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終章
終話
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意識が、急速に浮上する。深い深い水の中から抜けだすように、覚醒は唐突に訪れた。
眠りの水面に到達した一日は、目を開けて身体を跳ね起こす。埃が巻き起こって喉を刺し、咳き込みながらも辺りを見回す。
洋灯は消えていた。古びた木造の家屋に、人の気配はない。胸につけられた傷は、疼くような痛みを放っている。薬が切れ始めているのだろうか。手で触れてみれば、はだけられたままのそこには乱雑に包帯が巻いてあった。傷口が開いたりしている様子はない。
そうだ。赤毛の医者がここにいて、治療をしていたのだ。自分と、世見坂をここへ連れてきた。世見坂と話したいと言ったら、急に眠気が襲ってきて――それから先の記憶がない。
一日は痺れの残る身体を起こし、慌てて腰掛けから立ち上がる。突如体重をかけられた床が、非難がましく軋んだ。
薄汚れた扉を押し開ける。鍵はかかっていなかった。つんと鼻をつく臭いに混じり、鉄錆の臭いが流れてくる。
部屋の中央には年季の入った寝台……のようなものが置いてある。一見綺麗に思えたが、そのあちこちに拭いた痕のような汚れが残っている。周辺の床も同様で、特に台の右側は未だ血臭いが濃く漂っていた。
端に設置された机もわずかに湿っている。ここも何かで使ったのだろうが、処置で使われたと思しきものは何一つなかった。
誰もいない。ここに誰かがいた痕跡はあるのに。一日は小さく歯噛みしながら、隣の部屋の扉を開ける。こちらも薄汚れた机と椅子があるばかりで、もぬけの殻だった。
「くそっ……!」
やられた。逃げられたのだ。自分が気絶している間に。もしかしなくともあの医者に、一服盛られたのかもしれない。一日は思わず毒づきながら壁を殴りつけた。めき、と嫌な音がして、慌てて手を引っ込める。ぼろぼろになった壁が、ちょっとだけ不自然にへこんでいる。この様子だと閉院して久しいようだし、少々目をつむってもらおう。
一日はその後も診療所を調べて回ったが、彼らの姿はおろか、彼らのいたという証拠はすっかり消えてしまっていた。諦めて外に出たのは、徐々に周囲が明るくなり始めてきた頃。遠く遠く、どこからともなく忍び寄る朝の冷気に、一日は身を震わせ衣服を整えた。
結局何も得られなかった。正義の名のもとに捕らえようとしても、真実を知りたいと願っても、結局この手は届くことなく空を切る。
もっとも、正義が何かなんて、自分にはわからない。東雲の言うこともある種の正義なのだろうし、不夜城の示す救いの手もひとつの正義なのだろう。結局のところ、それらはひどく曖昧で不確かなものなのかもしれない。
だからこそ、この宿り木のような脆く不安定な【塔】が、国が、うまく動くための手段として法が定められており、それに違反した者を取り締まるのが警察の役目となっている。
消えたふたりの行方を探さねばならない。真実を聞き出し、すべてを白日にさらしたうえで、公正な法の裁きを受けるよう説得しなければ。
あの医者がかなり曲者だが、最悪実力行使すればどうにかなるだろう。……あまりやりたくはないが。
そんなことを考えながら、急ぎ足で来た道を戻っていく。派出所に近づいていくにつれて、周囲をあわただしく行き来する警官の姿が増えてきた。
「おい、シロ! お前、今までどこへ行っていたんだ!」
東雲の後任の卯刻一等巡査が、一日を見るや声をあげる。いかつい顔をさらに厳しくしているが、怒っているわけではなく心配していたようだ。
「すんません、少し気になることがあって、持ち場を離れてました」
一日は身体を縮めて謝罪をし、慌てて服の乱れを確かめる。どのみち隠したところで、血の汚れなどは一切そのままだから、気が付かれるのも時間の問題ではあるが。
「あの、卯刻先輩。何かあったんすか?」
「何かも何も、東雲だ!」
上司は悔し気に歯ぎしりしながら足を踏み鳴らす。
「我々もお前の報告を受け、すぐさま現場に向かったのだ。だが、大量の血の跡こそ見受けられたが、肝心の東雲がいなかった! 今周辺を捜索させているところだ!」
東雲が、逃げた。いくら手当されたとはいえ、そんな状態じゃなかったはず。あの人は、いったいどこへいったんだ。呆然とする一日に、卯刻は嘆息して言葉を続ける。
「それだけじゃない。つい先ほど、元軍人の小説家先生が殺されていたのが発見された。焼死体だが、遺体には刀傷が見つかったんでな。ついでに、同居していた男の行方は知れん。殺人事件ということで併せて捜査を行なっている。お前も捜索に加われ」
そこに住んでいたのは元軍人。死体には刀傷。つい二日前に殺されたのは、現役の軍人だった。そして同居していた男は失踪。まさか――これも何か関係しているのではないか?
「卯刻先輩。……その、同居していた男、っていうのは」
「ああ。世見坂終宵、とかいう名前だそうだ」
――やはりそうだったか。
胸に刻まれた傷が疼いた。燃えるように熱いそこに手を置き、歯を食いしばって耐える。
と、そこに別の警官が駆け付け、目の前の上司へ敬礼する。どうやらここ、第八階層にもともと務めていた警官らしい。
「卯刻一等巡査! 本部より調査結果が届きました!」
警官は一日を一瞥すると、手にしていた紙片へ目を落とす。どうやら本部からの情報を走り書きしたもののようだ。一日も耳をそばだて、息を詰める。
「失踪していた世見坂終宵は、先ほど死亡が確認された模様です!」
――そして耳を、疑った。
「死んだ……!? 嘘だろ!? それ、ちょっと見せてくれ!」
思わず声をあげる一日に、警官が訝し気な目を向ける。卯刻も一日を落ち着かせるように肩を叩くが、一日はそれを無視して紙片をひったくった。
何度確かめたところで結果は同じだった。世見坂終宵元中尉――死亡。
「そんな、馬鹿な……」
力が抜ける。今まで追いかけてきた相手が、つい先刻刃を交えた男が、死んだなんて。そんなことがあってたまるか。
いや、あの医者はあのとき、処置が成功したとも何も言ってなかった。意識が完全に戻っていない、としか口にしていなかったのだ。もしもそれが、命を落とす直前で、意識が混濁した状態だったとしたら。
思考が止まる。何も考えられなくなる。いったいこれはどうすればいい。もっとも有力な犯人が、まさか。そんな。どうして。
放心状態の一日の背中を、強い力が殴りつける。よろめく一日に向けられたものは、
「おい、シロ! 余計な詮索はせんでいい! いいか、今はやれることをやるぞ」
東雲と肩を並べてきた、もうひとりの一等巡査の、力強い言葉だった。
「……はい」
一日は帽子をかぶり直し、痛みを押さえてうなずく。
とにかく今は、できる限りのことをしよう。その後改めて方針を見定めればいい。情報を整理し、今回手に入れた情報の断片をかき集めて――真実を、知ろう。そう思った。
* * *
『貴殿を以下の理由により、本日付けにて懲戒免職処分とする』
「――は?」
一通りの捜査を終え、上司らとともに第八階層の駐在所へと戻った一日を待ち受けていたのは、本部より一方的に通達された、懲戒免職の辞令であった。
もっともらしいことが並べ立てられていたが、要するに「終わった事件をほじくり返すな」「余計な詮索をするな」「それで勝手に団体行動を乱している」「言われたことをしないからお前はクビだ」と、そういうことらしかった。
通達を預かっていたという事務員は、好奇心を隠せぬ目で一日を見ている。一日は嘆息して封書を握り、上司のもとへと向かった。
視線をあげる卯刻一等巡査に封書を差し出し、
「俺、懲戒免職だそうっす」
と笑ってみせる。訝し気に封書を受け取った卯刻は、中身に目を通すと頭を掻いた。
「突然だな、おい。お前はそれでいいのか?」
「心当たりは、まあ、なくはないんで」
問われた一日は肩をすくめ、苦笑する。
おそらく、仕事の合間に調べていた連続殺人のことや聞き込み調査が、上層に知られていたのだろう。それに加えて今回のこと――つまり、長時間持ち場を離れて単独で行動したことが見咎められ、解雇に至った。要するに、すでに終わったこととして片づけたはずの事件の周囲でうろちょろする一日が邪魔になった、ということか。もっとも、これも一日から見た憶測と推測でしかないのだが。
こんなのは理不尽が過ぎる。納得なんてできるわけがない。だが、一介の、たかが三等巡査がどうこう言えるようなことではない。下っ端が上の命令に逆らえるはずもないのだ。
しかし、こうも考えられる。もう立場に縛られることなく、自由に調べることができる。何者に咎められることもなく、心置きなく追いかけることができる、と。
拳を固め、一日はひとつ、大きく、深く、息を吸った。
「お世話に、なりました」
頭を下げる。卯刻は目を閉じ、嘆息してから腕を組む。
「……とどまりたいって言うなら上司に掛け合おうと思ったが。そう言われちゃ、俺には止められんな」
卯刻は、東雲の調べていた事件について一日がもう一度洗い直していることを知っていた。そのうえで、さりげなく一日が動きやすいよう後押ししてくれた、数少ない協力者だった。
「くれぐれも、無茶はするなよ。東雲じゃないが、お前もこうと決めたら周りが見えなくなる性質だからな」
「先輩に言われたくはないっすね」
「何をぅ、こいつめ」
小突かれた。痛い。この場に東雲がいたら、呆れて「ふたりとも何をしているんだ」と言われていたに違いない。
ほんの少し前までは日常だったやり取りも、今はもう、遠い過去になってしまった。東雲はもうここにはいない。一日も今日、ここを去る。
「……では、失礼します」
踵を返し、歩いていく。後ろはもう、振り返らない。
第六階層の部署に戻ると、話はもういきわたっていたらしく、方々から声がかかった。曖昧に笑って返事をし、書類を書いて机を整理、挨拶してから外へ出る。
隣にある寮の自室は、散らかしっぱなしではあるけれど、荷物はそんなに多いほうじゃない。片付けはすぐに済んだ。すぐに必要のない荷物は、第七階層にある実家に送る手続きをする。ちなみに実家にはまだ報告していない。どうすべきか悩ましいが、まあ、あとで決めよう。
制服と銃、洋刀を返却し、すべての手続きは完了した。退職の手続きなんて、案外あっけないものだ。足りないところがあれば、あとで連絡が入るだろう。
大きな荷物を抱えながら、一日は中央通りを歩いていく。久方ぶりの袴は少し動きにくい。あとで洋袴でも買っておこうか。何だかんだで金はある。ここ最近働きづめだったし、しばらく何もしなくても生きていけるだけの額は蓄えてあるはず。
店先で見かける新聞の見出しには、現役軍人殺しを報せるものだ。これから続けて元軍人が死んだとなったら――しかも今をときめく流行りの小説家が死んだとなったら、それこそ上へ下への大騒ぎになるかもしれない。
そんなとりとめもないことを考えながら、一日はぼんやりと歩を運ぶ。いったん実家に戻ってから、やるべきことを整理しようか。
その、瞬間。
甘い香りが、鼻先をかすめた。花のような、果物のような。そのどちらでもあるようで、そのどちらでもないような。甘くかぐわしい、官能的な匂いが、した。
視界の端で、長い長い髪が散る。夜の闇で濡らしたような、青みと艶を含む見事な黒。墨染の着流しに黒の洋袴という妙な出で立ち、ちらりと裾から覗く襦袢は深紅。靴は傷だらけの軍靴だった。腰には緋色の帯を締め、上から皮の剣帯をかけている。白鞘の刀だけが、暗い色合いの中で眩しい。
振り向いた。男、だった。肩に掛けた黄昏の羽織、裾には蝶と彼岸花。右腕のあるべきその場所は空っぽで、ただ袖が揺れている。
左目を隠すように巻かれた包帯と、あまりにも鮮やかな紅玉の眼。見えぬはずの眼差しは、しかし一日を確かに映す。
人混みの中、くっきりと浮かび上がるその姿に、一日は思わず立ち止まる。腕を斬り落としたときの生々しい感覚が、手のひらに鮮やかによみがえる。
――死んだはずの、人斬りが。
――世見坂終宵が、そこにいた。
思考が止まる。見つめあう。世見坂がふと、淡く笑んだ。それはひどく穏やかな、何かを諦めたような笑みだった。
人波の中に飲み込まれていく。流されて消えていく。ふわりと着物の裾が翻る。逃げる。逃げる。逃げていく。
「ま、待て!」
慌てて声をあげ、一日はその背を追いかけた。向かう先は、中央へ続く【門】。その前で、男がひとり待っている。ずいぶんと大荷物の白衣の男。あれは医者の不夜城か。
「どこへ行くんだ!! 待ってくれ、聴きたいことがあるんだ!! 止まれ!!」
必死で声を張りあげる。世見坂は止まらない。目が見えないくせに小走りだ。一日は荷物を放り出して速度を上げた。
あと少し。あと少しで手が届く。【門】に翡翠の光が走る。光が組み合い、絡み合い、二人分の扉が開く。今の一日では、通れない――。
腕を伸ばした。絹糸の髪が指をすり抜ける。つかもうと折りたたむ指には、手には、何も残らない。
不夜城がこちらを一瞥し、ひらりと手元の紙切れを示してみせた。あれは確か、別の【塔】へ行くための切符だ。
青い切符。西南のほうへ往くつもりなのか。来いと、いうことか。知りたいならば、追ってこい、と。
立ち止まる。息が乱れる。苦しい。世見坂の、緋色の眼がこちらを見た。獣の双眸がふと細められ、どこか寂し気に微笑んだ。どうしてそんな顔をする。どうして。
胸が絞まる。息が上がる。汗が伝う。翡翠の光は消え去って、扉が音もなく閉ざされた。
「……西南」
西南に向かうというならば、行き先はいくつか絞られる。直近の【塔】といえば西月京だが、南風京から海を渡っていく可能性もある。
真実が知りたい。この、人斬りの起こした顛末を。その理由を。真相を。それからどうするか、決めてもいい。
……魅入られているのかもしれない。それでも、今はかの人斬りの握るソレを暴きたかった。
荷を拾い上げ、一日は再び【門】を見上げる。起動用の石に手を当てたとしても、もうこの扉は一日には反応を返さない。
いろいろと、不便になることは間違いない。各地を歩き回るなら、身軽でいないといけないだろう。最低限必要なものだけ持って、現地で調達することになるかもしれない。
自分なんかにできるだろうか? いや、やらねばならない。夜の化身のような男に、本当のことを聞くまでは。
今日中には出発したい。両親への説明は後回しだ。やるべきことができた。それだけ言えばいい。
遠く遠くで、鐘が鳴る。背後で人々が行き交う中から、誰かの気配を感じ取り、一日は肩越しに振り向いた。しかしそこには誰もいない。
【門】のそばの詰所へ向けて、一日は大股で歩き出す。遠く、【門】のさらに内側のほうから、高らかに汽笛が鳴り響いた。
眠りの水面に到達した一日は、目を開けて身体を跳ね起こす。埃が巻き起こって喉を刺し、咳き込みながらも辺りを見回す。
洋灯は消えていた。古びた木造の家屋に、人の気配はない。胸につけられた傷は、疼くような痛みを放っている。薬が切れ始めているのだろうか。手で触れてみれば、はだけられたままのそこには乱雑に包帯が巻いてあった。傷口が開いたりしている様子はない。
そうだ。赤毛の医者がここにいて、治療をしていたのだ。自分と、世見坂をここへ連れてきた。世見坂と話したいと言ったら、急に眠気が襲ってきて――それから先の記憶がない。
一日は痺れの残る身体を起こし、慌てて腰掛けから立ち上がる。突如体重をかけられた床が、非難がましく軋んだ。
薄汚れた扉を押し開ける。鍵はかかっていなかった。つんと鼻をつく臭いに混じり、鉄錆の臭いが流れてくる。
部屋の中央には年季の入った寝台……のようなものが置いてある。一見綺麗に思えたが、そのあちこちに拭いた痕のような汚れが残っている。周辺の床も同様で、特に台の右側は未だ血臭いが濃く漂っていた。
端に設置された机もわずかに湿っている。ここも何かで使ったのだろうが、処置で使われたと思しきものは何一つなかった。
誰もいない。ここに誰かがいた痕跡はあるのに。一日は小さく歯噛みしながら、隣の部屋の扉を開ける。こちらも薄汚れた机と椅子があるばかりで、もぬけの殻だった。
「くそっ……!」
やられた。逃げられたのだ。自分が気絶している間に。もしかしなくともあの医者に、一服盛られたのかもしれない。一日は思わず毒づきながら壁を殴りつけた。めき、と嫌な音がして、慌てて手を引っ込める。ぼろぼろになった壁が、ちょっとだけ不自然にへこんでいる。この様子だと閉院して久しいようだし、少々目をつむってもらおう。
一日はその後も診療所を調べて回ったが、彼らの姿はおろか、彼らのいたという証拠はすっかり消えてしまっていた。諦めて外に出たのは、徐々に周囲が明るくなり始めてきた頃。遠く遠く、どこからともなく忍び寄る朝の冷気に、一日は身を震わせ衣服を整えた。
結局何も得られなかった。正義の名のもとに捕らえようとしても、真実を知りたいと願っても、結局この手は届くことなく空を切る。
もっとも、正義が何かなんて、自分にはわからない。東雲の言うこともある種の正義なのだろうし、不夜城の示す救いの手もひとつの正義なのだろう。結局のところ、それらはひどく曖昧で不確かなものなのかもしれない。
だからこそ、この宿り木のような脆く不安定な【塔】が、国が、うまく動くための手段として法が定められており、それに違反した者を取り締まるのが警察の役目となっている。
消えたふたりの行方を探さねばならない。真実を聞き出し、すべてを白日にさらしたうえで、公正な法の裁きを受けるよう説得しなければ。
あの医者がかなり曲者だが、最悪実力行使すればどうにかなるだろう。……あまりやりたくはないが。
そんなことを考えながら、急ぎ足で来た道を戻っていく。派出所に近づいていくにつれて、周囲をあわただしく行き来する警官の姿が増えてきた。
「おい、シロ! お前、今までどこへ行っていたんだ!」
東雲の後任の卯刻一等巡査が、一日を見るや声をあげる。いかつい顔をさらに厳しくしているが、怒っているわけではなく心配していたようだ。
「すんません、少し気になることがあって、持ち場を離れてました」
一日は身体を縮めて謝罪をし、慌てて服の乱れを確かめる。どのみち隠したところで、血の汚れなどは一切そのままだから、気が付かれるのも時間の問題ではあるが。
「あの、卯刻先輩。何かあったんすか?」
「何かも何も、東雲だ!」
上司は悔し気に歯ぎしりしながら足を踏み鳴らす。
「我々もお前の報告を受け、すぐさま現場に向かったのだ。だが、大量の血の跡こそ見受けられたが、肝心の東雲がいなかった! 今周辺を捜索させているところだ!」
東雲が、逃げた。いくら手当されたとはいえ、そんな状態じゃなかったはず。あの人は、いったいどこへいったんだ。呆然とする一日に、卯刻は嘆息して言葉を続ける。
「それだけじゃない。つい先ほど、元軍人の小説家先生が殺されていたのが発見された。焼死体だが、遺体には刀傷が見つかったんでな。ついでに、同居していた男の行方は知れん。殺人事件ということで併せて捜査を行なっている。お前も捜索に加われ」
そこに住んでいたのは元軍人。死体には刀傷。つい二日前に殺されたのは、現役の軍人だった。そして同居していた男は失踪。まさか――これも何か関係しているのではないか?
「卯刻先輩。……その、同居していた男、っていうのは」
「ああ。世見坂終宵、とかいう名前だそうだ」
――やはりそうだったか。
胸に刻まれた傷が疼いた。燃えるように熱いそこに手を置き、歯を食いしばって耐える。
と、そこに別の警官が駆け付け、目の前の上司へ敬礼する。どうやらここ、第八階層にもともと務めていた警官らしい。
「卯刻一等巡査! 本部より調査結果が届きました!」
警官は一日を一瞥すると、手にしていた紙片へ目を落とす。どうやら本部からの情報を走り書きしたもののようだ。一日も耳をそばだて、息を詰める。
「失踪していた世見坂終宵は、先ほど死亡が確認された模様です!」
――そして耳を、疑った。
「死んだ……!? 嘘だろ!? それ、ちょっと見せてくれ!」
思わず声をあげる一日に、警官が訝し気な目を向ける。卯刻も一日を落ち着かせるように肩を叩くが、一日はそれを無視して紙片をひったくった。
何度確かめたところで結果は同じだった。世見坂終宵元中尉――死亡。
「そんな、馬鹿な……」
力が抜ける。今まで追いかけてきた相手が、つい先刻刃を交えた男が、死んだなんて。そんなことがあってたまるか。
いや、あの医者はあのとき、処置が成功したとも何も言ってなかった。意識が完全に戻っていない、としか口にしていなかったのだ。もしもそれが、命を落とす直前で、意識が混濁した状態だったとしたら。
思考が止まる。何も考えられなくなる。いったいこれはどうすればいい。もっとも有力な犯人が、まさか。そんな。どうして。
放心状態の一日の背中を、強い力が殴りつける。よろめく一日に向けられたものは、
「おい、シロ! 余計な詮索はせんでいい! いいか、今はやれることをやるぞ」
東雲と肩を並べてきた、もうひとりの一等巡査の、力強い言葉だった。
「……はい」
一日は帽子をかぶり直し、痛みを押さえてうなずく。
とにかく今は、できる限りのことをしよう。その後改めて方針を見定めればいい。情報を整理し、今回手に入れた情報の断片をかき集めて――真実を、知ろう。そう思った。
* * *
『貴殿を以下の理由により、本日付けにて懲戒免職処分とする』
「――は?」
一通りの捜査を終え、上司らとともに第八階層の駐在所へと戻った一日を待ち受けていたのは、本部より一方的に通達された、懲戒免職の辞令であった。
もっともらしいことが並べ立てられていたが、要するに「終わった事件をほじくり返すな」「余計な詮索をするな」「それで勝手に団体行動を乱している」「言われたことをしないからお前はクビだ」と、そういうことらしかった。
通達を預かっていたという事務員は、好奇心を隠せぬ目で一日を見ている。一日は嘆息して封書を握り、上司のもとへと向かった。
視線をあげる卯刻一等巡査に封書を差し出し、
「俺、懲戒免職だそうっす」
と笑ってみせる。訝し気に封書を受け取った卯刻は、中身に目を通すと頭を掻いた。
「突然だな、おい。お前はそれでいいのか?」
「心当たりは、まあ、なくはないんで」
問われた一日は肩をすくめ、苦笑する。
おそらく、仕事の合間に調べていた連続殺人のことや聞き込み調査が、上層に知られていたのだろう。それに加えて今回のこと――つまり、長時間持ち場を離れて単独で行動したことが見咎められ、解雇に至った。要するに、すでに終わったこととして片づけたはずの事件の周囲でうろちょろする一日が邪魔になった、ということか。もっとも、これも一日から見た憶測と推測でしかないのだが。
こんなのは理不尽が過ぎる。納得なんてできるわけがない。だが、一介の、たかが三等巡査がどうこう言えるようなことではない。下っ端が上の命令に逆らえるはずもないのだ。
しかし、こうも考えられる。もう立場に縛られることなく、自由に調べることができる。何者に咎められることもなく、心置きなく追いかけることができる、と。
拳を固め、一日はひとつ、大きく、深く、息を吸った。
「お世話に、なりました」
頭を下げる。卯刻は目を閉じ、嘆息してから腕を組む。
「……とどまりたいって言うなら上司に掛け合おうと思ったが。そう言われちゃ、俺には止められんな」
卯刻は、東雲の調べていた事件について一日がもう一度洗い直していることを知っていた。そのうえで、さりげなく一日が動きやすいよう後押ししてくれた、数少ない協力者だった。
「くれぐれも、無茶はするなよ。東雲じゃないが、お前もこうと決めたら周りが見えなくなる性質だからな」
「先輩に言われたくはないっすね」
「何をぅ、こいつめ」
小突かれた。痛い。この場に東雲がいたら、呆れて「ふたりとも何をしているんだ」と言われていたに違いない。
ほんの少し前までは日常だったやり取りも、今はもう、遠い過去になってしまった。東雲はもうここにはいない。一日も今日、ここを去る。
「……では、失礼します」
踵を返し、歩いていく。後ろはもう、振り返らない。
第六階層の部署に戻ると、話はもういきわたっていたらしく、方々から声がかかった。曖昧に笑って返事をし、書類を書いて机を整理、挨拶してから外へ出る。
隣にある寮の自室は、散らかしっぱなしではあるけれど、荷物はそんなに多いほうじゃない。片付けはすぐに済んだ。すぐに必要のない荷物は、第七階層にある実家に送る手続きをする。ちなみに実家にはまだ報告していない。どうすべきか悩ましいが、まあ、あとで決めよう。
制服と銃、洋刀を返却し、すべての手続きは完了した。退職の手続きなんて、案外あっけないものだ。足りないところがあれば、あとで連絡が入るだろう。
大きな荷物を抱えながら、一日は中央通りを歩いていく。久方ぶりの袴は少し動きにくい。あとで洋袴でも買っておこうか。何だかんだで金はある。ここ最近働きづめだったし、しばらく何もしなくても生きていけるだけの額は蓄えてあるはず。
店先で見かける新聞の見出しには、現役軍人殺しを報せるものだ。これから続けて元軍人が死んだとなったら――しかも今をときめく流行りの小説家が死んだとなったら、それこそ上へ下への大騒ぎになるかもしれない。
そんなとりとめもないことを考えながら、一日はぼんやりと歩を運ぶ。いったん実家に戻ってから、やるべきことを整理しようか。
その、瞬間。
甘い香りが、鼻先をかすめた。花のような、果物のような。そのどちらでもあるようで、そのどちらでもないような。甘くかぐわしい、官能的な匂いが、した。
視界の端で、長い長い髪が散る。夜の闇で濡らしたような、青みと艶を含む見事な黒。墨染の着流しに黒の洋袴という妙な出で立ち、ちらりと裾から覗く襦袢は深紅。靴は傷だらけの軍靴だった。腰には緋色の帯を締め、上から皮の剣帯をかけている。白鞘の刀だけが、暗い色合いの中で眩しい。
振り向いた。男、だった。肩に掛けた黄昏の羽織、裾には蝶と彼岸花。右腕のあるべきその場所は空っぽで、ただ袖が揺れている。
左目を隠すように巻かれた包帯と、あまりにも鮮やかな紅玉の眼。見えぬはずの眼差しは、しかし一日を確かに映す。
人混みの中、くっきりと浮かび上がるその姿に、一日は思わず立ち止まる。腕を斬り落としたときの生々しい感覚が、手のひらに鮮やかによみがえる。
――死んだはずの、人斬りが。
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思考が止まる。見つめあう。世見坂がふと、淡く笑んだ。それはひどく穏やかな、何かを諦めたような笑みだった。
人波の中に飲み込まれていく。流されて消えていく。ふわりと着物の裾が翻る。逃げる。逃げる。逃げていく。
「ま、待て!」
慌てて声をあげ、一日はその背を追いかけた。向かう先は、中央へ続く【門】。その前で、男がひとり待っている。ずいぶんと大荷物の白衣の男。あれは医者の不夜城か。
「どこへ行くんだ!! 待ってくれ、聴きたいことがあるんだ!! 止まれ!!」
必死で声を張りあげる。世見坂は止まらない。目が見えないくせに小走りだ。一日は荷物を放り出して速度を上げた。
あと少し。あと少しで手が届く。【門】に翡翠の光が走る。光が組み合い、絡み合い、二人分の扉が開く。今の一日では、通れない――。
腕を伸ばした。絹糸の髪が指をすり抜ける。つかもうと折りたたむ指には、手には、何も残らない。
不夜城がこちらを一瞥し、ひらりと手元の紙切れを示してみせた。あれは確か、別の【塔】へ行くための切符だ。
青い切符。西南のほうへ往くつもりなのか。来いと、いうことか。知りたいならば、追ってこい、と。
立ち止まる。息が乱れる。苦しい。世見坂の、緋色の眼がこちらを見た。獣の双眸がふと細められ、どこか寂し気に微笑んだ。どうしてそんな顔をする。どうして。
胸が絞まる。息が上がる。汗が伝う。翡翠の光は消え去って、扉が音もなく閉ざされた。
「……西南」
西南に向かうというならば、行き先はいくつか絞られる。直近の【塔】といえば西月京だが、南風京から海を渡っていく可能性もある。
真実が知りたい。この、人斬りの起こした顛末を。その理由を。真相を。それからどうするか、決めてもいい。
……魅入られているのかもしれない。それでも、今はかの人斬りの握るソレを暴きたかった。
荷を拾い上げ、一日は再び【門】を見上げる。起動用の石に手を当てたとしても、もうこの扉は一日には反応を返さない。
いろいろと、不便になることは間違いない。各地を歩き回るなら、身軽でいないといけないだろう。最低限必要なものだけ持って、現地で調達することになるかもしれない。
自分なんかにできるだろうか? いや、やらねばならない。夜の化身のような男に、本当のことを聞くまでは。
今日中には出発したい。両親への説明は後回しだ。やるべきことができた。それだけ言えばいい。
遠く遠くで、鐘が鳴る。背後で人々が行き交う中から、誰かの気配を感じ取り、一日は肩越しに振り向いた。しかしそこには誰もいない。
【門】のそばの詰所へ向けて、一日は大股で歩き出す。遠く、【門】のさらに内側のほうから、高らかに汽笛が鳴り響いた。
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でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
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