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第19章 雨の慟哭
その雨は、椎葉の里の希望を洗い流すかのように、三日三晩降り続いた。
視界は白く煙り、自慢の塹壕は泥沼と化している。
「くそっ、火薬が湿気っちまう!」
見張り台で、警備隊長の吾作が防水布を必死に被せながら悪態をついた。
博史は濡れた前髪をかき上げ、重苦しい空を見上げた。
最悪だ。気球は飛ばせない。そして何より、黒色火薬は湿気に弱い。油紙の薬莢を使ってはいるが、この豪雨の中で激しい戦闘を行えば、不発率(ジャム)は跳ね上がる。
ギャレットがこの好機を見逃すはずがない。
予感は的中した。
雨音に紛れて、ドロドロの地面を這う無数の「黒い影」が、塹壕の目の前まで迫っていたのだ。
「Fix bayonets!(着剣!)」
雷鳴と共に、ギャレットの号令が轟いた。
一斉に立ち上がった黒い軍団の銃口には、鋭利な銃剣(スパイク)が装着されていた。射撃戦ではない。泥沼の白兵戦を仕掛けてきたのだ。
「敵襲ぅぅ!! 数、数え切れません!」
「撃て! 近づけるな!」
博史が叫ぶが、ライフル隊の反応は鈍い。
カチッ、カチッ。
撃鉄が落ちる音だけが響く。
「火がつかねぇ!?」
「不発だ! ちくしょう!」
頼みの綱である火力が封じられた。
その隙に、黒い軍団が波のように塹壕へとなだれ込んでくる。
殺到する銃剣。悲鳴。泥水が赤く染まっていく。
「ひるむな! 槍を使え! 刀で応戦しろ!」
博史はライフルを捨て、腰の打刀を抜いた。本来、彼は剣術の達人ではない。だが、指揮官が退くわけにはいかない。
目の前に飛び込んできた敵兵の突きを泥に滑りながらかわし、無我夢中で斬りつける。重い手応え。
だが、多勢に無勢だ。
一人倒しても、次から次へと黒い兵士が湧いてくる。
鍛え上げられたギャレットの兵たちは、泥の中でも体勢を崩さず、機械のように正確に殺戮を繰り返していく。
「大将! ここはもう持ちません!」
全身泥まみれの吾作が、博史の元へ駆け寄ってきた。その肩には矢が刺さっている。
「第二防衛線まで下がってください! 俺たちが殿(しんがり)を務めます!」
「馬鹿言うな! 一緒に下がるんだ!」
「無理です! 誰かが止めなきゃ、里まで一気に踏み込まれます!」
その時だった。
敵陣の後方から、ひときわ大きな影が現れた。
ジョン・ギャレットだ。
彼は雨合羽(ポンチョ)を羽織り、手に持った大型のリボルバー(コルト・ウォーカーの複製品)を構えていた。
「Found you, Doctor.(見つけたぞ、博士)」
ギャレットの冷酷な瞳が博史を捉える。
距離は十メートル。
銃口が火を噴いた。
ドォン!!
博史は反応できなかった。
だが、衝撃は来なかった。
目の前に、吾作の背中が割り込んでいたからだ。
「……ぐっ!?」
吾作の胸板を、44口径の鉛玉が貫通した。
血飛沫が博史の顔にかかる。
「吾作!!」
「……大将、はやく……逃げ……」
吾作は崩れ落ちながらも、最期の力を振り絞り、博史を塹壕の後方へと突き飛ばした。
直後、黒い兵士たちが吾作の体に殺到し、無数の槍が彼を串刺しにした。
「う、あぁぁぁぁぁ!!!」
博史の絶叫が雨に消される。
孫六と数人の兵が、錯乱する博史を無理やり抱え上げ、走った。
「離せ! 吾作が! 吾作がまだ!」
「死にました! 今戻れば大将も死ぬ! 吾作の死に場所を汚すんじゃねぇ!」
孫六の鉄拳が博史の頬を張った。
その痛みで、博史はハッと我に返った。
泥だらけの視界の向こう、吾作だった肉塊が、泥の中に沈んでいくのが見えた。
彼は最後まで、博史を守るために盾となったのだ。
***
椎葉の里、最終防衛ラインである「城門」の中へ、ボロボロになった敗残兵たちが転がり込んだ。
重い門が閉ざされる。
第一防衛線、突破。
死者、三百名以上。
そして、創業時からの仲間である警備隊長・吾作の戦死。
城の中庭。
博史は泥の中に膝をつき、嘔吐した。
胃の中のものを全て吐き出しても、震えが止まらない。
自分の命令で人が死んだ。自分の知識が足りなかったせいで、あんなにも良い奴が死んだ。
「……博史様」
小雪が駆け寄り、泥だらけの博史を強く抱きしめた。
彼女の着物もまた、運び込まれた負傷兵の血で赤く染まっている。
「吾作が……僕を庇って……」
「分かっています。見ていました」
小雪は涙を流しながらも、博史の顔を両手で挟み、無理やり上げさせた。
「泣いている暇はありません。敵はもう、目の前です。あなたが折れたら、吾作の死は無駄になります」
その声は厳しく、そして悲痛だった。
博史は歯を食いしばり、立ち上がった。
吾作の血がついた手を握りしめる。
「……総員、城郭内に立て籠もる」
声は掠れていたが、もう迷いはなかった。
「工房にある全ての火薬、鉄、油をかき集めろ。ここを奴らの墓場にする」
雨はまだ降り止まない。
城門の外からは、勝利を確信したギャレット軍の鬨の声と、門を叩く破城槌(バタリング・ラム)の音が響き始めていた。
ドン、ドン、ドン……。
それは、椎葉の終わりを告げるカウントダウンのようだった。
残された時間は、あと僅か。織田の援軍まで、あと十日。
(第19章 完)
視界は白く煙り、自慢の塹壕は泥沼と化している。
「くそっ、火薬が湿気っちまう!」
見張り台で、警備隊長の吾作が防水布を必死に被せながら悪態をついた。
博史は濡れた前髪をかき上げ、重苦しい空を見上げた。
最悪だ。気球は飛ばせない。そして何より、黒色火薬は湿気に弱い。油紙の薬莢を使ってはいるが、この豪雨の中で激しい戦闘を行えば、不発率(ジャム)は跳ね上がる。
ギャレットがこの好機を見逃すはずがない。
予感は的中した。
雨音に紛れて、ドロドロの地面を這う無数の「黒い影」が、塹壕の目の前まで迫っていたのだ。
「Fix bayonets!(着剣!)」
雷鳴と共に、ギャレットの号令が轟いた。
一斉に立ち上がった黒い軍団の銃口には、鋭利な銃剣(スパイク)が装着されていた。射撃戦ではない。泥沼の白兵戦を仕掛けてきたのだ。
「敵襲ぅぅ!! 数、数え切れません!」
「撃て! 近づけるな!」
博史が叫ぶが、ライフル隊の反応は鈍い。
カチッ、カチッ。
撃鉄が落ちる音だけが響く。
「火がつかねぇ!?」
「不発だ! ちくしょう!」
頼みの綱である火力が封じられた。
その隙に、黒い軍団が波のように塹壕へとなだれ込んでくる。
殺到する銃剣。悲鳴。泥水が赤く染まっていく。
「ひるむな! 槍を使え! 刀で応戦しろ!」
博史はライフルを捨て、腰の打刀を抜いた。本来、彼は剣術の達人ではない。だが、指揮官が退くわけにはいかない。
目の前に飛び込んできた敵兵の突きを泥に滑りながらかわし、無我夢中で斬りつける。重い手応え。
だが、多勢に無勢だ。
一人倒しても、次から次へと黒い兵士が湧いてくる。
鍛え上げられたギャレットの兵たちは、泥の中でも体勢を崩さず、機械のように正確に殺戮を繰り返していく。
「大将! ここはもう持ちません!」
全身泥まみれの吾作が、博史の元へ駆け寄ってきた。その肩には矢が刺さっている。
「第二防衛線まで下がってください! 俺たちが殿(しんがり)を務めます!」
「馬鹿言うな! 一緒に下がるんだ!」
「無理です! 誰かが止めなきゃ、里まで一気に踏み込まれます!」
その時だった。
敵陣の後方から、ひときわ大きな影が現れた。
ジョン・ギャレットだ。
彼は雨合羽(ポンチョ)を羽織り、手に持った大型のリボルバー(コルト・ウォーカーの複製品)を構えていた。
「Found you, Doctor.(見つけたぞ、博士)」
ギャレットの冷酷な瞳が博史を捉える。
距離は十メートル。
銃口が火を噴いた。
ドォン!!
博史は反応できなかった。
だが、衝撃は来なかった。
目の前に、吾作の背中が割り込んでいたからだ。
「……ぐっ!?」
吾作の胸板を、44口径の鉛玉が貫通した。
血飛沫が博史の顔にかかる。
「吾作!!」
「……大将、はやく……逃げ……」
吾作は崩れ落ちながらも、最期の力を振り絞り、博史を塹壕の後方へと突き飛ばした。
直後、黒い兵士たちが吾作の体に殺到し、無数の槍が彼を串刺しにした。
「う、あぁぁぁぁぁ!!!」
博史の絶叫が雨に消される。
孫六と数人の兵が、錯乱する博史を無理やり抱え上げ、走った。
「離せ! 吾作が! 吾作がまだ!」
「死にました! 今戻れば大将も死ぬ! 吾作の死に場所を汚すんじゃねぇ!」
孫六の鉄拳が博史の頬を張った。
その痛みで、博史はハッと我に返った。
泥だらけの視界の向こう、吾作だった肉塊が、泥の中に沈んでいくのが見えた。
彼は最後まで、博史を守るために盾となったのだ。
***
椎葉の里、最終防衛ラインである「城門」の中へ、ボロボロになった敗残兵たちが転がり込んだ。
重い門が閉ざされる。
第一防衛線、突破。
死者、三百名以上。
そして、創業時からの仲間である警備隊長・吾作の戦死。
城の中庭。
博史は泥の中に膝をつき、嘔吐した。
胃の中のものを全て吐き出しても、震えが止まらない。
自分の命令で人が死んだ。自分の知識が足りなかったせいで、あんなにも良い奴が死んだ。
「……博史様」
小雪が駆け寄り、泥だらけの博史を強く抱きしめた。
彼女の着物もまた、運び込まれた負傷兵の血で赤く染まっている。
「吾作が……僕を庇って……」
「分かっています。見ていました」
小雪は涙を流しながらも、博史の顔を両手で挟み、無理やり上げさせた。
「泣いている暇はありません。敵はもう、目の前です。あなたが折れたら、吾作の死は無駄になります」
その声は厳しく、そして悲痛だった。
博史は歯を食いしばり、立ち上がった。
吾作の血がついた手を握りしめる。
「……総員、城郭内に立て籠もる」
声は掠れていたが、もう迷いはなかった。
「工房にある全ての火薬、鉄、油をかき集めろ。ここを奴らの墓場にする」
雨はまだ降り止まない。
城門の外からは、勝利を確信したギャレット軍の鬨の声と、門を叩く破城槌(バタリング・ラム)の音が響き始めていた。
ドン、ドン、ドン……。
それは、椎葉の終わりを告げるカウントダウンのようだった。
残された時間は、あと僅か。織田の援軍まで、あと十日。
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