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第6章:LAの乾いた風
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カリフォルニアの空は、暴力的なほどに青かった。
湿り気のまったくない、乾いた風が頬を叩く。東京の、あの纏わりつくような湿度が嘘のようだ。
ロサンゼルス、サンタモニカ。
優音がこの街に来てから、三週間が経っていた。
「Can I get a... coffee?」
「What size? Tall? Grande?」
「Ah... small, please.」
カフェのカウンターで注文するだけで、掌に汗をかく。
英語は高校レベル。日常会話すらままならない。
日本では「チャート1位の歌手」だった自分が、ここでは言葉も満足に話せない、ただのアジア人の小柄な女の子だ。
誰も私を知らない。誰も私を見ない。
その事実は、寂しさよりもむしろ、奇妙な解放感を優音に与えていた。
生活は質素だった。貯金を切り崩し、治安の悪くないエリアのシェアハウスの一室を借りた。
日中は語学学校に通い、夕暮れになるとギターを持ってサード・ストリート・プロムナードへ向かう。そこは多くのパフォーマーが集まる場所だ。
ジャグリングをする大道芸人、大音量でラップをする黒人青年、バイオリンを弾く老人。
その端に座り、優音はギターケースを開ける。
日本の歌謡曲や、自分で作ったメロディを歌う。
最初は怖かった。
けれど、ここの人々は正直だ。良いと思えば立ち止まり、ドル紙幣を投げ入れてくれる。つまらなければ、空気のように通り過ぎる。
「バーター」も「事務所の力」も関係ない。そこにあるのは、剥き出しの実力主義だけだった。
ある日の夕暮れ。
海からの風が強くなり始めた頃、優音は古い日本の童謡『赤とんぼ』をジャズ風にアレンジして歌っていた。
哀愁を帯びたメロディが、オレンジ色に染まる街並みに溶けていく。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
人混みの中に、一人の男が立ち止まっていた。
金髪に近い明るい茶色の髪、ラフなTシャツにサングラス。片手にはテイクアウトのコーヒーカップ。
彼は観光客のように通り過ぎるでもなく、他の通行人のように冷やかすでもなく、ただ静かに優音を見つめていた。
曲が終わると、彼はゆっくりと近づいてきた。
サングラスを外すと、透き通るようなヘーゼル色の瞳が現れた。
「Interesting.(面白いね)」
低いけれど、よく通る声だった。
「It's not Blues, not Jazz... What is this scale? It sounds like crying, but... warm.(ブルースでもジャズでもない……なんて音階だ? 泣いているみたいに聞こえるのに、温かい)」
優音は拙い英語で答えた。
「Japanese... Folk song.」
男は興味深そうに眉を上げた。
「Japanese... I see. You have a unique voice. Like a polished glass found on the beach.(日本人か。君の声はユニークだ。砂浜で見つけた磨かれたガラスみたいだ)」
彼はそう言うと、持っていたコーヒーを足元に置き、いきなり優音のメロディに合わせてハミングを始めた。
優音は驚いたが、そのハミングのあまりの精度の高さに息を呑んだ。
彼が重ねたのは、西洋的な和声の理論とは少し違う、けれど『赤とんぼ』のメロディを劇的に引き立てる、洗練されたハーモニーだった。
即興のセッション。
言葉はいらなかった。音が重なるたびに、優音の胸の中で燻(くすぶ)っていた音楽への情熱が、火花のように散った。
蓮がいなくても、私は歌える。
いや、蓮がいないからこそ、私の声はここで自由になれたのだ。
最後の音の余韻が消えると、周囲からパラパラと拍手が起きた。いつの間にか数人の通行人が足を止めていたのだ。
男はニカっと屈託のない笑みを浮かべ、右手を差し出した。
「I'm Adam. Make music with me?(俺はアダム。一緒に音楽をやらないか?)」
アダム。
その名は、最初の人間。
優音にとって、この何もない荒野のようなLAで出会った、最初の「理解者」だった。
「...Yes. I'm Yuon.」
優音が恐る恐るその手を握り返すと、アダムの手は大きく、そして熱かった。
その温もりが、冷え切っていた優音の心に火を灯す。
だが、その光が、あまりにも眩しすぎて影を濃くすることに、この時の優音はまだ気づいていなかった。
アダムはダウンタウンにある自分のスタジオに優音を招いた。
そこは、最新鋭の機材と、乱雑に積まれたレコードの山で埋め尽くされていた。彼はインディーズながらも名の知れたプロデューサー兼シンガーだったのだ。
「君のそのオリエンタルな旋律(メロディ)センスと、俺のトラックメイクを融合させれば、新しいジャンルが作れる」
アダムは水を得た魚のように語り、次々と音源を聴かせてくれた。彼の作る音楽は自由で、型に囚われず、何より楽しそうだった。
日本の業界で感じていた「売れるための正解」を探す窮屈さが、ここにはない。
「You act like a muse.(君はミューズみたいだ)」
作業の合間、アダムは優音の髪に触れ、甘い声で囁いた。
異国の地での孤独、自分を認めてくれる存在、そして音楽的な共鳴。
優音が彼に惹かれるのに、そう時間はかからなかった。
蓮への想いを断ち切るために、別の誰かの熱に身を委ねる。
それが逃避の続きであるとしても、今の優音にはこの「偽りのハーモニー」が必要だった。
(第6章 完)
湿り気のまったくない、乾いた風が頬を叩く。東京の、あの纏わりつくような湿度が嘘のようだ。
ロサンゼルス、サンタモニカ。
優音がこの街に来てから、三週間が経っていた。
「Can I get a... coffee?」
「What size? Tall? Grande?」
「Ah... small, please.」
カフェのカウンターで注文するだけで、掌に汗をかく。
英語は高校レベル。日常会話すらままならない。
日本では「チャート1位の歌手」だった自分が、ここでは言葉も満足に話せない、ただのアジア人の小柄な女の子だ。
誰も私を知らない。誰も私を見ない。
その事実は、寂しさよりもむしろ、奇妙な解放感を優音に与えていた。
生活は質素だった。貯金を切り崩し、治安の悪くないエリアのシェアハウスの一室を借りた。
日中は語学学校に通い、夕暮れになるとギターを持ってサード・ストリート・プロムナードへ向かう。そこは多くのパフォーマーが集まる場所だ。
ジャグリングをする大道芸人、大音量でラップをする黒人青年、バイオリンを弾く老人。
その端に座り、優音はギターケースを開ける。
日本の歌謡曲や、自分で作ったメロディを歌う。
最初は怖かった。
けれど、ここの人々は正直だ。良いと思えば立ち止まり、ドル紙幣を投げ入れてくれる。つまらなければ、空気のように通り過ぎる。
「バーター」も「事務所の力」も関係ない。そこにあるのは、剥き出しの実力主義だけだった。
ある日の夕暮れ。
海からの風が強くなり始めた頃、優音は古い日本の童謡『赤とんぼ』をジャズ風にアレンジして歌っていた。
哀愁を帯びたメロディが、オレンジ色に染まる街並みに溶けていく。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
人混みの中に、一人の男が立ち止まっていた。
金髪に近い明るい茶色の髪、ラフなTシャツにサングラス。片手にはテイクアウトのコーヒーカップ。
彼は観光客のように通り過ぎるでもなく、他の通行人のように冷やかすでもなく、ただ静かに優音を見つめていた。
曲が終わると、彼はゆっくりと近づいてきた。
サングラスを外すと、透き通るようなヘーゼル色の瞳が現れた。
「Interesting.(面白いね)」
低いけれど、よく通る声だった。
「It's not Blues, not Jazz... What is this scale? It sounds like crying, but... warm.(ブルースでもジャズでもない……なんて音階だ? 泣いているみたいに聞こえるのに、温かい)」
優音は拙い英語で答えた。
「Japanese... Folk song.」
男は興味深そうに眉を上げた。
「Japanese... I see. You have a unique voice. Like a polished glass found on the beach.(日本人か。君の声はユニークだ。砂浜で見つけた磨かれたガラスみたいだ)」
彼はそう言うと、持っていたコーヒーを足元に置き、いきなり優音のメロディに合わせてハミングを始めた。
優音は驚いたが、そのハミングのあまりの精度の高さに息を呑んだ。
彼が重ねたのは、西洋的な和声の理論とは少し違う、けれど『赤とんぼ』のメロディを劇的に引き立てる、洗練されたハーモニーだった。
即興のセッション。
言葉はいらなかった。音が重なるたびに、優音の胸の中で燻(くすぶ)っていた音楽への情熱が、火花のように散った。
蓮がいなくても、私は歌える。
いや、蓮がいないからこそ、私の声はここで自由になれたのだ。
最後の音の余韻が消えると、周囲からパラパラと拍手が起きた。いつの間にか数人の通行人が足を止めていたのだ。
男はニカっと屈託のない笑みを浮かべ、右手を差し出した。
「I'm Adam. Make music with me?(俺はアダム。一緒に音楽をやらないか?)」
アダム。
その名は、最初の人間。
優音にとって、この何もない荒野のようなLAで出会った、最初の「理解者」だった。
「...Yes. I'm Yuon.」
優音が恐る恐るその手を握り返すと、アダムの手は大きく、そして熱かった。
その温もりが、冷え切っていた優音の心に火を灯す。
だが、その光が、あまりにも眩しすぎて影を濃くすることに、この時の優音はまだ気づいていなかった。
アダムはダウンタウンにある自分のスタジオに優音を招いた。
そこは、最新鋭の機材と、乱雑に積まれたレコードの山で埋め尽くされていた。彼はインディーズながらも名の知れたプロデューサー兼シンガーだったのだ。
「君のそのオリエンタルな旋律(メロディ)センスと、俺のトラックメイクを融合させれば、新しいジャンルが作れる」
アダムは水を得た魚のように語り、次々と音源を聴かせてくれた。彼の作る音楽は自由で、型に囚われず、何より楽しそうだった。
日本の業界で感じていた「売れるための正解」を探す窮屈さが、ここにはない。
「You act like a muse.(君はミューズみたいだ)」
作業の合間、アダムは優音の髪に触れ、甘い声で囁いた。
異国の地での孤独、自分を認めてくれる存在、そして音楽的な共鳴。
優音が彼に惹かれるのに、そう時間はかからなかった。
蓮への想いを断ち切るために、別の誰かの熱に身を委ねる。
それが逃避の続きであるとしても、今の優音にはこの「偽りのハーモニー」が必要だった。
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