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漆
(下)
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渾身の力で弓月は駆ける。ふらつく足に鞭を打ち、倒れこみそうになる身体を意地で支え、力の入らぬ指に力を込めて駆ける。
目の前にふらりと躍り出た、炎の塊も構わず走る。鋭い矢の一撃が、妖の火を穿ち砕いた。刀を水平に持ち直し、半ば当て身のように貫いていく。
哄笑は止まない。無数に浮かぶ天火人、その奥で彼女は哂っていた。
「ゆづ、ゆづ。その身体ちょうだい。その身体、ちょうだい」
繰り返し繰り返しささやきながら、鬼は細い腕を広げる。己の血に染まった指が、月光を反射して粘ついた光沢を放っていた。
「嫌なこった」
弾む呼吸を整えぬまま、弓月は小さく口ずさむ。
十とや 歳神様のお飾りは お飾りは
橙 九年母ほんだわら ほんだわら
開放する。魔を祓う刀の鍵を、収められたその力を。
十一とや 十一 吉日蔵開き 蔵開き
お蔵を開いて祝いましょ 祝いましょ
刀の柄が熱を持った。反射で離しそうになる手のひらを、意思が反して握りこむ。淡く刀身を彩るばかりだった白い焔が、爆発して噴きあがる。全身の力が抜けていく。痛みを訴える体を諌め、きつく奥歯を食いしばった。
十二とや 十二の神楽舞い上げて 舞い上げて
歳神様へ舞納め 舞納め――
最後の旋律が闇に溶ける、それすら待たずに弓月は動いた。
踏み込んで一閃。避けられる。さらに踏み込み二撃目を放つ。少女の髪の先が散った。逃がさず詰めより三撃目。身を沈めてかわされた。
繰り出される爪を鍔で受ける。膝が笑っている。腕は鉛のように重い。呼吸はほとんどできていない。それでも弓月は止まらない。意識が半ば白く沈む。数度衝撃が身体を貫く。痛みはない。血の流れ出る感覚すら遠い。鬼の顔に焦りが浮かぶ。なにやら叫んでいるが聞こえない。まとう炎が白々と照る。軌跡を追いかけ燐光を放つ。
真帆。助けられずに斬った大事な幼馴染。これからもきっと鬼を斬る。憑き物憑きを斬る。人間だったものの屍を乗り越えていく。誰も助けられずに生きる。逃げることもできずに生きる。斬ったものの顔を覚えている。苦しみながら斬っていく。そうすることしかできないから。
許してはもらえないだろう。許してもらわなくても構わない。でもせめて――いつまでも抱え込んで引きずることくらいは、許してほしい。それが自分にできる、唯一の贖罪だから。
角と角の合間が割れる。何かがずるりと這い出てくる。何も考えぬままに踏み込んだ。刃が這い出た何かに食い込んだ。幼い体が痙攣する。この世のものとは思えぬ断末魔。手に伝わる嫌な感触。これもきっと忘れない。幼馴染を殺したときと同じように。きっと、忘れない。
焔が鬼を包み込む。断末魔は灰となる。一瞬少女が浮かべた笑みを、弓月は沈痛な面持ちで見送った。
*
淡く月に照らされる夜道を歩いていく。弓月は比呂也に支えられ、引きずられるような体勢で足を運んでいた。
体力が著しく削られていた上に『月朱雀』の力を上乗せし、おまけに通り穴を塞ぐことで全ての力を使い切ってしまった。身体疲労も精神疲労も著しい。おかげで歩くことすらままならない。
比呂也に体重を預けながら、弓月はようやく抱えていた疑問を口にした。
「……いつ、あいつが鬼になったって気づいた」
今まで長いこと伏せていた事実を、一体いつ知ったのか。別に怒っているわけではなく、ただ純粋に知りたかった。
短い沈黙が降りる。言うのをためらっているのが、何となく分かった。
「真帆の葬式終わった後すぐ。お前、ずうっと泣きそうな顔してたから、覚えてる。しばらく部屋閉じこもってさ、俺が悪いんだ、妖狩なんかやめてやるって言ってただろ……何となくだけど、真帆が死んだのは弓月が関係してたんだなって思ったんだ」
比呂也は少しだけ言葉を切り、またぽつぽつと言葉をつなぐ。
何のことだ、といつものように誤魔化そうとして、やめる。いまさら隠す必要なんてどこにもない。比呂也はもう全部知っているのだ。いまさら何を隠すというのだろう?
「わき腹怪我して帰ってきたときも、蛇の事件の後も、そのときとおんなじ顔してたからさ。もしかして、って思って」
そうだった。弓月はどこか他人事のように思い出す。立て続けに起きたそれに、精神が限界を訴えたらしい。何も食べず、ろくに話さず、真帆のことを思い出してはその感触に吐き気を催していた。
血染めで戻ってきた自分を心配する女将や、珍しく気にかけてきた尊杜を部屋から追い出して、一人でうずくまっていたのだ。
「……だから俺に何も言わないで、全部抱え込んでたんだな。巻き込まないように、真帆と同じことにならないようにって……俺、馬鹿だから全然気づかなかった……ごめん」
なぜか笑いがこみ上げてくる。何も悪くないのに謝る彼がおかしかったし、躍起になって隠していた自分も馬鹿馬鹿しかった。
「……言ったところでいまさら、逃げられるわけでもねぇからな。それに、幼馴染を一回殺してるから、怖くて連れてけねぇなんて……言えるかよ」
半ば自嘲気味に呟くと、
「うん、……ごめん」
二度目の謝罪、そして沈黙。弓月もそれ以上何も言えず、黙り込んだ。
人間を手に掛けたのは、これで四回になった。自分の体はそうカウントしていないけれど、それでも元は人間であったことに変わりは無い。殺してしまった事実は、これからもきっと自分について離れないのだろう。
そんなことを考えていると、比呂也がぽつりと呟いた。
「なぁ、弓月」
「あ?」
「俺さ……悪いことをした奴が殺されればいいとは思ってないし、他人を殺すとか……そういうこともした経験ないし、何より俺は妖狩じゃないただの人間だから、お前の心の中とか分かんねえし。とにかく軽率に聞こえるかもしれないんだけど」
月の光を踏みながら、弓月を肩に背負いながら、比呂也は続きを口にする。
「これからはさ、もっとポジティブに考えたらどうだ?」
「……何?」
「弓月は人間の盾になってくれてる。本当なら、俺らは自分で自分を守らなくちゃなんないけど、それを全部弓月や黑幻さんとか、尊杜さんとかがやってくれてるってわけだろ? だからその……もうさ、いいんじゃないかなって思うんだ」
血を失って麻痺した頭を無理やり叩き起こしながら、弓月は幼馴染の声を拾い上げる。零れ落ちそうになる言葉の欠片を、柄にもなく必死で拾い上げる。
「……何だって? 意味がよく分かんねぇぞ」
「俺だってうまく伝えられねぇんだよ。うーん……楓さんにしても、真帆にしたってさ。弓月のこと、もう恨んでないと思うんだよ、俺は」
拾い上げて、少しずつ解析していく。言っていることを理解するのにこれほど時間がかかるとは。前の言葉を何度も繰り返し反芻しながら、先を促した。
「だって、憑き物憑きとか、憑き物使いとかさ。俺、まだよく分かってないんだけど。自分が自分じゃなくなるんだろ? それって、すごく怖いし、苦しいと思うんだよ」
沈黙が降りる。まるでこちらが意味を汲み取るのを待っているようだった。否、実際待っているのだろう。
それでも、動かない思考回路では限界があった。回りくどく言いやがって、と少しばかり恨みがましく思う。
「何が言いたいのか、簡潔に言え」
「んー、だからうまく言えないんだって……要はさ、弓月はその、怖いのとか、苦しいのとかから、そういう人たちを助けてあげてるんじゃねぇのかなって思うんだ」
無造作に渡されたその言葉は、弓月を驚かせるのには十分すぎた。そんなことを言われたのは初めてだ。そんな考え方をする奴に会ったのも、初めてだ。
「……救ってなんか、いねぇさ」
返す否定は、情けないくらいに震えていた。
「憑き物憑きは魂を食われて人間じゃなくなるし、憑き神使いは自分の意思で妖と手を結ぶ……」
人間の意思がなくなったモノを斬り、妖に手を貸した人間を斬る。これのどこが、彼らを救っているというのだろう。命を奪うだけの行為に、そんな大層な意味などありはしない。
「……真帆は俺に、痛い、助けてと言った。死に行く者の遺す、これほど痛烈な恨み言もねぇだろ」
大きな瞳を潤ませ、肩に爪を食い込ませて、真帆は弓月にそう言った。あのときの声を、あのときの表情を、あのときの痛みを、決して忘れることはないだろう。
不意に景色に重なったその姿を、比呂也の声が覆い隠す。
「俺はそう思わないなぁ。痛いのは当たり前だし……助けては多分、早く終わらせてくれって意味だったんじゃないかな。真帆はそういう奴だったし、いなくなる直前にそう言ってたから」
今度こそ、弓月は言葉を失った。真帆が――死ぬ前日に、元に戻ったというのか。一時的だとはあれ、自力で憑き物の呪縛を逃れたというのか。そんな事例、聞いたことすらない。
それを空気で察したのか、比呂也が一拍の間を置いて続ける。
「あいつ、いなくなる前の日に俺のところ来て、ゆづにばっかりつらいことさせちゃってごめんね、ゆづのせいじゃないからね、ありがとう、って言ってたんだ。きっとその日は何もいえないから、今言っておくってさ……」
一つ二つ息をして、比呂也は申し訳なさそうに視線を空へ向けた。月光がわずかな風にあおられて、地上に光の波を作っている。
「……そんな話……初耳だ」
かろうじてしぼり出した言葉に、比呂也もやや逡巡してから答える。
「お前、すごくショック受けてたから……言い出せなかったんだ。ごめんな、弓月」
十年の歳月を経て伝えられた彼女の言葉を、弓月はじっと噛み締める。
疑うこともできる。鬼に憑かれた人間なのだから、比呂也に言ったことも全て恨みの産物だと、本心など欠片もないと判断することだってできる。比呂也のところへやってきて、油断させて食うつもりだったのかもしれない。
だけど。
「……あいつ、優しかったからな」
低く小さく、呟いた。
人が傷つくのを、他人事のくせに悲しむ子どもだったから。だからきっと、遺された最期の魂が伝えにきたのだ。自分が苦しまないように、傷つかないように。都合のいい解釈かも、しれないけれど。
「楓さんにも同じこと言われてただろ? 尊杜さんに頼んで、近くで聞いてたんだ」
「あぁ……そうだな」
術者の命を絶たなければ、呪いは消えることがない。あの女性はそれを承知だった。愛する姉をこれ以上悲しませないために、弓月の刃を受け入れたのだ。
ごめんなさい、ありがとう。
呪いの力に手を染めた女性は、最期にそう言い遺して命を散らした。鬼の寄り代になった、名前も知らない少女たち。苦悶の声の後に笑った気がしたのは、気のせいではなかったのだろうか。
果たして本当に、自分のしていることが救いになっているのだろうか。妖を狩り、妖となった人を殺し、それでも本当に救っていると言えるのか。
「弓月」
胸中の声を聞いていたかのように、比呂也が強く名を呼んだ。
「お前がそうやって妖を斬って、俺たちの代わりに重たいものを背負ってくれてるから、俺たちは安心して暮らしていける。人間を斬るときも、お前はちゃんと相手のことを考えてるんだろ」
「さあな」
「考えてるよ。だってお前……すごく、切なそうな……悲しそうな顔してたから。相手のこと考えてなかったら、そんな顔しねぇよ」
ああ、そうだ。こいつはここで見ていたのだ。人間の形をしたものを斬る、その瞬間を最後まで見ていたのだ。今回だけじゃない。こいつは昔から、こうして一緒にいたじゃないか。両親が死んだときも、真帆が死んだときも、声が出なくなったときも、鬼の事件の後も、蛇の事件の後も。こうやって傍にいて、支えてくれていたじゃないか。
ゆっくりと、音と意味が身体の奥へ浸み込んでいく。
「お前のしてることは、お前が思ってる以上に救いになってる。それは、絶対間違いない」
弓月の身体を支えなおし、比呂也はぼそりと呟いた。
「それに俺……お前とずっと一緒にいるって決めたんだ。お前のこと、助けるって決めた。これからは一人で抱え込ませねーよ」
誰かが肯定してくれることが、これほどまでに安心するなんて知らなかった。誰かが傍にいることが、こんなにも心強いなんて知らなかった。今まで一人で生きてきたから、なのかもしれない。
(違う……)
一人ではなかった。一人で生きてきたわけではなかった。こうして支えてくれる人がいたから、自分はこうして立っていられた。掬い上げてくれる人がいたから、今まで歩いてくることができた。改めて、それを実感する。実感して、それがひどく嬉しく思えた。
「比呂也」
「ん」
今までもそうだったのだから、これからもそうに違いない。そうであってほしい。
「ありがとな。お前がいてくれて……よかったぜ」
「これからもいるから、安心しろよ」
すかした言い方が似合わなくて、弓月は思わず口の端を緩ませる。
妖狩、人の盾であれ。
この使命、彼らのためならばいくらでも受け入れよう。不特定多数の盾であり、大事な人たちの盾になる。それならば、いくらだってなろうではないか。そういう解釈ならば、妖狩の使命も悪くない。そう思った。
何だか照れ臭くなって、弓月は比呂也をひっぱたく。
「いでっ! な、何で殴るんだよ!」
「うるせぇ、きりきり歩けウスラトンカチ馬鹿」
「ウスラトンカチか馬鹿かどっちかにしぼってくれよ!」
いつも通りのやり取りが、なぜかひどく嬉しい。たまらなくなって、声を立てて笑う。ぶすくれていた比呂也もつられて、一緒に笑った。
更けゆく残暑の夜、浮かぶ月の光の下のことであった。
目の前にふらりと躍り出た、炎の塊も構わず走る。鋭い矢の一撃が、妖の火を穿ち砕いた。刀を水平に持ち直し、半ば当て身のように貫いていく。
哄笑は止まない。無数に浮かぶ天火人、その奥で彼女は哂っていた。
「ゆづ、ゆづ。その身体ちょうだい。その身体、ちょうだい」
繰り返し繰り返しささやきながら、鬼は細い腕を広げる。己の血に染まった指が、月光を反射して粘ついた光沢を放っていた。
「嫌なこった」
弾む呼吸を整えぬまま、弓月は小さく口ずさむ。
十とや 歳神様のお飾りは お飾りは
橙 九年母ほんだわら ほんだわら
開放する。魔を祓う刀の鍵を、収められたその力を。
十一とや 十一 吉日蔵開き 蔵開き
お蔵を開いて祝いましょ 祝いましょ
刀の柄が熱を持った。反射で離しそうになる手のひらを、意思が反して握りこむ。淡く刀身を彩るばかりだった白い焔が、爆発して噴きあがる。全身の力が抜けていく。痛みを訴える体を諌め、きつく奥歯を食いしばった。
十二とや 十二の神楽舞い上げて 舞い上げて
歳神様へ舞納め 舞納め――
最後の旋律が闇に溶ける、それすら待たずに弓月は動いた。
踏み込んで一閃。避けられる。さらに踏み込み二撃目を放つ。少女の髪の先が散った。逃がさず詰めより三撃目。身を沈めてかわされた。
繰り出される爪を鍔で受ける。膝が笑っている。腕は鉛のように重い。呼吸はほとんどできていない。それでも弓月は止まらない。意識が半ば白く沈む。数度衝撃が身体を貫く。痛みはない。血の流れ出る感覚すら遠い。鬼の顔に焦りが浮かぶ。なにやら叫んでいるが聞こえない。まとう炎が白々と照る。軌跡を追いかけ燐光を放つ。
真帆。助けられずに斬った大事な幼馴染。これからもきっと鬼を斬る。憑き物憑きを斬る。人間だったものの屍を乗り越えていく。誰も助けられずに生きる。逃げることもできずに生きる。斬ったものの顔を覚えている。苦しみながら斬っていく。そうすることしかできないから。
許してはもらえないだろう。許してもらわなくても構わない。でもせめて――いつまでも抱え込んで引きずることくらいは、許してほしい。それが自分にできる、唯一の贖罪だから。
角と角の合間が割れる。何かがずるりと這い出てくる。何も考えぬままに踏み込んだ。刃が這い出た何かに食い込んだ。幼い体が痙攣する。この世のものとは思えぬ断末魔。手に伝わる嫌な感触。これもきっと忘れない。幼馴染を殺したときと同じように。きっと、忘れない。
焔が鬼を包み込む。断末魔は灰となる。一瞬少女が浮かべた笑みを、弓月は沈痛な面持ちで見送った。
*
淡く月に照らされる夜道を歩いていく。弓月は比呂也に支えられ、引きずられるような体勢で足を運んでいた。
体力が著しく削られていた上に『月朱雀』の力を上乗せし、おまけに通り穴を塞ぐことで全ての力を使い切ってしまった。身体疲労も精神疲労も著しい。おかげで歩くことすらままならない。
比呂也に体重を預けながら、弓月はようやく抱えていた疑問を口にした。
「……いつ、あいつが鬼になったって気づいた」
今まで長いこと伏せていた事実を、一体いつ知ったのか。別に怒っているわけではなく、ただ純粋に知りたかった。
短い沈黙が降りる。言うのをためらっているのが、何となく分かった。
「真帆の葬式終わった後すぐ。お前、ずうっと泣きそうな顔してたから、覚えてる。しばらく部屋閉じこもってさ、俺が悪いんだ、妖狩なんかやめてやるって言ってただろ……何となくだけど、真帆が死んだのは弓月が関係してたんだなって思ったんだ」
比呂也は少しだけ言葉を切り、またぽつぽつと言葉をつなぐ。
何のことだ、といつものように誤魔化そうとして、やめる。いまさら隠す必要なんてどこにもない。比呂也はもう全部知っているのだ。いまさら何を隠すというのだろう?
「わき腹怪我して帰ってきたときも、蛇の事件の後も、そのときとおんなじ顔してたからさ。もしかして、って思って」
そうだった。弓月はどこか他人事のように思い出す。立て続けに起きたそれに、精神が限界を訴えたらしい。何も食べず、ろくに話さず、真帆のことを思い出してはその感触に吐き気を催していた。
血染めで戻ってきた自分を心配する女将や、珍しく気にかけてきた尊杜を部屋から追い出して、一人でうずくまっていたのだ。
「……だから俺に何も言わないで、全部抱え込んでたんだな。巻き込まないように、真帆と同じことにならないようにって……俺、馬鹿だから全然気づかなかった……ごめん」
なぜか笑いがこみ上げてくる。何も悪くないのに謝る彼がおかしかったし、躍起になって隠していた自分も馬鹿馬鹿しかった。
「……言ったところでいまさら、逃げられるわけでもねぇからな。それに、幼馴染を一回殺してるから、怖くて連れてけねぇなんて……言えるかよ」
半ば自嘲気味に呟くと、
「うん、……ごめん」
二度目の謝罪、そして沈黙。弓月もそれ以上何も言えず、黙り込んだ。
人間を手に掛けたのは、これで四回になった。自分の体はそうカウントしていないけれど、それでも元は人間であったことに変わりは無い。殺してしまった事実は、これからもきっと自分について離れないのだろう。
そんなことを考えていると、比呂也がぽつりと呟いた。
「なぁ、弓月」
「あ?」
「俺さ……悪いことをした奴が殺されればいいとは思ってないし、他人を殺すとか……そういうこともした経験ないし、何より俺は妖狩じゃないただの人間だから、お前の心の中とか分かんねえし。とにかく軽率に聞こえるかもしれないんだけど」
月の光を踏みながら、弓月を肩に背負いながら、比呂也は続きを口にする。
「これからはさ、もっとポジティブに考えたらどうだ?」
「……何?」
「弓月は人間の盾になってくれてる。本当なら、俺らは自分で自分を守らなくちゃなんないけど、それを全部弓月や黑幻さんとか、尊杜さんとかがやってくれてるってわけだろ? だからその……もうさ、いいんじゃないかなって思うんだ」
血を失って麻痺した頭を無理やり叩き起こしながら、弓月は幼馴染の声を拾い上げる。零れ落ちそうになる言葉の欠片を、柄にもなく必死で拾い上げる。
「……何だって? 意味がよく分かんねぇぞ」
「俺だってうまく伝えられねぇんだよ。うーん……楓さんにしても、真帆にしたってさ。弓月のこと、もう恨んでないと思うんだよ、俺は」
拾い上げて、少しずつ解析していく。言っていることを理解するのにこれほど時間がかかるとは。前の言葉を何度も繰り返し反芻しながら、先を促した。
「だって、憑き物憑きとか、憑き物使いとかさ。俺、まだよく分かってないんだけど。自分が自分じゃなくなるんだろ? それって、すごく怖いし、苦しいと思うんだよ」
沈黙が降りる。まるでこちらが意味を汲み取るのを待っているようだった。否、実際待っているのだろう。
それでも、動かない思考回路では限界があった。回りくどく言いやがって、と少しばかり恨みがましく思う。
「何が言いたいのか、簡潔に言え」
「んー、だからうまく言えないんだって……要はさ、弓月はその、怖いのとか、苦しいのとかから、そういう人たちを助けてあげてるんじゃねぇのかなって思うんだ」
無造作に渡されたその言葉は、弓月を驚かせるのには十分すぎた。そんなことを言われたのは初めてだ。そんな考え方をする奴に会ったのも、初めてだ。
「……救ってなんか、いねぇさ」
返す否定は、情けないくらいに震えていた。
「憑き物憑きは魂を食われて人間じゃなくなるし、憑き神使いは自分の意思で妖と手を結ぶ……」
人間の意思がなくなったモノを斬り、妖に手を貸した人間を斬る。これのどこが、彼らを救っているというのだろう。命を奪うだけの行為に、そんな大層な意味などありはしない。
「……真帆は俺に、痛い、助けてと言った。死に行く者の遺す、これほど痛烈な恨み言もねぇだろ」
大きな瞳を潤ませ、肩に爪を食い込ませて、真帆は弓月にそう言った。あのときの声を、あのときの表情を、あのときの痛みを、決して忘れることはないだろう。
不意に景色に重なったその姿を、比呂也の声が覆い隠す。
「俺はそう思わないなぁ。痛いのは当たり前だし……助けては多分、早く終わらせてくれって意味だったんじゃないかな。真帆はそういう奴だったし、いなくなる直前にそう言ってたから」
今度こそ、弓月は言葉を失った。真帆が――死ぬ前日に、元に戻ったというのか。一時的だとはあれ、自力で憑き物の呪縛を逃れたというのか。そんな事例、聞いたことすらない。
それを空気で察したのか、比呂也が一拍の間を置いて続ける。
「あいつ、いなくなる前の日に俺のところ来て、ゆづにばっかりつらいことさせちゃってごめんね、ゆづのせいじゃないからね、ありがとう、って言ってたんだ。きっとその日は何もいえないから、今言っておくってさ……」
一つ二つ息をして、比呂也は申し訳なさそうに視線を空へ向けた。月光がわずかな風にあおられて、地上に光の波を作っている。
「……そんな話……初耳だ」
かろうじてしぼり出した言葉に、比呂也もやや逡巡してから答える。
「お前、すごくショック受けてたから……言い出せなかったんだ。ごめんな、弓月」
十年の歳月を経て伝えられた彼女の言葉を、弓月はじっと噛み締める。
疑うこともできる。鬼に憑かれた人間なのだから、比呂也に言ったことも全て恨みの産物だと、本心など欠片もないと判断することだってできる。比呂也のところへやってきて、油断させて食うつもりだったのかもしれない。
だけど。
「……あいつ、優しかったからな」
低く小さく、呟いた。
人が傷つくのを、他人事のくせに悲しむ子どもだったから。だからきっと、遺された最期の魂が伝えにきたのだ。自分が苦しまないように、傷つかないように。都合のいい解釈かも、しれないけれど。
「楓さんにも同じこと言われてただろ? 尊杜さんに頼んで、近くで聞いてたんだ」
「あぁ……そうだな」
術者の命を絶たなければ、呪いは消えることがない。あの女性はそれを承知だった。愛する姉をこれ以上悲しませないために、弓月の刃を受け入れたのだ。
ごめんなさい、ありがとう。
呪いの力に手を染めた女性は、最期にそう言い遺して命を散らした。鬼の寄り代になった、名前も知らない少女たち。苦悶の声の後に笑った気がしたのは、気のせいではなかったのだろうか。
果たして本当に、自分のしていることが救いになっているのだろうか。妖を狩り、妖となった人を殺し、それでも本当に救っていると言えるのか。
「弓月」
胸中の声を聞いていたかのように、比呂也が強く名を呼んだ。
「お前がそうやって妖を斬って、俺たちの代わりに重たいものを背負ってくれてるから、俺たちは安心して暮らしていける。人間を斬るときも、お前はちゃんと相手のことを考えてるんだろ」
「さあな」
「考えてるよ。だってお前……すごく、切なそうな……悲しそうな顔してたから。相手のこと考えてなかったら、そんな顔しねぇよ」
ああ、そうだ。こいつはここで見ていたのだ。人間の形をしたものを斬る、その瞬間を最後まで見ていたのだ。今回だけじゃない。こいつは昔から、こうして一緒にいたじゃないか。両親が死んだときも、真帆が死んだときも、声が出なくなったときも、鬼の事件の後も、蛇の事件の後も。こうやって傍にいて、支えてくれていたじゃないか。
ゆっくりと、音と意味が身体の奥へ浸み込んでいく。
「お前のしてることは、お前が思ってる以上に救いになってる。それは、絶対間違いない」
弓月の身体を支えなおし、比呂也はぼそりと呟いた。
「それに俺……お前とずっと一緒にいるって決めたんだ。お前のこと、助けるって決めた。これからは一人で抱え込ませねーよ」
誰かが肯定してくれることが、これほどまでに安心するなんて知らなかった。誰かが傍にいることが、こんなにも心強いなんて知らなかった。今まで一人で生きてきたから、なのかもしれない。
(違う……)
一人ではなかった。一人で生きてきたわけではなかった。こうして支えてくれる人がいたから、自分はこうして立っていられた。掬い上げてくれる人がいたから、今まで歩いてくることができた。改めて、それを実感する。実感して、それがひどく嬉しく思えた。
「比呂也」
「ん」
今までもそうだったのだから、これからもそうに違いない。そうであってほしい。
「ありがとな。お前がいてくれて……よかったぜ」
「これからもいるから、安心しろよ」
すかした言い方が似合わなくて、弓月は思わず口の端を緩ませる。
妖狩、人の盾であれ。
この使命、彼らのためならばいくらでも受け入れよう。不特定多数の盾であり、大事な人たちの盾になる。それならば、いくらだってなろうではないか。そういう解釈ならば、妖狩の使命も悪くない。そう思った。
何だか照れ臭くなって、弓月は比呂也をひっぱたく。
「いでっ! な、何で殴るんだよ!」
「うるせぇ、きりきり歩けウスラトンカチ馬鹿」
「ウスラトンカチか馬鹿かどっちかにしぼってくれよ!」
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