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弐章
其の一
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その日、ひとりの男が死んだ。
父が第六階層の駅でもらってきた新聞記事には、そんな小説のような書き出しで始まっておりました。
その新聞を出している会社の記者さんだったそうです。父の職場にも取材にいらしたことがあるそうで、名前に憶えがある人でした。
父はその記事を見て、わたくしをひどく心配しておいででした。と言いますのも、わたくしの習っているお琴の発表会が、翌日に迫っていたからです。
発表会は、お世話になっている先生のご都合上、第七階層の第三外殻にある、音楽講堂での開催を予定されておりました。第七階層に住んでいらっしゃるかたが多いことも考慮されてのことでした。
正直なところ、下の階層での発表会の参加をためらってはおりましたが――先生はわたくしに、発表会の独奏部分を特別に任せてくださる、とおっしゃったのです。
先生たってのご指名とあらば仕方がありません。わたくしのことをそこまで買ってくださっている以上、無碍にはできないと思いました。
父はかなり渋りましたが、護衛を何人かつけることでようやく了承してくださいました。そんなわけで、発表会の当日、わたくしは第七階層へと向かったのです。
無事に発表会を終え、用意してもらっていた旅館――今風にいうと「ほてる」でしょうか? 外国風の、煉瓦造りの洒落た建物でした――の窓から、外を眺めていたときのことでした。
そう。わたくしが〝それ〟を目にしたのは、本当に偶然でしかなかったのです。
なかなか寝付けず、夜風にあたるわたくしの視界の隅で、ふと何かが動いたのです。広い洋風の庭園の、そのさらに向こう側。鉄格子の先、夜深くに沈み込んだ街並みを背景に、突如ふわりと影が現れたのです。
父にねだって買ってもらった、外国製の小さな遠眼鏡を使って覗き込んで、わたくしは驚きました。
そこにいたのは、人、でした。長い髪の男性でした。月明かりに照らされて、彼はそこにたたずんでいたのです。
手には刀を携えておりました。遠目でもはっきりとわかるほど、鋭さと艶を帯びた刃があまりにも見事でした。最近じゃ時代遅れと揶揄される着流しを粋に着こなし、肩には翡翠の裏地の外套を羽織っておりました。
彼は、舞を舞っていたのです。彼が舞い踊るそのたびに、まるで桜の花びらのように赤い飛沫が散りました。
月の光が、流れる髪が、光る刃が、緋色の花弁が、恍惚と艶のにじむ整った面差しを、綺麗に鮮やかに彩って――まるでこの世のものではないくらいに、美しい光景でした。
わたくしはただ、食い入るようにそれを見ているばかりでした。全身が熱く火照り、胸が早鐘を打って、耳もとでは鼓動が鳴り響きました。わたくしはどうしても、その光景から目を外すことができなかったのです。
彼の白い面にはねた緋色が、彼の顎の輪郭を柔く伝っていくのが見えました。それを気にも留めぬように、彼はわずかに目を伏せ、髪を耳にかけるのが見えました。
その、ほのかに目元を彩る興奮の色に、わたくしの身体の奥底がきゅうと切なくなり、全身が熱くなるのがわかりました。
これ以上のぞき見をするのはいけない気がして、わたくしは慌てて窓を閉じました。発表会のことも、先生のお褒めのお言葉も、何もかもが遠くにかすんでしまって、わたくしの心にはその人の、真紅に染め上げられたしなやかな立ち姿だけが残ったのです。
ああ、あの日見た月下の人。刀を手に舞っていた美しい人。願わくばもう一度お会いしたい。そしてできることならば、わたくしのところに来てほしい。
ですからわたくしはこれまでのように、父にお願いをしたのです。そうして父もこれまでのように、わたくしのお願いを聞いてくれました。
もうすぐ。もうすぐ。待ち遠しい。どうか一日でも早くここへ来てくれますように。今か今かと待ちわびるわたくしの心は、期待と興奮でどうにかなってしまいそうになるのでした。
*
第九階層第三外殻では、西洋風の館が今の流行りである。硝子と金属で編まれた多枝燈は、蔓や花の装飾を絡ませた腕を幾本も差し伸べながら、天井から館の応接間を明るく照らしている。透かし織の窓掛からは、徐々に濃紺を溶かしていく黄昏の光がにじんでいた。
天鵞絨の長椅子に深く腰掛け、暮小夜音はただ待っていた。艶やかな飴色の机に置いた紅茶は、手つかずのまま冷めてしまっている。使用人が新しいものと交換するのを押しとどめ、小夜音は緩く波打つ豊かな黒髪を軽く指で梳いた。
小夜音が探している男が見つかった――そんな連絡が入ったのは、ちょうど父の仕事が終業に差し掛かるころであった。
父は昔から、小夜音のお願いならなんでも聞いてくれるのだ。小夜音に手に入らないものはなかったし、多少時間はかかっても、父は必ず小夜音に頼まれたものを用意してくれた。今回もそうに違いないと、小夜音は信じて疑っていなかった。
「ねえ、鏡を持ってきてちょうだいな」
ほどなくして、銀の手鏡が差し出される。鏡を覗き込みながら、小夜音は映る自分の顔を確かめた。
ふっくらとした白い頬、手入れの行き届いた黒髪は背中を柔らかく覆っている。黒目がちの大きな瞳は少し幼い印象になってしまうが、流行の葡萄酒色の〝わんぴいす〟なら少しは年齢相応に見えるだろう。
腰に巻いた黒繻子のりぼんを結び直し、黒い靴が汚れていないか確かめる。応接間の壁を飾る柱時計が六つ、鳴り響いた。
と。
「旦那様がお帰りです」
使用人の言葉に立ち上がる。外套を使用人に預けて応接間へと入ってくる父に駆け寄り、小夜音は満面の笑みを向けた。
「お父様、おかえりなさい」
「おお小夜音、ただいま。お前の探していた人が見つかったよ、待たせてしまってすまないな。……彼、でよかったのかね。お前の目で確かめなさい」
瞳を輝かせる小夜音に少々複雑そうな表情をしてから、父は背後の人物へと声をかける。それから腕を伸ばして招き寄せ、小夜音の前へと導いた。
きし、と何かが軋む音が小夜音の耳に届く。次いで静かに歩を進めてきたのは――間違いない、あの日確かに見た男であった。
着流しは夜の闇で染めたような藍。肩にはあの日見たのと同じ、翡翠の裏地の外套を羽織っていた。しなやかな腰に巻かれた帯は竜胆の色で、刀を皮の剣帯に差して腰に帯びている。軍人が履くような長く分厚い靴は、あんな軽やかに舞えるとは思えないほどに無骨な造りだった。
小夜音が小柄なのもあるだろうが、頭ふたつ分以上差がある。小夜音の父よりも少しだけ背が高く、視線が合わない。しかし、長く艶の滴る黒髪も、白く整った面差しも、間違いなく覚えがある。
何よりも小夜音が心を動かされたのは、その瞳であった。宝石のように澄んだ真紅の目。どこか遠くを見つめている鮮やかな眼差しに、小夜音はほうと息をついた。
「ああ、嬉しい! ありがとうお父様! このかたに間違いないわ!」
小夜音は頬を薔薇色に染めると、改めて目前の男へと視線を注ぐ。そこに込められた感情に気づいたか否か、男はふと小夜音を見つめ、小さく笑った。
「いやはや、人違いでなくてよかった!」
父は洋装の胸元からはんけちを出すと、額の汗を拭っている。
「突然の申し出にも関わらず、快くお越しいただいてありがとう存じます、世見坂中尉殿」
「いえ」
紡がれた音は低く、深い。落ち着いた大人の男の声音だ。
「急なことで驚きはしましたが、今の僕はただの遊び人ゆえ、どうぞお気になさらずに。むしろ、このような身分にもかかわらずお声がけいただき、恐縮です」
父の頭に響くようなそれとは違う。学校にいた男性教師たちや、男子学生とも違う。静謐の夜を思わせる声音。小夜音はまた小さくため息をつき、彼のこぼした音の残響を耳で味わう。
月下にたたずむあの姿が、小夜音の脳裏によみがえる。もう一度、あの美しい姿を見てみたい。そのために父に頼んでここまで連れてきてもらったのだから。
「あの、お父様。少しだけでいいから、ふたりきりでお話をさせてほしいの。お話が終わったらまたお呼びしますから……」
父の表情が明らかに強張ったが、それも一瞬だけであった。すぐに顎髭を撫でながらうなずいて、小夜音の頭をぽんと撫でる。
「あまり困らせてはいけないよ、小夜音。それと、彼は目が見えないから、よくよく配慮するように」
「はい、お父様」
使用人を伴って、父は応接間を後にする。扉を閉めた音を聞くと同時に、小夜音はそっと手袋に包まれた彼の手に触れた。
「どうぞお座りになって」
手袋越しにわずかに緊張する様子や体温に、彼がここに実在するのだと実感する。そして小夜音は改めて、欲していたものを前にして強く願った。
もっと知りたい。彼のことを。もっと見たい。あの美しい姿を。このうつくしい生き物を――手に入れたい。父が買い与えてくれたものではなく、自分の意志で手に入れたい。
「やっとお会いできた。世見坂さま、お名前は何とおっしゃるの?」
男は少々の間を置いて、
「終わる宵、と書いて、終宵。世見坂、終宵」
男は朧月の笑みで答えると、静かに首を傾けた。青みを帯びた黒髪が、音もなく彼の肩から滑り落ちる。
「さて、お嬢さん。いったい僕のことを、どちらでお知りになったのかね」
「ある月の綺麗な晩のことですわ、終宵さま」
小夜音は邪気なく答え、緋色の眼を覗き込んで花のように笑った。
「月の下の終宵さまが、あまりにもお綺麗だったから。わたくし、いろんなお話を聞いてみたくなってしまったのです」
男は何も答えない。小夜音は男の服の裾を握り、小さく声をこぼした。
「父はお仕事が忙しくて、この家にはいつもわたくしと、使用人しかいないのです。……お願いします、ほんの少しの間だけでいいから……わたくしの、お話相手になってくださいませんか?」
時を刻む音がする。壁掛け時計の、振り子が軋む。控えていた使用人へすがるように目を向ければ、彼女は素早く入口の錠をおろした。
男がふと、目を伏せる。まつ毛が淡く影を落とし、天井の灯りがちらちらとそれを揺らしている。
「……そのお話を、隠さず父君にお話すると。約束してくださるのなら」
次いで手渡された色よい答えに、小夜音は思わず少女のように破顔した。
「ええ、ええ! もちろんよ! ああ、嬉しいわ! 夢みたい!」
無邪気に喜ぶ娘の気配に、男は困ったように微笑んだ。
父が第六階層の駅でもらってきた新聞記事には、そんな小説のような書き出しで始まっておりました。
その新聞を出している会社の記者さんだったそうです。父の職場にも取材にいらしたことがあるそうで、名前に憶えがある人でした。
父はその記事を見て、わたくしをひどく心配しておいででした。と言いますのも、わたくしの習っているお琴の発表会が、翌日に迫っていたからです。
発表会は、お世話になっている先生のご都合上、第七階層の第三外殻にある、音楽講堂での開催を予定されておりました。第七階層に住んでいらっしゃるかたが多いことも考慮されてのことでした。
正直なところ、下の階層での発表会の参加をためらってはおりましたが――先生はわたくしに、発表会の独奏部分を特別に任せてくださる、とおっしゃったのです。
先生たってのご指名とあらば仕方がありません。わたくしのことをそこまで買ってくださっている以上、無碍にはできないと思いました。
父はかなり渋りましたが、護衛を何人かつけることでようやく了承してくださいました。そんなわけで、発表会の当日、わたくしは第七階層へと向かったのです。
無事に発表会を終え、用意してもらっていた旅館――今風にいうと「ほてる」でしょうか? 外国風の、煉瓦造りの洒落た建物でした――の窓から、外を眺めていたときのことでした。
そう。わたくしが〝それ〟を目にしたのは、本当に偶然でしかなかったのです。
なかなか寝付けず、夜風にあたるわたくしの視界の隅で、ふと何かが動いたのです。広い洋風の庭園の、そのさらに向こう側。鉄格子の先、夜深くに沈み込んだ街並みを背景に、突如ふわりと影が現れたのです。
父にねだって買ってもらった、外国製の小さな遠眼鏡を使って覗き込んで、わたくしは驚きました。
そこにいたのは、人、でした。長い髪の男性でした。月明かりに照らされて、彼はそこにたたずんでいたのです。
手には刀を携えておりました。遠目でもはっきりとわかるほど、鋭さと艶を帯びた刃があまりにも見事でした。最近じゃ時代遅れと揶揄される着流しを粋に着こなし、肩には翡翠の裏地の外套を羽織っておりました。
彼は、舞を舞っていたのです。彼が舞い踊るそのたびに、まるで桜の花びらのように赤い飛沫が散りました。
月の光が、流れる髪が、光る刃が、緋色の花弁が、恍惚と艶のにじむ整った面差しを、綺麗に鮮やかに彩って――まるでこの世のものではないくらいに、美しい光景でした。
わたくしはただ、食い入るようにそれを見ているばかりでした。全身が熱く火照り、胸が早鐘を打って、耳もとでは鼓動が鳴り響きました。わたくしはどうしても、その光景から目を外すことができなかったのです。
彼の白い面にはねた緋色が、彼の顎の輪郭を柔く伝っていくのが見えました。それを気にも留めぬように、彼はわずかに目を伏せ、髪を耳にかけるのが見えました。
その、ほのかに目元を彩る興奮の色に、わたくしの身体の奥底がきゅうと切なくなり、全身が熱くなるのがわかりました。
これ以上のぞき見をするのはいけない気がして、わたくしは慌てて窓を閉じました。発表会のことも、先生のお褒めのお言葉も、何もかもが遠くにかすんでしまって、わたくしの心にはその人の、真紅に染め上げられたしなやかな立ち姿だけが残ったのです。
ああ、あの日見た月下の人。刀を手に舞っていた美しい人。願わくばもう一度お会いしたい。そしてできることならば、わたくしのところに来てほしい。
ですからわたくしはこれまでのように、父にお願いをしたのです。そうして父もこれまでのように、わたくしのお願いを聞いてくれました。
もうすぐ。もうすぐ。待ち遠しい。どうか一日でも早くここへ来てくれますように。今か今かと待ちわびるわたくしの心は、期待と興奮でどうにかなってしまいそうになるのでした。
*
第九階層第三外殻では、西洋風の館が今の流行りである。硝子と金属で編まれた多枝燈は、蔓や花の装飾を絡ませた腕を幾本も差し伸べながら、天井から館の応接間を明るく照らしている。透かし織の窓掛からは、徐々に濃紺を溶かしていく黄昏の光がにじんでいた。
天鵞絨の長椅子に深く腰掛け、暮小夜音はただ待っていた。艶やかな飴色の机に置いた紅茶は、手つかずのまま冷めてしまっている。使用人が新しいものと交換するのを押しとどめ、小夜音は緩く波打つ豊かな黒髪を軽く指で梳いた。
小夜音が探している男が見つかった――そんな連絡が入ったのは、ちょうど父の仕事が終業に差し掛かるころであった。
父は昔から、小夜音のお願いならなんでも聞いてくれるのだ。小夜音に手に入らないものはなかったし、多少時間はかかっても、父は必ず小夜音に頼まれたものを用意してくれた。今回もそうに違いないと、小夜音は信じて疑っていなかった。
「ねえ、鏡を持ってきてちょうだいな」
ほどなくして、銀の手鏡が差し出される。鏡を覗き込みながら、小夜音は映る自分の顔を確かめた。
ふっくらとした白い頬、手入れの行き届いた黒髪は背中を柔らかく覆っている。黒目がちの大きな瞳は少し幼い印象になってしまうが、流行の葡萄酒色の〝わんぴいす〟なら少しは年齢相応に見えるだろう。
腰に巻いた黒繻子のりぼんを結び直し、黒い靴が汚れていないか確かめる。応接間の壁を飾る柱時計が六つ、鳴り響いた。
と。
「旦那様がお帰りです」
使用人の言葉に立ち上がる。外套を使用人に預けて応接間へと入ってくる父に駆け寄り、小夜音は満面の笑みを向けた。
「お父様、おかえりなさい」
「おお小夜音、ただいま。お前の探していた人が見つかったよ、待たせてしまってすまないな。……彼、でよかったのかね。お前の目で確かめなさい」
瞳を輝かせる小夜音に少々複雑そうな表情をしてから、父は背後の人物へと声をかける。それから腕を伸ばして招き寄せ、小夜音の前へと導いた。
きし、と何かが軋む音が小夜音の耳に届く。次いで静かに歩を進めてきたのは――間違いない、あの日確かに見た男であった。
着流しは夜の闇で染めたような藍。肩にはあの日見たのと同じ、翡翠の裏地の外套を羽織っていた。しなやかな腰に巻かれた帯は竜胆の色で、刀を皮の剣帯に差して腰に帯びている。軍人が履くような長く分厚い靴は、あんな軽やかに舞えるとは思えないほどに無骨な造りだった。
小夜音が小柄なのもあるだろうが、頭ふたつ分以上差がある。小夜音の父よりも少しだけ背が高く、視線が合わない。しかし、長く艶の滴る黒髪も、白く整った面差しも、間違いなく覚えがある。
何よりも小夜音が心を動かされたのは、その瞳であった。宝石のように澄んだ真紅の目。どこか遠くを見つめている鮮やかな眼差しに、小夜音はほうと息をついた。
「ああ、嬉しい! ありがとうお父様! このかたに間違いないわ!」
小夜音は頬を薔薇色に染めると、改めて目前の男へと視線を注ぐ。そこに込められた感情に気づいたか否か、男はふと小夜音を見つめ、小さく笑った。
「いやはや、人違いでなくてよかった!」
父は洋装の胸元からはんけちを出すと、額の汗を拭っている。
「突然の申し出にも関わらず、快くお越しいただいてありがとう存じます、世見坂中尉殿」
「いえ」
紡がれた音は低く、深い。落ち着いた大人の男の声音だ。
「急なことで驚きはしましたが、今の僕はただの遊び人ゆえ、どうぞお気になさらずに。むしろ、このような身分にもかかわらずお声がけいただき、恐縮です」
父の頭に響くようなそれとは違う。学校にいた男性教師たちや、男子学生とも違う。静謐の夜を思わせる声音。小夜音はまた小さくため息をつき、彼のこぼした音の残響を耳で味わう。
月下にたたずむあの姿が、小夜音の脳裏によみがえる。もう一度、あの美しい姿を見てみたい。そのために父に頼んでここまで連れてきてもらったのだから。
「あの、お父様。少しだけでいいから、ふたりきりでお話をさせてほしいの。お話が終わったらまたお呼びしますから……」
父の表情が明らかに強張ったが、それも一瞬だけであった。すぐに顎髭を撫でながらうなずいて、小夜音の頭をぽんと撫でる。
「あまり困らせてはいけないよ、小夜音。それと、彼は目が見えないから、よくよく配慮するように」
「はい、お父様」
使用人を伴って、父は応接間を後にする。扉を閉めた音を聞くと同時に、小夜音はそっと手袋に包まれた彼の手に触れた。
「どうぞお座りになって」
手袋越しにわずかに緊張する様子や体温に、彼がここに実在するのだと実感する。そして小夜音は改めて、欲していたものを前にして強く願った。
もっと知りたい。彼のことを。もっと見たい。あの美しい姿を。このうつくしい生き物を――手に入れたい。父が買い与えてくれたものではなく、自分の意志で手に入れたい。
「やっとお会いできた。世見坂さま、お名前は何とおっしゃるの?」
男は少々の間を置いて、
「終わる宵、と書いて、終宵。世見坂、終宵」
男は朧月の笑みで答えると、静かに首を傾けた。青みを帯びた黒髪が、音もなく彼の肩から滑り落ちる。
「さて、お嬢さん。いったい僕のことを、どちらでお知りになったのかね」
「ある月の綺麗な晩のことですわ、終宵さま」
小夜音は邪気なく答え、緋色の眼を覗き込んで花のように笑った。
「月の下の終宵さまが、あまりにもお綺麗だったから。わたくし、いろんなお話を聞いてみたくなってしまったのです」
男は何も答えない。小夜音は男の服の裾を握り、小さく声をこぼした。
「父はお仕事が忙しくて、この家にはいつもわたくしと、使用人しかいないのです。……お願いします、ほんの少しの間だけでいいから……わたくしの、お話相手になってくださいませんか?」
時を刻む音がする。壁掛け時計の、振り子が軋む。控えていた使用人へすがるように目を向ければ、彼女は素早く入口の錠をおろした。
男がふと、目を伏せる。まつ毛が淡く影を落とし、天井の灯りがちらちらとそれを揺らしている。
「……そのお話を、隠さず父君にお話すると。約束してくださるのなら」
次いで手渡された色よい答えに、小夜音は思わず少女のように破顔した。
「ええ、ええ! もちろんよ! ああ、嬉しいわ! 夢みたい!」
無邪気に喜ぶ娘の気配に、男は困ったように微笑んだ。
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