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弐章
其の二
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聞けば、世見坂元中尉はたいそう腕の立つ剣豪だという。先だっての戦でも、数あまたの敵をたったひとりで斬り倒したという話。ならばこの物騒な昨今を安全に過ごすべく、護衛として彼を雇いたい。
そんな小夜音の申し出に、応接間へ戻ってきた父は珍しく渋い顔をした。十九のかわいい娘のそばに、妙齢の男を置きたくはない――小夜音も、過保護な父の言い分は百も承知だった。
「でも、お父様」
小夜音は紅茶で喉を潤し、隣に座る終宵の着物の裾を握りしめる。
「もしも終宵さまがおいでになれば、巷で噂の殺人鬼に襲われたとしても、無事でいられますわ。そうでなくとも、妙な男につけられたりすることはなくなります」
小夜音が女学校に通っている頃に、そういうことがあったのだ。危害こそ加えられてはいないものの、執拗に手紙を家の門扉の隙間に挟まれたり、帰り道に後ろからつけられたりもした。
小夜音自身はそんなに気にもしていなかったが、心配した父が一時的に護衛を雇っていたのである。
父は過保護だ。だからこそ、小夜音の「おねがい」は何でも聞いてくれる。それは、小夜音が父に愛されている何よりの証でもある。
「う、うむ……確かに、それはそうだが」
「わたくしも、終宵さまほど腕の立つおかたに護衛していただけるなら、とても安心ですわ。ね、お願い、お父様」
しばし考えこんだあとに、父はようやく折れてくれた。
「……わかった。では世見坂中尉殿、簡易ながら契約書を作らせてもらうぞ」
「ええ」
彼を住み込みの護衛として雇う、という契約書を作った父が、目の見えぬ彼にもわかるよう説明するのを、小夜音は胸を弾ませながら見つめていた。
――そうだ。彼にはアレをあげなければならない。きっとよく似合うだろう。
小夜音は使用人に言いつけて、部屋にあるものを取りに行かせた。その間にも、黒い革の手袋に包まれた彼の指が、万年筆でゆっくりと名前を綴っていく。
細くてしなやかな線で作られる、少しいびつな彼の文字。視界がふさがれているから、きっと以前書いていた感覚を思い出しながら綴っているのだろう。
終宵が万年筆を置いたと同時に、別の使用人が父を呼ぶ。父はあわただしく書面を手にすると、終宵が寝泊まりするための部屋を準備するよう、使用人たちに言いつけて出て行った。
入れ違いに、小夜音の部屋から使いが戻ってくる。銀の盆には小さな箱。小夜音は鼓動を高鳴らせ、目を輝かせながら箱を手にした。
蓋を開ける。金色の長い鎖が一筋、黒い革製の帯につながっている。臙脂色の絹のりぼんは首の後ろで結ぶもので、自力で外せないように透かし彫りの結び目の留め具もついていた。
これまで父に買ってもらった中でも、特に気に入りのものにしかつけない、と決めているものだ。
「終宵さま」
抑えられない喜びで声を弾ませ、小夜音はすらりと伸びる首筋へと指を這わせた。彼が肩を震わせる。反射的に伸ばされる手を握る。手の甲へとかかる艶やかな髪をそっとかき上げてやりながら、起伏を描く喉へと首輪を当てた。
「なに、を」
布と革を通して皮膚に響く、彼の音に満たされる。
「ああ、終宵さま。動かないでくださいましね。綺麗な御髪を巻き込んでしまいますわ」
鼻歌混じりにささやきながら、少しばかり低い体温に触れながら、ほのかに香る甘い匂いを胸いっぱいに吸いながら、小夜音は終宵の首でりぼんを結んだ。
結び目には、金の留め具。小さな鍵を差し込み固定して、確かめるように指を置く。多枝燈の灯に照らされたそれは、小夜音の磨かれた爪とともに、淡く光を弾き返している。
手触りのよい夜色の髪を指で弄びながら、小夜音はほう、と息をついた。首輪から伸びる金鎖をすくい上げ、その様に満足する。小夜音がこれまで手に入れ、この首輪をつけてきたどんなモノよりも、ソレはひどく魅力的に映った。
かすかに眉根を寄せた終宵が、首につけられたものを指で探る。首の後ろをたどり、留め具の形をなぞるその手を、小夜音はそっと押しとどめる。
「ああ、外しちゃダメですわ。それはわたくしの護衛の証。他の者もこれをつけてますから」
それは、彼が視力を失っているからこそ滑り込ませることができた、ささやかでかわいらしい嘘。でも、ばれたところできっと彼は許してくれるだろう。自分のお気に入りと知れば、皆誰もが嬉しいはずだから。
「ですから、どうか外さずに。ね?」
笑いかける小夜音に、透明な緋の眼差しが注がれる。何もそこには映っていないからこそ、こんなにも色鮮やかなのだろうか。
少しばかりの沈黙の後、終宵は小さく嘆息して苦笑する。
「……僕は、あまりこういうものは好きではないのだが。決まりならば従おう」
「ごめんなさい、終宵さま。ご不便をおかけするけれど、許してくださいね」
提示された規則を守ろうとするあたり、かなり真面目なのだろう。穏やかで物静かな物腰や、遊び人だという風体からは想像すらできなかった、元軍人と言う肩書きがやっと実感できた気がした。
彼が知りたい。いったいどんな人なのか。どんな風に生きてきたのか。どんなことを考えて、どんなことをしているのか。
舞うようにヒトを斬っていた、あの姿が忘れられない。いったい何を考えて、ヒトを黄泉路へ送るのか。きっとすぐに、あの姿を見ることができるに違いない。
「では、これからよろしくお願いいたしますわ、終宵さま」
ああ、とてもとても楽しみだ。小夜音は心の底からの笑顔を終宵へ向けた。
*
小夜音はいくつか習い事をしている。琴の他、華道や茶道、旧国舞踊。それ以外にも、最近上層階級では主流になりつつある、西洋に準じたお作法など――これから嫁入りに必要になるだろう教養である。
この先どんな家柄へ嫁いでも失礼のないように、という父の教育方針に基づくものだ。格式高い名門女学校に通っていたことも、これから先もしかしたら諸外国へ嫁ぐかもしれない、という父の考えによってのことだった。そうして外のことを知らぬまま、小夜音は来年で二十になろうとしていた。
――だからこそ、月の下で真紅に染まって舞いを舞っていたこの男は、小夜音の興味と好奇心を強く刺激した。これまで小夜音が過ごしてきたどの世界にも存在し得ない、まさに知らない世界で生きている、おぞましくも美しいモノだったのだ。
ソレを手に入れてから、二日が経過した昼下がり。
「ねえ、終宵さま」
今日の習い事がすべて終わり、自宅の応接室に戻った小夜音は、やっと訪れた空き時間に心を躍らせながら終宵へと話しかけた。
すべての習い事に出かける際、あるいは講師を招いて自宅で習う際、父はそのすべてに終宵を同席させるよう契約をしていたらしい。
小夜音が習い事をしている最中、終宵は刀を肩に立てかけて目を閉じ、小夜音が話しかけても黙したまま、部屋の隅の壁に背を預けていた。聞けば小夜音が集中力を切らさぬよう、護衛任務中はしゃべるな、と言われていたという。
加えて一日目は、いつも帰りの遅い父が早く帰って来たこともあり、彼とゆっくり話すことができなかったのである。
「終宵さまは、軍人でいらしたの?」
小夜音は好奇心の赴くままに、準備していた問いを投げかける。突然誰かを斬って、と言ったところで、びっくりされてしまうだろうから。
「ええ」
正面の長椅子に浅く腰掛け、舶来製の陶磁器の茶碗に指を滑らせていた終宵は、目を伏せたまま短く答える。
「ずいぶんと昔の話ですがね」
彼の口調が変わってしまったことが、望んだモノを手に入れた小夜音の唯一の不満だ。何度か元のままでいいと伝えたものの、彼は首を縦に振ろうとしなかった。
「ねえ、終宵さま。何度も言ってるけど、敬語なんて使わなくてもいいのよ」
再度重ねて言ってはみたが、
「雇い主である以上、立場と礼節を弁えるべきですから」
このとおり、終宵はにべもない。穏やかな口調と柔らかな笑みで、小夜音の申し出を拒絶する。小夜音はむ、と頬を膨らませたが、目の見えぬ彼には通じない。
この様子だと、説得は難しいだろう。あとで父に言ってもいいかもしれない。ひとまずこの場は諦めて、小夜音はさらに問いを重ねた。
「目はいつ頃から見えないんですの?」
「八年前の戦の最中で、毒を浴びました。左足も、そのときに失いました」
「まあ! では、義足なんですの?」
驚きに声をあげてから、小夜音は座る終宵の左足を眺める。ずいぶんと足取りもしっかりしているが、まさか義足だったなんて。
そもそも足を失うような事柄に巻き込まれるような人間は、小夜音の周りには誰ひとりとして存在していない。いったいどんなものなのだろう。
初めて見るものに頬を染めて、小夜音は無邪気に次をねだる。
「わたくし、義足をつけている人なんて初めて見たわ! ねえ、見せてくださる?」
お願い、といつものように両手を合わせて小首をかしげる。こうすれば、父はもちろん、大抵の人は小夜音のお願いを聞いてくれるのだ。
終宵は小さく微笑んでから、返事の代わりに革製の軍靴の紐を緩めていく。手袋の下で浮き上がる骨の形や、筋が張って緩む様を、小夜音は飽きもせず眺めていた。
やがて金属の擦れる音とともに、左足があらわになる。鈍い黒金の色をしたそれは、生身のそれと何ら変わらぬ形をしていた。様々な形の部品を組み合わせているのか、指や足の甲、関節などに線が刻み込まれている。
「どこからが義足なんですの?」
「大腿部の半ばから……と、この足をつけてくれた医師は言っておりましたね」
骨ばった手が、このあたり、と左足の腿の半ばに置かれる。小夜音は無造作に手を伸ばし、彼が示すあたりに触れた。
伝わってくるのは、しなやかな筋肉に覆われた脚の感触と体温。しかし少し先に手を滑らせれば、金属の冷たさと硬さが洋袴の布地を通して主張してくる。
「まあ、本当。手触りが違うわ」
ぺたぺたと触る小夜音の手を、おもむろに終宵の大きな手が包んで退けた。父のものとは違う男性の手に、小夜音の鼓動は不規則に乱れる。
「もう、よろしいですか」
「え、ええ、ありがとう」
動揺しながら、小夜音は思わず自分の手を胸元に引き寄せる。終宵はまた元の通り軍靴を履きなおし、流れ落ちてくる夜の糸のような髪を耳にかけた。
思い出す。月明かりの下、血染めの彼が今と同じように、長い髪を耳にかけていたことを。白い目元に淡く刷かれた、興奮の色を。
小夜音はふと、彼の柳腰へと目を向ける。腰に差した白鞘の刀は、確かにあの日抜き放たれていたものに違いない。今は何事もなかったかのように、素知らぬ顔でそこに収められていた。
「その刀は、一点ものですの?」
「いいえ。確か……軍で支給されたものだったと思います」
終宵の紅いまなざしが刀を映す。それから、使い込まれて指の形にすり切れた黒い柄を、愛おし気に指で撫でた。
「よくよく研いで、ずっと使っておりますゆえ。多少古びてはおりますが、錆もせず、切れ味は未だ衰えませぬ」
そうして彼は、あの日の夜と同じように――蕩けた笑みを浮かべた。
ああ、やはりこの人だったのだ。あの日月の下で見た、アレは。
「ねえ、終宵さま」
小夜音は期待と興奮に胸を高鳴らせ、さらに問いをつなげていく。
「人を斬るときって、どんな感じなのかしら」
思わず声を落としてささやいたのは、彼の秘密を握るがゆえの高揚に他ならない。この重大な〝秘密〟を、他の人間に知られるのは惜しい気がしたのだ。
ふいに流れた沈黙は、そう長くは続かない。かすかに喉を鳴らした終宵が、ほのかな薄笑みをたたえて問い返す。
「……どうして、そのようなことを?」
その瞳はゆらゆらと、透き通る紅い水面のように光をたたえて揺らめいている。奥底は見えない。こんなにも色鮮やかだというのに、まるで見通すことすらできない。それすらも彼をこんなにも妖しく魅せる。
「だって、笑っていらしたから」
人を斬る。その意味がわからないほど、小夜音も子どもではない。だから不思議に思ったのだ。あんなことをしておいて、あんな風に笑う人なんて、小夜音の周りにはまるでいない。
せっかく手に入れた珍しいモノを、どうせならもっともっと深くまで知りたかった。知識を得るほど愛着はわくもの。そうして手入れすれば、ますます美しくなっていくに違いない。小夜音の手に入れたモノはみんなそうだったから。
熱を孕んだ視線を注ぐ小夜音に、終宵は常と変わらぬ調子で言葉を紡ぐ。
「……満たされたら、嬉しいでしょう?」
満たされた。だから嬉しい。いったい何が満たされたのか、どうしてそれで嬉しいと感じるのか。そもそも何に対してのことなのか。人を斬ることにソレが結びつかない。
「終宵さま、わたくしにはわかりません。それってどういうことですの?」
「そのままの意味、ですよ」
いくらそれを知りたくても、彼はそれ以上何も答えようとはしない。静かに刀の柄を撫でて、何も映さない綺麗な赫を細めている。
そこに何を“見て”いるのか。そこに何を感じているのか。何もわからない。手に入れたお気に入りのことを知らなければ、一番いい状態に保つことができない。それは小夜音にとって、とても我慢のならないことだった。
「終宵さまは意地悪だわ。教えてくださいな」
小夜音は再度頬を膨らませて抗議する。それ対する終宵の答えは、空気をわずかに震わせる、くすりというかすかな笑い声だけ。
それがどうにも気に入らなくて、小夜音は終宵の首から伸びる鎖を引いた。突然加えられた力に体勢を崩した男の、しなやかな身体を受け止める。
「あなたはもうわたくしのもの。だから、わたくしのお願いは聞いてくれなくちゃダメよ。ねえ、教えてくださらない?」
甘い香りが鼻をくすぐる。抱きしめた身体はしなやかで、まるでいつかに父と行った見世物の、黒くて大きな肉食獣を思い起こさせた。
小夜音の黒く波打つ髪に、夜の蒼を溶かした終宵の髪が、混ざって流れて落ちていく。
「教える意味もありますまい」
それでも、終宵の答えは同じだった。離れようとするのを引き留め、小夜音は終宵の着流しの襟をしっかり握りこむ。こうすれば逃げられない。
「人を斬ることができれば、終宵さまは満たされるのね?」
言いながら、小夜音は終宵の真紅の双眸を覗き込む。わずかにすがめられたその色は、やはり奥底を垣間見ることすらかなわない。
「それなら、いくらでも斬っていいのよ。ここにはいっぱい人がいるもの、きっとお気に召しますわ」
ほんの僅か、離れた場所にたたずむ使用人たちの表情がこわばった気がした。もっとも、本当にそうだったとしても、小夜音には意味のないこと。彼の一番美しい瞬間を見られるのなら、いくらだって差し出してみせる。小夜音には、それができる。
「何の気がねもしなくていいのです。ねえ、わたくしにたくさん見せてくださいな。お願いしますわ、終宵さま」
再度覗く耳元へささやきかけ、甘くかわいく“おねがい”する。
数秒の間をあけてから、喉の奥で終宵が笑った。それから小夜音の手首に手を添えて、あっさりと引き剥がす。
「面白いお嬢さんだ。まるで僕を、見世物の獣のように言いなさる」
口の端を持ち上げてそう言うと、終宵は小夜音と長椅子の隙間からするりと抜け出した。きしきしと、彼の作り物の足が小さく鳴る。
いつもなら、お手上げの父や使用人たちが答えを用意してくれるのに。小夜音は困惑しながら、彼に触れられた手首を擦る。
「だって、あなたみたいな人、これまで見たことがないんですもの。どうすればあの夜のように、綺麗で素敵なお姿を見せてくださるの?」
離れようとするその袖を引き、小夜音は困って問いかける。その様子を察したのか、終宵の手が小夜音の頭を優しく撫でた。
「おいそれと、人様に見せるようなものではございませぬゆえ。どうぞお許しを」
静かで深い夜の声が、小夜音の胸に不思議に響く。頬が、体が熱くなる。子ども扱いをされていることは百も承知だけれど、どうしてかひどく鼓動が早まる。
そして気付く。人前に見せるものではないというなら、人前でなければいいといううことに。つまり――秘密の場所さえ整えてあげれば、きっと彼はそこで存分に満たされてくれるに違いない。偶然の思い付きはひどく甘く、小夜音の心音に重なり全身を巡る。
「……わかりましたわ、終宵さま」
だとすれば、早いうちに準備をしてあげなければ。小夜音もまた、微笑みを返して小さくうなずいた。
そんな小夜音の申し出に、応接間へ戻ってきた父は珍しく渋い顔をした。十九のかわいい娘のそばに、妙齢の男を置きたくはない――小夜音も、過保護な父の言い分は百も承知だった。
「でも、お父様」
小夜音は紅茶で喉を潤し、隣に座る終宵の着物の裾を握りしめる。
「もしも終宵さまがおいでになれば、巷で噂の殺人鬼に襲われたとしても、無事でいられますわ。そうでなくとも、妙な男につけられたりすることはなくなります」
小夜音が女学校に通っている頃に、そういうことがあったのだ。危害こそ加えられてはいないものの、執拗に手紙を家の門扉の隙間に挟まれたり、帰り道に後ろからつけられたりもした。
小夜音自身はそんなに気にもしていなかったが、心配した父が一時的に護衛を雇っていたのである。
父は過保護だ。だからこそ、小夜音の「おねがい」は何でも聞いてくれる。それは、小夜音が父に愛されている何よりの証でもある。
「う、うむ……確かに、それはそうだが」
「わたくしも、終宵さまほど腕の立つおかたに護衛していただけるなら、とても安心ですわ。ね、お願い、お父様」
しばし考えこんだあとに、父はようやく折れてくれた。
「……わかった。では世見坂中尉殿、簡易ながら契約書を作らせてもらうぞ」
「ええ」
彼を住み込みの護衛として雇う、という契約書を作った父が、目の見えぬ彼にもわかるよう説明するのを、小夜音は胸を弾ませながら見つめていた。
――そうだ。彼にはアレをあげなければならない。きっとよく似合うだろう。
小夜音は使用人に言いつけて、部屋にあるものを取りに行かせた。その間にも、黒い革の手袋に包まれた彼の指が、万年筆でゆっくりと名前を綴っていく。
細くてしなやかな線で作られる、少しいびつな彼の文字。視界がふさがれているから、きっと以前書いていた感覚を思い出しながら綴っているのだろう。
終宵が万年筆を置いたと同時に、別の使用人が父を呼ぶ。父はあわただしく書面を手にすると、終宵が寝泊まりするための部屋を準備するよう、使用人たちに言いつけて出て行った。
入れ違いに、小夜音の部屋から使いが戻ってくる。銀の盆には小さな箱。小夜音は鼓動を高鳴らせ、目を輝かせながら箱を手にした。
蓋を開ける。金色の長い鎖が一筋、黒い革製の帯につながっている。臙脂色の絹のりぼんは首の後ろで結ぶもので、自力で外せないように透かし彫りの結び目の留め具もついていた。
これまで父に買ってもらった中でも、特に気に入りのものにしかつけない、と決めているものだ。
「終宵さま」
抑えられない喜びで声を弾ませ、小夜音はすらりと伸びる首筋へと指を這わせた。彼が肩を震わせる。反射的に伸ばされる手を握る。手の甲へとかかる艶やかな髪をそっとかき上げてやりながら、起伏を描く喉へと首輪を当てた。
「なに、を」
布と革を通して皮膚に響く、彼の音に満たされる。
「ああ、終宵さま。動かないでくださいましね。綺麗な御髪を巻き込んでしまいますわ」
鼻歌混じりにささやきながら、少しばかり低い体温に触れながら、ほのかに香る甘い匂いを胸いっぱいに吸いながら、小夜音は終宵の首でりぼんを結んだ。
結び目には、金の留め具。小さな鍵を差し込み固定して、確かめるように指を置く。多枝燈の灯に照らされたそれは、小夜音の磨かれた爪とともに、淡く光を弾き返している。
手触りのよい夜色の髪を指で弄びながら、小夜音はほう、と息をついた。首輪から伸びる金鎖をすくい上げ、その様に満足する。小夜音がこれまで手に入れ、この首輪をつけてきたどんなモノよりも、ソレはひどく魅力的に映った。
かすかに眉根を寄せた終宵が、首につけられたものを指で探る。首の後ろをたどり、留め具の形をなぞるその手を、小夜音はそっと押しとどめる。
「ああ、外しちゃダメですわ。それはわたくしの護衛の証。他の者もこれをつけてますから」
それは、彼が視力を失っているからこそ滑り込ませることができた、ささやかでかわいらしい嘘。でも、ばれたところできっと彼は許してくれるだろう。自分のお気に入りと知れば、皆誰もが嬉しいはずだから。
「ですから、どうか外さずに。ね?」
笑いかける小夜音に、透明な緋の眼差しが注がれる。何もそこには映っていないからこそ、こんなにも色鮮やかなのだろうか。
少しばかりの沈黙の後、終宵は小さく嘆息して苦笑する。
「……僕は、あまりこういうものは好きではないのだが。決まりならば従おう」
「ごめんなさい、終宵さま。ご不便をおかけするけれど、許してくださいね」
提示された規則を守ろうとするあたり、かなり真面目なのだろう。穏やかで物静かな物腰や、遊び人だという風体からは想像すらできなかった、元軍人と言う肩書きがやっと実感できた気がした。
彼が知りたい。いったいどんな人なのか。どんな風に生きてきたのか。どんなことを考えて、どんなことをしているのか。
舞うようにヒトを斬っていた、あの姿が忘れられない。いったい何を考えて、ヒトを黄泉路へ送るのか。きっとすぐに、あの姿を見ることができるに違いない。
「では、これからよろしくお願いいたしますわ、終宵さま」
ああ、とてもとても楽しみだ。小夜音は心の底からの笑顔を終宵へ向けた。
*
小夜音はいくつか習い事をしている。琴の他、華道や茶道、旧国舞踊。それ以外にも、最近上層階級では主流になりつつある、西洋に準じたお作法など――これから嫁入りに必要になるだろう教養である。
この先どんな家柄へ嫁いでも失礼のないように、という父の教育方針に基づくものだ。格式高い名門女学校に通っていたことも、これから先もしかしたら諸外国へ嫁ぐかもしれない、という父の考えによってのことだった。そうして外のことを知らぬまま、小夜音は来年で二十になろうとしていた。
――だからこそ、月の下で真紅に染まって舞いを舞っていたこの男は、小夜音の興味と好奇心を強く刺激した。これまで小夜音が過ごしてきたどの世界にも存在し得ない、まさに知らない世界で生きている、おぞましくも美しいモノだったのだ。
ソレを手に入れてから、二日が経過した昼下がり。
「ねえ、終宵さま」
今日の習い事がすべて終わり、自宅の応接室に戻った小夜音は、やっと訪れた空き時間に心を躍らせながら終宵へと話しかけた。
すべての習い事に出かける際、あるいは講師を招いて自宅で習う際、父はそのすべてに終宵を同席させるよう契約をしていたらしい。
小夜音が習い事をしている最中、終宵は刀を肩に立てかけて目を閉じ、小夜音が話しかけても黙したまま、部屋の隅の壁に背を預けていた。聞けば小夜音が集中力を切らさぬよう、護衛任務中はしゃべるな、と言われていたという。
加えて一日目は、いつも帰りの遅い父が早く帰って来たこともあり、彼とゆっくり話すことができなかったのである。
「終宵さまは、軍人でいらしたの?」
小夜音は好奇心の赴くままに、準備していた問いを投げかける。突然誰かを斬って、と言ったところで、びっくりされてしまうだろうから。
「ええ」
正面の長椅子に浅く腰掛け、舶来製の陶磁器の茶碗に指を滑らせていた終宵は、目を伏せたまま短く答える。
「ずいぶんと昔の話ですがね」
彼の口調が変わってしまったことが、望んだモノを手に入れた小夜音の唯一の不満だ。何度か元のままでいいと伝えたものの、彼は首を縦に振ろうとしなかった。
「ねえ、終宵さま。何度も言ってるけど、敬語なんて使わなくてもいいのよ」
再度重ねて言ってはみたが、
「雇い主である以上、立場と礼節を弁えるべきですから」
このとおり、終宵はにべもない。穏やかな口調と柔らかな笑みで、小夜音の申し出を拒絶する。小夜音はむ、と頬を膨らませたが、目の見えぬ彼には通じない。
この様子だと、説得は難しいだろう。あとで父に言ってもいいかもしれない。ひとまずこの場は諦めて、小夜音はさらに問いを重ねた。
「目はいつ頃から見えないんですの?」
「八年前の戦の最中で、毒を浴びました。左足も、そのときに失いました」
「まあ! では、義足なんですの?」
驚きに声をあげてから、小夜音は座る終宵の左足を眺める。ずいぶんと足取りもしっかりしているが、まさか義足だったなんて。
そもそも足を失うような事柄に巻き込まれるような人間は、小夜音の周りには誰ひとりとして存在していない。いったいどんなものなのだろう。
初めて見るものに頬を染めて、小夜音は無邪気に次をねだる。
「わたくし、義足をつけている人なんて初めて見たわ! ねえ、見せてくださる?」
お願い、といつものように両手を合わせて小首をかしげる。こうすれば、父はもちろん、大抵の人は小夜音のお願いを聞いてくれるのだ。
終宵は小さく微笑んでから、返事の代わりに革製の軍靴の紐を緩めていく。手袋の下で浮き上がる骨の形や、筋が張って緩む様を、小夜音は飽きもせず眺めていた。
やがて金属の擦れる音とともに、左足があらわになる。鈍い黒金の色をしたそれは、生身のそれと何ら変わらぬ形をしていた。様々な形の部品を組み合わせているのか、指や足の甲、関節などに線が刻み込まれている。
「どこからが義足なんですの?」
「大腿部の半ばから……と、この足をつけてくれた医師は言っておりましたね」
骨ばった手が、このあたり、と左足の腿の半ばに置かれる。小夜音は無造作に手を伸ばし、彼が示すあたりに触れた。
伝わってくるのは、しなやかな筋肉に覆われた脚の感触と体温。しかし少し先に手を滑らせれば、金属の冷たさと硬さが洋袴の布地を通して主張してくる。
「まあ、本当。手触りが違うわ」
ぺたぺたと触る小夜音の手を、おもむろに終宵の大きな手が包んで退けた。父のものとは違う男性の手に、小夜音の鼓動は不規則に乱れる。
「もう、よろしいですか」
「え、ええ、ありがとう」
動揺しながら、小夜音は思わず自分の手を胸元に引き寄せる。終宵はまた元の通り軍靴を履きなおし、流れ落ちてくる夜の糸のような髪を耳にかけた。
思い出す。月明かりの下、血染めの彼が今と同じように、長い髪を耳にかけていたことを。白い目元に淡く刷かれた、興奮の色を。
小夜音はふと、彼の柳腰へと目を向ける。腰に差した白鞘の刀は、確かにあの日抜き放たれていたものに違いない。今は何事もなかったかのように、素知らぬ顔でそこに収められていた。
「その刀は、一点ものですの?」
「いいえ。確か……軍で支給されたものだったと思います」
終宵の紅いまなざしが刀を映す。それから、使い込まれて指の形にすり切れた黒い柄を、愛おし気に指で撫でた。
「よくよく研いで、ずっと使っておりますゆえ。多少古びてはおりますが、錆もせず、切れ味は未だ衰えませぬ」
そうして彼は、あの日の夜と同じように――蕩けた笑みを浮かべた。
ああ、やはりこの人だったのだ。あの日月の下で見た、アレは。
「ねえ、終宵さま」
小夜音は期待と興奮に胸を高鳴らせ、さらに問いをつなげていく。
「人を斬るときって、どんな感じなのかしら」
思わず声を落としてささやいたのは、彼の秘密を握るがゆえの高揚に他ならない。この重大な〝秘密〟を、他の人間に知られるのは惜しい気がしたのだ。
ふいに流れた沈黙は、そう長くは続かない。かすかに喉を鳴らした終宵が、ほのかな薄笑みをたたえて問い返す。
「……どうして、そのようなことを?」
その瞳はゆらゆらと、透き通る紅い水面のように光をたたえて揺らめいている。奥底は見えない。こんなにも色鮮やかだというのに、まるで見通すことすらできない。それすらも彼をこんなにも妖しく魅せる。
「だって、笑っていらしたから」
人を斬る。その意味がわからないほど、小夜音も子どもではない。だから不思議に思ったのだ。あんなことをしておいて、あんな風に笑う人なんて、小夜音の周りにはまるでいない。
せっかく手に入れた珍しいモノを、どうせならもっともっと深くまで知りたかった。知識を得るほど愛着はわくもの。そうして手入れすれば、ますます美しくなっていくに違いない。小夜音の手に入れたモノはみんなそうだったから。
熱を孕んだ視線を注ぐ小夜音に、終宵は常と変わらぬ調子で言葉を紡ぐ。
「……満たされたら、嬉しいでしょう?」
満たされた。だから嬉しい。いったい何が満たされたのか、どうしてそれで嬉しいと感じるのか。そもそも何に対してのことなのか。人を斬ることにソレが結びつかない。
「終宵さま、わたくしにはわかりません。それってどういうことですの?」
「そのままの意味、ですよ」
いくらそれを知りたくても、彼はそれ以上何も答えようとはしない。静かに刀の柄を撫でて、何も映さない綺麗な赫を細めている。
そこに何を“見て”いるのか。そこに何を感じているのか。何もわからない。手に入れたお気に入りのことを知らなければ、一番いい状態に保つことができない。それは小夜音にとって、とても我慢のならないことだった。
「終宵さまは意地悪だわ。教えてくださいな」
小夜音は再度頬を膨らませて抗議する。それ対する終宵の答えは、空気をわずかに震わせる、くすりというかすかな笑い声だけ。
それがどうにも気に入らなくて、小夜音は終宵の首から伸びる鎖を引いた。突然加えられた力に体勢を崩した男の、しなやかな身体を受け止める。
「あなたはもうわたくしのもの。だから、わたくしのお願いは聞いてくれなくちゃダメよ。ねえ、教えてくださらない?」
甘い香りが鼻をくすぐる。抱きしめた身体はしなやかで、まるでいつかに父と行った見世物の、黒くて大きな肉食獣を思い起こさせた。
小夜音の黒く波打つ髪に、夜の蒼を溶かした終宵の髪が、混ざって流れて落ちていく。
「教える意味もありますまい」
それでも、終宵の答えは同じだった。離れようとするのを引き留め、小夜音は終宵の着流しの襟をしっかり握りこむ。こうすれば逃げられない。
「人を斬ることができれば、終宵さまは満たされるのね?」
言いながら、小夜音は終宵の真紅の双眸を覗き込む。わずかにすがめられたその色は、やはり奥底を垣間見ることすらかなわない。
「それなら、いくらでも斬っていいのよ。ここにはいっぱい人がいるもの、きっとお気に召しますわ」
ほんの僅か、離れた場所にたたずむ使用人たちの表情がこわばった気がした。もっとも、本当にそうだったとしても、小夜音には意味のないこと。彼の一番美しい瞬間を見られるのなら、いくらだって差し出してみせる。小夜音には、それができる。
「何の気がねもしなくていいのです。ねえ、わたくしにたくさん見せてくださいな。お願いしますわ、終宵さま」
再度覗く耳元へささやきかけ、甘くかわいく“おねがい”する。
数秒の間をあけてから、喉の奥で終宵が笑った。それから小夜音の手首に手を添えて、あっさりと引き剥がす。
「面白いお嬢さんだ。まるで僕を、見世物の獣のように言いなさる」
口の端を持ち上げてそう言うと、終宵は小夜音と長椅子の隙間からするりと抜け出した。きしきしと、彼の作り物の足が小さく鳴る。
いつもなら、お手上げの父や使用人たちが答えを用意してくれるのに。小夜音は困惑しながら、彼に触れられた手首を擦る。
「だって、あなたみたいな人、これまで見たことがないんですもの。どうすればあの夜のように、綺麗で素敵なお姿を見せてくださるの?」
離れようとするその袖を引き、小夜音は困って問いかける。その様子を察したのか、終宵の手が小夜音の頭を優しく撫でた。
「おいそれと、人様に見せるようなものではございませぬゆえ。どうぞお許しを」
静かで深い夜の声が、小夜音の胸に不思議に響く。頬が、体が熱くなる。子ども扱いをされていることは百も承知だけれど、どうしてかひどく鼓動が早まる。
そして気付く。人前に見せるものではないというなら、人前でなければいいといううことに。つまり――秘密の場所さえ整えてあげれば、きっと彼はそこで存分に満たされてくれるに違いない。偶然の思い付きはひどく甘く、小夜音の心音に重なり全身を巡る。
「……わかりましたわ、終宵さま」
だとすれば、早いうちに準備をしてあげなければ。小夜音もまた、微笑みを返して小さくうなずいた。
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