そして夜は華散らす

緑谷

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壱章

其の一

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 その日、ひとりの女が死んだ。


 第一階層、第一外殻の商業区域にある連れ込み宿。つまり、ほとんど最下層のような場所だ。その一室で、若い娼婦が殺されていたという。喉を鋭い刃物で掻き切られているにも関わらず、抵抗した痕がなかったらしい。

 娼婦の名はまひる。歳は二十になったばかり。名字は不明。住民戸籍を調べればわかるかもしれないが、そこまで求められてもいないだろう。例に漏れず地上の出だろうから、そのうち適当な捜査も打ち切られ、「第一階層ではよくあること」として有耶無耶にされるのが関の山だ。

 治安があまりにも悪すぎて、人が死ぬのは日常茶飯事。かくいう自分も、取材以外では極力歩きたくない場所である。ちょっとでもいい恰好をしていたら最後、あっという間に肉塊にされて、財布も衣服も小物も身体も、内臓や目玉に至るまで売りさばかれる。……決して誇張ではない。“ここ”はそういう場所なのだった。

 辺りは昼間でも薄暗い。見上げても空は見えない。空の代わりにひしめくのは、いびつに建て増しされた建物の群れ。そのあちこちに、使い古しの虹光灯こうこうとうで作られた卑猥な文字群が浮かび上がる。看板の代わりなのだろう。目に痛い色がちかちかと明滅し、緑の錆が浮いた壁を不格好に浮き上がらせる。

 ボロボロの配管のあちこちから漏れる黒い煙が目に染みる。痛む喉をさすりながら、若手記者・桑楡光喜くわにれ・みつきは首をすくめた。

 外国から輸入されてきた機械の煙だ。上が使いつぶして捨てたものを、各階層の第三外殻、【針】に近い場所に住む職人が修理し、だましだまし使っているのだ。

 そうして繰り返し捨てられ続けた機械はやがて劣化し、煙の量が多くなる。有害なそれに長年さらされ、下の階層の住民は年を経るごとに身体を病んでいく。そんな記事を書いていたやつもいたが、社内の受けはよくなかった。結局そいつは雑用にまで落とされた挙句、病んで辞めた。とんだお笑い草というやつである。

 こんな治安の悪いところなんて、本当は一秒たりともいたくない。なのにどうしてここにいるのか─それもこれも、この間先輩と勝負した賭け花札で手酷く負けてしまったせいだ。
 財布を空にする代わりに、下層で取材をしてくれないか。要するに、体よく危険な仕事を押し付けられたのである。

 今上層で流行っている、硝子と鉱石を組み合わせた綺羅きら細工。その第一人者である細工師の取材面接である。どうせ横取りされるとわかっているし、そもそも下層になんて行きたくなかったのに。己の不運が恨めしい。

 だいたい、こんなところにわざわざ住んでるやつなんか、変人か変態かしかいないじゃないか。……もっとも、上層にいたからといって必ずしも普通とは限らないのだが。

 ともかく、職人からつまらない取材をした帰りのこと。桑楡はとある小汚い宿の入り口前にいた。どぎつい色の光と、周辺の落書き、すえた臭いが、この辺の治安の悪さを物語っている。

 外に出てきた二人の人影を捕まえて、桑楡は懐の手帳とちびた鉛筆を取り出した。

「あの。ここで娼婦が殺されたって聞いたんですけど、どういう状態でした? あんたがた、ここの従業員でしょ? ちょっと話を」 

 そう声をかけてから、桑楡は思わず胸中で舌打ちした。

 黒と緑の制服姿。帽子には花にも似た形の紋章、地光紋ちこうもんが刻まれている――よりにもよって、警察に声をかけてしまったらしい。

 ひとりは見るからに堅物で、冗談が通じなさそうな男。もうひとりは電柱のようにひょろりとでかい、腹立つぐらいに顔がいい男。どちらも桑楡の嫌いな種類のやつらである。

「記者か?」

 堅物のほうが、眉間にしわを寄せて問う。

「あ、え、と」

 突然の質問にしどろもどろする桑楡をよそに、のっぽのほうが帽子を直して嘆息する。

「記者さんなら、こんな危ないとこまでご苦労さん。でもねー、ありゃダメだわ。現場の保持なんて聞いちゃいねえや。死体も血も証拠品も全部、宿の主人が片付けちまったってさ」

一日ひとひ。部外者にぺらぺら話すな。……ここにはもう何もないぞ。早く帰ることだな」

 憎々し気に桑楡をにらみつけると、堅物は大股で歩いていく。のっぽのほうもそれに続き、桑楡だけが残された。

 警察がそう言っている以上、本当に何もないのだろう。しかし、このまま引き下がるわけにもいかない。ついでに情報を入手して、適当にこじつけて記事のネタにしてやろう。お使いの駄賃ぐらい、もらっても罰は当たらない。

 だが、桑楡の野心はあっという間に砕かれた。警察たちの言う通り、中は殺しの現場とは思えないほど綺麗にされてしまっていた。収穫は、宿の主に有り金の八割を握らせることでやっと得られた、ごくわずかな情報だけ。

 そもそもこの出費だって、本当なら必要なかった。宿の主が桑楡をガキだ何だと馬鹿にして情報を吐かなかったせいである。
 確かに童顔気味だし、そばかすもあるし、十代後半くらいに見られる外見なのは認めるが、いくら何でも人を馬鹿にしすぎじゃないか。

 本当にふざけている。冗談じゃない。危険な場所に赴いて、どうにか仕事をこなしてきたというのに。先輩から危険手当をもらわねば、いや、むしろ自分の名前で最初の一面を飾らせてもらえなければ割に合わない。

 桑楡はひとつ舌打ちし、手にしていた紙束と鉛筆を突っ込んだ。


 宿を後にし、第二外殻へと足を向ける。仕事場のある第六階層に向かうためには、第三外殻の駅で列車に乗らなければならない。外殻同士を隔てる【門】をくぐれば、これ以上命の危険にさらされることはないはずだ。

 悪臭と汚れた空気に紛れ、視界の隅で何かが動く。くすんで傾く建物の陰から、あるいは扉の隙間から、値踏みするような視線が投げられ、否応なしに突き刺さる。

 ……だからここは嫌なんだ。桑楡は外套の襟を立てて、足早にその場を離れた。とにかく、“材料”は手に入った。あとはいかに興味をそそるように書くか、それだけを気にしていればいい。他のことなんて知るもんか。

 足元がきしみ、慌てて飛びのく。桑楡の体重でひしゃげた配管からは、汚い水が断末魔のように噴き出ていた。少しばかり靴先が濡れ、嫌な臭いを放つ。腹いせにそれを蹴りつけ、先へと進む。

 見出し。見出しを考えなければならない。たとえばこういうのはどうだろう。

東花京とうかきょうに現れた連続殺人鬼! 犯人の目途は未だ立たず』

 即興ながら上出来ではなかろうか。確か数件、他の階層でも似たようなことが起きていたから、そこと関連性を見つければ記事ができるはず。あとでちょっと調べてみないと。

 足音が後を追いかけてきている。桑楡は必死で次の見出しを考えながら、もつれそうになる足を動かした。
 足音は重なる。ひとつ、ふたつ、みっつよつ。さっき見ていた連中が付いてきているのかもしれない。外套の口袋ぽけっとに突っ込んだ手が震える。冷や汗が急に噴き出してくる。足を速めても、気配は一定の距離を保って追いかけてくる。

 まずい。まずい。こんなところで殺されたくない。殺されたくない。やっと巡ってきた好機なのに。こんなところで。嫌だ。ゴミみたいになるのは嫌だ。薄汚い路地を曲がり、元来た道を戻っていく。早く。早く。早くここを抜け出したい。早く。早く。

 肩越しに振り返る。路地いっぱいに闇が満ちている。その奥から確実に何かが近づいている。いち、にい、さん、し。もっといるかもしれない。ひ、と喉の奥から恐怖が漏れた。

 急く心が災いしてか、前を見ていなかったせいか。誰かの肩がぶつかった。よろめいて相手をにらみつけ――ようとして、誰もいないことに首を傾げる。

 そのとき。

「ん、」

 桑楡の足元から声が、した。全身の血が引いていき、桑楡の冷や汗まみれの手が震える。強張る首をどうにか動かし、桑楡は視線をゆっくりと降ろしてみた。

 人が、倒れていた。長い髪は無造作に流れ、汚れた床に複雑な模様を描いている。頭のうしろで一房だけ結ぶ、いわゆる外国のお嬢さん風だが、どこからどう見ても男だった。

 年の頃はおおよそ三十代の後半ぐらいか。一見地味そうだが、整った顔立ちなのが薄暗がりでもよくわかる。頭でも打ったのか、ぐったりと目を閉じていた。

 開国され、洋装が主流となった今のご時世では、いささか浮くだろう蒼い着流しをまとっている。腰には藤色の帯と、白鞘の刀をいていた。下敷きになっているのは、翡翠の裏地の黒外套。軍で使われているものだ。黒い洋袴ぱんつも編み上げの靴も、黒皮の手袋もみんな軍用である。まるで時代の境目から抜け出たような、和洋折衷のいでたちだった。

「……んん、痛……」

 思考停止し硬直した桑楡をよそに、男が身じろぎしながらも起き上がる。幸い怪我はなかったようで、桑楡は小さく息を吐いた。

 そこでふと、自分の置かれた立場を思い出す。逃げなければ。第二外殻への扉は目と鼻の先だというのに。じりじりと、煙と一緒に肌を焼く視線、視線、視線。

「ど、どこ見て歩いてるんだ! 邪魔だよ!」

 焦りと苛立ちに、情けなく上ずった声が漏れる。男はふと目を開けて、桑楡をゆっくりと見上げた。

 その瞬間、背筋を冷たいものが走り抜ける。まるでこの世のものとは思えぬほど、鮮やかな真紅の眼がそこにあった。不気味なまでに澄んだその目に、ひきつった顔の自分が映っている。

 一歩後じさった桑楡から何かを感じ取ったのか。男は白い面にかすかな苦笑をにじませ、額に軽く手をやった。乱れていた髪が音もなくまとまり、そのまま背中へと流れ落ちる。

「いや、悪かった。周りへの注意が足りなかったようだ」

 その声も表情も、たたずまいすらも、どこか夜を思わせるような男だった。深く静かに沈んでいくような、冷ややかにぴんと響くような、艶のある音で男はとつとつ言葉を紡ぐ。

「重ねてすまぬが……少しばかり手を貸してはくれぬだろうか? 足が悪いものでな。この体勢から立ち上がるのは少々難儀なのだ」

 男は軽く左足を撫で、夜更けの声を連ねている。足が悪いくせに、なんでこんなところをのこのこ歩いているのだろう。命知らずの物好きか、それとも本気で頭が悪いのか。

 嘆息とともに棘のついた質問を投げようとしたが、思いとどまった。訳ありの医者や技術者などが、あえて低い階層を選んで住むこともある。さっきの細工師だってそうだ。足が悪いのなら、もしかしたらここにいる闇医者を頼ってきたのかもしれない。

 汚れた黒い外套や髪を見て、桑楡は急にばつが悪くなった。そのまま男へと手を差し伸べる。

「ほら」
「かたじけない」

 だが、手袋に包まれた男の手は桑楡のそれをつかまない。ゆらゆらと頼りなげに空をなぞるばかりだった。

「何してるんだよ? さっさとしろよ」

 苛立って声音が荒くなる桑楡に、男はまた苦笑をにじませる。

「ああ……やつがれは目が見えぬ。君の手がどのあたりにあるのか、どうもわからなくて」
 さっきからずいぶんと珍妙な口調だとは思っていたが――やつがれ、だなんて一人称を聞いたのは、どこぞのお偉い作家先生に取材をしたとき以来だ。だが、そんな古風な物言いをするのが、どうしてか妙にこの男に似合っていた。

「……そんな身体で、こんな治安の悪いところうろつくな」

 骨ばった手首に触れ、桑楡は力まかせに引っ張り上げる。一瞬だけ体重が感じられ、かと思えばもうしっかりと、男は両の足で立っていた。

 桑楡は肩から力を抜き、黒い外套を拾って埃を払う。革製だろうか、滑らかな光沢の見事なものだった。袖口にいれられた一本線は、裏地と同じ鮮やかな翡翠。どうも同じ生地で作られているらしい。

「はは、すまなんだ」
 男は笑ってしゃがみこみ、手をゆっくりとさまよわせる。何を探しているのかは察しが付いた。腕をつかんで再び立たせ、乱暴に外套を押し付ける。男が礼とともに外套を羽織る、その肩をまた夜闇の髪が滑り落ちた。

 そこでふと我に返る。そうだ。早く逃げないと。桑楡は慌てて周囲を見回した。闇とともに満ちていた、じっとりと値踏みするような視線は、いつしかどこかへ消え去ってしまっていた。

「……あんた、どこか行くのか?」
「いや」

 夜の気配の香る笑みで、男は桑楡を見やる。見えていないというくせに、透明な一対の紅は、まっすぐに桑楡を“見て”いるようだった。

「ここでの用事はもう済んだ。これから上層へ戻るところだ」

 じじ。古びた虹光灯が、今わの鳴き声を上げる。明滅するどぎつい色の光の下、男は何かを言いたげに、静かな笑みを桑楡へと向けている。

 一緒に行きたい、という言葉を飲み込む。正体もわからない、ついそこで会ったばかりの見ず知らずの男相手に、そんな情けないことが言えるわけがない。

「ふう、ん」

 素知らぬふりをした音が、わずかにかすれて震えてしまう。背後から迫る闇が深くなる――夜が来るのだ。この、空から降り注ぐ明かりも知らぬ、下層の街にも。

 闇が深くなれば、ここの住民以外はもう、出ることは絶対にかなわない。再び焦り、怯える桑楡に、今度は男が手を伸べた。

「へ、ぁ……?」

 ひう。桑楡は渇いた喉から一つ、間抜けな音を絞り出した。知らずに汗が噴き出して、桑楡の顎から一粒落ちる。

「【門】まで案内あないをしてほしい。あいにく、やつがれは道が見えぬゆえ」

 影が濃くなる。夜が来る。桑楡は半ば捨て鉢な気分で、差し伸べられた手を取った。
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