目隠しは赤い糸

雪野 千夏

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暗いまどろみの中にいた。 
まぶたの向こうで赤が点滅している。赤い光を認識すると、着信音が意識に届く。
覚醒に至らない思考のまま、条件反射で手を伸ばした。

「っつ」

指先が、痛い。
中指の爪と空気が触れ合う。目をつぶっていても分かる。擦過傷の感触。それでもこの心地よい眠りを手放したくない。そのまま、音を頼りに携帯を掴んだ。

「はい」

携帯の向こうの息遣いを知っている。心臓は大きく脈を打って、一気に眠気が吹っ飛んだ。

『ゆかりか』

勢いよく起き上がれば隣から小さな唸り声がした。いきなり上掛けをはぎとられた章の背中に思い出す。ここは彼の部屋で、自分は彼といる。寒さに、寝たまま上掛けを探す彼にそっと乗せると、タオルケットを拝借しベッドを下りた。

「兄さん。どうしたの、電話なんて。何かあった?」

窓の外、夜の川が揺れていた。

『いや、まあな』

最後に会ったのは大学の卒業式、一年以上前のことだ。

「なに?」
『ああ、まあその。なんだ。俺、結婚することにしたから』
「結婚」

耳鳴りがした。心臓の弁が開きっぱなしになったのか。思わず胸の中心を確かめていた。
そして気づく。何も着ていない。
ああ、そうだ。そうだった。いろんなことを思い出す。反射で動いていたことに意識が伴う。振り返れば章はが寝がえりをうっていた。形のいい肩甲骨。あの感触を知っている。太い首。その役割も知っている。

『なんかないのか?』

催促する声に、もうひとつの現実に戻った。携帯を離し一呼吸ついた。明るく聞こえるように笑った。夜の窓にいびつな笑顔が映っていた。

「ううん。突然だったから、驚いたの。」
『俺だって四捨五入すれば三十だぞ。おかしくないだろ』

おかしくない。そう、おかしくないのだ。

もう一度、現実を焼きつける。

ここは章の部屋で、自分は彼といる。そして兄は結婚するのだ。相手は、自分の大学時代の同じゼミ生だった由美子。自分が二人を会わせ、仲をとりもった。好きあった男と女なら自然な成り行きだ。そこまでを数学の証明のように考えると、ようやく目の前の光景が意識できた。

左手に携帯を持って、右手にタオルケットを握りしめて引きずっている裸の自分。その間抜けな姿を見てようやく寒いと感じた。

タオルケットをはおった。

「まあね。ああ、そうだ。おめでとう。ご祝儀は気持ちだけってことで」
『おまえなあ、付けたしみたいに言うなよ。まあ、ありがとう』
「いえいえ」

カーテンのフックが一つ外れていた。

『ところでおまえはどうなんだ?』
「どうって?」

レースの網目に指をからませ回してみる。

『彼氏はできたのか?』

隣のフックがパキっと折れた。二か月前にかえたのに、プラスチックはもろいものだ。血が逆流する。のどを流れる血が一気に脳に押し出される感覚。それを誰にも聞こえないように息を流して落ち着かせ、軽い声を絞り出す。

「……それってセクハラ?」
『おまえなあ、妹にセクハラも何もないだろう』

兄はあきれたように笑った。
白い網を指から腕へと絡ませていった。そのまま体全体で回っていく。章はよく眠っていた。

キスは謝罪。セックスはお礼。そんなスタンスの自分が、章を「彼」と呼んでいいのだろうか。世間的には立派な「彼氏」であり、肉体的にもそうなのだが、どこか心が抵抗する。ぐるぐるとめぐりだした答えに、一緒にカーテンに絡まって回った。フックが切れていく。初めて兄からの電話を切りたくなった。それじゃ、おめでとうといったときだった。

『あ、ちょっと待て。由美子がおまえと話したいって』
「え」

止める前に電話の相手は変わっていた。

『久しぶり、ゆかり』

相変わらず落ち着いた声だ。大学卒業後、初めて聞く彼女の声。大好きだった彼女の声が今は気に障る。絶対に分からせたりしないけれど。

「うん、おめでとう。で、いつなの?結婚式」
「まだ決めてないけど。ゆかりには言っておこうかと思って」
「私に?」

できれば一生報せないで欲しかったけど、なんて言えない。

「うん。ゆかりのおかげで幸一と会えたみたいなものだし」

兄の名前を何のためらいもなく幸せそうに由美子は口にした。ゆっくりと窓を開ければ、冷たい夜風に首筋がぱさついた。

「そう」

由美子は笑っていた。コンクリートのベランダに裸足で踏み出す。

「で赤ちゃんは?」

洗濯物を干すだけのスペースとほんの少しの屋根。手すりからはアスファルトが見えた。

『え、結婚もまだなのに』
「そうなの?兄さんのことだからてっきりできちゃった婚かと思ったけど」

どれだけの力が頭にかかったら手すりから落ちられるのだろう。思う。

『おまえ、俺のことなんだと思ってたんだ』

頭を前に出せば、髪が風に揺れた。胃が、押されている。
由美子の照れているような沈黙の後、すぐ兄の声が割り込んできた。
一瞬面食らったがすぐに声を返す。

「別に。ただ結婚するより恋愛を楽しみたい、みたいな感じかなあと」

もう少し、頭を投げ出す。もう少しすれば、ベランダの手すりで前回りだ。

『本気なんだよ』

体を起こした。塗装のはげた手すりから手を離せば、酸化した鉄のにおいがしみついていた。

「うわ、惚気。仕事あるから、もう切るね。お幸せに」

返事は欲しくなかった。

「結婚か」

声は誰にも届かない。女々しい思考を捨てたくて、冷たい床に寝転がった。くるくると体に巻きついたカーテンをはがす。肩が寒い。
白い壁でちょうど止まった。うっすらと埃のにおいが鼻先をついた。

「愛するほどに、愛せなくなるなんてね」

足を伸ばしてカーテンをつま先でつかむと、勢いよく足を振り上げる。

「ほこりっぽい」

暗い天井に白いレースが舞いあがり、落ちた。
夏が始まる夜だった。
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