そして夜は華散らす

緑谷

文字の大きさ
1 / 46
序章

零話

しおりを挟む
 快楽の名残はすっかりと、敷布の海に溶けて消えている。窓の向こうには、見えるはずもない中央部の【針】と、それにすがりつき成長し続ける建物の森、そこを細々と這いまわる路地と、どぎつい光にかたどられた呼び込みの文字ばかりが、夜の闇にその身を浸している。

 娘は軋む寝台から身を起こし、乱れた髪を手櫛で梳いた。どこからか入り込んでくる空気が冷たい。娘は一糸まとわぬ身体に薄衣を巻き付け、空咳をしながら外を眺めた。

 ここは東花京とうかきょうと呼ばれる【塔】の下層、地上から一段上の階層の、商業区域の連れ込み宿。古の時代に造られた、用途不明の超高層建造物【針】と、それに貼りつき幾重にも取り囲む【殻】で織り上げられたこの【塔】は、下のほうになればなるほど空気も治安も悪くなる。

 “ここ”はまだ地上に比べれば空気が綺麗だし、地面だってしっかりと整備されているから、かろうじて人として過ごせている。

 それでも――弱い子どもや老人から死んでいく。ここからもう少し奥に向かえば、きっと死体が折り重なっていることだろう。それを片付ける人がいて、死体をあさる人がいて。皆生きるのに必死になっている。“ここ”はそういう場所だった。

 そして娘は身体を売って、どうにか今日も生き延びている。こんな薄暗くて汚い場所で、必死に日々にしがみついている。乾いた咳がまた、喉から漏れた。

「……おはよう」

 と、深く静かな声が耳を打つ。

 振り向けば、戸口の扉に手をついた、長い髪の男がいる。今宵の客だ。たまたま通りかかったその腕を引いて誘ったら、たまたまそれに応じてくれた。

 獣を思わせるしなやかな肢体に、濃蒼の着流し。戦が終わり、八年前に開国してしばらく経ったこのご時世、着物は少しばかり時代遅れで、だからこそ目を引いたのだ。

 最初は、寡黙でどこか地味な印象を受けた。けれど褥で娘と一時の肉欲を分かつ様は、確かに男の艶があった。
 娘が眠っている間に身を清めたのだろう。先ほどまでの情事の名残は、跡形もなく拭い去られている。

「目が、覚めたかね」

 心地の良い音。透明な真紅のまなざしが、静かに娘の姿を映している。いつぞに偶然自分を買った上層の男が、同じ色の宝石を持っていた気がする。そんなどうでもいいことを、娘はふと思い出した。

「ええ。ここは寒いから」

 それから娘は朗らかに笑い、言葉をつなぐ。

「でも地上ほど寒くはないわ。あたし、実家は地上なの。ここはまだ暖かい。あなたがいるから、なおさらよ」

 娼婦の甘い戯言にも、男はそうか、と答えるばかり。娘も別に、好意を伴う返答なんて期待してはいない。互いに行きずりだ。この辺じゃ、ちっとも珍しくない。それでも娘は甘い言葉を吐き続ける。常連がついてくれるなら、これほど嬉しいことはないのだから。

 寝台に手を滑らせながら座る男に、娘はついと手を伸ばす。そっと指をくぐらせると、男は小さく肩を震わせた。驚かせてしまったらしい。

「ごめんなさい、綺麗な髪だから」

 娘はくすくすと笑いながら、滑らかなそれをゆっくりと指に絡めた。
 艶やかで、夜を糸にして束ねたような長い髪。来た時よりもはだけている着流しの胸元には、幾重にも刻まれた傷がある。

 幼少の時期に一度だけ、地上でたくましく生きる獣を見た。地上を覆う泥濘から、腐った臭いをさせて生まれ出る異形とは違う。厳しい場所でもしなやかに、そして強く生きるもの。決して近寄ることのできない、牙を持つ動物特有の艶。この男は不思議と、そんなものを嗅ぎ取れる。

 静寂。お互いの、呼吸の音しか聞こえない。

「……あたしね。地上からひとりで逃げてきたの。みんなのことを、置いたまま」

 不意に口からこぼれた言葉に、男が小さくうなずいた。どうしてだろう、いつもならこんなこと、絶対に話さないのに。

「お金を稼がなくちゃいけないから……なんて、聞こえはいいけど」

 娘は、社会的地位の最下層の者たちがひしめく地上で生まれた。貧困と飢え、ぬかるみと寒さに喘ぎながら、高く高くそびえる【塔】を見上げて生きていた。
 やがて娘は成長し、他の家族を養うという名目で家を出た。そうして地上の汚泥から逃れ、金属と石と樹木といろいろなモノで作られた、【塔】に寄生する宿り木へとやってきたのだ。

 ぽつりぽつりとあふれる過去に、男は黙って耳を傾けている。ただの娼婦とただの客、お互い行きずりの関係でしかないのに。

 ……いや、だからこそ、なのかもしれない。

「だから、ね。まとまったお金ができたら、いつかちゃんとした職業について、家族を呼びたいなって思ってるの。あたしには、それぐらいしかできないから」

 【塔】の陰になるせいで常に薄暗く、凍えるように寒いあの場所で、家族が肩を寄せ合いながら帰りを待っているかもしれない。そう思うと、娘の胸は病とは別の、苦く切ないもので苦しくなるのだった。

「……そうか」

 男の声が、薄暗い部屋に小さく響く。白く整った面には、静かで穏やかな笑みがある。このひとはまるで夜のようだと、娘は思った。

「だが、無理はしないほうがいい。ずいぶんと具合が悪そうだ」

 男の指が、娘の伸びた黒髪を軽く払う。それから娘の額に触れて、眉を寄せた。

「これ以上身体を壊しては、取り返しのつかぬことになるぞ」

 重い咳をする娘への言葉は、娼婦ごときにはもったいないほどに優しく温かい。娘は笑って礼を言い、ゆるゆると首を横に振った。

「もう少しなの。もう少ししたら、まとまったお金ができるから。それまでは……」

 そう答えかけてからふと、気づく。夜に閉じた視界に眩しい、鮮やかな色。真っ赤な花が咲いている。ひとつ、ふたつと花弁を散らし、白い敷布に咲いている。いったいどこから来たのだろう。窓は閉まっているはずなのに。

 娘が手を伸ばしてそれに触れると、真紅の色が布地に散る。男がするりと立ち上がる。はらり、はらりと音もなく、花が開いて散っていく。

 娘は立ち去る男に気づくことなく、徐々に量を増やしていく花弁の様を、ただうっとりと眺めていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...