。このままでは私は今後も華都の男達になめられてしまう……。これからも商人として生きるにも、卑劣な男どもは迫ってくるに違いありません。商いがしたければ春賢にそうしたように俺たちに身体を与えろ、と」

 想像するだけで嫌悪と憤りで自分の身体がはちきれそうになる。それに、これは自分だけの問題ではない。

「春賢は私を襲いながら『お前が悪い』と私を詰りました」

 白蘭の服を剥ぎ、生臭い息を吹きかけたあの獣。思い出すだけで身の毛がよだつ。その口から吐き出された言葉も、いかに身勝手だったことか。

「私が雲雀たちに字を教えるのにかまけて春賢の相手をしないのが悪いのだと、あの男は言いました。『蛮人に知恵などつけてどうする? 男達が俺たちに逆らうようになったり、女どもが生意気になったりしたら、秩序が乱れるじゃないか!』と」

「秩序……」

「ええ、秩序。冬籟様も私が華都に来た翌日に『伝統的な価値観では蛮族や女はそうでない男より下に見られる』と忠告して下さいました」

 彼らは他国の民や女性、貧しい者達を見下す。どんな非道な行いをしても痛痒を感じない。なぜならそれが正しい秩序だからだ。上の者が下の者をふみつけにすることで、彼らの世界は安定する。

 ──悔しい!

 悔しい。悔しい。悔しい。

「私が立ち上がらなければ、彼らの秩序を認めることになってしまう。それは我慢できません」

 白蘭は、両の拳を力いっぱい節が白くなるほど握りしめた。

「これは私個人の話だけではありません。私が黙っていれば、私以外の他の人々の不幸にも私が手を貸してしまうことになります! 非道がまかり通るのは私のせい……」

「白蘭……」

「ですから、私は立ち上がって外に出ます。商人たるもの、授業料を払ってくれた顧客にきちんとお代を貰っただけのことはしなくては。女商人白蘭は卑劣な男に屈しません。私は正々堂々と胸を張って歩きます。そしてその姿を春賢に見せつけてやりたい」

 崔家はその地位の高さゆえに坊壁の外に直接門を開くことを許された家だ。門扉一つ隔てて春賢がのうのうと暮らしているというのなら、その門前を昂然と頭を上げて通りすぎてみせよう。

 白蘭は背の高い冬籟を下から睨みつける。

「冬籟様。私はこれから雲雀の家に行き、崔家の邸宅の前を通って宿に戻ります。その道中、私の護衛をお願いできますか?」

 冬籟は黙って白蘭を凝視する。黒曜石の瞳は見開かれ、唇も少し呆けたようにわずかに開いていた。

 無言で見つめるままなので、どうしたのだろうかと白蘭が「冬籟様?」と問いかける。

 冬籟はゆっくり深く息を吸い込みながら目を閉じた。そして瞑目したまま震えるように息を吐き、再び瞼を持ち上げる。

 白蘭に向けられたその双眸は、光がこぼれだしそうなほど艶やかに輝いていた。彼は感に堪えない面持ちで言葉を発する。

「見惚れていた」

「え……?」

「あんたに見惚れていた。綺麗だ」

「……」

「あんたが自分のためだけでなく他者のためだといっそう奮い立つ性格だとは知っていた。だが今のあんたは俺の想像以上だ。あんたは……いい女だ、白蘭」

 出会った頃、冬籟は白蘭を「小娘」と呼んだ。それが今は「いい女」と評する。

 その言葉。その声。その視線。白蘭の胸の奥でとろりと甘いものが湧きあがり、身体の奥の奥が火照り始める。生まれて初めて味わう感覚に、閉じていたはずの唇から熱い吐息が漏れてしまう。

 そんな白蘭に、冬籟はかすかに笑み、けれどそこで視線を断ち切って顔を背けた。

「きっと、あんたの亭主もあんたに惚れるだろう」

 冬籟は許婚のいる白蘭に決して恋などしない。その事実が白蘭に突き刺さるように痛い。

「冬籟様、私は……」

 冬籟は門扉の方に向きを変えた。

「璋伶に服を用意してもらえ。俺は外で待っている」

 白蘭は奥に向かい、厨房で薬草を煎じていた璋伶にも自分の意志を伝えた。彼もまた驚いたものの「分かりました」と動き出す。

「他人のために奮起するとは白蘭嬢らしいことです。いいでしょう、隣のお姐さんから一番派手な服を借りてきますよ。ああ、妝は私がして差し上げます。舞台で女優さんたちにするのに慣れてますからね」

 衣を着て璋伶に妝をして貰った。彼が差し出す鏡の中の自分に一つ頷いて、白蘭は椅子から立ち上がり外へ向かう。璋伶がすばやく戸口へ駆けて先回りし、うやうやしく頭を下げて扉を開けてくれた。彼の前を通り過ぎ、白蘭は敢然と夜空の下に足を踏み出す。

 門壁にもたれていた冬籟が身を起こし、白蘭にゆっくり歩み寄ってきた。

「冬籟様、用意ができました。今回の妝は璋伶さんにしてもらってます。どうですか?」

 大人に見せようと宿の女将にしてもらった妝は冬籟に「まったく似合っていない」と拭きとるよう命じられたが、今回はどうだろう? 冬籟は眩しいものを見るような目つきをし、そこで足を止めた。

「似合っている。立派な大人の女だ」

「……」

「さて、俺は今から女商人白蘭の護衛だ。火事の時は不覚をとったが、これからは必ずあんたのことを守り切る。絶対に誰にもあんたに傷一つつけさせない」

 白蘭は「頼みます」と軽く頭を下げてから歩き出した。明るく輝く望月が視野に入るように顔を上げる。後をついてくる冬籟から背中に声がかかった。

「いいぞ、大した風格だ。禁軍将軍の俺がまるでただの従者のようだ」

 雲雀の家に到着して戸口で呼ぶと、家の奥から雲雀が「お嬢様? お嬢様! お嬢様ぁーっ」と駆け出してきた。

「ウチにお越しになった帰りに襲われたって聞いて……。申し訳なくて……。このままお嬢様がお元気にならなかったらどうしようって、怖くて……」

 白蘭は泣きじゃくる雲雀の肩を抱いて軽く揺すった。

「雲雀は何も悪くない。悪いのはあの男よ」

 深夜近くにも関わらず雲雀の弟妹達も起き出してきて、「もう大丈夫ですか?」と心配そうな顔で見上げてくる。それも嬉しかったが、白蘭のいない間も、雲雀と自習を進めていてくれたことに励まされる気がした。自分が蒔いた種はきちんと芽吹いている。

 今日は自習の成果を確認するだけにして、これ以上遅くなる前に西市の北の自分の宿に向かう。わざと春賢の邸宅の前を通って、だ。

「白蘭、背中が丸まってるぞ」

 後ろにひかえる冬籟の声に、白蘭ははっとして背筋を伸ばす。あの獣の住まいだと思うと気持ちが萎えてしまっていたようだ。

 春賢の邸宅が見えてきた辺りで、冬籟が再び声を掛けた。

「よし。その意気だ。威風堂々と歩く姿、まるで卓瑛が俺を従えているときのようだ。皇帝と並んでも引けを取らない貫禄がある。この先沙月姫とやらが皇后になっても威厳の有無ではとうていあんたに敵わないだろうな」

 白蘭は冬籟にふりむきかけたが、春賢の邸宅の門衛二人が白蘭の姿を見ると身を寄せあってこそこそ何かしゃべり出したので、キッとそちらを睨みつけてやった。門衛たちは口をつぐんで持ち場に戻っていく。

 冬籟が「いいぞ」と低く笑い、白蘭は話しかけるきっかけを失ったまま宿に到着してしまった。

 宿では女将やザロたちが起きてきて、雲雀と同様、白蘭が戻ってきたことを大騒ぎしながら喜んでくれる。その中でいつのまにか冬籟は後宮の泰墨宮に帰っていった。
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