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弐章
其の三
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新しい使用人は、ずいぶんと手際がよろしくない。茶菓子を小皿に並べることすらおぼつかない。とはいえ、それも仕方がない話だ。急遽雇われて入ったばかりの、まだ十五にもならない少年なのだから。
小夜音はにこりと少年に笑みかけ、陶器の茶碗を受け取る。
昨日ひとり、使用人が減った。どこかぼんやりとして鈍くさい、あまり小夜音の好みではない男だった。
男は庭の片隅にある離れで見つかったという。今は物置のような場所で、めったなことじゃ誰も立ち入ることはしない。小夜音は警察が来る前に“処理”を命じ、他の使用人たちに口止めをしたうえで、何事もなかったようにふるまっている。幸い父も気が付いていないようだった。
小夜音は嬉しくて仕方がなかった。小夜音が用意して待っていたその“舞台”で、彼は確かに踊ってくれたのだから。
ほんの少しいい品を握らせれば、使用人はみな口を閉ざす。何も心配することはない。これからは存分に、そこを使ってくれればいい。
小夜音はひとひら笑みを深めると、茶をひとくち飲み下す。陶磁器の茶碗には、金と珊瑚で蔦草と花の模様が描かれている。白く磨かれた中に注がれた西洋茶は、琥珀色に透き通って揺れていた。
窓の外では木漏れ日が風に吹かれ、ちらちらと金の光を散らしている。そして隣にいる終宵は、薄い瞼を閉ざしたまま、刀を抱えて壁にもたれていた。
綺麗な墨染めと茜の着流しは、小夜音が父にねだって彼に買い与えたものだった。すらりと伸びた首筋には、小夜音のつけた臙脂のりぼん。うなじにかかる髪の生え際には、小夜音の知らない痕が淡く薄らと残っている。
ちり、と不快な何かが小夜音の胸を刺す。終宵が来た日、小夜音はあの使用人がぼんやりと終宵を眺めていたのを知っていた。そいつがその後も終宵にぶつかっていたことも、接触のたびに話をしていたのも知っていた。そして終宵は、相手が同性の場合に限り、気軽に触れてくることも、逆に気軽に触れさせることも――そのときに知った。
小夜音はそれがひどく気に入らなかった。終宵があの男に声をかけ、そのしなやかな指で触るたびに、理不尽な苛立ちと焦燥感の棘が胸のうちを引っ掻いて落ち着かなくなった。
だから小夜音はそいつを「選んで」あげることにしたのだ。
何度か離れの片づけを言いつけて、終宵にもめったに使わぬ離れの存在をほのめかす。小夜音のしたことは、たったそれだけ。
外国から仕入れた、映したものを記録するという魔法の箱をさりげなく離れへ置いて、小夜音は〝そのとき〟を待った――昨日はやっと訪れた好機だったのだ。
残念ながら、映像はほとんど見えなかったけれど。闇の中からさやかに聞こえてくる音は確かに、彼がそこにいた証でもあった。
弾む吐息。熱を帯びた低い声。彼の声はいつだって、静謐に沈んで冷えた夜更けの音なのに、記録されていた声はまるで毒のような甘さを含んでいた。衣擦れと、くぐもった声音に重なる、液体が勢いよくほとばしる音。それから蕩けて滴る笑い声。
小夜音は夜に閉ざされた映像を指でなぞり、初めて彼を見た様と重ねて夢想した。それでも、想像だけでは物足りない。身体の中で何かが疼く。胸の中が火傷のようにひりついて、もどかしい感情が募っていく。
彼がもっとも美しいさまを、間近で見ることができたあの男が憎らしい。彼の“秘密”を知るのは、わたくしだけでいいのに。
そんなことを考えて、小夜音は苛立たしく肩から滑り落ちる髪を指で払った。
「終宵さま」
「何か」
終宵はいつもと同じ、穏やかでひんやりとした声で答える。淡い微笑みもいつものとおり。でも、本当はそれだけでないことを、小夜音は知っている。
手を伸ばす。指で触れる。やはり終宵は柔く小夜音の手をつかみ、そっと避ける。あの男にはそんなことしなかったのに。小夜音は眉を寄せて不満をあらわにした。
「……触られるのはお嫌ですの?」
「お父上より、必要以上にお嬢さんに触れたり、近寄ったりせぬよう言われておりますので」
ああ、本当にあのひとは余計なことばかり! 小夜音はイライラと爪を噛み、扉の向こうで出張の支度をしているだろう父を軽くにらんだ。
せっかく小夜音のモノになったのに、いっかな彼は小夜音にすべてを明け渡してくれない。手に入れたはずのモノが、こんなにも思う通りになってくれないのは初めてだった。
小夜音は手にした鎖を引っ張った。終宵がわずかに眉根を寄せる。
「そんな風にされると、わたくし、とても寂しいわ……」
だからわたくしを拒絶しないで。
小さく落としたおねがいに混じるのは、ほんの一握りの本心。
母が家を出ていってからというもの、父は仕事が忙しくなり、小夜音はずっとひとりきり。使用人は使うもので、人間の友達とは違う。学友とも距離があったし、友と呼べるひとはいない。小夜音の周りにはいつもモノがあふれていたが、言葉を話すモノは終宵が初めてだった。
小夜音は涙を浮かべてうつむく。盲目の彼に通じないことはわかっているが、声は涙で潤んでいる。状態ぐらいはわかるだろう。
案の定、終宵は困ったように眉を寄せ、手さぐりで小夜音の頭を撫でた。
「僕には、こうすることしかできませぬが」
どこか子どもに向けるような、優しい言葉が贈られる。小夜音はそれが嬉しくもあり、同時にひどく嫌だった。
小夜音は終宵の腕を取り、胸元へと抱き込んだ。柔らかな肉の間に腕が挟まれ、終宵はふいに身体を緊張させる。それから手探りで小夜音の肩をつかむと、ぐ、と強く引き剥がした。
何も映さぬ紅の眼に、泣きそうな小夜音の顔が揺れている。どうして言うことを聞いてくれないのだろう。もう自分のモノだというのに。別の同性相手になら、いとも簡単に触れさせるというのに。なぜ小夜音ではダメなのだろうか。そんなものでは足りないのに。
子どもじみた感情が押し寄せてきて、小夜音は首を横に振る。空気の動きで悟ったか、終宵は困った様子で小夜音の髪に触れた。
どうしたら、彼は自分のモノになってくれるのだろう。どうしたら、心の底から小夜音のモノになってくれるのだろう。どうしたら、もっともっとつなぎとめておけるのだろう。
いくら考えても答えは出ない。小夜音はもどかしさと苛立ちに涙を浮かべたまま、彼の胸元へと額を押し付ける。
花にも香にもよく似た、しかしまったくそれらと異なる甘い香りがする。終宵の優しい手は、ゆるゆると小夜音をあやしている。そこに子どもをあやす以上の意味がないことを、小夜音はなぜかひどく残念に思った。
*
小夜音の心に刺さる棘、そこから芽吹いた何かは、日増しに大きく育っていった。
たとえば小夜音が自室に何かを取りに行き、戻ってきたら終宵が使用人としゃべっていたとき。小夜音のいないところで使用人と話をしている終宵を目にすると、小夜音の胸は焦りと苛立ちで煮えてしまいそうになるのだった。
わざと間に割って入ったり、終宵の腕にしがみついてみたり。苛立ちが強いときは使用人に手をあげることもあった。
子どもじみた行動を繰り返しては、終宵にやんわりとたしなめられる。それを嬉しいと感じると同時に、ひどく苛立ってしまってたまらない気持ちになるのだ。
「終宵さま、使用人なんかと話をしないでくださいまし」
あなたはわたくしのモノなのだから、わたくしの見ていないところで、誰かと親しくなんてしないで――小夜音がそうしたおねがいを口にするたび、終宵は困ったように微笑んで、小夜音の頭を軽く撫でるのであった。
思い通りにならない。思い通りにいかない。お気に入りのモノの意識が、自分以外のものに向かう。小夜音にはそれが我慢ならなかった。
どうしたら、彼を本当の意味で自分のモノにできるのだろう。どうしたら彼の心を、自分に留めることができるだろう。
寝る前にそんなことを考えながら、小夜音は寝台で何気なく手にした小説を開いた。
今、中層から上層の娘たちの間で話題になっている、四更無月の恋愛小説『恋せし春雪』だ。年上の男と女学生の、燃え上がるような恋と情念を描いた作品である。
小夜音も何となく流行に乗って読んではみたものの、どこが面白いのかわからず、読み終えてそのままにしていたものだった。
『たとえば、気になる人がほかの誰かと話しているときに、胸がもやもやする』
偶然開いた場所にそんな記述を見つけ、小夜音は小さくため息をつく。まさに今、そのとおりの状況だった。自然と視線が、文字の続きを追いかける。
『自分のほうを見てほしくて、その人のすべてが欲しくて、欲しくて、切なくて苦しくて、たまらなくなる』
『そんな感情のことを、恋というのよ』
寝間着のふわふわとした襟元を直し、小夜音は本を抱いて胸に手を当てた。
女学校にいたころに、同じ教室の子たちが騒いでいたのを思い出す。隣の男子高校の、なんとかという先輩がかっこいいとか、どの教科の先生がいいとか、どうとか。しかし小夜音は彼らと話しても、今のように首枷をつけて、すべてを手に入れたいと思ったことなんて、一度たりとてなかった。
なるほど、これが恋というものか。
納得をしてしまえば、これまでずっとずっと奥底でくすぶっていたものが何なのか、すべてそれで説明がつくような気がした。
全部が知りたい。彼の全部を。あの離れで何をしていたのかも。どんなことを考えているかも。何を望んでいるかも。すべて残らず見せてほしい。ほしい。欲しい。世見坂終宵という、美しいモノの心も、すべて。
もしも、と想像を巡らせる。もしも終宵が本当に、小夜音のモノになったなら。小夜音のことしか見ない。小夜音のことしか考えない。小夜音の言うことならなんでも聞いてくれて、あの綺麗な姿をいくらだって見せてくれるだろう――そう考えただけで全身が熱く火照り、心臓がどきどきしてたまらなくなる。
これが、恋。何度も何度も繰り返す。それから小夜音は敷布の上に身を投げ、天井を向いて薄く笑んだ。心が弾んでわくわくする。
「終宵さま」
そっと名前を口にする。返答はなくても、想像上の彼はゆるやかに振り向き、あの夜のように甘く微笑う。そんな想像をするだけで、頭の奥が蕩けていきそうになる。ああ、どうすれば彼のことを手に入れられるのだろう?
考えて考えて考えて、ふと以前耳にしたことを思い出し、小夜音はするりと立ち上がった。薄い絹の襦袢がさらりと揺れて、小夜音の柔らかな身体を覆い隠す。
女学校の娘のひとりが、内緒と銘打ち広めていたこと。晩餐会の喧騒に紛れ聞いたこと。こうすれば殿方はすぐに虜になると、さざめくように聞いた言葉。
こうすればきっと、彼は小夜音のモノになる。心の底から、小夜音だけのことを考えてくれる。小夜音は期待と興奮と独占欲、胸の棘より湧き上がる衝動のままに、そっと部屋を抜け出した。
小夜音の部屋のすぐ隣、小さな倉庫が終宵にあてがわれた個室だった。取っ手に指をかけるだけで、耳障りなほどに扉が軋む。開いた隙間に滑り込み、小夜音は冷えた床を踏みしめる。鼓動が高鳴り、心臓が今にも爆ぜ飛びそうだ。
「終宵さま」
吐息に混ぜて名を呼べば、寝台に横になっていた終宵がわずかに身を起こした。
「……どうなさいました? お嬢さん」
夜に溶ける低い声。眠りの中にいたのだろう、紡ぐ音はかすれている。
小夜音は問いかけに応じず歩み寄ると、起き上がろうとする終宵の肩へ全体重をかけた。
横たわる身体をまたいで乗り上げる。敷布に広がる長い髪、薄闇にもなお鮮やかな、宝石にも似た真紅の瞳。申し訳程度に取り付けられた小さな窓から注がれる、月の光を浴びてきらめいている。しなやかな筋肉に覆われた身体は、よく見ればあちこちに淡く傷跡が残っていた。
自分の帯をほどく小夜音に、終宵が困惑したように腕を伸ばす。どこにいるかわからないせいか、さまよう手には力が入っていない。それがどうにもかわいらしくて、小夜音はくすりと笑った。
腕を絡めて縛り上げる。それから終宵の喉元に指を置き、寝巻替わりの襦袢の襟をたどって忍ばせる。呼吸を詰めて緊張する、その耳元に唇を寄せる。
「……わたくしのモノに、なってくださいな」
肩から襦袢を滑り落とす。熟したばかりの小夜音の裸体が、月光を浴びて浮かび上がる。その白く豊かな乳房の奥には、乱れる鼓動と熱い情動が脈打っている。
終宵が目を閉じ、首を横に振る。子どもがむずがるような仕草がまた、小夜音には愛おしく映った。
「そうすればきっと、終宵さまも嬉しいでしょうから」
拒絶の言葉は吐かせない。それは小夜音の求めているものではない。小夜音のモノであるならば、これはすべて受け入れられるべきなのだから。
小夜音は終宵の唇に唇を重ね、知識でしか知らないソレに没頭する。やがては理性も溶けて消え、ただひたすらに“支配できる”悦びと甘美な熱に溺れていった。
小夜音はにこりと少年に笑みかけ、陶器の茶碗を受け取る。
昨日ひとり、使用人が減った。どこかぼんやりとして鈍くさい、あまり小夜音の好みではない男だった。
男は庭の片隅にある離れで見つかったという。今は物置のような場所で、めったなことじゃ誰も立ち入ることはしない。小夜音は警察が来る前に“処理”を命じ、他の使用人たちに口止めをしたうえで、何事もなかったようにふるまっている。幸い父も気が付いていないようだった。
小夜音は嬉しくて仕方がなかった。小夜音が用意して待っていたその“舞台”で、彼は確かに踊ってくれたのだから。
ほんの少しいい品を握らせれば、使用人はみな口を閉ざす。何も心配することはない。これからは存分に、そこを使ってくれればいい。
小夜音はひとひら笑みを深めると、茶をひとくち飲み下す。陶磁器の茶碗には、金と珊瑚で蔦草と花の模様が描かれている。白く磨かれた中に注がれた西洋茶は、琥珀色に透き通って揺れていた。
窓の外では木漏れ日が風に吹かれ、ちらちらと金の光を散らしている。そして隣にいる終宵は、薄い瞼を閉ざしたまま、刀を抱えて壁にもたれていた。
綺麗な墨染めと茜の着流しは、小夜音が父にねだって彼に買い与えたものだった。すらりと伸びた首筋には、小夜音のつけた臙脂のりぼん。うなじにかかる髪の生え際には、小夜音の知らない痕が淡く薄らと残っている。
ちり、と不快な何かが小夜音の胸を刺す。終宵が来た日、小夜音はあの使用人がぼんやりと終宵を眺めていたのを知っていた。そいつがその後も終宵にぶつかっていたことも、接触のたびに話をしていたのも知っていた。そして終宵は、相手が同性の場合に限り、気軽に触れてくることも、逆に気軽に触れさせることも――そのときに知った。
小夜音はそれがひどく気に入らなかった。終宵があの男に声をかけ、そのしなやかな指で触るたびに、理不尽な苛立ちと焦燥感の棘が胸のうちを引っ掻いて落ち着かなくなった。
だから小夜音はそいつを「選んで」あげることにしたのだ。
何度か離れの片づけを言いつけて、終宵にもめったに使わぬ離れの存在をほのめかす。小夜音のしたことは、たったそれだけ。
外国から仕入れた、映したものを記録するという魔法の箱をさりげなく離れへ置いて、小夜音は〝そのとき〟を待った――昨日はやっと訪れた好機だったのだ。
残念ながら、映像はほとんど見えなかったけれど。闇の中からさやかに聞こえてくる音は確かに、彼がそこにいた証でもあった。
弾む吐息。熱を帯びた低い声。彼の声はいつだって、静謐に沈んで冷えた夜更けの音なのに、記録されていた声はまるで毒のような甘さを含んでいた。衣擦れと、くぐもった声音に重なる、液体が勢いよくほとばしる音。それから蕩けて滴る笑い声。
小夜音は夜に閉ざされた映像を指でなぞり、初めて彼を見た様と重ねて夢想した。それでも、想像だけでは物足りない。身体の中で何かが疼く。胸の中が火傷のようにひりついて、もどかしい感情が募っていく。
彼がもっとも美しいさまを、間近で見ることができたあの男が憎らしい。彼の“秘密”を知るのは、わたくしだけでいいのに。
そんなことを考えて、小夜音は苛立たしく肩から滑り落ちる髪を指で払った。
「終宵さま」
「何か」
終宵はいつもと同じ、穏やかでひんやりとした声で答える。淡い微笑みもいつものとおり。でも、本当はそれだけでないことを、小夜音は知っている。
手を伸ばす。指で触れる。やはり終宵は柔く小夜音の手をつかみ、そっと避ける。あの男にはそんなことしなかったのに。小夜音は眉を寄せて不満をあらわにした。
「……触られるのはお嫌ですの?」
「お父上より、必要以上にお嬢さんに触れたり、近寄ったりせぬよう言われておりますので」
ああ、本当にあのひとは余計なことばかり! 小夜音はイライラと爪を噛み、扉の向こうで出張の支度をしているだろう父を軽くにらんだ。
せっかく小夜音のモノになったのに、いっかな彼は小夜音にすべてを明け渡してくれない。手に入れたはずのモノが、こんなにも思う通りになってくれないのは初めてだった。
小夜音は手にした鎖を引っ張った。終宵がわずかに眉根を寄せる。
「そんな風にされると、わたくし、とても寂しいわ……」
だからわたくしを拒絶しないで。
小さく落としたおねがいに混じるのは、ほんの一握りの本心。
母が家を出ていってからというもの、父は仕事が忙しくなり、小夜音はずっとひとりきり。使用人は使うもので、人間の友達とは違う。学友とも距離があったし、友と呼べるひとはいない。小夜音の周りにはいつもモノがあふれていたが、言葉を話すモノは終宵が初めてだった。
小夜音は涙を浮かべてうつむく。盲目の彼に通じないことはわかっているが、声は涙で潤んでいる。状態ぐらいはわかるだろう。
案の定、終宵は困ったように眉を寄せ、手さぐりで小夜音の頭を撫でた。
「僕には、こうすることしかできませぬが」
どこか子どもに向けるような、優しい言葉が贈られる。小夜音はそれが嬉しくもあり、同時にひどく嫌だった。
小夜音は終宵の腕を取り、胸元へと抱き込んだ。柔らかな肉の間に腕が挟まれ、終宵はふいに身体を緊張させる。それから手探りで小夜音の肩をつかむと、ぐ、と強く引き剥がした。
何も映さぬ紅の眼に、泣きそうな小夜音の顔が揺れている。どうして言うことを聞いてくれないのだろう。もう自分のモノだというのに。別の同性相手になら、いとも簡単に触れさせるというのに。なぜ小夜音ではダメなのだろうか。そんなものでは足りないのに。
子どもじみた感情が押し寄せてきて、小夜音は首を横に振る。空気の動きで悟ったか、終宵は困った様子で小夜音の髪に触れた。
どうしたら、彼は自分のモノになってくれるのだろう。どうしたら、心の底から小夜音のモノになってくれるのだろう。どうしたら、もっともっとつなぎとめておけるのだろう。
いくら考えても答えは出ない。小夜音はもどかしさと苛立ちに涙を浮かべたまま、彼の胸元へと額を押し付ける。
花にも香にもよく似た、しかしまったくそれらと異なる甘い香りがする。終宵の優しい手は、ゆるゆると小夜音をあやしている。そこに子どもをあやす以上の意味がないことを、小夜音はなぜかひどく残念に思った。
*
小夜音の心に刺さる棘、そこから芽吹いた何かは、日増しに大きく育っていった。
たとえば小夜音が自室に何かを取りに行き、戻ってきたら終宵が使用人としゃべっていたとき。小夜音のいないところで使用人と話をしている終宵を目にすると、小夜音の胸は焦りと苛立ちで煮えてしまいそうになるのだった。
わざと間に割って入ったり、終宵の腕にしがみついてみたり。苛立ちが強いときは使用人に手をあげることもあった。
子どもじみた行動を繰り返しては、終宵にやんわりとたしなめられる。それを嬉しいと感じると同時に、ひどく苛立ってしまってたまらない気持ちになるのだ。
「終宵さま、使用人なんかと話をしないでくださいまし」
あなたはわたくしのモノなのだから、わたくしの見ていないところで、誰かと親しくなんてしないで――小夜音がそうしたおねがいを口にするたび、終宵は困ったように微笑んで、小夜音の頭を軽く撫でるのであった。
思い通りにならない。思い通りにいかない。お気に入りのモノの意識が、自分以外のものに向かう。小夜音にはそれが我慢ならなかった。
どうしたら、彼を本当の意味で自分のモノにできるのだろう。どうしたら彼の心を、自分に留めることができるだろう。
寝る前にそんなことを考えながら、小夜音は寝台で何気なく手にした小説を開いた。
今、中層から上層の娘たちの間で話題になっている、四更無月の恋愛小説『恋せし春雪』だ。年上の男と女学生の、燃え上がるような恋と情念を描いた作品である。
小夜音も何となく流行に乗って読んではみたものの、どこが面白いのかわからず、読み終えてそのままにしていたものだった。
『たとえば、気になる人がほかの誰かと話しているときに、胸がもやもやする』
偶然開いた場所にそんな記述を見つけ、小夜音は小さくため息をつく。まさに今、そのとおりの状況だった。自然と視線が、文字の続きを追いかける。
『自分のほうを見てほしくて、その人のすべてが欲しくて、欲しくて、切なくて苦しくて、たまらなくなる』
『そんな感情のことを、恋というのよ』
寝間着のふわふわとした襟元を直し、小夜音は本を抱いて胸に手を当てた。
女学校にいたころに、同じ教室の子たちが騒いでいたのを思い出す。隣の男子高校の、なんとかという先輩がかっこいいとか、どの教科の先生がいいとか、どうとか。しかし小夜音は彼らと話しても、今のように首枷をつけて、すべてを手に入れたいと思ったことなんて、一度たりとてなかった。
なるほど、これが恋というものか。
納得をしてしまえば、これまでずっとずっと奥底でくすぶっていたものが何なのか、すべてそれで説明がつくような気がした。
全部が知りたい。彼の全部を。あの離れで何をしていたのかも。どんなことを考えているかも。何を望んでいるかも。すべて残らず見せてほしい。ほしい。欲しい。世見坂終宵という、美しいモノの心も、すべて。
もしも、と想像を巡らせる。もしも終宵が本当に、小夜音のモノになったなら。小夜音のことしか見ない。小夜音のことしか考えない。小夜音の言うことならなんでも聞いてくれて、あの綺麗な姿をいくらだって見せてくれるだろう――そう考えただけで全身が熱く火照り、心臓がどきどきしてたまらなくなる。
これが、恋。何度も何度も繰り返す。それから小夜音は敷布の上に身を投げ、天井を向いて薄く笑んだ。心が弾んでわくわくする。
「終宵さま」
そっと名前を口にする。返答はなくても、想像上の彼はゆるやかに振り向き、あの夜のように甘く微笑う。そんな想像をするだけで、頭の奥が蕩けていきそうになる。ああ、どうすれば彼のことを手に入れられるのだろう?
考えて考えて考えて、ふと以前耳にしたことを思い出し、小夜音はするりと立ち上がった。薄い絹の襦袢がさらりと揺れて、小夜音の柔らかな身体を覆い隠す。
女学校の娘のひとりが、内緒と銘打ち広めていたこと。晩餐会の喧騒に紛れ聞いたこと。こうすれば殿方はすぐに虜になると、さざめくように聞いた言葉。
こうすればきっと、彼は小夜音のモノになる。心の底から、小夜音だけのことを考えてくれる。小夜音は期待と興奮と独占欲、胸の棘より湧き上がる衝動のままに、そっと部屋を抜け出した。
小夜音の部屋のすぐ隣、小さな倉庫が終宵にあてがわれた個室だった。取っ手に指をかけるだけで、耳障りなほどに扉が軋む。開いた隙間に滑り込み、小夜音は冷えた床を踏みしめる。鼓動が高鳴り、心臓が今にも爆ぜ飛びそうだ。
「終宵さま」
吐息に混ぜて名を呼べば、寝台に横になっていた終宵がわずかに身を起こした。
「……どうなさいました? お嬢さん」
夜に溶ける低い声。眠りの中にいたのだろう、紡ぐ音はかすれている。
小夜音は問いかけに応じず歩み寄ると、起き上がろうとする終宵の肩へ全体重をかけた。
横たわる身体をまたいで乗り上げる。敷布に広がる長い髪、薄闇にもなお鮮やかな、宝石にも似た真紅の瞳。申し訳程度に取り付けられた小さな窓から注がれる、月の光を浴びてきらめいている。しなやかな筋肉に覆われた身体は、よく見ればあちこちに淡く傷跡が残っていた。
自分の帯をほどく小夜音に、終宵が困惑したように腕を伸ばす。どこにいるかわからないせいか、さまよう手には力が入っていない。それがどうにもかわいらしくて、小夜音はくすりと笑った。
腕を絡めて縛り上げる。それから終宵の喉元に指を置き、寝巻替わりの襦袢の襟をたどって忍ばせる。呼吸を詰めて緊張する、その耳元に唇を寄せる。
「……わたくしのモノに、なってくださいな」
肩から襦袢を滑り落とす。熟したばかりの小夜音の裸体が、月光を浴びて浮かび上がる。その白く豊かな乳房の奥には、乱れる鼓動と熱い情動が脈打っている。
終宵が目を閉じ、首を横に振る。子どもがむずがるような仕草がまた、小夜音には愛おしく映った。
「そうすればきっと、終宵さまも嬉しいでしょうから」
拒絶の言葉は吐かせない。それは小夜音の求めているものではない。小夜音のモノであるならば、これはすべて受け入れられるべきなのだから。
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