そして夜は華散らす

緑谷

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参章

其の三

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 それから二日後。
 東雲らは警察本部より指示を受け、第六階層第二外殻に帰還することとなった。

「そういえば」

 時刻は午後二時を少し過ぎた頃。目抜き通りの一角にある、昼食時の人波が引いたうどん屋の角席で、一日ひとひと東雲は遅い昼食を取っていた。ここの天麩羅うどんは絶品で、東雲はよく一日や他の部下をここに連れてきていた。

「何だって急に帰還命令が出たんすかね」

 冷たい天麩羅うどんをすすりながら、一日がふと声を漏らす。

「さあな」

 東雲は首を振り、揚げたての海老天に歯を立てる。さくり、と小気味よい音とともに衣を噛めば、海老の香りが鼻から抜ける。未だ熱い肉を独特の歯ごたえとともに咀嚼し、飲み込んでから続けた。

「どこぞに駆り出されていた第九階層の連中が戻ったんじゃないか? どこに行っていたのかは知らんが」

 海老天をもう一口かじってから、こしの強い麺をすすって噛みしめる。つゆがそんなに甘くないのがまたよい。一味唐辛子は香る程度にかけるのが東雲の好みだった。

 一日は分厚いかき揚げにかぶりつき、「ま、俺は嬉しいっすけどね」と口を動かしながら言う。行儀が悪い、とにらんでもどこ吹く風だ。

「俺はどーにも、あーいうとこは苦手っすよ。上層思考が見えてるとこっていうか、そういうところは息が詰まる」

 それからぬるまった緑茶を一息であおり、流し込んで続きを連ねる。意外にもその感想は東雲と似たもので、東雲も思わず嘆息して小さくうなずいた。

「……まったく同感だ」
「え、先輩もっすか? 奇遇っすねえ」

 へらりと力の抜けた表情で一日は笑う。笑うとどこか幼く見えるのも、女に騒がれる要員なのだろうな、と東雲は思った。

 しばらくそんな話を重ねているうちに、丼はすっかり空になっていた。ごちそうさま、と両手を合わせ、財布を取り出そうとしたとき、ふと東雲はあることを思い出す。前回も、前々回も、そういえばおごった記憶があるのだ。

「一日。今日は財布はあるのか」

 念のため一日に声をかける。

「ないっす。忘れました、先輩」

 そしてすがすがしいほどきっぱりと、後輩は言い切った。

「忘れたんじゃなくて、置いて来たんだろう」
「そうとも言いますねえ」

 まったく悪びれる様子はない。東雲は眉間のしわをさらに増やし、自分よりも高い位置にある後輩の甘い面をにらみ上げた。

 一日ひとひを飯に連れていくと、八割は財布を忘れるのである。最初は忘れっぽいのかとも思っていたが、どうやらこれはわざと置いてきているらしい。最近ではもはや態度を改めるつもりもないようで、堂々とたかることを公言する場合もある。しかしなぜか、そういうところも含めて憎めないのが、この後輩の強いところでもあった。

「……次はちゃんと持ってこい。飯に来る前に財布の有無を確認するからな」
「はーい」
 そう返事はしていても、また性懲りもなくやるに決まっている。何度目になるかもわからない嘆息を漏らし、東雲は財布を開いた。

 東雲と一日のもとに部下が駆けこんできたのは、昼食を終えて五分も経たぬころだった。

 何でもこの真昼間に殺人が起きたという。被害者はふたり、現場は西のもうひとつの目抜き通り、鶯大路うぐいすおおじから一本脇に入った路地だ。

 凶器は刃物、ひどい出血を伴っている――その言葉を聞いたほんの一瞬、東雲の脳裏に終宵の赤い瞳がよぎった。が、すぐに首を振って意識から追い出す。そうと決まったわけではないのだ。早とちりはよくない。

 一日とともに現場へ直行し、すぐさま周囲を封鎖する。暮邸で吐いていた新入りたちを人払いへ向かわせながら、東雲らも現場を検分した。

 若い男女がふたり。恋人同士だったのだろうか。どちらも抵抗したのか着衣が乱れ、荷物が散乱している。首と胸のあたりを何度も斬られ、あちこちに派手な血痕が残っていた。

「……先輩。これ、まさか」

 一日が眉を寄せて低くうめく。娼婦殺しから始まる連続殺人。それを疑っていることはすぐにわかった。

 東雲は横たわる死体へ目を落とす。首には小さな傷がいくつかと、深く入った傷がひとつ。右肩から左の脇腹にまで、大きく目立つ切創がある。そして体幹、特に鎖骨あたりに傷が幾重にも刻まれていた。

 喉を狙ったが届かず、抵抗するのを黙らせるために袈裟懸けに一太刀。今度は逃れようともがく相手をとらえきれず、結果的に何度も刃を入れたに違いない。もうひとりの死体も似たようなもので、傷口はひどいありさまだった。

 これまでとは明らかにやり方が違う。お粗末、とさえ言ってもいい。

「いや、奴とは違う」

 東雲は確信をもって否定した。
 凶器を振り回して被害者を傷つけ、抵抗し暴れるために何度も斬りつけた、が一番妥当な線だろう。あるいは、噂の殺人鬼のように一撃で仕留めようとしたがうまくいかなかった――という説も考えられる。

「例の事件に関連させるなら、これは模倣犯だ。傷口のありさまがまるで違う。奴は一撃で仕留める腕を持っている。こんなに傷を負わせたりはしない」
「模倣犯だとしたら、何だってそんな……」

 投げかけられる一日の問いに、東雲は判らぬと首を振った。

「真似をしても何にもなるまいに。愚かな」

 低く独り言ちる東雲に、一日も同意を示してひとつうなずく。ふたりはしばし犠牲者に黙とうを捧げ、現場の検証を再開した。


 長時間における聞き込みの結果、奇跡的に目撃情報を得ることができた。

 目撃した人物によれば、犯行時刻の少し前、男がひとり、現場の路地に入っていくのを見かけたという。目にしたのは後ろ姿だけで顔はわからないが、刀を持っていたのは間違いない。男はしばらくしてから路地から出てきて、足早に去った。頭から着物をかぶっていたそうだが、路地を往くときはそれを肩にかけていたそうだ。

 終宵よすがらかもしれない、という不安と焦燥、それを否定したい気持ちで胸が騒ぐ。東雲は目撃者に礼を言い、何か思い出したときのために連絡先を渡してから、男が歩き去った方面へと足を急がせた。

「まだそんなに時間は経っていない。なら、それほど遠くには行っていないはずだ」
「先輩、二手に別れましょ。しらみつぶしになっちまうがそのほうがいい」

 一日ひとひの提案に東雲もうなずく。一日は帽子をかぶり直すと、そのまま別方向へと駆けていった。東雲はそのまま通り沿いの店の従業員、住民などに聞き込みをし、男の足取りをたどっていく。

 やがて道は一本、二本と奥まっていく。最後の目撃情報から入った道は、夕刻にはまだ少しばかり早いというのに、薄暗くて人気がまるでなかった。

 建て増しされた家々の間を慎重に進む。この辺は比較的外側に近い。特に裏路地に入ってしまうと、途端に治安が悪くなり危険さが増す。中層に位置する第六階層といえど、そういう地域は今でも存在する。

 東雲は念のため、洋刀さーべるに手をかけながら周囲を捜索した。部下を連れてきてもよかったと、今更ながらに後悔する。

 と。突然ばらばらと人影が現れた。いたって普通の人間に見えるが、その手には各々武器を持っている。たとえば主犯格と思しき若い男の手には――刀。

「警察が嗅ぎ回ってるって聞いたけど、まさか一人とはなぁ? 歯ごたえねえぜ」

 男が嗤う。周囲の仲間も低く笑い声を立てている。東雲は一歩足を引くと、とっさに腰の銃へ手を伸ばした。

 警察はいかなるときでも、相手に能動的に攻撃してはならない。だが、威嚇で近くのものを撃つことは可能だ。それで怯んでくれれば。

 ――できるのか? 八年前の戦争で、仲間が襲われているにもかかわらず、人の命を奪う恐怖でろくに銃も撃てなかった自分が。誤って殺してしまうかもしれない、そう思うだけでこんなにも手が、指が、強張っているというのに。できるのか。無力で弱い、こんな自分に。

 身体がすくんだ。その瞬間に視界がぶれ、後頭部に痛みが走る。帽子が落ちるが、拾えない。膝をつく東雲の背に、さらに蹴りが入れられた。硬い石の床にしたたかに額を打ち付け、起き上がることができなくなる。

 頭が割れるように痛い。視界が揺れて何も見えない。吐き気がする。痛みと熱が拍動とともに流れだしていく。かすむ風景の中、点々と地に散る赤だけが鮮明だ。額からも後ろからも血が出ているらしい。

「くそ、しまった……」
「どうせだしよ、この警官ぶっ殺しとくかぁ? ほら、なあ、あいつらより楽しそうだろ?」
「これも連続殺人! ってなりゃありがてえ! なあ!」

 下卑た笑い声が重なっていく。やはりこいつらが犯人、それも模倣犯か。許すまじ、と身体を持ち上げるが、再度強く頭を殴られてそれもかなわない。

 ――自分はこんなにも無力だ。あのときの自分が許せなくて、変わるために警察に入ったのに。結局自分は何も変わらず、弱いままなのだ。

 常日頃、心のどこかに巣くっている虚無感が顔を覗かせる。拳を作って再び立ち上がろうとするも、嘲笑とともに背中を踏まれて動けなくなる。

 気絶してはいけない。東雲は唇を噛みしめ、奥歯を食いしばって痛みに耐えた。男たちがあざ笑う。脇腹に蹴りを入れられ、必死に背を丸めて腹部をかばう。


 とん。


 そんな小さな音が鳴ったのは、そのときだった。例えるならば、それは硬い靴底が、石を叩くような音。かすかだったそれはみるみるうちに近づいてくる。力強い足音となって、東雲のところに迫ってくる。

「ぎゃあ!」

 悲鳴が上がった。自分を踏んでいた男のものだ。東雲は目を見開き、はじかれるように身体を起こした。同時に視界に真紅が舞い散る。銀が躍り翻る。冴え冴えとした蒼銀が、遠く差し込む光を跳ね返す。

 男だ。宵闇の色の着流しに、白い鞘の刀の男。長い夜の髪をなびかせて、すぐさまひとりを斬り捨てた。慌てふためく男たちがめいめいに武器を振りかざす。腰を落とした乱入者が、肩から外套を脱ぎ捨てる。目にも鮮やかな、翡翠の色――軍の者がまとう、それ。

 まさか。こんなところに。どうして。なぜ。呆然と見つめる東雲を意にも介さず、男は男たちを圧倒していく。

「警察か!? 邪魔すんじゃねえ!」

 めちゃくちゃに刀を振り回す、その斬撃すらかいくぐり、するりと白刃が首を撫でる。それだけで、まるで吸い込まれていくように、鋼は肉の半ばまでを裂いていく。赫、紅、朱が散る。花のように、軽やかに。

 なおも向かってくる男たちを、舞うように斬る。斬る。斬っていく。喉を貫き、引き裂いていく。銀の軌跡に紅が絡む。斬られたことすら気が付かぬまま、男たちが命を散らす。

 静寂が訪れた。この場を満たすのは濃い血の臭いと、たたずむ男のわずかに乱れた呼吸音。そして東雲の無様にかすれた息ばかり。

 こんな風に戦うのか。彼は。こんな風に戦っていたのか。あの場所で。そう、同じ戦場に、彼は確かに存在していたのだ。さぞや近くにいた仲間たちは心強かったろう。

 東雲の全身を、形容しがたい衝動と感情が駆け巡る。震えているのは、人の命を奪うことにためらいすら見えなかった恐怖と、強さへの畏怖と――こんなに間近で〝彼〟の剣が見られたことに対する、確かな興奮と高揚だった。

「――中尉、殿」

 どうにか声を絞り出す。男は周囲を一瞥し、声の出所を探している風だった。

「中尉、どの」

 再度呼ばわる。男は確かな足取りで近くに寄ると、膝をついて手を伸ばした。

 果たして彼は東雲の予想通り、世見坂終宵よみさか・よすがらその人であった。
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