後宮出入りの女商人 四神国の妃と消えた護符

washusatomi

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38.四神の戦い(一)

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 冬籟はこんこんと眠り続ける。白蘭は枕許の丸椅子でその様子を見守っていた。

 璋伶が「お疲れなら看病を替わりますよ」と申し出てくれたが断った。冬籟とこれから後宮の謎解きで顔を合わせたとしても、お互い今夜の会話はないものとして接しなくてはならない。二人とも相手の心を知っている分、いっそうよそよそしくふるまうことになるだろう。そしていずれ彼は毅国に帰ってしまう。こんな風に間近で顔を見られるのも今夜が最後かもしれない。

 冬籟が顔を歪めて低いうめき声を上げた。悪い夢でも見ているのなら起こさなければと白蘭が「冬籟様」と身を軽くゆすると、彼はびくりと体を震わせて眼を開けた。

「あんたか……」

「ずいぶんうなされていました」

 冬籟は片手で汗ばんだ顔をぬぐう。

「夢を見ていた。夢の中でも俺は賊に襲われているのに剣が手元にない。そこに玄武が現れた……。玄武が俺の命令を待っていると夢の中の俺は了解しているんだが、呪文が分からないから使役できない。そして賊の刃が俺を……」

 白蘭が息をのんだのを見て冬籟は話題を変えた。「大丈夫だ、白蘭。ただの夢だ」となだめるような声をかけ、さらに付け加える。

「怖い夢ばかりじゃなかった。麻酔のせいか多くの夢を見たからな。中には、愛おしくて美しい、そんないい夢もあった」

 冬籟の瞳が語っている。その愛おしく美しい夢とは、白蘭と想いを同じくしたあの場面の話だと。

「幸せな夢でしたか?」

「ああ……。とても幸せな夢だった。夢でも一生の思い出だ」

 幸福な夢、愛おしく美しい夢。私たちは今夜確かに同じ夢を見た。

 冬籟が顔から片手を体の傍の褥に戻す。白蘭がその手に自分の手を重ねると彼は軽く笑みを浮かべて目をつむった。白蘭の体温を一心に感じ取りたいかのように。

 白蘭の胸にこみあげてくるものがある。この感情こそが恋というものなのだ……。

 ――そう思った瞬間。白蘭の頭の中を一瞬の光が貫いた。

 びくっと体を震わせた白蘭に冬籟が「どうした、白蘭?」と問いかける。

「護符の在処が……分かったかもしれません」

 彼は当然「どこだ?」と聞く。

「事情は銀蝉殿がご存知かと。私の予想が外れていては問題ですから、銀蝉殿に確かめてからお話します。銀蝉殿に会わせていただきたいのですが……」

 冬籟は少し間を開けてから「分かった」と頷いた。委細は分からずとも白蘭の慎重を期したいという意向は尊重してくれるようだった。

「そうだな、銀蝉もあんたに何か言いたそうだった。琥から来た西妃の護符のことだったのかもしれないな」

 彼はふとしばらく黙り、ややあってから目を閉じて「俺が幽鬼を見るようになったのは、兄上がお亡くなりになったからなんだろうな……」と呟く。そのまなじりから兄を悼む涙が一筋こぼれた。

 冬籟の傷は、やけになった賊が無茶苦茶に刺したせいか治りが遅く、璋伶の家から動けずそのまま療養生活を余儀なくされている。

 そのため冬籟が事情を文にしたため、白蘭が皇城の卓瑛に届けることになった。

 文を一読した卓瑛は、「冬籟が命を落とさずに済んでよかった」と天を仰いだ。

 それから再度丁寧に文に目を通すと、そばの卓に置き、椅子の手すりを指先でコツコツ叩きながら、榛色の瞳を白蘭に向ける。

「はっきりと書かれてはいないが……。命がけで貴女を救おうとしたのだから、冬籟と貴女の間には特別な感情があるようだね」

 聡明な彼は何もかも見通しているようだ。

「だが、貴女は彼と毅に行かない」

「ええ……。琥の民、そして天下の万民のために華都には西妃と女商人白蘭がいなくてはなりませんから」

 白蘭の答えを聞き終えた彼は、やはり指先だけをコツコツと動かしながら、窓の外を見つめてしばらく無言でいた。そして、長く深い溜息をつく。

「冬籟が北域に発つ前に三人で話をしようか。貴女もこれきりとは考えていないだろう?」

 それから彼は、話題を自身の冬籟への愛情に移す。

「私は初めて会ったときから彼に魅了されてきた」

 冬籟は父王譲りの真っ直ぐな気性で周囲に愛されて育ち、、先帝による異国の監禁生活でもその生命力を削がれることがなかった。脱獄して卓瑛を人質に取ったときも、彼の瞳には生を求める光が輝き、卓瑛はそれを眩しく思ったのだという。

「私は義母上に預けられた時点で父帝から疎まれ続けることが確定した身だ。生きて成長することの意味を見つけられないまま後宮でただ時間を潰していただけの十二の子どもだった」

 だから卓瑛は冬籟に惹かれた。冬籟の活力あふれる人生の一部となれば自分の虚ろな人生に意味が与えられるように思われたのだ。

「冬籟の幸せは私の幸せだ。なのに私は藍可を彼から取り上げてしまい……。私は、彼を幸せにできない自分が悔しい」

 白蘭もただ首を垂れて聞くことしかできなかった。

 冬籟が少しずつ鎮痛薬を減らして部屋の中を歩き回れるようになった頃、夜中に宮城から急ぎの知らせが届いた。

 ──皇太后様、ご危篤。

 牀の上でその知らせを聞いた冬籟は外へ出ようとする。

「白蘭、俺たちも急いで側燕宮に行こう。あんたが銀蝉に会えば護符の在処が分かるかもしれんのだろう? 間に合うのなら皇太后様にお知らせしたい」

「でも、冬籟様、傷は?」

「部屋の中を動けるんだ。同じようにそっと歩けば側燕宮にだって行けるはずだ」

 冬籟は璋伶にきつく包帯を巻かせ、鎮痛剤を多めに服用して自分と白蘭に馬を用意させた。 

 傷が痛むのか冬籟の険しい顔に脂汗が滲む。それでも皇太后と、義母を看取る卓瑛のために、白蘭を銀蝉に会わせることを諦めようとしない。

 側燕宮の銀蝉の塚にたどりつくと冬籟は崩れ落ちるように膝をついた。白蘭が「冬籟様」と声をかけたのに彼はかすかな笑みで応じ、「俺は大丈夫だ。それより銀蝉を呼び出すから、あんたはしっかり護符の行方を確かめてくれ」と唇をかみしめながら姿勢を正した。

 冬籟の揖礼に応えて塚のそばに白い靄が立ち込めはじめる。前回以上に早くその白い空気は人の形を取り、そして今そこに生きているかのような銀蝉の姿が現れた。

 銀蝉が首を反らして坂の上の宮殿を仰ぎ見る。その先で怒号が沸き起こった。

 ──皇太后様、駕崩! 

 ──崩御あそばされた!

 ──お、お隠れに!

 宦官と宮女たちの悲鳴のような声が次々と坂の下の白蘭たちにも届く。

 冬籟が跪いたまま肩を落とし、「間に合わなかったか」と無念そうに坂の上の宮殿を見上げた。

 白蘭は銀蝉に目を転じる。彼もまた食い入るように坂の上を見つめていた。

 冬籟もまた銀蝉を見、そして彼が側燕宮に向けている視線をたどると、「皇太后様のお姿が見られるのなら、俺もお目にかかりたい」と揖礼を捧げ始めた。

 側燕宮の屋根にふわりと白い煙が立ちのぼった。それは天に上らず地に下り、そして坂の上からこちらにやってくる。近づくにつれ濃度を増して人の形にまとまりながら。

 その姿は確かに白蘭もお会いした初老の婦人だった。痩せて筋張った身体に簡素な寝間着をまとった一人の女性が、病から解放され、軽い足取りでパタパタと坂道を駆けてくる。

 ──お姿が……!

 皇太后の姿が一足一足近づくごとに変わっていく。白髪が艶やかな黄金色に戻り、皺は一本一本と消え、肌は張りを取り戻してふっくらと瑞々しく輝く。

 服装も、いつしか白蘭が当初着ていたような琥の未婚の女性のものに変わっていた。

 若く美しい乙女は頬を薔薇色に染めながら、天青の宝玉のような瞳を輝かせて桜桃の唇を開く。声は聞こえないけれど、彼女は息を弾ませながら口を大きく動かして相手を呼んだ。

「ぎ・ん・せ・ん」

 銀蝉もまた姿を変えていた。白髪ではなく黒々と艶やかな髪を粗末な頭巾に納めている。下級官僚らしい褪せた色の質素な官服の下には、活き活きと血色の良い肌がのぞく。聡明そうな顔立ちには純朴さもあり、いかにも地方の実直な若者という雰囲気だ。

 乙女が真っ直ぐに青年を見つめ、両手を差し伸べた。青年もまた足を踏み出し大きく腕を広げた。乙女の最後の一足は地面を踏まず、宙を蹴って青年の胸に飛びこむ。

 二人はひしと抱きあい、そして互いに互いの腕の中の相手をじっと見つめた。それから視線が絡み合うままに、どちらからともなく唇を重ね合わせ、女は男の背中に回した両手の指に力を込め、男は女の頭の後ろを片手で優しく包み込む。

 ──カラン

 抱擁し接吻する男女の姿は、何か固いものが磚の道に落ちる音ともにかき消えた。

 落ちたのは白蘭のものと同じ虎の護符。その瞳の宝玉が青い輝きと赤い輝きを一度ずつ放って見せた後、これもすうっと姿を消した。

「どういうことだ?」

 冬籟の問いに白蘭が答える。白蘭の予想は当たっていた。

「皇太后様と銀蝉殿は心の中で……心の中だけで恋人同士でいらしたのでしょう。だから、銀蝉殿が亡くなったとき皇太后様はご自分の魂である護符を銀蝉殿に捧げたかった」

 一度は亡夫に供えた護符。皇太后は銀蝉が非業の死を遂げたあと、護符を祖廟から取り戻して現世で結ばれることのなかった恋人の塚に供えたのだ。魂だけでも彼に寄り添うことができるように。

「おそらく、護符はこの塚の中に埋められているのだろうと思います」

「白蘭、どうして……」

 どうして白蘭が気づいたのか。冬籟には一言で通じるだろう。

「私も皇太后様と同じ立場となってみて、そうではないかと思い至ったのです……」

 皇太后様にも、国のために嫁いだ相手とは別に真に愛する相手がいたのなら。それは誰で、そしてその相手を悼むのにどうするか。白蘭は自分が恋をしていると自覚したときに、それらの答えが一気に閃いたのだった。

「皇太后様は私に『貴女も』幸せになっていいのだと仰いました。『貴女は』ではなく……。この世で結ばれなくても恋しい人と心が通じているだけでも幸福だと思っていらした。私にも分かるような気がします」

 冬籟は「そうか」と小さく答え、銀蝉の塚に目をやった。彼もまた自分と銀蝉を重ね合わせているのかもしれない。

 それから彼が白蘭に複雑な表情を向けた。

「白蘭。万が一、万が一だな……、亭主があんたに相応しくない男だったら……いや、そんなことのないよう俺も祈っているが……」

 彼は迷ったあとで口にした。

「俺は銀蝉と違ってあんたの傍にいられない。だが、あんたにとって結婚生活が辛ければいつでも俺を頼ってくるといい」

 白蘭はきゅっと唇を噛み、そして彼のために冗談を言った。

「なら、冬籟様には戦に勝ち抜いて、ずっとお元気で生きてもらわないといけませんね」

 冬籟も「ああ、そうだな」と笑った。

「亭主でも俺でも、あんたのことはこの世で幸せにするさ。冥界に行く前に……」 

 その「冥界」という言葉に冬籟がはっと身を固くする。そして口の中で「冥界……玄武……」と繰り返した。
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