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中編

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「小夜ちゃん明日は大学もここも休みだよね? 今日のバイトが終わったら俺とご飯行かない?」
「まかない食べるんで遠慮させていただきます」
「遠慮なんてしなくて良いのにぃ」
「ご注文の品は以上でお揃いですよね? 失礼します」

 失礼します。の『す』の部分に思いきり力を込めて踵を返す。お客様は彼だけではないのだ。空いた席は片付けて、ミルクやガムシロップの補充だってしなければ。

 ──と他のことへ意識を飛ばしたのがいけなかったのか。

 ガチャン。

 腰の辺りに衝撃を感じて、顔だけを後ろに向ける。
 そこで私が目にしたものは──


「「 あ 」」


 私と彼の声がハモる。
 運んだばかりで一口も飲まれていないアイスコーヒー。お水のグラスだってさっき注ぎ足した。
 その中身がなみなみ入っていたはずの2つのグラスが倒れている。
 倒したのは私。無駄に力を込めて踵を返したせいで腰がテーブルにぶつかったのだ。
 そして流れ出る琥珀色と無色透明の液体が濡らすのは、彼のノートパソコン、質の良さが一目でわかるシンプルなニットとデニムのパンツ。私には一生縁がないであろう高級品のカシミヤのコート。


 え。どういうこと?


 ここでのバイトを始めてから初めての大きなミスに思考も体もフリーズする。

「っ! 申し訳ありません! 今、拭くものをお持ちします!」
「あ~大丈夫、大丈夫。小夜ちゃん慌てないで? それよりも腰ぶつけて痛くなかった?」
「私の心配より自分の心配してください! 服、ビチャビチャじゃないですかっ。パソコンだって……!」
「小夜ちゃん、深呼吸深呼吸。……うん、上手。ゆっくりで良いから、タオル持ってきてくれるかな?」

 そこからは何故かミスをした店員の方がびしょ濡れのお客様に慰められて。
 店にあるタオルを全部抱えてきたんじゃないかと思う程のタオルを持ってきてくれた内田さんと店長に手伝って貰って。


『んーさすがにここまで濡れちゃうと着替えなきゃ無理かな。俺のマンション近くて良かったぁ。店長、小夜ちゃんは今日はもう早退で良いかな? 動揺しちゃってるし、このお漏らしみたいな位置の染み、小夜ちゃんが一緒に歩いてくれれば目立たないし。うちまで徒歩5分だから誰かに着替え持ってきて貰うより自分で帰っちゃった方が早いしね』


 気がつけば守られるように肩を抱かれて彼のマンションまで歩いて来ていた。


『あの、私、弁償します!』
『え、いーよいーよ。気にしないで』
『そんなわけにはいかないです! 弁償、させてください! 私にできることなら、なんでもしますから……っ』

 なんでも。
 その言葉に目の前の悪魔がほくそ笑んだことをこの時の私に教えてやりたい。

『んー……そんなに言うなら、小夜ちゃん、頑張ってみる?』

 そう言って書かされたのが、あの『契約書』だ。



*



「小夜ちゃん、べーってして。べー」

「…………」

「はーい。契約書読みまーす。『私、草川小夜は三条涼介さんの借金返済のため、唾液を5万円で提供します』ね。OK? それで、オプションはコスプレね。小夜ちゃんがコスプレで30分俺の家で過ごす毎に1万円ね? 正直あのコートとか服の値段はよく覚えてないんだけど、90万くらいだったかな。あ、コートの方の値段ね。んで、パソコンは画面つかなくなっちゃったからデータがどこまで無事か不明。だからとりあえず小夜ちゃんが俺に弁償するぶんは暫定90万。サンタ姿で俺と18回ベロチューすれば即返済可能! むしろおつりが来ちゃう! お得だねぇ、安心だねぇ。……ってことで、小夜ちゃん、べー?」

 弁償する。とも、なんでもする。とも言ったのは確かに私の方だ。だけど冷静になって考えると、今の状況に不自然な点が多すぎる気がしてきた。
 あの倒れたグラスは本当に私だけのミスだったのだろうか。コーヒーの染みだって、染み抜きすれば落ちたかもしれない。

(……うん、でもまぁグラスをあそこに置いたのは私だし、テーブルにぶつかったのも確かだし。染みも落ちるかわかんないし。この人に弁償するのは仕方ないわ。弁償額の確定ももっと後で良かった気もするけど、うん、気持ち切り替えてこ。人生前向き前向き。……でもさ、こんな浮かれた衣装ミニスカサンタ着せてツバ飲ませろとかやっぱり頭イカれすぎじゃない?)

「さーよちゃん?」

 確実に自分の顔の良さを自覚している男が、こてんとあざとく首を傾げてベッドに繋がれた私を覗き込む。

「くっ……!」

 もうこうなったらどうにでもなれ。
 嫌なことはさっさっと済ませるに限る。
 小学生の時の予防接種の注射だって、終わってしまえばどうってことなかった。


「……ふふっ。小夜ちゃんのベロ、紅くて小さくて、かーわい。チロッて出てるの、猫ちゃんみたい」

「気持ち悪い評価は良いからさっさっとしろ……!」

「もっと甘い雰囲気出してくれても良いのにぃ。けど、まぁいいや。俺が甘くすれば良いことだしね? 念願の小夜ちゃんのベロとツバ、いっただきまーす」


 最初は舌先同士がちょっとだけ触れ合うように。
 だけどそれはすぐに深いものに変わって。
 獰猛な光を宿し始めた瞳に射抜かれながら彼の熱い口内へと誘い込まれる。

「ん、ふ……ぁっ」


(キスって、こんな気持ちいいものなんだ)


 キス。
 私にとってはコート代の弁償のためだけど。
 彼にとっても唾液の摂取なんてとんでもない目的のためだけど。
 これは間違いなく、私の人生で初めての、キスだ。


(クリスマスイブにファーストキス体験とか、シチュエーションだけならロマンチック……)


 そんなことを考えていたら、ゴクリ。と彼の喉仏が上下した。

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