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第8章:砂上の楼閣
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LAの冬は、想像以上に冷たかった。
優音はスーパーの袋を抱え、早足でアパートへの道を急いでいた。今夜はアダムの誕生日だ。買ってきたワインと、彼が好むステーキ肉が入っている。
アパートのドアの前に立った時、中から大音量の音楽が漏れてきているのに気づいた。
それは、二人で作ったはずの『Orient Blue』だった。
けれど、何かが違う。
優音は鍵を開け、ドアを押し開けた。
「Ha-ha! That's it! Perfect pitch!」
リビングには、アダムと、見知らぬ派手な金髪の女性がいた。二人はソファで絡み合うように座り、シャンパングラスを傾けている。
スピーカーから流れている『Orient Blue』。
そこで歌っているのは、優音の声ではなかった。目の前にいる、この金髪の女性の声だ。オートチューンで過剰に加工された、無機質でどこにでもあるような歌声。
「……Adam?」
優音の手からスーパーの袋が落ち、ワインボトルが床で鈍い音を立てた。
アダムが振り返る。焦る様子など微塵もない。むしろ「邪魔が入った」と言わんばかりの不機嫌な顔をした。
「Oh, you're back early.(なんだ、早く帰ってきたのか)」
「Who is she? Why is she singing our song?(彼女は誰? なんで私たちの曲を歌ってるの?)」
優音の声が震える。アダムは呆れたように肩をすくめた。
「Our song? No, babe. This is my song.(私たちの曲? 違うな、これは俺の曲だ)」
彼は立ち上がり、冷酷な目で優音を見下ろした。
「君のビザ、もうすぐ切れるだろ? 彼女はレーベル社長の娘だ。この曲を彼女のデビューシングルとして売ることになった。君のデモは、あくまで『仮歌(ガイドボーカル)』として役に立ったよ。ありがとう」
頭の中が真っ白になった。
恋も、曲も、居場所も、すべてが嘘だった。
彼は最初から、優音の「東洋的なメロディ」という素材だけを搾取し、用が済んだら捨てるつもりだったのだ。
「Get out.(出て行け)」
アダムは短く告げた。
「俺のキャリアに、不法滞在寸前の元カノなんてリスクは負えないんだ」
優音は何も言えなかった。怒りよりも先に、絶望が喉を塞いだ。
ギターケースと、わずかな荷物だけを持って、優音は部屋を追い出された。
ドアが閉まる直前、アダムと女の嘲笑うような声と、加工された『Orient Blue』のサビが聞こえた。
外は雨が降り出していた。LAでは珍しい、冷たい冬の雨だ。
行くあてなんてない。帰るための航空券を買う金もない。
優音は雨に打たれながら、ただ呆然と歩いた。
夢のカリフォルニア。
そこは、何も持たない者にとっては、ただの広大で冷酷な砂漠だった。
同時刻、東京。
湾岸エリアに聳え立つタワーマンションの最上階。
蓮は、窓ガラスに映る夜景を眺めていた。宝石箱をひっくり返したような東京の光。自分がその頂点に立っていることを、この景色は教えてくれる。
「蓮、聞いてる?」
背後から美月の声がした。彼女は高級なシルクのガウンを羽織り、タブレットを見ている。
「来週の映画祭の衣装合わせ、ブランド側が『もっと品格のあるものを』って言ってるの。あなたが先日のバラエティで話したエピソード、ちょっと庶民的すぎたわよ。私たちのイメージ戦略に合わない」
蓮はゆっくりと振り返った。
美月は美しい。完璧だ。けれど、彼女が見ているのは「蓮」ではない。「女優・橘美月の恋人として相応しいアクセサリー」としての蓮だ。
「……なあ、美月」
「何?」
「俺たち、このままでいいのかな」
「どういう意味?」
美月が怪訝な顔をする。
「俺は、もっと泥臭い役がやりたいんだ。綺麗な服を着て、綺麗なセリフを言うだけじゃなくて……もっと、人間の汚い部分とか、弱い部分を晒け出すような」
「やめてよ」
美月は冷たく遮った。
「あなたは王子様なの。世間が求めているのは夢よ。汚い部分なんて見たくない。ステータスを落とすようなこと、しないで」
ステータス。
その言葉が、蓮の心の中で決定的な亀裂を生んだ。
優音は違った。
まだ何者でもなかった頃、公園のベンチで、彼女だけは俺の「嘘のない演技」を見てくれていた。通行人Bの俺の中に、価値を見出してくれていた。
(優音……今、どこにいるんだ)
連絡はつかない。彼女は日本から消えてしまった。
蓮は窓ガラスに額を押し当てた。
足元には煌びやかな成功がある。けれど、それはまるで砂の上に建てられた城のように、脆く、頼りなく感じられた。
一番大切な土台が欠けているのだ。
雨のLAで路上に座り込む優音。
光の東京で虚像に囚われる蓮。
太平洋を隔てた二人の心が、もっとも深く沈み込んだ夜。
物語は、ここから「再生」への長い助走を始める。
(第8章・第2部 完)
優音はスーパーの袋を抱え、早足でアパートへの道を急いでいた。今夜はアダムの誕生日だ。買ってきたワインと、彼が好むステーキ肉が入っている。
アパートのドアの前に立った時、中から大音量の音楽が漏れてきているのに気づいた。
それは、二人で作ったはずの『Orient Blue』だった。
けれど、何かが違う。
優音は鍵を開け、ドアを押し開けた。
「Ha-ha! That's it! Perfect pitch!」
リビングには、アダムと、見知らぬ派手な金髪の女性がいた。二人はソファで絡み合うように座り、シャンパングラスを傾けている。
スピーカーから流れている『Orient Blue』。
そこで歌っているのは、優音の声ではなかった。目の前にいる、この金髪の女性の声だ。オートチューンで過剰に加工された、無機質でどこにでもあるような歌声。
「……Adam?」
優音の手からスーパーの袋が落ち、ワインボトルが床で鈍い音を立てた。
アダムが振り返る。焦る様子など微塵もない。むしろ「邪魔が入った」と言わんばかりの不機嫌な顔をした。
「Oh, you're back early.(なんだ、早く帰ってきたのか)」
「Who is she? Why is she singing our song?(彼女は誰? なんで私たちの曲を歌ってるの?)」
優音の声が震える。アダムは呆れたように肩をすくめた。
「Our song? No, babe. This is my song.(私たちの曲? 違うな、これは俺の曲だ)」
彼は立ち上がり、冷酷な目で優音を見下ろした。
「君のビザ、もうすぐ切れるだろ? 彼女はレーベル社長の娘だ。この曲を彼女のデビューシングルとして売ることになった。君のデモは、あくまで『仮歌(ガイドボーカル)』として役に立ったよ。ありがとう」
頭の中が真っ白になった。
恋も、曲も、居場所も、すべてが嘘だった。
彼は最初から、優音の「東洋的なメロディ」という素材だけを搾取し、用が済んだら捨てるつもりだったのだ。
「Get out.(出て行け)」
アダムは短く告げた。
「俺のキャリアに、不法滞在寸前の元カノなんてリスクは負えないんだ」
優音は何も言えなかった。怒りよりも先に、絶望が喉を塞いだ。
ギターケースと、わずかな荷物だけを持って、優音は部屋を追い出された。
ドアが閉まる直前、アダムと女の嘲笑うような声と、加工された『Orient Blue』のサビが聞こえた。
外は雨が降り出していた。LAでは珍しい、冷たい冬の雨だ。
行くあてなんてない。帰るための航空券を買う金もない。
優音は雨に打たれながら、ただ呆然と歩いた。
夢のカリフォルニア。
そこは、何も持たない者にとっては、ただの広大で冷酷な砂漠だった。
同時刻、東京。
湾岸エリアに聳え立つタワーマンションの最上階。
蓮は、窓ガラスに映る夜景を眺めていた。宝石箱をひっくり返したような東京の光。自分がその頂点に立っていることを、この景色は教えてくれる。
「蓮、聞いてる?」
背後から美月の声がした。彼女は高級なシルクのガウンを羽織り、タブレットを見ている。
「来週の映画祭の衣装合わせ、ブランド側が『もっと品格のあるものを』って言ってるの。あなたが先日のバラエティで話したエピソード、ちょっと庶民的すぎたわよ。私たちのイメージ戦略に合わない」
蓮はゆっくりと振り返った。
美月は美しい。完璧だ。けれど、彼女が見ているのは「蓮」ではない。「女優・橘美月の恋人として相応しいアクセサリー」としての蓮だ。
「……なあ、美月」
「何?」
「俺たち、このままでいいのかな」
「どういう意味?」
美月が怪訝な顔をする。
「俺は、もっと泥臭い役がやりたいんだ。綺麗な服を着て、綺麗なセリフを言うだけじゃなくて……もっと、人間の汚い部分とか、弱い部分を晒け出すような」
「やめてよ」
美月は冷たく遮った。
「あなたは王子様なの。世間が求めているのは夢よ。汚い部分なんて見たくない。ステータスを落とすようなこと、しないで」
ステータス。
その言葉が、蓮の心の中で決定的な亀裂を生んだ。
優音は違った。
まだ何者でもなかった頃、公園のベンチで、彼女だけは俺の「嘘のない演技」を見てくれていた。通行人Bの俺の中に、価値を見出してくれていた。
(優音……今、どこにいるんだ)
連絡はつかない。彼女は日本から消えてしまった。
蓮は窓ガラスに額を押し当てた。
足元には煌びやかな成功がある。けれど、それはまるで砂の上に建てられた城のように、脆く、頼りなく感じられた。
一番大切な土台が欠けているのだ。
雨のLAで路上に座り込む優音。
光の東京で虚像に囚われる蓮。
太平洋を隔てた二人の心が、もっとも深く沈み込んだ夜。
物語は、ここから「再生」への長い助走を始める。
(第8章・第2部 完)
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