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1話
チェックインの夜
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チェックインの夜
再生ホテルに入った瞬間、私は無意識に声を落とした。
ここでは、大きな音を立ててはいけない。理由は分からないが、そう思わせる空気があった。
元は聖堂だったという建物は、白すぎず、暗すぎず、祈りが剥がれ落ちたあとの壁の色をしている。磨かれた床はきれいだが、どこか人の体温が残っているようで、足音が必要以上に響いた。
受付のカウンターに立つ男は、年齢の分からない顔をしていた。
「館花琴音さまですね」
フルネームを呼ばれ、胸の奥で何かが小さく鳴った。
歯科医院では「館花さん」。患者からは「先生」。この名前を、はっきりとした声で呼ばれることは、もうほとんどない。
「……はい」
「こちらへどうぞ。時計は、気にされなくて結構です」
男の言葉通り、壁に掛けられた時計はすべて同じ時刻で止まっていた。
鍵を受け取り、部屋へ向かう途中、廊下の先から子どもの声が聞こえた気がした。笑い声ではない。何かを読み上げるような、一定の抑揚を持った声。
足を止めると、音はすぐに消えた。
空耳だ。そう思い、部屋に入る。
簡素な室内だった。ベッドと机、椅子が一つ。歯科衛生士として働く私には、余計なものがない方が落ち着く。
夜になり、眠れずに館内を歩いていると、礼拝堂だったというホールに明かりが灯っていた。誰かがいる。
そこにいたのは、四十代くらいの男性だった。背筋を正し、椅子に座っている。教師か、公務員か。そういう種類の人間に見えた。
「……聞こえました?」
彼が声をかけてきた。
「何がですか」
「子どもの声です。名前を……呼んでいる」
その瞬間、空間に、確かに音が落ちてきた。
子どもの名前。複数。淡々と、順番に。
私は、男の口元を見た。歯の噛み合わせ。舌の位置。呼吸の乱れ。職業病のようなものだ。
「ここ、変な場所ですよね」
男は笑った。
だが、唇の端がわずかに引きつっている。
「私は何もしていません」
唐突な言葉だった。
「誰も、責めてはいません」
「でも、そういう目で見てるでしょう」
私は首を振った。
「見ているのは、音です」
男は黙り込んだ。
名前を呼ぶ声は、止まらない。
「……昔、学校にいました」
彼はようやく言った。
「問題のある家庭の子がいて。何度も相談されて。正直、面倒で……」
声が小さくなる。
「そのうち、来なくなった」
「何もしなかった、のですか」
「……何も、できなかった」
言い換えだ、と私は思った。
できなかったのではない。
しなかったのだ。
歯科衛生士は、口の中を見る仕事だ。
痛みがあると分かっていて、見ないことはできない。
「その子は、どうなったんですか」
「……亡くなりました」
男は目を閉じた。
名前を呼ぶ声が、ひときわ大きくなる。
「私は悪くない」
その言葉に、音が止んだ。
しばらくして、男はホテルを出て行った。
謝罪も、告白もなかった。ただ、肩を落として。
私はホールに残った。
もう、子どもの声は聞こえない。
部屋に戻る途中、ふと気づく。
廊下の時計が、少しだけ進んでいた。
再生とは、許されることではない。
忘れることでもない。
ただ、自分が何をしなかったのかを、
知ったまま生きていくことだ。
私は歯科医院の白い天井を思い出しながら、部屋の灯りを消した。
再生ホテルに入った瞬間、私は無意識に声を落とした。
ここでは、大きな音を立ててはいけない。理由は分からないが、そう思わせる空気があった。
元は聖堂だったという建物は、白すぎず、暗すぎず、祈りが剥がれ落ちたあとの壁の色をしている。磨かれた床はきれいだが、どこか人の体温が残っているようで、足音が必要以上に響いた。
受付のカウンターに立つ男は、年齢の分からない顔をしていた。
「館花琴音さまですね」
フルネームを呼ばれ、胸の奥で何かが小さく鳴った。
歯科医院では「館花さん」。患者からは「先生」。この名前を、はっきりとした声で呼ばれることは、もうほとんどない。
「……はい」
「こちらへどうぞ。時計は、気にされなくて結構です」
男の言葉通り、壁に掛けられた時計はすべて同じ時刻で止まっていた。
鍵を受け取り、部屋へ向かう途中、廊下の先から子どもの声が聞こえた気がした。笑い声ではない。何かを読み上げるような、一定の抑揚を持った声。
足を止めると、音はすぐに消えた。
空耳だ。そう思い、部屋に入る。
簡素な室内だった。ベッドと机、椅子が一つ。歯科衛生士として働く私には、余計なものがない方が落ち着く。
夜になり、眠れずに館内を歩いていると、礼拝堂だったというホールに明かりが灯っていた。誰かがいる。
そこにいたのは、四十代くらいの男性だった。背筋を正し、椅子に座っている。教師か、公務員か。そういう種類の人間に見えた。
「……聞こえました?」
彼が声をかけてきた。
「何がですか」
「子どもの声です。名前を……呼んでいる」
その瞬間、空間に、確かに音が落ちてきた。
子どもの名前。複数。淡々と、順番に。
私は、男の口元を見た。歯の噛み合わせ。舌の位置。呼吸の乱れ。職業病のようなものだ。
「ここ、変な場所ですよね」
男は笑った。
だが、唇の端がわずかに引きつっている。
「私は何もしていません」
唐突な言葉だった。
「誰も、責めてはいません」
「でも、そういう目で見てるでしょう」
私は首を振った。
「見ているのは、音です」
男は黙り込んだ。
名前を呼ぶ声は、止まらない。
「……昔、学校にいました」
彼はようやく言った。
「問題のある家庭の子がいて。何度も相談されて。正直、面倒で……」
声が小さくなる。
「そのうち、来なくなった」
「何もしなかった、のですか」
「……何も、できなかった」
言い換えだ、と私は思った。
できなかったのではない。
しなかったのだ。
歯科衛生士は、口の中を見る仕事だ。
痛みがあると分かっていて、見ないことはできない。
「その子は、どうなったんですか」
「……亡くなりました」
男は目を閉じた。
名前を呼ぶ声が、ひときわ大きくなる。
「私は悪くない」
その言葉に、音が止んだ。
しばらくして、男はホテルを出て行った。
謝罪も、告白もなかった。ただ、肩を落として。
私はホールに残った。
もう、子どもの声は聞こえない。
部屋に戻る途中、ふと気づく。
廊下の時計が、少しだけ進んでいた。
再生とは、許されることではない。
忘れることでもない。
ただ、自分が何をしなかったのかを、
知ったまま生きていくことだ。
私は歯科医院の白い天井を思い出しながら、部屋の灯りを消した。
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