目隠しは赤い糸

雪野 千夏

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二齢

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朝起きて私はいなくなったほうがいいのではないかと思った。それは引いた波が寄せるように自然に押し寄せてきた。起き抜けの心に最初に訪れた感情に意識がはっきりすると愕然とした。枕に顔をおしつけた。ざらりと中の豆が動きこれは現実だと理解する。無意識にそんなことを思った自分に恐怖した。
それでもいつものように鏡の前で大丈夫と唱え、自転車をこぐ。青田を抜けて県道を下っていけば、朝の冷たい風が頬をたたく。夏のせみは朝からなく。ちゃんと聞こえる。朝もやは冷たい。ちゃんと感じる。生きているのだと自分が覚えるように言い聞かせながら学校へと向かった。
おはようございます。早く登校してきた水遣り当番の子供に挨拶されれば、教師としての自分になれた。早朝の感情などそのときはすっぽりと抜ける。重苦しい空気もない。求められる教師であればいい。スイッチをいれて、全てに忘れたふりをした。

「よっこらせ」

わざと声を出して頭を切り替える。
とたんにうわ、年寄り―と声が上がった。朝の蚕の観察。子供たちとともに過ごすこの時間だけがいつの間にか、何も考えずにいられる時間になっていた。三齢と二齢が混じる蚕を子供たちは一人四頭ずつ各自の箱を持ってきて飼っていた。名前をつけたせいか、各自のものとして観察したいという欲求が強くなったせいだろう。各々、工夫をこらし箱の周りに色紙をはったり、ボール紙に「カイガの家」と書いて旗をたてたりと、もはや総合学習の様相だ。
子供たちの蚕は三齢になっていた。小さいながらも白に黒い模様が出てきて、記憶にある蚕らしくなってきていた。自宅に戻れば、ようやく育ちの早いものが二眠にさしかかったところだった。上半身、とは変な表現だがまさしく頭から半分あたりをもちあげ、固まる。それが眠なのだ、とようやく分かってきた。糞も当たり前だが、一齢の砂粒のような黒から、少し大きくなっていた。
葉をかぶせ、今日も蚕の食べっぷりを眺める。
雨が降る音みたいに葉を食べる音がする、と子供が祖父から聞いたと言っていたが、そんな音はしなかった。

一人きりの静かな角部屋で、気を抜けば朝の感情がよみがえってきた。首に手をあてれば、首筋のこりよりも頸動脈の方が気になった。手首の青く浮き上がった血管よりも、その奥にある赤い血管が気になった。すっと手首を横に触ってみた。
だめだ。断片だけを広い集めようとする思考を止めたい。衝動のままに携帯をとった。『はい、高梨です』
いつもと同じ。章の声に、体中脈打つ鼓動を落ち着いて感じられた。

「章、ゆかりです」
『ああ。珍しいなそっちから電話かけてくるなんて』
「ちょっとお願いがあって」
『お願い? なんでもこい、といいたいけど。怖いことじゃないだろうな』
「どうだろう」
『おいおい、それで』

軽く笑うその響きにゆっくり息を吸うことができた。

「今度の土曜日の夜って空いてる?」
『空いてるけど、何?デートのお誘い?』
「違う」
『あっさり否定されるのも悲しいな』
「夕食を一緒にどうかと」

もう戻れない。
ふらふらとしている自分の感情が何を求めているのかわからないまま、応急処置だけしてことがよくなるとは思えなかった。それでも、朝おきぬけに死ぬことに取り付かれるのは怖い。知らぬうちにバランスがとれなくなっていることに、もう気づいていた。

『夕食?』
「今度兄が結婚するのは言ったでしょ。うちの家族とその彼女で食事をするんだけど、よければどうかと思って」
『……』
「章?」
『……まじか?』
「本気だけど」

本気だ。もう引き返せない。彼が了承したら。

「行くよ。行かせてもらう。……あの土産とかどうしたらいいかな」
「いらないよ、兄がメインなんだから」

笑え。

『あ、そうだよな。俺うれしくてさ。ゆかり結構さめてるところあるだろ。だからもしかしたらぎりぎりでさよなら、とかいわれるんじゃないかと思ってさ』
「そんなこと」

もう、しないよ。
これで、いいのだ。泣きたくなった。

兄に電話をしてそのことを告げた。驚いてはいたが、あっさり来るようにいった。簡単にヒステリーを起こす母親へのけん制の意味でも人が多いほうがいいということだろう。結局当日は兄の思惑通りに、章の弟の和哉まで加わり結婚のあいさつ、というよりなじみの中華屋さんで、単なるお食事会になった。
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