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34.女商人白蘭の奮起(一)
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日中の白蘭は璋伶の薬を必要に応じて服用し、部屋でうつらうつらしながら、風に乗って窓辺に運ばれて来る街のざわめきをぼんやりと聞いて過ごしている。
しかしこの日の話題はとても聞き流せるものではなかった。路地を大路に抜ける角の辺りで街の人々が立ち話をしている。
「火事のあった場所、すっかり更地になっちまったなあ」
春賢が白蘭を襲うために焼いた家の話のようだ。
「ああ、何も起こらなかったかのようだ。冬籟将軍も窮地だな」
冬籟が窮地? なぜ? 白蘭は立ち上がって窓から身を乗り出した。
「みんなだって冬籟様のおっしゃるとおりだと分かってる。戴家のお嬢様を襲うのに春賢が火事を起こしたんだって」
「しかし崔家がおいそれと自分の非を認めるわけがない」
それもそうだ。ここで謝罪するくらいならそもそも女に襲いかかったりするまい。
「春賢の父の崔家当主が『女商人が商売のために息子を誘ってきた』『合意の上だった』と主張してやがる。まあ、女を襲った男の逃げ口上としてはありふれた言い分だがな」
「伝統的な考えじゃ女は家の中に籠って父か夫か息子に仕えるべきだからな。外で活動してるだけで女としての落ち度があると思い込んでそうだ。自分達が非難される方が心外とまで思ってるかもしれん」
そんな……。だが皇帝が味方してくれるはず。璋伶だって「正しいお裁き」と言っていたではないか。
「皇帝陛下も春賢を牢に入れて罪状を認めさせようとしているが。崔家が事実関係を認めないうえ『これは皇帝と北衙禁軍将軍が仕組んだ陰謀だ』と言い始めたからな」
なんですって? 白蘭の心臓がはねあがる。
「崔家のような貴族どもは年若い陛下をなめている。崔家は『新帝が旧家の貴族を煙たく思い、その筆頭の崔家を陥れようと嫡男の犯罪をでっちあげた』と主張し始めた」
「華都に蘇王が滞在中ってのも間が悪いな。蘇王は陛下に面会を求めて『罪もない俊才を牢に繋ぐとは何事か』と申し入れたとか」
「間が悪いんじゃなくて、むしろ蘇王がいるから春賢も犯行に及んだんじゃないか。崔家たち貴族と蘇王とは誼があるから」
男たちは自分の娘たちが白と黒の両貴公子を心配していると続ける。そして、話題は白蘭自身に及んだ。
「戴家のお嬢さんも身を隠したままだしなあ。それで崔家達が『後ろ暗いところがあるから出て来れないのだ』と声高に言い立ててる」
「あいつらの主張は『女が誘った』『合意の上だ』『全ては皇帝側が崔家のような貴族を陥れるための陰謀だ』で、だから『女商人は表に出られない』で一続きになるんだよなあ」
一人が「襲われた後は怖くて外を歩けんだろう」と白蘭への同情を前置きしつつも、こう言った。
「だからってこのまま泣き寝入りしてしまうと、あいつらの思うつぼだ」
「このままじゃ女がおいそれと外に出ていけない世の中になっちまう。娘を持つ身としてはやりきれん」
そこに「ウチは息子だけだが、俺だってがっかりだ」という声も混じる。
「小間物屋の雲雀の弟と俺の息子が友人だからさ、俺の息子も字の手習いに興味を覚えたところなんだ。このまま読み書きできるように育ってくれたらなあと願ってたんだが」
ここで、通りかかりの男が新たに加わった。既にいた人々に「何の話をしてたんだい?」と尋ね、春賢の件だと知ると声をひそめた。
「春賢が道を歩いているのをさっき見たぜ」
「なんだと? 釈放されたのか?」という声に続いて「罪に問えないと陛下も諦めたのか。新帝にとっては痛手だなあ」「娘たちががっかりするぜ……」と他の人々からも落胆する声が聞こえた。
白蘭はその先を聞いていられない。頭の芯が凍えるような気がする。あの男が罪にも問われず大手を振って華都の街を歩いている? 私が、被害者の私が家の中に閉じこもっているばかりなのに?
白蘭はかき乱された心を抱えたまま部屋の中に立ち尽くし、それに疲れると窓際の椅子に崩れるように腰を下した。
璋伶が運んできた夕食をぼんやりと受け取ったものの、とても食べる気になれない。
「白蘭、どうした? 白蘭?」と冬籟の声が聞こえて白蘭が我に返ると、辺りはすっかり夜だった。今宵は満月らしく、窓から入る月光が冬籟の長身の影を床に投げかけている。
冬籟が窓の格子を指先でコツコツ鳴らし、開けるように促した。
「どうした? 明かりも点けずに……。また幻を見たのか? 怖いなら、少しの間俺が中に入ってやるぞ?」
白蘭は立ち上がり、震える手で格子を開ける。
「冬籟様……話を聞きました……」
白蘭は聞いたばかりの噂を全てぶつけた。彼は「すまん」と固い顔で頭を下げる。
「卓瑛も『白蘭に申し訳ない』と言っていた。崔家達は『蛮族の女のために貴族の優秀な若者の将来がつぶされる』と、まるで自分達の方が被害者であるかのような言い草だ。卓瑛があの手この手で道理を通そうとしたんだが……。話がかみ合わない上に、蘇王にまで申し入れを受けると……」
春賢の処遇を巡って蘇王や董の貴族たちとこれ以上対立を深めてしまうと、彼らの結束がさらに強まってしまいかねない。卓瑛にとっても春賢の釈放は苦渋の選択であり、心から白蘭に詫びていたと冬籟は語る。
「宸襟を悩ますとは……畏れ多いことです」
白蘭の視界が涙で滲む。自分は董皇帝に有能な女商人だと認めて欲しくて華都にやって来たはずなのに。それが逆に足手まといになってしまっている。卓瑛と周囲にこんな心配をかけてしまう自分が情けない。
「申し訳ありません」と小声で言う白蘭に、冬籟は「なんであんたが謝る?」と眉根を寄せた。
「陛下にも冬籟様にもご迷惑をおかけしてしまって。私がしっかりしていればこんな目に遭わななくて済んだのかもしれないのに……」
「『しっかり』とは?」
「私が火事の夜、あの老人についていかなければ襲われずに済んだかも。いえ、文字を教えに夜中に雲雀の家に行こうなどとせず、宿から出ずに過ごしていれば……」
「おい、白蘭……」
「春賢のことももっと毅然と無視しておけばよかった。私にどこか隙があったから彼は私に執着したんじゃないでしょうか。そもそも、私は華都では蛮族の小娘に過ぎません。もっと大人しくしていればよかった……」
冬籟が怒鳴った。
「よせ! あんたは何も悪くない! あんたが自分を責めなければならない理由など何もない!」
冬籟は窓から長い腕を伸ばし、うなだれる白蘭の肩を揺すった。
「しっかりしろ! あんたは雲雀達から授業料を取る分しっかり字を教えなきゃならんのだろう? そもそも華都には後宮出入りの女商人として活躍するために来たんだろう? あんたが西妃を補佐して董を豊かにして、その富は俺が北域で毅国を再興する資金源になるんだろう?」
「……」
「顔を上げろ、白蘭! あんたを頼りにしている人間はたくさんいるんだ。しおらしいあんたなんか見たくない。あんたは『他人になめられてたまるか』と意気軒高なのが身上だろうが」
白蘭はその言葉にはっとした。白蘭が見返す視線の先で、冬籟がほっとしたように口許をゆるめる。
「少しは元気が出たか。自分を責めるのが見当違いだと分かって落ち着いたなら、今夜はもう寝ろ」
白蘭は冬籟の目を見つめながら、わずかに首を振った。
「いやです」
「悪いのは春賢だ。卓瑛だけでなく藍可も案じているし、ザロや雲雀も心配している。あんたの回復を望んでいるみんなのためにもきちんと睡眠をとれ」
「いいえ」
「強情だな。春賢が外にいるのが不安か? 奴は今や華都中から注目される身だ。もう好き勝手にふるまえない。だから枕を高くして寝ていていい」
冬籟は白蘭の返事より先に「それとも今度は興奮しすぎて眠れなくなったか? なら、璋伶に薬湯の量を相談してみよう」と言って、表の門へ向かいかけた。
白蘭は落ち着いた声で、できるだけゆっくりはっきりと告げる。
「いいえ。璋伶さんには薬湯ではなく、外出用の服を用意してもらいます」
しかしこの日の話題はとても聞き流せるものではなかった。路地を大路に抜ける角の辺りで街の人々が立ち話をしている。
「火事のあった場所、すっかり更地になっちまったなあ」
春賢が白蘭を襲うために焼いた家の話のようだ。
「ああ、何も起こらなかったかのようだ。冬籟将軍も窮地だな」
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そんな……。だが皇帝が味方してくれるはず。璋伶だって「正しいお裁き」と言っていたではないか。
「皇帝陛下も春賢を牢に入れて罪状を認めさせようとしているが。崔家が事実関係を認めないうえ『これは皇帝と北衙禁軍将軍が仕組んだ陰謀だ』と言い始めたからな」
なんですって? 白蘭の心臓がはねあがる。
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「華都に蘇王が滞在中ってのも間が悪いな。蘇王は陛下に面会を求めて『罪もない俊才を牢に繋ぐとは何事か』と申し入れたとか」
「間が悪いんじゃなくて、むしろ蘇王がいるから春賢も犯行に及んだんじゃないか。崔家たち貴族と蘇王とは誼があるから」
男たちは自分の娘たちが白と黒の両貴公子を心配していると続ける。そして、話題は白蘭自身に及んだ。
「戴家のお嬢さんも身を隠したままだしなあ。それで崔家達が『後ろ暗いところがあるから出て来れないのだ』と声高に言い立ててる」
「あいつらの主張は『女が誘った』『合意の上だ』『全ては皇帝側が崔家のような貴族を陥れるための陰謀だ』で、だから『女商人は表に出られない』で一続きになるんだよなあ」
一人が「襲われた後は怖くて外を歩けんだろう」と白蘭への同情を前置きしつつも、こう言った。
「だからってこのまま泣き寝入りしてしまうと、あいつらの思うつぼだ」
「このままじゃ女がおいそれと外に出ていけない世の中になっちまう。娘を持つ身としてはやりきれん」
そこに「ウチは息子だけだが、俺だってがっかりだ」という声も混じる。
「小間物屋の雲雀の弟と俺の息子が友人だからさ、俺の息子も字の手習いに興味を覚えたところなんだ。このまま読み書きできるように育ってくれたらなあと願ってたんだが」
ここで、通りかかりの男が新たに加わった。既にいた人々に「何の話をしてたんだい?」と尋ね、春賢の件だと知ると声をひそめた。
「春賢が道を歩いているのをさっき見たぜ」
「なんだと? 釈放されたのか?」という声に続いて「罪に問えないと陛下も諦めたのか。新帝にとっては痛手だなあ」「娘たちががっかりするぜ……」と他の人々からも落胆する声が聞こえた。
白蘭はその先を聞いていられない。頭の芯が凍えるような気がする。あの男が罪にも問われず大手を振って華都の街を歩いている? 私が、被害者の私が家の中に閉じこもっているばかりなのに?
白蘭はかき乱された心を抱えたまま部屋の中に立ち尽くし、それに疲れると窓際の椅子に崩れるように腰を下した。
璋伶が運んできた夕食をぼんやりと受け取ったものの、とても食べる気になれない。
「白蘭、どうした? 白蘭?」と冬籟の声が聞こえて白蘭が我に返ると、辺りはすっかり夜だった。今宵は満月らしく、窓から入る月光が冬籟の長身の影を床に投げかけている。
冬籟が窓の格子を指先でコツコツ鳴らし、開けるように促した。
「どうした? 明かりも点けずに……。また幻を見たのか? 怖いなら、少しの間俺が中に入ってやるぞ?」
白蘭は立ち上がり、震える手で格子を開ける。
「冬籟様……話を聞きました……」
白蘭は聞いたばかりの噂を全てぶつけた。彼は「すまん」と固い顔で頭を下げる。
「卓瑛も『白蘭に申し訳ない』と言っていた。崔家達は『蛮族の女のために貴族の優秀な若者の将来がつぶされる』と、まるで自分達の方が被害者であるかのような言い草だ。卓瑛があの手この手で道理を通そうとしたんだが……。話がかみ合わない上に、蘇王にまで申し入れを受けると……」
春賢の処遇を巡って蘇王や董の貴族たちとこれ以上対立を深めてしまうと、彼らの結束がさらに強まってしまいかねない。卓瑛にとっても春賢の釈放は苦渋の選択であり、心から白蘭に詫びていたと冬籟は語る。
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「申し訳ありません」と小声で言う白蘭に、冬籟は「なんであんたが謝る?」と眉根を寄せた。
「陛下にも冬籟様にもご迷惑をおかけしてしまって。私がしっかりしていればこんな目に遭わななくて済んだのかもしれないのに……」
「『しっかり』とは?」
「私が火事の夜、あの老人についていかなければ襲われずに済んだかも。いえ、文字を教えに夜中に雲雀の家に行こうなどとせず、宿から出ずに過ごしていれば……」
「おい、白蘭……」
「春賢のことももっと毅然と無視しておけばよかった。私にどこか隙があったから彼は私に執着したんじゃないでしょうか。そもそも、私は華都では蛮族の小娘に過ぎません。もっと大人しくしていればよかった……」
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冬籟は窓から長い腕を伸ばし、うなだれる白蘭の肩を揺すった。
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「……」
「顔を上げろ、白蘭! あんたを頼りにしている人間はたくさんいるんだ。しおらしいあんたなんか見たくない。あんたは『他人になめられてたまるか』と意気軒高なのが身上だろうが」
白蘭はその言葉にはっとした。白蘭が見返す視線の先で、冬籟がほっとしたように口許をゆるめる。
「少しは元気が出たか。自分を責めるのが見当違いだと分かって落ち着いたなら、今夜はもう寝ろ」
白蘭は冬籟の目を見つめながら、わずかに首を振った。
「いやです」
「悪いのは春賢だ。卓瑛だけでなく藍可も案じているし、ザロや雲雀も心配している。あんたの回復を望んでいるみんなのためにもきちんと睡眠をとれ」
「いいえ」
「強情だな。春賢が外にいるのが不安か? 奴は今や華都中から注目される身だ。もう好き勝手にふるまえない。だから枕を高くして寝ていていい」
冬籟は白蘭の返事より先に「それとも今度は興奮しすぎて眠れなくなったか? なら、璋伶に薬湯の量を相談してみよう」と言って、表の門へ向かいかけた。
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