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外伝2【紅玉の眸の獣】
其の六
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息が詰まる。苦しくなる。どうせなら、悪人であってほしかった。こんな葛藤を持っているなんて、知りたくなかった。白陽は強張る両手で拳を握り、奥歯をきつく噛みしめる。
生きていることを確認したい。満たされたい。ただそれだけで人を斬り、満たされぬ何かで苦しみながら、それを求めて人を斬る。理解はできない。いや、できてはいけないし、してはいけないのだと思う。
それでも、生きていてはいけない理由にはならないのではないか。自分で押しとどめることができないというなら、外から手を差し伸べてやることはできないのか。
「違う。そんなこと、あるわけないでしょ」
白陽は腹から声を絞り、視線とともにまっすぐに飛次へ向けてぶつけていく。
「確かに、理解しがたいところはありますよ。でもそんなの、誰だってひとつやふたつあるもんでしょ。あんたは、あんたたちは、俺らと同じ……人間なんだから」
右手を持ち上げ、差し伸べる。腕だけじゃなくて足も、情けなく震えている。次は自分かもしれない、本能が必死に叫んでいる。それでも白陽は、逃げずに飛次を見つめ続けた。
「抗えないなら、違う方法を見つけりゃいいじゃないですか。だからあんたが罪を償ったあと、一緒に方法を探しましょう」
飛次は戸惑った様子で白陽の手へと目を落とした。ひとつ、ふたつ、呼吸をして、紅いまなざしが白陽を映す。それから眉を下げてひとつ、笑った。
「ああ、お前、……優しいなァ」
そして切っ先のない大刀を振るい、白陽の喉へと向ける。白陽の心臓が跳ねあがり、どくどくと急速に脈打ち始める。殺される。逃げねば。いや、逃げてはダメだ。それじゃなんの意味もなくなる。
「でもなァ、残念だが、そりゃ無理な話だよ。そんな簡単に生き方を変えられるってんなら、こんな風になっちゃいねェさ」
悲し気な、自虐的なその言葉に、それでも白陽は必死で食らいつく。
「飛次さん……! 待ってください、お願いだから話を聞いてくれ!」
声を張り上げる白陽を眺め、飛次が片目をつとすがめる。首をかしげて一歩、踏み出す。紅い髪が流れて落ちる。一歩。一歩。足が動かない。あっという間に距離が詰まる。冷や汗が全身から噴き出している。怖い。殺すつもりなのだ。俺のことを。
「魚が水を求めるように、人が呼吸をするように……オレは人を、殺したくなる」
歌うように、飛次がささやく。
「そんな、生きてるだけで害悪だってやつによ――生きててもいいなんて、存在していてもいいなんて、心の底から言えるかよ?」
そういう飛次の表情は、泣きながら笑っているようにも見えた。
正直に言えば、今だって怖い。いつ殺されるかわからないのだから。だからといって、彼らが死んでしまえばいいとは思わない。思えない。こんな表情をする人に、そんなことを言えるわけがないのだ。
どうすればいいかなんてわからない。でも、必ずどこかに道はあるはず。白陽がどうにか応えようと口を開いた、その刹那。
「――撃て!!」
号令と共に、銃声が、響いた。
重なってひとつ、ふたつ、みっつ。飛次の身体がわずかにこわばる。肩越しに背後を振り返る。反射的に駆けだそうとするそのしなやかな脚に、次々と弾丸が撃ち込まれる。無慈悲に、何度も。
制服姿の男たちが路地の向こうに見える。警察だ。どうして銃を持っている。自己防衛以外に使用することはできないはずなのに。
一歩、二歩、飛次がよろめく。紅い髪が乱れる。乱れて散って、揺れ、ひらめいて。硬直する身体を無理やり動かし駆け寄る白陽が目にしたのは、虚ろな眼でどこかを映す飛次の姿だった。
かすかに動く唇が、誰かの名前をそっとなぞる。苦し気に。愛し気に。それから抜身の刀をきつく抱いて、紅い獣は倒れ伏した。
「飛次さん!!」
「そこの君! 動かんでや! もう大丈夫やからな!」
倒れた飛次を助け起こそうとする白陽の腕が、警察によってつかまえられる。飛次は血だまりにその身を横たえてぴくりとも動かない。早く助けなければ。しかし警察官によって無理やり彼から引き剥がされ、白陽は思わず警察官に詰め寄った。
「自分の身を守るときと威嚇牽制以外は発砲できないんじゃなかったんすか!? なんで人に向けて銃撃ってるんすか!」
警察官は驚いたように目を丸くしてから、白陽を宥めるように両手をひらつかせた。
「お客さん、そりゃ東だけの話やで。ここはな、一般市民が危険な状況にあったら発砲してええのよ。大事なお客さんに一大事あったら大変やからなぁ」
妙に軽い口調で警察官は言う。何でも、西月京の稼ぎの中核を担う妓女遊女たち――【蝶】の身の安全を確保するための手段だそうだ。
少し先で、飛次が髪を引っ張りあげられている。飛次は力なく目を開けたまま、全身を弛緩させてされるままになっていた。胸が上下しているのがかろうじてわかる。生きてはいる。しかし、意識が混濁していることが目に見えてわかった。
話によると、彼女らが楼閣から逃げた場合の確保、恋仲となった来客と心中を図った場合の阻止、その他一般の客が危険な状況にあった場合など、そういったときに特別に麻酔弾の使用を許可されているという。
妓楼には妓楼の規則があり、それにのっとって処罰しなければならないそうだ。……逆に言えば、生きたまま連れ戻せれば何でもいい、ということなのだろう。
「お客さん、さっき詰め所来たお兄ちゃんやな。いや、間に合ってよかったですわ」
別の警察官がこちらにやってくる。さっきの詰め所で最初に話をした人物だった。
「あんたが通報しとってくれたおかげで、この辺も多少警戒してましてん。いや、無事に犯人確保できてよう助かりましたわ。大手柄やで、お客さん」
違う。そんなつもりじゃなかった。全身の血が音を立てて引いていく。違うんだ。飛次をこんな目に遭わせるために、警察に伝えたわけではない。そんなことよりも飛次は大丈夫なんだろうか。あんな量の麻酔を一気にぶち込まれて。そんなものを使われるような状態ではなかったはずなのに。どうして。どうしてこんなことに。
「俺はただ……ただあの人と話してただけだったんすよ。あの人は、まだ、何も……」
声を震わせる白陽の肩に、警察官の両手が置かれる。落ち着け、と言いたげな眼差しを受け、白陽の喉に空気が詰まる。
「あのな、お客さん。あんたホンマに危険な状態やったんよ。あの人斬りに襲われかけてたんやから。あれでこっちが撃っとらへんかったら、今頃お客さん、首刎ね飛ばされて死んどったで」
人斬りに、襲われかけていた。首を刎ねられて。死んでいた。
そう言われた途端、白陽の中で急に何かが落ちるような、すとん、とした感覚が生まれた。
ああ。そうか。あんなに気さくで、あんなに自分に親切にしてくれた人は。部下の死を悼み、彼からもらったものをずっと大事に抱きしめて生きてきた人は。
――誰かを殺さなければ生きていくことすらできない、人斬り、なのだった。
泣きたいような、怒りたいような、苦いものがこみあげてくる。首が締め付けられているようで、目の、鼻の奥がつんと痛くなる。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。感情が乱れて、わけがわからなくなってくる。あのひとは、人斬りだった。最初からずっと。呼吸をするために、生きていると感じるために、他の人間を殺していた。【獣】から大勢の人を守り、依頼を受けては【獣】を屠り、その陰でこうして、誰かの命を啜っていた。罪もない誰かを斬っては快楽に浸っていた。
でも。彼はそうしなければ生きていけなかった。彼は“普通”ではいられなかった。こうすることでしか、自分の存在を肯定できなかった。何の罪もない人間を殺すこともあったろう。だけど。そうすることでしか、彼は生きていられなかった。たったひとり、肯定してくれた人の言葉を、存在を、髑髏の向こうに見出して。
ボロボロに擦り切れたそれを抱きしめながら、彼は自分の衝動に何を想っていたのだろう。
彼らは果たして本当に、死ななければならないほどの悪なのか。それを排除して平穏を保つことが正義なのか。壊れた彼らを否定して、排除してしまうことは正しいのか。本当に、こうすることでしか解決はできなかったのだろうか。彼らはただひたすらに、ここで生きていたかっただけだったのに。
足からふと力が抜けて、白陽はその場にへたり込む。警察官が脇から支えてくれても、立位を保てず膝から崩れ落ちた。意識を手放した飛次の身体が、まるで物のように運ばれていく。白陽はそれを、ずっとずっと見つめていた。彼らがいなくなったあともずっと、ずっと、その眼に焼き付けていた。
* * *
――たたん、たたん、たたん……。
体の奥にかすかに響く車輪の音に耳を澄ましながら、白陽はぼんやりと車両の窓にもたれている。等間隔の灯りが朧に列車の行く先を照らしている。外は雨が降っているのか、硝子に水滴が弾けては、筋を作って滑り落ちていた。
鋼の小さな匣をいくつも連ねた、西月京発、鳳翼宮経由の南風京往きの列車である。始発から数本あとの列車でもあるせいか、この車両には白陽しかいない。車内燈に入れられた光石が、時折鈴のような音を立てて硝子を叩く。その澄んだ音を聞きながら、白陽は流れていく景色を眺めていた。
飛次が警察に確保をされたあと、白陽は重要参考人として西月京の第十一階層まで護送され、数日に渡って聴取を受けた。
これは聴取中に聞いたのだが――飛次は、おもに中層から下層あたりで殺戮に耽っていたらしい。【獣】狩りを依頼されたその日に、無作為に出会った人間の首を一刀のもとに斬り飛ばしていたのだという。髑髏はやはり彼の部下のもので、そのあたりもまた引き続き調査されるということだった。
『晨鐘の宿』に放置したままだった白陽の荷物は警察によって回収され、最終日に残らず白陽に渡された。飛次が持っていたものはすべて押収されたそうだ。彼がずっと大切にしていた擦り切れた思い出も、大事にしていた“彼”の首も、もう二度と飛次の手に返らない。
そして当の飛次はというと、大量の麻酔弾を受け昏倒したものの、命に別状はないらしい。だが、集中的に弾丸を叩き込まれた両足は、もう動かすことができないということだった。そのせいなのかはわからないが、現在も彼は心神喪失状態にあるという。問いかけに対して反応はするものの、殺人の動機を尋ねても支離滅裂で、聞きだすにはまだ時間がかかるだろう――警察官はそんなことを白陽に教えてくれた。
白陽にはわかっていた。彼が誰かを殺すのは、生きているという悦びを得たいから。ただ、ここで生きていたいから。魚が水を求めるように、人が呼吸をするように、そうして彼は人を斬る。それがすべて。それで全部。そういうこと、なのだ。そして警察の連中がそれを理解することは、きっと、ない。
列車が揺れる。徐々に明るくなっていく空を、白陽は黙って眺めている。次は内海を越えた先にある鳳翼宮。あまり期待せずに聞いてみたのだが、世見坂たちが駅に向かうのを、偶然警察官のひとりが見ていたのである。事情聴取を終えた前日に、彼らは鳳翼宮往きの列車に乗っていったという話だった。
飛次はそのまま警察によって捕縛され、西月京の上層にある収容所で療養しながら刑の執行を待つことになるだろう、ということだった。せめて出発する前に会わせてほしいと頼んだが、所詮は一般市民となった白陽の懇願は聞き入れられることはなかった。苦いものを残したまま、白陽は再び世見坂たちのを追うことにしたのである。
雨の音が、強くなる。風が出ているのか、窓に爆ぜる水滴の量が急に増えだした。白陽は鞄の上に放置していた新聞を手に取り、目を落とす。駅から発着口に向かう途中、人だかりのできていた新聞屋から売りつけられたものだった。
新聞の一面記事は、やはり連続殺人鬼――紅い人斬りが捕まった、という内容である。【狩人】として活動していた降飛次のありとあらゆる個人情報を、悪意と好奇、自分勝手な推測と推論で飾りつけ、得意げに書き連ねていた。そういえば、新聞屋の周りにいた人々は、嬉々としてこの猟奇的かつ衝撃的な事件をつつき回していた。皆こぞって彼を批判し、なじり、狂人として騒ぎ立てていて、ひどく、不愉快だった。
白陽は新聞を折りたたみ、誰もいない正面の座席へと放り投げる。本当はすぐにでも捨ててしまいたかったが、生憎この車両はゴミ箱を備え付けていない。かといって、このまま手元に置いておくのも嫌だった。
白陽自身だって、飛次のことを理解することはできないし、おそらくこれからも理解なんてできないだろう。だからといって、これまで世話になってきただろう者を、ここまで悪意でもって貶めるのは果たして許されるのだろうか。
わからない。自分の感覚がおかしいのかもしれない。何が正しいのか。何が間違っているのか。大衆のほうがまともなのか。それともすべてが間違っているのか。答えは到底、出そうにない。
列車は早朝の薄闇をひたすらに進んでいく。雨が少しずつ弱まっていく。水滴に光が反射して、複雑な模様を浮かび上がらせている。流れていく光を目に映しながら、白陽はかつて対峙した人斬りのこと――世見坂終宵のことを考える。
彼も、飛次と同じだったのだろうか。あの夜、世見坂が見せた恍惚の表情を思い出す。戦いに酔い、殺戮に歓喜し陶然としていた男の、潤む緋色のまなざしを思い出す。
生きていると実感していたのだろうか。居場所があると、確認していたのだろうか。血と死で彩られたその場所でだけ、生きている気がすると――ここにいてもいいと、許してもらえている気がすると。彼もそんな風に、感じていたのだろうか。
異常な衝動を持ちながらヒトに紛れ、ヒトを斬って生きる者たち。理解はしがたい。これからもできない。誰かを殺さなければ、生きていくことができないなんて、そんなことは許されない。絶対に見過ごすわけにはいかないことだ。
だが、飛次の泣き笑いにも似た表情が忘れられない。世見坂の、どこか寂しそうな目の色が頭から離れない。彼らの心の一部に触れて、以前のようにすべて否定することができなくなっていた。
だから。
「……探さなくちゃ、いけないな」
つぶやいた言葉が、誰もいない車内に響く。膝に置いた手を、きつく、つよく握りしめる。
知ってしまった以上、このまま放っておくことはできそうにない。彼らの持つ獣の牙を、他者の命以外に向ける先を――否定するのではなく、受け入れて、転化する方法を見つけよう。どうしたらいいのか考えることなら、きっとできる。たとえ理解はできなくても、寄り添うことはできる。諦めない。この手を伸ばすことだけは、絶対に。
雨が止む。雲間から淡い光が差し込み始める。朝が来た。金色が静かに瞬きながら、徐々に世界を染めていくその様を、白陽は静かな決意とともに見つめていた。
~そして夜は華散らす 外伝:紅玉の眸の獣 了
生きていることを確認したい。満たされたい。ただそれだけで人を斬り、満たされぬ何かで苦しみながら、それを求めて人を斬る。理解はできない。いや、できてはいけないし、してはいけないのだと思う。
それでも、生きていてはいけない理由にはならないのではないか。自分で押しとどめることができないというなら、外から手を差し伸べてやることはできないのか。
「違う。そんなこと、あるわけないでしょ」
白陽は腹から声を絞り、視線とともにまっすぐに飛次へ向けてぶつけていく。
「確かに、理解しがたいところはありますよ。でもそんなの、誰だってひとつやふたつあるもんでしょ。あんたは、あんたたちは、俺らと同じ……人間なんだから」
右手を持ち上げ、差し伸べる。腕だけじゃなくて足も、情けなく震えている。次は自分かもしれない、本能が必死に叫んでいる。それでも白陽は、逃げずに飛次を見つめ続けた。
「抗えないなら、違う方法を見つけりゃいいじゃないですか。だからあんたが罪を償ったあと、一緒に方法を探しましょう」
飛次は戸惑った様子で白陽の手へと目を落とした。ひとつ、ふたつ、呼吸をして、紅いまなざしが白陽を映す。それから眉を下げてひとつ、笑った。
「ああ、お前、……優しいなァ」
そして切っ先のない大刀を振るい、白陽の喉へと向ける。白陽の心臓が跳ねあがり、どくどくと急速に脈打ち始める。殺される。逃げねば。いや、逃げてはダメだ。それじゃなんの意味もなくなる。
「でもなァ、残念だが、そりゃ無理な話だよ。そんな簡単に生き方を変えられるってんなら、こんな風になっちゃいねェさ」
悲し気な、自虐的なその言葉に、それでも白陽は必死で食らいつく。
「飛次さん……! 待ってください、お願いだから話を聞いてくれ!」
声を張り上げる白陽を眺め、飛次が片目をつとすがめる。首をかしげて一歩、踏み出す。紅い髪が流れて落ちる。一歩。一歩。足が動かない。あっという間に距離が詰まる。冷や汗が全身から噴き出している。怖い。殺すつもりなのだ。俺のことを。
「魚が水を求めるように、人が呼吸をするように……オレは人を、殺したくなる」
歌うように、飛次がささやく。
「そんな、生きてるだけで害悪だってやつによ――生きててもいいなんて、存在していてもいいなんて、心の底から言えるかよ?」
そういう飛次の表情は、泣きながら笑っているようにも見えた。
正直に言えば、今だって怖い。いつ殺されるかわからないのだから。だからといって、彼らが死んでしまえばいいとは思わない。思えない。こんな表情をする人に、そんなことを言えるわけがないのだ。
どうすればいいかなんてわからない。でも、必ずどこかに道はあるはず。白陽がどうにか応えようと口を開いた、その刹那。
「――撃て!!」
号令と共に、銃声が、響いた。
重なってひとつ、ふたつ、みっつ。飛次の身体がわずかにこわばる。肩越しに背後を振り返る。反射的に駆けだそうとするそのしなやかな脚に、次々と弾丸が撃ち込まれる。無慈悲に、何度も。
制服姿の男たちが路地の向こうに見える。警察だ。どうして銃を持っている。自己防衛以外に使用することはできないはずなのに。
一歩、二歩、飛次がよろめく。紅い髪が乱れる。乱れて散って、揺れ、ひらめいて。硬直する身体を無理やり動かし駆け寄る白陽が目にしたのは、虚ろな眼でどこかを映す飛次の姿だった。
かすかに動く唇が、誰かの名前をそっとなぞる。苦し気に。愛し気に。それから抜身の刀をきつく抱いて、紅い獣は倒れ伏した。
「飛次さん!!」
「そこの君! 動かんでや! もう大丈夫やからな!」
倒れた飛次を助け起こそうとする白陽の腕が、警察によってつかまえられる。飛次は血だまりにその身を横たえてぴくりとも動かない。早く助けなければ。しかし警察官によって無理やり彼から引き剥がされ、白陽は思わず警察官に詰め寄った。
「自分の身を守るときと威嚇牽制以外は発砲できないんじゃなかったんすか!? なんで人に向けて銃撃ってるんすか!」
警察官は驚いたように目を丸くしてから、白陽を宥めるように両手をひらつかせた。
「お客さん、そりゃ東だけの話やで。ここはな、一般市民が危険な状況にあったら発砲してええのよ。大事なお客さんに一大事あったら大変やからなぁ」
妙に軽い口調で警察官は言う。何でも、西月京の稼ぎの中核を担う妓女遊女たち――【蝶】の身の安全を確保するための手段だそうだ。
少し先で、飛次が髪を引っ張りあげられている。飛次は力なく目を開けたまま、全身を弛緩させてされるままになっていた。胸が上下しているのがかろうじてわかる。生きてはいる。しかし、意識が混濁していることが目に見えてわかった。
話によると、彼女らが楼閣から逃げた場合の確保、恋仲となった来客と心中を図った場合の阻止、その他一般の客が危険な状況にあった場合など、そういったときに特別に麻酔弾の使用を許可されているという。
妓楼には妓楼の規則があり、それにのっとって処罰しなければならないそうだ。……逆に言えば、生きたまま連れ戻せれば何でもいい、ということなのだろう。
「お客さん、さっき詰め所来たお兄ちゃんやな。いや、間に合ってよかったですわ」
別の警察官がこちらにやってくる。さっきの詰め所で最初に話をした人物だった。
「あんたが通報しとってくれたおかげで、この辺も多少警戒してましてん。いや、無事に犯人確保できてよう助かりましたわ。大手柄やで、お客さん」
違う。そんなつもりじゃなかった。全身の血が音を立てて引いていく。違うんだ。飛次をこんな目に遭わせるために、警察に伝えたわけではない。そんなことよりも飛次は大丈夫なんだろうか。あんな量の麻酔を一気にぶち込まれて。そんなものを使われるような状態ではなかったはずなのに。どうして。どうしてこんなことに。
「俺はただ……ただあの人と話してただけだったんすよ。あの人は、まだ、何も……」
声を震わせる白陽の肩に、警察官の両手が置かれる。落ち着け、と言いたげな眼差しを受け、白陽の喉に空気が詰まる。
「あのな、お客さん。あんたホンマに危険な状態やったんよ。あの人斬りに襲われかけてたんやから。あれでこっちが撃っとらへんかったら、今頃お客さん、首刎ね飛ばされて死んどったで」
人斬りに、襲われかけていた。首を刎ねられて。死んでいた。
そう言われた途端、白陽の中で急に何かが落ちるような、すとん、とした感覚が生まれた。
ああ。そうか。あんなに気さくで、あんなに自分に親切にしてくれた人は。部下の死を悼み、彼からもらったものをずっと大事に抱きしめて生きてきた人は。
――誰かを殺さなければ生きていくことすらできない、人斬り、なのだった。
泣きたいような、怒りたいような、苦いものがこみあげてくる。首が締め付けられているようで、目の、鼻の奥がつんと痛くなる。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。感情が乱れて、わけがわからなくなってくる。あのひとは、人斬りだった。最初からずっと。呼吸をするために、生きていると感じるために、他の人間を殺していた。【獣】から大勢の人を守り、依頼を受けては【獣】を屠り、その陰でこうして、誰かの命を啜っていた。罪もない誰かを斬っては快楽に浸っていた。
でも。彼はそうしなければ生きていけなかった。彼は“普通”ではいられなかった。こうすることでしか、自分の存在を肯定できなかった。何の罪もない人間を殺すこともあったろう。だけど。そうすることでしか、彼は生きていられなかった。たったひとり、肯定してくれた人の言葉を、存在を、髑髏の向こうに見出して。
ボロボロに擦り切れたそれを抱きしめながら、彼は自分の衝動に何を想っていたのだろう。
彼らは果たして本当に、死ななければならないほどの悪なのか。それを排除して平穏を保つことが正義なのか。壊れた彼らを否定して、排除してしまうことは正しいのか。本当に、こうすることでしか解決はできなかったのだろうか。彼らはただひたすらに、ここで生きていたかっただけだったのに。
足からふと力が抜けて、白陽はその場にへたり込む。警察官が脇から支えてくれても、立位を保てず膝から崩れ落ちた。意識を手放した飛次の身体が、まるで物のように運ばれていく。白陽はそれを、ずっとずっと見つめていた。彼らがいなくなったあともずっと、ずっと、その眼に焼き付けていた。
* * *
――たたん、たたん、たたん……。
体の奥にかすかに響く車輪の音に耳を澄ましながら、白陽はぼんやりと車両の窓にもたれている。等間隔の灯りが朧に列車の行く先を照らしている。外は雨が降っているのか、硝子に水滴が弾けては、筋を作って滑り落ちていた。
鋼の小さな匣をいくつも連ねた、西月京発、鳳翼宮経由の南風京往きの列車である。始発から数本あとの列車でもあるせいか、この車両には白陽しかいない。車内燈に入れられた光石が、時折鈴のような音を立てて硝子を叩く。その澄んだ音を聞きながら、白陽は流れていく景色を眺めていた。
飛次が警察に確保をされたあと、白陽は重要参考人として西月京の第十一階層まで護送され、数日に渡って聴取を受けた。
これは聴取中に聞いたのだが――飛次は、おもに中層から下層あたりで殺戮に耽っていたらしい。【獣】狩りを依頼されたその日に、無作為に出会った人間の首を一刀のもとに斬り飛ばしていたのだという。髑髏はやはり彼の部下のもので、そのあたりもまた引き続き調査されるということだった。
『晨鐘の宿』に放置したままだった白陽の荷物は警察によって回収され、最終日に残らず白陽に渡された。飛次が持っていたものはすべて押収されたそうだ。彼がずっと大切にしていた擦り切れた思い出も、大事にしていた“彼”の首も、もう二度と飛次の手に返らない。
そして当の飛次はというと、大量の麻酔弾を受け昏倒したものの、命に別状はないらしい。だが、集中的に弾丸を叩き込まれた両足は、もう動かすことができないということだった。そのせいなのかはわからないが、現在も彼は心神喪失状態にあるという。問いかけに対して反応はするものの、殺人の動機を尋ねても支離滅裂で、聞きだすにはまだ時間がかかるだろう――警察官はそんなことを白陽に教えてくれた。
白陽にはわかっていた。彼が誰かを殺すのは、生きているという悦びを得たいから。ただ、ここで生きていたいから。魚が水を求めるように、人が呼吸をするように、そうして彼は人を斬る。それがすべて。それで全部。そういうこと、なのだ。そして警察の連中がそれを理解することは、きっと、ない。
列車が揺れる。徐々に明るくなっていく空を、白陽は黙って眺めている。次は内海を越えた先にある鳳翼宮。あまり期待せずに聞いてみたのだが、世見坂たちが駅に向かうのを、偶然警察官のひとりが見ていたのである。事情聴取を終えた前日に、彼らは鳳翼宮往きの列車に乗っていったという話だった。
飛次はそのまま警察によって捕縛され、西月京の上層にある収容所で療養しながら刑の執行を待つことになるだろう、ということだった。せめて出発する前に会わせてほしいと頼んだが、所詮は一般市民となった白陽の懇願は聞き入れられることはなかった。苦いものを残したまま、白陽は再び世見坂たちのを追うことにしたのである。
雨の音が、強くなる。風が出ているのか、窓に爆ぜる水滴の量が急に増えだした。白陽は鞄の上に放置していた新聞を手に取り、目を落とす。駅から発着口に向かう途中、人だかりのできていた新聞屋から売りつけられたものだった。
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白陽自身だって、飛次のことを理解することはできないし、おそらくこれからも理解なんてできないだろう。だからといって、これまで世話になってきただろう者を、ここまで悪意でもって貶めるのは果たして許されるのだろうか。
わからない。自分の感覚がおかしいのかもしれない。何が正しいのか。何が間違っているのか。大衆のほうがまともなのか。それともすべてが間違っているのか。答えは到底、出そうにない。
列車は早朝の薄闇をひたすらに進んでいく。雨が少しずつ弱まっていく。水滴に光が反射して、複雑な模様を浮かび上がらせている。流れていく光を目に映しながら、白陽はかつて対峙した人斬りのこと――世見坂終宵のことを考える。
彼も、飛次と同じだったのだろうか。あの夜、世見坂が見せた恍惚の表情を思い出す。戦いに酔い、殺戮に歓喜し陶然としていた男の、潤む緋色のまなざしを思い出す。
生きていると実感していたのだろうか。居場所があると、確認していたのだろうか。血と死で彩られたその場所でだけ、生きている気がすると――ここにいてもいいと、許してもらえている気がすると。彼もそんな風に、感じていたのだろうか。
異常な衝動を持ちながらヒトに紛れ、ヒトを斬って生きる者たち。理解はしがたい。これからもできない。誰かを殺さなければ、生きていくことができないなんて、そんなことは許されない。絶対に見過ごすわけにはいかないことだ。
だが、飛次の泣き笑いにも似た表情が忘れられない。世見坂の、どこか寂しそうな目の色が頭から離れない。彼らの心の一部に触れて、以前のようにすべて否定することができなくなっていた。
だから。
「……探さなくちゃ、いけないな」
つぶやいた言葉が、誰もいない車内に響く。膝に置いた手を、きつく、つよく握りしめる。
知ってしまった以上、このまま放っておくことはできそうにない。彼らの持つ獣の牙を、他者の命以外に向ける先を――否定するのではなく、受け入れて、転化する方法を見つけよう。どうしたらいいのか考えることなら、きっとできる。たとえ理解はできなくても、寄り添うことはできる。諦めない。この手を伸ばすことだけは、絶対に。
雨が止む。雲間から淡い光が差し込み始める。朝が来た。金色が静かに瞬きながら、徐々に世界を染めていくその様を、白陽は静かな決意とともに見つめていた。
~そして夜は華散らす 外伝:紅玉の眸の獣 了
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状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
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