星を仰ぐふたりのシナリオ

TAKAHARA HIROKI

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第10章:雨のサンタモニカ

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ロサンゼルスに雨が降るのは珍しい。
ましてや、肌を刺すような冷たい冬の雨だ。観光地として名高いサンタモニカ・ピアの観覧車も、今日は灰色の雨雲にかすんで、回ることを止めていた。
蓮は、海岸沿いのホテルのカフェで、現地の弁護士との打ち合わせを終えたところだった。ビザの更新手続きと、今後の活動拠点の相談。
店を出て傘を開く。上質な黒い傘が、バチバチと音を立てて雨粒を弾く。
ふと、視線を桟橋の入り口に向けた時だった。
バス停のベンチに、人影があった。
傘もささず、フードを目深にかぶった小柄な女性が、身を縮めるように座っている。
足元には、スーパーのビニール袋が二つ。中には生活用品らしきものが乱雑に詰め込まれているのが透けて見えた。
(……あんな格好で、風邪ひくだろ)
普段の蓮なら、気にも留めずに通り過ぎていただろう。
だが、その女性が寒さで震えながら、かじかんだ手で自分の二の腕をさする仕草を見た瞬間、心臓が奇妙な音を立てた。
その癖。
不安な時、寒い時、いつも優音がああやって自分を抱きしめていた。
「まさか……」
蓮は吸い寄せられるように足を向けた。
近づくにつれ、その姿が鮮明になる。
着古したパーカー。膝が抜けたジーンズ。かつてスニーカーを履いてステージを駆け回っていた彼女の足元は、泥で汚れた安物のキャンバスシューズだった。
蓮の足音が近づくと、女性がビクリと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。
時が止まった。
痩せていた。
目の下にはクマがあり、肌は病的なほど白い。
けれど、その瞳の奥にある光——今は絶望の澱(おり)に沈んでいるが、確かにかつて蓮を見つめていたあの光——は、間違いなく彼女のものだった。
「……優音?」
蓮の声は、雨音にかき消されそうなほど震えていた。
優音の目が、極限まで見開かれる。
数秒の空白の後、彼女の瞳に映ったのは「喜び」ではなかった。「恐怖」と「羞恥」だった。
「いや……」
優音は掠れた声で漏らすと、ビニール袋をひったくり、脱兎のごとく走り出した。
雨の中へ。車が行き交う大通りへ。
「優音! 待てっ!」
蓮は傘を放り出し、後を追った。
彼女の足は遅かった。体力が落ちているのか、数メートル走っただけでもつれそうになっている。
交差点の手前で、蓮は彼女の細い腕を掴んだ。
「放して! お願い、見ないで!」
優音は悲鳴のような声を上げ、蓮の手を振り払おうと暴れた。
「私を見ないで! こんな……こんな姿、蓮に見られたくない!」
「優音、落ち着け! 俺だ、蓮だ!」
「違う! 蓮は輝いてるのに、私は……私はもう、何もかも失くして……汚れて……」
優音が崩れ落ちるように地面に膝をついた。
雨水が彼女の頬を伝い、涙と混じり合って地面に落ちていく。
蓮はその場にしゃがみ込み、震える彼女の肩を強く抱きしめた。
薄い。折れそうなほど細い。
アダムという男に何をされたのか、この数年どんな生活をしていたのか、詳細は分からない。けれど、彼女が味わってきた地獄をすべて物語っていた。
「……探したんだぞ」
蓮は彼女の耳元で叫んだ。
「輝いてなんかいない。俺だって、全部捨ててここに来たんだ。お前がいなきゃ、何の意味もなかったんだよ!」
「嘘よ……だって、美月さんと……」
「別れた。日本での仕事も全部辞めた。俺は今、ただの無職の役者志望だ。お前と同じだよ」
優音の抵抗が止まった。
蓮は濡れた前髪をかき上げ、優音の顔を覗き込んだ。
かつてのふっくらとした面影はない。けれど、雨に濡れたその顔は、どんな着飾った女優よりも、蓮の心を強く揺さぶった。
「帰ろう、優音。……俺たちの、シナリオの続きをしに」
優音の喉から、嗚咽が漏れた。
子供のような泣き声が、サンタモニカの雨に溶けていく。
蓮は彼女を立ち上がらせると、自分のコートを脱いで彼女の肩にかけた。
泥だらけの靴と、高級なコート。
ちぐはぐな二人は、互いに支え合うようにして雨の中を歩き出した。
遠くで、雨雲の切れ間から一筋の光が海に落ちるのが見えた。
それは、長い夜明けの前の、微かな希望の兆しのようだった。
(第10章 完)
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