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序章
零話
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快楽の名残はすっかりと、敷布の海に溶けて消えている。窓の向こうには、見えるはずもない中央部の【針】と、それにすがりつき成長し続ける建物の森、そこを細々と這いまわる路地と、どぎつい光にかたどられた呼び込みの文字ばかりが、夜の闇にその身を浸している。
娘は軋む寝台から身を起こし、乱れた髪を手櫛で梳いた。どこからか入り込んでくる空気が冷たい。娘は一糸まとわぬ身体に薄衣を巻き付け、空咳をしながら外を眺めた。
ここは東花京と呼ばれる【塔】の下層、地上から一段上の階層の、商業区域の連れ込み宿。古の時代に造られた、用途不明の超高層建造物【針】と、それに貼りつき幾重にも取り囲む【殻】で織り上げられたこの【塔】は、下のほうになればなるほど空気も治安も悪くなる。
“ここ”はまだ地上に比べれば空気が綺麗だし、地面だってしっかりと整備されているから、かろうじて人として過ごせている。
それでも――弱い子どもや老人から死んでいく。ここからもう少し奥に向かえば、きっと死体が折り重なっていることだろう。それを片付ける人がいて、死体をあさる人がいて。皆生きるのに必死になっている。“ここ”はそういう場所だった。
そして娘は身体を売って、どうにか今日も生き延びている。こんな薄暗くて汚い場所で、必死に日々にしがみついている。乾いた咳がまた、喉から漏れた。
「……おはよう」
と、深く静かな声が耳を打つ。
振り向けば、戸口の扉に手をついた、長い髪の男がいる。今宵の客だ。たまたま通りかかったその腕を引いて誘ったら、たまたまそれに応じてくれた。
獣を思わせるしなやかな肢体に、濃蒼の着流し。戦が終わり、八年前に開国してしばらく経ったこのご時世、着物は少しばかり時代遅れで、だからこそ目を引いたのだ。
最初は、寡黙でどこか地味な印象を受けた。けれど褥で娘と一時の肉欲を分かつ様は、確かに男の艶があった。
娘が眠っている間に身を清めたのだろう。先ほどまでの情事の名残は、跡形もなく拭い去られている。
「目が、覚めたかね」
心地の良い音。透明な真紅のまなざしが、静かに娘の姿を映している。いつぞに偶然自分を買った上層の男が、同じ色の宝石を持っていた気がする。そんなどうでもいいことを、娘はふと思い出した。
「ええ。ここは寒いから」
それから娘は朗らかに笑い、言葉をつなぐ。
「でも地上ほど寒くはないわ。あたし、実家は地上なの。ここはまだ暖かい。あなたがいるから、なおさらよ」
娼婦の甘い戯言にも、男はそうか、と答えるばかり。娘も別に、好意を伴う返答なんて期待してはいない。互いに行きずりだ。この辺じゃ、ちっとも珍しくない。それでも娘は甘い言葉を吐き続ける。常連がついてくれるなら、これほど嬉しいことはないのだから。
寝台に手を滑らせながら座る男に、娘はついと手を伸ばす。そっと指をくぐらせると、男は小さく肩を震わせた。驚かせてしまったらしい。
「ごめんなさい、綺麗な髪だから」
娘はくすくすと笑いながら、滑らかなそれをゆっくりと指に絡めた。
艶やかで、夜を糸にして束ねたような長い髪。来た時よりもはだけている着流しの胸元には、幾重にも刻まれた傷がある。
幼少の時期に一度だけ、地上でたくましく生きる獣を見た。地上を覆う泥濘から、腐った臭いをさせて生まれ出る異形とは違う。厳しい場所でもしなやかに、そして強く生きるもの。決して近寄ることのできない、牙を持つ動物特有の艶。この男は不思議と、そんなものを嗅ぎ取れる。
静寂。お互いの、呼吸の音しか聞こえない。
「……あたしね。地上からひとりで逃げてきたの。みんなのことを、置いたまま」
不意に口からこぼれた言葉に、男が小さくうなずいた。どうしてだろう、いつもならこんなこと、絶対に話さないのに。
「お金を稼がなくちゃいけないから……なんて、聞こえはいいけど」
娘は、社会的地位の最下層の者たちがひしめく地上で生まれた。貧困と飢え、ぬかるみと寒さに喘ぎながら、高く高くそびえる【塔】を見上げて生きていた。
やがて娘は成長し、他の家族を養うという名目で家を出た。そうして地上の汚泥から逃れ、金属と石と樹木といろいろなモノで作られた、【塔】に寄生する宿り木へとやってきたのだ。
ぽつりぽつりとあふれる過去に、男は黙って耳を傾けている。ただの娼婦とただの客、お互い行きずりの関係でしかないのに。
……いや、だからこそ、なのかもしれない。
「だから、ね。まとまったお金ができたら、いつかちゃんとした職業について、家族を呼びたいなって思ってるの。あたしには、それぐらいしかできないから」
【塔】の陰になるせいで常に薄暗く、凍えるように寒いあの場所で、家族が肩を寄せ合いながら帰りを待っているかもしれない。そう思うと、娘の胸は病とは別の、苦く切ないもので苦しくなるのだった。
「……そうか」
男の声が、薄暗い部屋に小さく響く。白く整った面には、静かで穏やかな笑みがある。このひとはまるで夜のようだと、娘は思った。
「だが、無理はしないほうがいい。ずいぶんと具合が悪そうだ」
男の指が、娘の伸びた黒髪を軽く払う。それから娘の額に触れて、眉を寄せた。
「これ以上身体を壊しては、取り返しのつかぬことになるぞ」
重い咳をする娘への言葉は、娼婦ごときにはもったいないほどに優しく温かい。娘は笑って礼を言い、ゆるゆると首を横に振った。
「もう少しなの。もう少ししたら、まとまったお金ができるから。それまでは……」
そう答えかけてからふと、気づく。夜に閉じた視界に眩しい、鮮やかな色。真っ赤な花が咲いている。ひとつ、ふたつと花弁を散らし、白い敷布に咲いている。いったいどこから来たのだろう。窓は閉まっているはずなのに。
娘が手を伸ばしてそれに触れると、真紅の色が布地に散る。男がするりと立ち上がる。はらり、はらりと音もなく、花が開いて散っていく。
娘は立ち去る男に気づくことなく、徐々に量を増やしていく花弁の様を、ただうっとりと眺めていた。
娘は軋む寝台から身を起こし、乱れた髪を手櫛で梳いた。どこからか入り込んでくる空気が冷たい。娘は一糸まとわぬ身体に薄衣を巻き付け、空咳をしながら外を眺めた。
ここは東花京と呼ばれる【塔】の下層、地上から一段上の階層の、商業区域の連れ込み宿。古の時代に造られた、用途不明の超高層建造物【針】と、それに貼りつき幾重にも取り囲む【殻】で織り上げられたこの【塔】は、下のほうになればなるほど空気も治安も悪くなる。
“ここ”はまだ地上に比べれば空気が綺麗だし、地面だってしっかりと整備されているから、かろうじて人として過ごせている。
それでも――弱い子どもや老人から死んでいく。ここからもう少し奥に向かえば、きっと死体が折り重なっていることだろう。それを片付ける人がいて、死体をあさる人がいて。皆生きるのに必死になっている。“ここ”はそういう場所だった。
そして娘は身体を売って、どうにか今日も生き延びている。こんな薄暗くて汚い場所で、必死に日々にしがみついている。乾いた咳がまた、喉から漏れた。
「……おはよう」
と、深く静かな声が耳を打つ。
振り向けば、戸口の扉に手をついた、長い髪の男がいる。今宵の客だ。たまたま通りかかったその腕を引いて誘ったら、たまたまそれに応じてくれた。
獣を思わせるしなやかな肢体に、濃蒼の着流し。戦が終わり、八年前に開国してしばらく経ったこのご時世、着物は少しばかり時代遅れで、だからこそ目を引いたのだ。
最初は、寡黙でどこか地味な印象を受けた。けれど褥で娘と一時の肉欲を分かつ様は、確かに男の艶があった。
娘が眠っている間に身を清めたのだろう。先ほどまでの情事の名残は、跡形もなく拭い去られている。
「目が、覚めたかね」
心地の良い音。透明な真紅のまなざしが、静かに娘の姿を映している。いつぞに偶然自分を買った上層の男が、同じ色の宝石を持っていた気がする。そんなどうでもいいことを、娘はふと思い出した。
「ええ。ここは寒いから」
それから娘は朗らかに笑い、言葉をつなぐ。
「でも地上ほど寒くはないわ。あたし、実家は地上なの。ここはまだ暖かい。あなたがいるから、なおさらよ」
娼婦の甘い戯言にも、男はそうか、と答えるばかり。娘も別に、好意を伴う返答なんて期待してはいない。互いに行きずりだ。この辺じゃ、ちっとも珍しくない。それでも娘は甘い言葉を吐き続ける。常連がついてくれるなら、これほど嬉しいことはないのだから。
寝台に手を滑らせながら座る男に、娘はついと手を伸ばす。そっと指をくぐらせると、男は小さく肩を震わせた。驚かせてしまったらしい。
「ごめんなさい、綺麗な髪だから」
娘はくすくすと笑いながら、滑らかなそれをゆっくりと指に絡めた。
艶やかで、夜を糸にして束ねたような長い髪。来た時よりもはだけている着流しの胸元には、幾重にも刻まれた傷がある。
幼少の時期に一度だけ、地上でたくましく生きる獣を見た。地上を覆う泥濘から、腐った臭いをさせて生まれ出る異形とは違う。厳しい場所でもしなやかに、そして強く生きるもの。決して近寄ることのできない、牙を持つ動物特有の艶。この男は不思議と、そんなものを嗅ぎ取れる。
静寂。お互いの、呼吸の音しか聞こえない。
「……あたしね。地上からひとりで逃げてきたの。みんなのことを、置いたまま」
不意に口からこぼれた言葉に、男が小さくうなずいた。どうしてだろう、いつもならこんなこと、絶対に話さないのに。
「お金を稼がなくちゃいけないから……なんて、聞こえはいいけど」
娘は、社会的地位の最下層の者たちがひしめく地上で生まれた。貧困と飢え、ぬかるみと寒さに喘ぎながら、高く高くそびえる【塔】を見上げて生きていた。
やがて娘は成長し、他の家族を養うという名目で家を出た。そうして地上の汚泥から逃れ、金属と石と樹木といろいろなモノで作られた、【塔】に寄生する宿り木へとやってきたのだ。
ぽつりぽつりとあふれる過去に、男は黙って耳を傾けている。ただの娼婦とただの客、お互い行きずりの関係でしかないのに。
……いや、だからこそ、なのかもしれない。
「だから、ね。まとまったお金ができたら、いつかちゃんとした職業について、家族を呼びたいなって思ってるの。あたしには、それぐらいしかできないから」
【塔】の陰になるせいで常に薄暗く、凍えるように寒いあの場所で、家族が肩を寄せ合いながら帰りを待っているかもしれない。そう思うと、娘の胸は病とは別の、苦く切ないもので苦しくなるのだった。
「……そうか」
男の声が、薄暗い部屋に小さく響く。白く整った面には、静かで穏やかな笑みがある。このひとはまるで夜のようだと、娘は思った。
「だが、無理はしないほうがいい。ずいぶんと具合が悪そうだ」
男の指が、娘の伸びた黒髪を軽く払う。それから娘の額に触れて、眉を寄せた。
「これ以上身体を壊しては、取り返しのつかぬことになるぞ」
重い咳をする娘への言葉は、娼婦ごときにはもったいないほどに優しく温かい。娘は笑って礼を言い、ゆるゆると首を横に振った。
「もう少しなの。もう少ししたら、まとまったお金ができるから。それまでは……」
そう答えかけてからふと、気づく。夜に閉じた視界に眩しい、鮮やかな色。真っ赤な花が咲いている。ひとつ、ふたつと花弁を散らし、白い敷布に咲いている。いったいどこから来たのだろう。窓は閉まっているはずなのに。
娘が手を伸ばしてそれに触れると、真紅の色が布地に散る。男がするりと立ち上がる。はらり、はらりと音もなく、花が開いて散っていく。
娘は立ち去る男に気づくことなく、徐々に量を増やしていく花弁の様を、ただうっとりと眺めていた。
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