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前編

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「はい、小夜さよちゃん。いつでもドーゾ? 契約書通りに『小夜ちゃんの唾液を一回飲ませてくれるごとに5万円』をあげる」

 契約書。の言葉にあわせて男がその端正な顔の横でピラピラと白い紙を揺らす。
 あの紙をビリビリに破り捨てることができたら、どんなに気分がスッとするだろう。

「小夜ちゃんの体液なら涙や血でも美味しそうだけど、好きな女の子を傷つけたり泣かせるのは趣味じゃないんだよね。……あ、でも、小夜ちゃんがエッチなことされて気持ちよくて気持ちよくて出ちゃった涙とか、経血を直にとかなら飲みたいかな」

「黙れ変態。私の耳をこれ以上汚すな」

「ふふーん。変態は否定しないけど? でも俺がこんな風に思うのは小夜ちゃん相手限定だけどね?」

 ギシリ。とキングサイズのベッドに長身を乗せて、男が手錠で両手を頭の上で繋がれた私ににじり寄る。

「かーわいっ。ミニスカサンタ姿で逃げられなくされてる小夜ちゃん、超かわいー。黒もイイけど、やっぱ王道は赤だよねぇ」

「……なんでさっきの今で、こんな衣装も手錠もすぐ用意できんのよ。あんた、私のこと絶対ハメたでしょ」

「わー、小夜ちゃんの口から『ハメる』だなんて興奮しちゃうなぁ。衣装も手錠も、うちの系列から持ってこさせただけだけど? ほら、うち、最近アダルト系のグッズにも力入れ始めたから。手錠、痛くない? モコモコのやつだから傷にはならないと思うけど、痛かったらすぐ言ってね」

「痛くないけど今すぐ外せ変態」

「またまたー。小夜ちゃん、ちゃんとこの契約書の『オプション』に印つけてるじゃん。『コスプレ可』ってさぁ」

「私が可だと言ったのはコスプレまでであって手錠のことは想定外ですけど?!」

「だって俺が考えてたコスプレって『悪い組織に捕まってエッチなイタズラをされちゃうミニスカサンタちゃん』のコスプレのことだもん。間違ってないよ? 小夜ちゃん、今度から契約書にサインする時はサインする前にちゃんと確認しよ? でないと小夜ちゃんみたいなかわいー子、あっという間に食い物にされちゃう」

 ぴら~ぴら~と、長く形の良い指に挟まれた『契約書』が、まるで猫をじゃらすように左右に揺れる。

 その憎い紙面には、バッチリ【草川小夜くさかわさよ】の署名と【私、草川小夜は三条涼介さんじょうりょうすけへの借金返済のため、唾液を5万円で提供します】の文が私の直筆で書いてあった。


*


 ことの発端は数時間前。バイト先のコーヒーショップでのことだった。

「ね、ね、今日も来てるよーっ『プリンス』!」

 制服の紺色のワンピースと白いフリルのエプロンに着替えてロッカールームから出てきた私に、同期の内田うちださんがはしゃいだ声で私に耳打ちする。

「……げぇ」

 彼女が指差した『いつもの窓際のテーブル席』をチラ見して、思わず本音の呻きが漏れた。

「げぇって、草川さん何が不満なのーっ? プリンスだよプリンス! 日本を代表する大企業の三条家グループの御曹司だよ?! 三条涼介さん22歳だよ?! しかもあの美貌! あの長身っ! あの脚の長さっ!! 私が草川さんだったら、あんな現代のリアル王子様に告白されたら即オッケーだよ?! それともやっぱり草川さんみたいな美少女は理想が高いの?! 前に彼氏も好きな人もいないって言ってたよね?!」

「ちょ、内田さん声大きい……っ。そして私は現在二十歳で『美少女』って歳ではないし、理想だって『身の丈にあった相手と身の丈にあった平凡な付き合いをしたい』という、どっちかって言うとハードルは低い方──」

「あーやっぱり少女は否定しても『美』の方は否定しないんだっ! そうだよねぇそうだよねぇ! キューティクル艶々で一度も染めたことのないサラッサラの髪の毛、素っぴんなのにバッサバサなまつ毛とプルプルの唇! 草川さん、ファンデーションなんて塗ったことないでしょう?! あーん! 羨ましいっ! こんな小動物系美少女の草川さんがプリンスと付き合ってくれたら、マジであれこれ聞き出して現代のシンデレラストーリー2018としてネタにするのにぃっ!」

「だからっ、内田さん、声大きいから……!」

 常に妄想が暴走しがちな同期の内田さん。
 彼女をいさめるべき店長は何をしているのかと店内を見回せば、バッチリ(?)目をハートにして例の『プリンス』とやらに釘付けだった。
 店長、妻子持ちの既婚者なのにっ!

 そして当然のことながらこちらの騒ぎに気づいた『プリンス』が、広げていたノートパソコンの画面から顔を上げ、私たちに向かって微笑んだ。
 瞬間、内田さんと店長が黄色く叫ぶ。
 店長、奥様との愛は本物ですよね?!

「ほら行って! 草川さん、注文のアイスコーヒー届けに行って!」
「えっ、アイス? あの人いつもはホットですよね?」
「今日はイブだけど暖かいからね! ほら!」

 内田さんと店長に背中を押され、渋々『プリンス』の元へ向かう。

 窓際の二人がけのテーブル席。
 ホワイトクリスマスにはなりそうにない暖かな陽の光を受けて、その柔らかな髪が茶色に透ける。
 日本人離れした彫りの深い二重に高い鼻梁。少し垂れた目尻が更に彼の外見を甘いものにしている……と言うのは内田さんの言葉。
 オフホワイトのニットとデニムのパンツ。シンプルなデザインだけれど質の良さが一目でわかる服たちが彼のバランスのとれた肢体を引き立てる。

(コートもあれ絶対カシミヤだよね。すごく高そう……)
 中流家庭で生まれ育ち、中流の大学に通う私には一生縁のないであろう高級品。

「……アイスコーヒー、テーブルのこちらに失礼します。ご注文の品は以上でお揃いでしょうか」
 言いながら株価やら何やら難しそうな文字が並ぶ画面のノートパソコンを避けて、なるべく端の方へとグラスを置いた。
 ついでに先に出してあったお水のグラスもコーヒーの横へ移動させる。

(あとでフード注文された時にこっちの方が出しやすいからね)
 後々のことを考えたちょっとした手間も、置く時に音を出さない動作も、ここで半年働いた今では慣れたものだ。
 そんな私の一挙手一投足を薄茶色の瞳でガン見していた『プリンス』がさっさっと立ち去ろうとした私を引き留める。

「ん、ありがとう。こんにちは小夜ちゃん。イブの今日も夜までバイト?」
「そうですね。学費と家賃以外の生活費を自分で稼ぐのが一人暮らしの条件なので」
「あー、めっ! ダメだよ小夜ちゃんっ。一人暮らしだなんて情報、軽々しく言ったらストーカーされちゃう」
「私が自分で一人暮らしだって言う前に調べあげてたストーカーに言われたくないです」

 夏前から始めたウェイトレスのアルバイト。
 まかないが美味しくて気に入っていたのに。
 アレ・・はハロウィンの時期だったか。
 この店が入るこのビルのオーナーだというこの男が私の前に現れてから私の平和なバイト生活は一変した。


『ヤバイ、俺、一目惚れかも!』
『名前なんて言うの? 俺は三条涼介!』
『ね、俺と付き合おうよ!』


 日本を代表するトップ企業の御曹司のはずなのに。この男は軽々しく私にそう告げた。

(いや、むしろ一般庶民と金銭感覚や価値観がかけ離れすぎてて逆にチャラい可能性も……?)


『私、自分と生育環境が違い過ぎる人も軽い人も苦手なので』


 バイト先のビルのオーナーだろうと御曹司だろうと関係ない。私が付き合うのは私が好きになった人だけだ。
 告白?と言うにはあまりに軽いその言葉を即座にぶった切った私に、男は目を輝かせてこう叫んだ。



『……ヤッバイ! 君のこと、本気で気に入っちゃった!』



 ──以来、コイツは私のシフトの度に店に来るストーカーと化した。

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