10 / 49
第10章:雨のサンタモニカ
しおりを挟む
ロサンゼルスに雨が降るのは珍しい。
ましてや、肌を刺すような冷たい冬の雨だ。観光地として名高いサンタモニカ・ピアの観覧車も、今日は灰色の雨雲にかすんで、回ることを止めていた。
蓮は、海岸沿いのホテルのカフェで、現地の弁護士との打ち合わせを終えたところだった。ビザの更新手続きと、今後の活動拠点の相談。
店を出て傘を開く。上質な黒い傘が、バチバチと音を立てて雨粒を弾く。
ふと、視線を桟橋の入り口に向けた時だった。
バス停のベンチに、人影があった。
傘もささず、フードを目深にかぶった小柄な女性が、身を縮めるように座っている。
足元には、スーパーのビニール袋が二つ。中には生活用品らしきものが乱雑に詰め込まれているのが透けて見えた。
(……あんな格好で、風邪ひくだろ)
普段の蓮なら、気にも留めずに通り過ぎていただろう。
だが、その女性が寒さで震えながら、かじかんだ手で自分の二の腕をさする仕草を見た瞬間、心臓が奇妙な音を立てた。
その癖。
不安な時、寒い時、いつも優音がああやって自分を抱きしめていた。
「まさか……」
蓮は吸い寄せられるように足を向けた。
近づくにつれ、その姿が鮮明になる。
着古したパーカー。膝が抜けたジーンズ。かつてスニーカーを履いてステージを駆け回っていた彼女の足元は、泥で汚れた安物のキャンバスシューズだった。
蓮の足音が近づくと、女性がビクリと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。
時が止まった。
痩せていた。
目の下にはクマがあり、肌は病的なほど白い。
けれど、その瞳の奥にある光——今は絶望の澱(おり)に沈んでいるが、確かにかつて蓮を見つめていたあの光——は、間違いなく彼女のものだった。
「……優音?」
蓮の声は、雨音にかき消されそうなほど震えていた。
優音の目が、極限まで見開かれる。
数秒の空白の後、彼女の瞳に映ったのは「喜び」ではなかった。「恐怖」と「羞恥」だった。
「いや……」
優音は掠れた声で漏らすと、ビニール袋をひったくり、脱兎のごとく走り出した。
雨の中へ。車が行き交う大通りへ。
「優音! 待てっ!」
蓮は傘を放り出し、後を追った。
彼女の足は遅かった。体力が落ちているのか、数メートル走っただけでもつれそうになっている。
交差点の手前で、蓮は彼女の細い腕を掴んだ。
「放して! お願い、見ないで!」
優音は悲鳴のような声を上げ、蓮の手を振り払おうと暴れた。
「私を見ないで! こんな……こんな姿、蓮に見られたくない!」
「優音、落ち着け! 俺だ、蓮だ!」
「違う! 蓮は輝いてるのに、私は……私はもう、何もかも失くして……汚れて……」
優音が崩れ落ちるように地面に膝をついた。
雨水が彼女の頬を伝い、涙と混じり合って地面に落ちていく。
蓮はその場にしゃがみ込み、震える彼女の肩を強く抱きしめた。
薄い。折れそうなほど細い。
アダムという男に何をされたのか、この数年どんな生活をしていたのか、詳細は分からない。けれど、彼女が味わってきた地獄をすべて物語っていた。
「……探したんだぞ」
蓮は彼女の耳元で叫んだ。
「輝いてなんかいない。俺だって、全部捨ててここに来たんだ。お前がいなきゃ、何の意味もなかったんだよ!」
「嘘よ……だって、美月さんと……」
「別れた。日本での仕事も全部辞めた。俺は今、ただの無職の役者志望だ。お前と同じだよ」
優音の抵抗が止まった。
蓮は濡れた前髪をかき上げ、優音の顔を覗き込んだ。
かつてのふっくらとした面影はない。けれど、雨に濡れたその顔は、どんな着飾った女優よりも、蓮の心を強く揺さぶった。
「帰ろう、優音。……俺たちの、シナリオの続きをしに」
優音の喉から、嗚咽が漏れた。
子供のような泣き声が、サンタモニカの雨に溶けていく。
蓮は彼女を立ち上がらせると、自分のコートを脱いで彼女の肩にかけた。
泥だらけの靴と、高級なコート。
ちぐはぐな二人は、互いに支え合うようにして雨の中を歩き出した。
遠くで、雨雲の切れ間から一筋の光が海に落ちるのが見えた。
それは、長い夜明けの前の、微かな希望の兆しのようだった。
(第10章 完)
ましてや、肌を刺すような冷たい冬の雨だ。観光地として名高いサンタモニカ・ピアの観覧車も、今日は灰色の雨雲にかすんで、回ることを止めていた。
蓮は、海岸沿いのホテルのカフェで、現地の弁護士との打ち合わせを終えたところだった。ビザの更新手続きと、今後の活動拠点の相談。
店を出て傘を開く。上質な黒い傘が、バチバチと音を立てて雨粒を弾く。
ふと、視線を桟橋の入り口に向けた時だった。
バス停のベンチに、人影があった。
傘もささず、フードを目深にかぶった小柄な女性が、身を縮めるように座っている。
足元には、スーパーのビニール袋が二つ。中には生活用品らしきものが乱雑に詰め込まれているのが透けて見えた。
(……あんな格好で、風邪ひくだろ)
普段の蓮なら、気にも留めずに通り過ぎていただろう。
だが、その女性が寒さで震えながら、かじかんだ手で自分の二の腕をさする仕草を見た瞬間、心臓が奇妙な音を立てた。
その癖。
不安な時、寒い時、いつも優音がああやって自分を抱きしめていた。
「まさか……」
蓮は吸い寄せられるように足を向けた。
近づくにつれ、その姿が鮮明になる。
着古したパーカー。膝が抜けたジーンズ。かつてスニーカーを履いてステージを駆け回っていた彼女の足元は、泥で汚れた安物のキャンバスシューズだった。
蓮の足音が近づくと、女性がビクリと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。
時が止まった。
痩せていた。
目の下にはクマがあり、肌は病的なほど白い。
けれど、その瞳の奥にある光——今は絶望の澱(おり)に沈んでいるが、確かにかつて蓮を見つめていたあの光——は、間違いなく彼女のものだった。
「……優音?」
蓮の声は、雨音にかき消されそうなほど震えていた。
優音の目が、極限まで見開かれる。
数秒の空白の後、彼女の瞳に映ったのは「喜び」ではなかった。「恐怖」と「羞恥」だった。
「いや……」
優音は掠れた声で漏らすと、ビニール袋をひったくり、脱兎のごとく走り出した。
雨の中へ。車が行き交う大通りへ。
「優音! 待てっ!」
蓮は傘を放り出し、後を追った。
彼女の足は遅かった。体力が落ちているのか、数メートル走っただけでもつれそうになっている。
交差点の手前で、蓮は彼女の細い腕を掴んだ。
「放して! お願い、見ないで!」
優音は悲鳴のような声を上げ、蓮の手を振り払おうと暴れた。
「私を見ないで! こんな……こんな姿、蓮に見られたくない!」
「優音、落ち着け! 俺だ、蓮だ!」
「違う! 蓮は輝いてるのに、私は……私はもう、何もかも失くして……汚れて……」
優音が崩れ落ちるように地面に膝をついた。
雨水が彼女の頬を伝い、涙と混じり合って地面に落ちていく。
蓮はその場にしゃがみ込み、震える彼女の肩を強く抱きしめた。
薄い。折れそうなほど細い。
アダムという男に何をされたのか、この数年どんな生活をしていたのか、詳細は分からない。けれど、彼女が味わってきた地獄をすべて物語っていた。
「……探したんだぞ」
蓮は彼女の耳元で叫んだ。
「輝いてなんかいない。俺だって、全部捨ててここに来たんだ。お前がいなきゃ、何の意味もなかったんだよ!」
「嘘よ……だって、美月さんと……」
「別れた。日本での仕事も全部辞めた。俺は今、ただの無職の役者志望だ。お前と同じだよ」
優音の抵抗が止まった。
蓮は濡れた前髪をかき上げ、優音の顔を覗き込んだ。
かつてのふっくらとした面影はない。けれど、雨に濡れたその顔は、どんな着飾った女優よりも、蓮の心を強く揺さぶった。
「帰ろう、優音。……俺たちの、シナリオの続きをしに」
優音の喉から、嗚咽が漏れた。
子供のような泣き声が、サンタモニカの雨に溶けていく。
蓮は彼女を立ち上がらせると、自分のコートを脱いで彼女の肩にかけた。
泥だらけの靴と、高級なコート。
ちぐはぐな二人は、互いに支え合うようにして雨の中を歩き出した。
遠くで、雨雲の切れ間から一筋の光が海に落ちるのが見えた。
それは、長い夜明けの前の、微かな希望の兆しのようだった。
(第10章 完)
0
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
今さらやり直しは出来ません
mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。
落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。
そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
フッてくれてありがとう
nanahi
恋愛
「子どもができたんだ」
ある冬の25日、突然、彼が私に告げた。
「誰の」
私の短い問いにあなたは、しばらく無言だった。
でも私は知っている。
大学生時代の元カノだ。
「じゃあ。元気で」
彼からは謝罪の一言さえなかった。
下を向き、私はひたすら涙を流した。
それから二年後、私は偶然、元彼と再会する。
過去とは全く変わった私と出会って、元彼はふたたび──
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
【短編】ちゃんと好きになる前に、終わっただけ
月下花音
恋愛
曖昧な関係を続けていたユウトとの恋は、彼のインスタ投稿によって一方的に終わりを告げた。
泣くのも違う。怒るのも違う。
ただ静かに消えよう。
そう決意してトーク履歴を消そうとした瞬間、指が滑った。
画面に表示されたのは、間の抜けたクマのスタンプ。
相手に気付かれた? 見られた?
「未練ある」って思われる!?
恐怖でブロックボタンを連打した夜。
カモメのフンより、失恋より、最後の誤爆が一番のトラウマになった女子大生の叫び。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる