そして夜は華散らす

緑谷

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参章

其の二

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 現場に残された痕跡はすべて回収し、本部の専門調査機関へと送る。最近導入されたばかりの機関がどこまでしてくれるかはわからなかったが、やるべきことはやったはずだ。

 暮邸を後にする頃には、既に夕刻になっていた。部下たちは食事を取らせるために、先に寮へ戻らせている。東雲は単身でさらに聞き込みを行ったが、成果は想像通り芳しくはなかった。

 第九階層の第三外殻。【塔】の核とも呼ぶべき【針】に最も近い区画であり、富裕層ばかりが安全に暮らしているところでもある。

 建物の上に建物を作る状態の下層に比べ、金をかけて地盤を築く力のある上層部は、土地を確保し一軒家を建てる者が増えてくる。そこまで豊かではない者の住まう集合住宅ですら、下層の無法地帯のものとはまるで違う。強化された地盤に建てられ、すべて整備と管理が行き届いている。

 本来ならば、こんな凄惨な殺人など起きるわけもない場所である。いったいなぜ、事件は起きたのか。あの館で何が起きたのか。東雲は考え込みながらも寮へ歩を進めていた。

 現在滞在している西部総合駐在所の程近くに併設されている寮は、第三外殻のさらに内側への【門】のそばにある。

 ちなみに【門】の先には、各階層の中枢である【針】と、その内部に作られた〝役所〟の本部があり、他の階層の第三外殻へと続く関門と道路がある。

 第二外殻から別の階層に行くには、基本的に第一外殻からの【門】を通り抜け、外壁沿いの道を延々と上がるしかない。こちらも車や馬車を持っている者なら楽に往けるが、大抵の者は徒歩で向かう。上層に行くにつれて道は整備され、安全にはなっていくのだが、富裕層のほとんどは第三外殻の中にある一般列車を利用する。

 【針】の内部、関門に作られた特別列車は、金銭等のやり取りを含む正当な手続きを踏んだ上層階級人、あるいは手形の必要ない軍人・元軍人、警察官だけと決まっていた。

 しばらくは本部からの指示がなければ戻ることはできないだろう。そびえたつ鈍い銀色の建物を遠目に眺め、東雲は黙々と歩みを刻む。

 ここは中央の大通りに当たる。綺麗に磨かれた石畳を、洋装で着飾った貴族たちがゆったりと歩いていく。少しでも距離があれば、中央に敷かれた広い道を走る馬車や車に乗ればいい。ここはそういうところだった。

 価値観が違いすぎて、上層へ向かう仕事はどうにも慣れない。東雲は小さくため息をつくと、大股で貴族たちを追い越していく。

 【門】が見えてきた。その二本前の路地を曲がれば、すぐそこに警察寮がある。治安が整っているからこそ、いわゆる裏路地も煌々と灯りがつけられ、危険なことはない。

 ふと、一本向こうの路地に目を向けたのは本当に偶然だった。向こう側にこぼれる光の中を、ふわりと横切る夜の色が見えた。

 長い髪、腰には刀、翡翠の裏地の外套を肩にかけた男。左足を少しだけ引きずって歩いている。東雲の記憶に刻まれているのと、ほとんど変わらぬ姿がそこにあった。

 東雲の足は、そちらへと向いていた。速足になり、駆け足になり、その背中に追いすがる。

「中尉! 失礼ながら、世見坂よみさか中尉とお見受けいたしますが!」

 とっさに東雲の口をついた言葉に、男の足がひたりと止まる。それから彼は、髪を肩へ流しながら振り向くと、柔らかく苦笑した。

「最近はどうにも、昔の地位で呼ばれることが多いな。……いかにも、やつがれが世見坂だ。今はもう中尉ではないがな」

 ああ、やはりこの人が。東雲の心がふいにざわついた。

 身長は東雲と同じぐらい。深い紫紺の着流しに、洋袴ぱんつと軍靴をまとっている。肩には翡翠の裏地の黒い外套、軍で少尉以上に支給されるものを羽織っていた。細身に見えるが、無駄な肉がついていないだけで、その身は鋭く研ぎ澄まされている。しなやかな腰に佩かれた刀は、あの頃軍から支給されたものとまったく同じだ。

 ぴんと伸びた背筋とたたずまいに、薄く開かれた真紅の眼。視力と左足を失ったとは到底思えない。だが、透明すぎるその双眸と、地面を踏みしめた際にふと聞こえた金属の軋みは、確かに彼の身より失われたものを裏付けていた。

 世見坂終宵よみさか・よすがら。八年前、外国からの侵略戦争において、ただひとりで千の軍勢を斬り殺したとされる男。国を守るために命を賭して戦い、卑劣な罠によってその身を傷つけられた、不遇の英雄。

 東雲は帽子を脱いで胸に抱え、姿勢を改めた。

「退役後に行方がわからくなっていたと聞いておりましたが、まさかこんなところにおいでとは……お会いできて光栄です、中尉」

 しかし終宵は苦笑を深め、緩やかに首を横に振った。

「すまぬが、その【中尉】はよしてくれないか。やつがれはただの死にぞこないにすぎぬし、今も生きているとは到底思えぬのだ」

 そう言って、彼は静かに瞼を閉じる。もしかしたら、気分を害してしまったかもしれない。東雲は深々と頭を下げ、非礼を詫びた。

「申し訳ございません。以後気を付けます」
「いや、いい。……それで、君は?」
「は! 失礼いたしました」

 東雲は背筋を伸ばし、姿勢を正して敬礼する。

「自分は東雲一等巡査、警官です。元は第十二部隊突撃班所属、地位は伍長でした」

 言いながら、東雲は再び脳裏をよぎる当時の記憶に意識を向ける。

 文字通り敵部隊に突撃し、真っ先に戦力を削る役目を担う突撃班は、あの戦争でもっとも犠牲者を出した。味方が次々と死んでいく中、士官学校を出て間もなかった東雲は、己の無力感を噛みしめながらも必死であがいていた。

「突撃班……そうか、そうだったか」

 終宵もその話を聞き及んでいたのだろうか。手を持ち上げ、さまよわせる。東雲がためらいつつも手を伸べれば、終宵の指先が東雲の手に触れた。

 確かめるようになぞっていた彼の手は、やがて東雲の手を強く握りしめた。

「よくぞ生き残っていてくれた……」

 噛みしめるように、慈しむように紡がれた声に、東雲の胸にも熱いものがこみあげてくる。

「前線はまさに地獄でした。そんな中で伝え聞く、中尉のご活躍だけが自分らの心の支えでした。あなたのおかげで、自分は生きられた。ここに自分が立っているのは、あなたのおかげなのです」

 誰もが、その一騎当千に値するだろう彼の戦の様を聞き、銃弾と爆薬にさらされながらも己を鼓舞していた。世見坂中尉の鬼神のごとき強さは、確かに自分たちを生かしていたのだ。

 だが――目の前にいるかつての英雄は、自嘲気味に微笑むとまた首を緩く横に振った。

「……買いかぶりすぎだ。君がここに立っているのは、君自身の力にほかならぬ。やつがれはただ、己のために戦っていたにすぎんよ」

 それでも、東雲には十分だった。握られた手を握り返し、小刻みに震える手を包み込む。

「中尉がどのような理由で戦っていたにせよ、それで多くの者が勇気づけられたことは事実です。自分も、亡くなった他の者たちも、皆」

 そう口にしたとき、彼はほんの少しだけ切ない顔をした。泣きそうな、どこかつらそうな表情で微笑むと、そっと手を放す。

「……すまぬな。ありがとう」

 一歩、下がる。ちゃ、と小さな金属音。それで東雲は我に返る。そうだ。聞きたいことがあったのだ。

「ところで世見坂……殿。この近くにある暮輝彦氏のお宅にいらしたと聞いたのですが、あの場所で殺人があったことをご存知ですか?」

 終宵は、めしいた眼をかすかに見開き、息をのんだ。はらりと一筋、驚愕を浮かべた表情に髪がかかる。

「……なぜ、やつがれに?」

 そう問う声は、わずかに震えてかすれていた。何かを知っている――それは東雲の直感だった。

「あの場所にいた二十人、全員が殺害されていたのです。護衛の貴殿だけがいないことを、部下が覚えていまして。……何かご存知ですか」

 重ねて問いかける。手がかりを得たいという急いた気持ちと、この人であってくれるなという焦燥にも似た祈りがせめぎ合って、詰問調になってしまったのは否めない。

 終宵が沈黙する。静けさに沈黙が溶けてのしかかってくる。人々のざわめきが遠い。【門】の向こうでせわしなく、列車の動く音がする。

「……喉が、」

 やがて終宵が言葉を落とした。それは、一本向こうの大通りの喧騒にすら紛れてしまいそうなほど、わずかに通る風にさらわれてしまいそうなほど、低く沈んだものだった。

「渇いていたから、……どうしても」

 絞り出すようなそれの意味を測り兼ね、東雲が片眉を持ち上げた、そのとき。

 【門】の向こうで鐘が鳴った。ひとつ、ふたつ、みっつ。下層往きの列車が出る前の合図だ。終宵がはじかれたように振り返る。おそらくこれを逃したら、今日の移動はできなくなる。

「すまぬ、時間が……」

 終宵が一歩、身を引いた。このままでは何もかも中途半端になってしまう。

「待ってください、もう少し話を!」

 とっさに引き留めようとして、気づく。警察の寮には部外者を入れることができない。かといって、今部外者滞在の許可を上司に求めている時間はない。その間彼を外で待たせるわけにもいかない。この辺の旅館は貴族の御用達で、飛び込みで泊まることは困難だ。その間彼を路頭に迷わせるわけにもいくまい。

 どうしたらいい。東雲は焦りに奥歯を食いしばり、言葉を探す。黙り込む東雲に何かを察したのか、終宵はわずかにためらってから低く、言った。

やつがれはこれから第六階層へ戻る。しばらくは第二外殻の東側にいるだろうから、どうか僕を探してはくれぬか」

 滞在場所を明かさないことに強い違和感を覚えたが、東雲にはそれ以上追求することはできなかった。

「わかりました。……探します。貴殿を」

 東雲の返事に小さくうなずき、終宵が踵を返して駆けていく。闇を吸い取ったような髪がなびく。外套の翡翠が翻り、迷いのない足取りで彼は夜道をひとり往く。その背を見送る東雲の胸には、わだかまる疑問だけが残された。

 時機が悪かった、というだけではないだろう。彼は明らかに何かを知っている様子だった。それ以上にわからないのは、彼のつぶやいた言葉の意味。喉が渇くなど、誰だって起こりえることだ。ならばなぜ、彼はあんな顔をした? いったい彼は現場で何を〝感知した〟のか。

 内壁に、翡翠色の光が奔る。【門】が開く。鐘が鳴る。ひとつ、ふたつ、みっつ。発車の合図が鳴り、再び【門】は閉ざされた。


 しばらくの間、東雲はその場にたたずんで【門】を眺めていたが、終宵は戻ってはこなかった。無事に乗れたに違いない。知らず詰めていた息を吐き、寮へと再び足を向ける。

 白塗りの建物は、夜でも非常によく目立つ。西洋風の両開きの扉は黒檀製で、丁寧に飾り彫りがなされ磨かれている。戸口に大きく掲げられた地光紋が、灯りに照らされ鈍い金の光を放っていた。

 細く戸を開け、東雲は中へと滑り込む。右手には二階へ上がる階段、目の前には長く伸びる廊下が横たわり、入ってすぐ左には小さな談話所がある。外装こそ白石が使われているが、内部は木造だ。使い古された木特有の落ち着いた色合いに、手が触れ足が行き来するところは独特の艶が刷り込まれていた。

 ちなみに廊下の先は大き目の座敷になっていて、派遣された人員が短期滞在をする際はここを使うようになっている。

 使い古された長椅子には、意外にも一日が待っていた。傍らには灰皿、口元には細めの紙巻き煙草。椅子の上には無造作に帽子が放置されている。

「あ、先輩。おかえりっす」

 一日ひとひは煙草を灰皿に押し付けて消しながら、「ほかの連中は二階っすよ」と続ける。それから立ち上がってひとつ伸びをし、奥にある引き戸を指さした。

「新人どもはみんな休んでます。まあ、飯食えるような状態じゃあないっすね」
「だろうな」

 死体に初めて直面する新人はみんな通る道である。ましてや、あんな状況では無理もあるまい。東雲は深くかぶっていた帽子を脱ぎ、ひとつ息をついた。

「それで、どうでした? 護衛の旦那は見つかりましたかね」

 そして投げかけられた問いかけに、東雲はわずかばかり逡巡し――

「……それらしき人物は見かけたが、追い付けなかった」

 短く、返した。

 なぜそう答えたのか、自分でもよくわからない。終宵から直接聞き出すまでは、憶測を伝えまいとしたのか。それとも、胸中に焦げ付きくすぶっている不穏な予感を否定しようとしたのか。あるいはその両方か。

「そうっすか……」

 一日は目に見えて落胆し、茶色みが強い髪を乱暴にかき混ぜる。

「……すまん」
「いや、いいっすよ。先輩のせいじゃないっすから」

 そう言って大きく深呼吸すると、一日は勢いよく立ち上がった。帽子を手に取り、くるりと回して頭に乗せる。

「それで、行き先とか聞けました?」
「あ、ああ。第六階層へ向かうと、係員が聞いていたそうだ」

 またとっさに嘘をつく。あながち嘘とも言い切れないところが、妙な罪悪感を呼び起こした。

「第六階層っすか。俺たちの管轄内じゃないすか。帰還後に探せるかもしれないっすね」

 どうかやつがれを探してはくれないか。そう告げた終宵の、夜のごとき姿を思い出す。更夜の空気をまとうその姿は、やはりあの時とほとんど変わりなかった――否、あの頃よりもずっと穏やかに見えてはいたが、まるで使い込まれて研ぎ澄まされた刀のように、独特の艶と鋭さを持っていた。

 彼があの場にいたときに、果たして何が起きたのか。彼はそのときに何をしていたのか。知る必要がある。そして証明しなければならない。かつての英雄が、二十人もの命を奪った殺人鬼なのか否かを。

「……そうだな」

 東雲は低く答えを返し、一日に促されるまま階段へと足をかけた。
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