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【過去編】第5章:滑走路と錆びた弦
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卒業式の1週間後。
福岡空港の国内線出発ロビーは、春休みに入る学生やビジネスマン、そして別れを惜しむ人々で朝からごった返していた。
「優音、本当に忘れ物ない? 薬は持った?」
「もう、お母さん。三回目だよ、それ聞くの」
手荷物検査場の前で、優音の母親が心配そうに眉を下げていた。彼女の手には、太宰府天満宮の「夢守り」が握られている。
「ほら、これ。カバンの内ポケットに入れときなさい。東京は怖いとこなんやから、騙されたらあかんよ」
「分かってるってば」
優音は少し照れくさそうに、そのお守りを受け取った。背中のギターケースがずしりと重いが、母が手を貸そうとするのを「大丈夫」と制した。これは、私が背負っていく重さだから。
その横では、蓮もまた母親と対峙していた。
「蓮、あんたねえ、もっとシャキッとしなさいよ。これから役者になるんでしょ?」
蓮の母親は、息子のヨレたウィンドブレーカーの襟を直しながら小言を言っていた。蓮とは対照的に小柄だが、気の強そうな女性だ。
「顔だけ良くても駄目なんよ。ちゃんと挨拶して、ご飯も食べて……」
「分かった、分かったから。デケェ声出すなよ、恥ずかしい」
蓮は鬱陶しそうに顔を背けたが、その手には母親から押し付けられた「明太子せんべい」の箱が握らされていた。「向こうで誰かに配りなさい」と言われたらしい。
二人の母親は、顔を見合わせて苦笑いした。
「ほんと、心配ですねえ。こんな子供だけで東京なんて」
「ええ。でも、もう言うこと聞きませんから」
母たちの視線が、優音と蓮の胸をチクリと刺す。
ここまで育ててくれた感謝と、それを振り切って出ていく罪悪感。
けれど、もう引き返せない。
「じゃあ、行ってきます」
優音が頭を下げると、蓮も短く「行くわ」と告げた。
「優音ちゃん、蓮のこと頼んだわよ!」
「蓮くんも、優音ちゃん守ってあげるんよ!」
背中に母親たちの声を浴びながら、二人は手荷物検査のゲートをくぐった。
一度だけ振り返ると、ガラスの向こうで二人の母が小さく手を振っているのが見えた。その姿が少し滲んで見えたのは、きっと空港の照明のせいだ。
搭乗ゲートを抜け、機内に乗り込む。
狭いエコノミー席に並んで座ると、ようやく二人だけの世界に戻った気がした。
優音は窓際、蓮は通路側。
キーンというエンジン音が鳴り響き、機体が滑走路へ向かって動き出す。加速するG(重力)が背中を押し付ける。
ふわり、と地面が離れた瞬間、優音は息を呑んで窓の外を見下ろした。
博多の街並みが、みるみるうちにジオラマのように小さくなっていく。
さっきまでいた出発ロビーも、見送ってくれた母たちも、もう豆粒よりも小さい。
「……ちっぽけだな」
優音の肩越しに外を覗いた蓮が、ポツリと漏らした。
「あんな狭い場所で、俺たちは必死にもがいてたんだな」
「うん……でも、あそこが世界の全部だった」
優音はポケットの中のお守りを強く握りしめた。母の温かさがまだ残っている気がした。
機体が雲を抜け、窓の外が一面の青に変わる。
安定飛行に入ると、シートベルト着用のサインが消えた。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「私たち、東京で売れるかな」
優音の不安げな問いに、蓮は手元の明太子せんべいの箱を雑にバッグに押し込みながら答えた。
「売れるかどうかは分からねえ。ここから一時間半で着く場所だけど、あそこは完全に別の星だ」
彼は視線を優音に戻した。
「でも、これだけは言える。母親に手を振ってもらう子供の役は、たった今終わった。ここから先のシナリオは、全部俺たちで書くんだ」
「……うん、そうだね」
優音は足元に置いたギターケースを爪先で確かめた。
不安はある。東京という街がどれほど冷たく、残酷な場所か、まだ二人は知らない。
母が心配した通り「騙される」こともあるかもしれないし、蓮が言う通り「別の星」で息ができなくなるかもしれない。
けれど、雲の上を行く今の二人の瞳には、確かに見えない星が映っていた。
「少し寝とけよ。着いたら忙しくなるぞ」
「蓮こそ」
二人は互いに強がりを言い合い、やがて浅い眠りに落ちた。
ゴーッというジェット音が、一定のリズムで響き続ける。
それは、これから始まる長く険しい物語の、イントロダクションのような響きだった。
『色褪せた台本』と『錆びた弦』。
そして、母たちの祈りを背に受けて。
まだ何者でもない二人の旅が、福岡の空から始まった。
(第0章 完)
(本編 第1章へ続く)
福岡空港の国内線出発ロビーは、春休みに入る学生やビジネスマン、そして別れを惜しむ人々で朝からごった返していた。
「優音、本当に忘れ物ない? 薬は持った?」
「もう、お母さん。三回目だよ、それ聞くの」
手荷物検査場の前で、優音の母親が心配そうに眉を下げていた。彼女の手には、太宰府天満宮の「夢守り」が握られている。
「ほら、これ。カバンの内ポケットに入れときなさい。東京は怖いとこなんやから、騙されたらあかんよ」
「分かってるってば」
優音は少し照れくさそうに、そのお守りを受け取った。背中のギターケースがずしりと重いが、母が手を貸そうとするのを「大丈夫」と制した。これは、私が背負っていく重さだから。
その横では、蓮もまた母親と対峙していた。
「蓮、あんたねえ、もっとシャキッとしなさいよ。これから役者になるんでしょ?」
蓮の母親は、息子のヨレたウィンドブレーカーの襟を直しながら小言を言っていた。蓮とは対照的に小柄だが、気の強そうな女性だ。
「顔だけ良くても駄目なんよ。ちゃんと挨拶して、ご飯も食べて……」
「分かった、分かったから。デケェ声出すなよ、恥ずかしい」
蓮は鬱陶しそうに顔を背けたが、その手には母親から押し付けられた「明太子せんべい」の箱が握らされていた。「向こうで誰かに配りなさい」と言われたらしい。
二人の母親は、顔を見合わせて苦笑いした。
「ほんと、心配ですねえ。こんな子供だけで東京なんて」
「ええ。でも、もう言うこと聞きませんから」
母たちの視線が、優音と蓮の胸をチクリと刺す。
ここまで育ててくれた感謝と、それを振り切って出ていく罪悪感。
けれど、もう引き返せない。
「じゃあ、行ってきます」
優音が頭を下げると、蓮も短く「行くわ」と告げた。
「優音ちゃん、蓮のこと頼んだわよ!」
「蓮くんも、優音ちゃん守ってあげるんよ!」
背中に母親たちの声を浴びながら、二人は手荷物検査のゲートをくぐった。
一度だけ振り返ると、ガラスの向こうで二人の母が小さく手を振っているのが見えた。その姿が少し滲んで見えたのは、きっと空港の照明のせいだ。
搭乗ゲートを抜け、機内に乗り込む。
狭いエコノミー席に並んで座ると、ようやく二人だけの世界に戻った気がした。
優音は窓際、蓮は通路側。
キーンというエンジン音が鳴り響き、機体が滑走路へ向かって動き出す。加速するG(重力)が背中を押し付ける。
ふわり、と地面が離れた瞬間、優音は息を呑んで窓の外を見下ろした。
博多の街並みが、みるみるうちにジオラマのように小さくなっていく。
さっきまでいた出発ロビーも、見送ってくれた母たちも、もう豆粒よりも小さい。
「……ちっぽけだな」
優音の肩越しに外を覗いた蓮が、ポツリと漏らした。
「あんな狭い場所で、俺たちは必死にもがいてたんだな」
「うん……でも、あそこが世界の全部だった」
優音はポケットの中のお守りを強く握りしめた。母の温かさがまだ残っている気がした。
機体が雲を抜け、窓の外が一面の青に変わる。
安定飛行に入ると、シートベルト着用のサインが消えた。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「私たち、東京で売れるかな」
優音の不安げな問いに、蓮は手元の明太子せんべいの箱を雑にバッグに押し込みながら答えた。
「売れるかどうかは分からねえ。ここから一時間半で着く場所だけど、あそこは完全に別の星だ」
彼は視線を優音に戻した。
「でも、これだけは言える。母親に手を振ってもらう子供の役は、たった今終わった。ここから先のシナリオは、全部俺たちで書くんだ」
「……うん、そうだね」
優音は足元に置いたギターケースを爪先で確かめた。
不安はある。東京という街がどれほど冷たく、残酷な場所か、まだ二人は知らない。
母が心配した通り「騙される」こともあるかもしれないし、蓮が言う通り「別の星」で息ができなくなるかもしれない。
けれど、雲の上を行く今の二人の瞳には、確かに見えない星が映っていた。
「少し寝とけよ。着いたら忙しくなるぞ」
「蓮こそ」
二人は互いに強がりを言い合い、やがて浅い眠りに落ちた。
ゴーッというジェット音が、一定のリズムで響き続ける。
それは、これから始まる長く険しい物語の、イントロダクションのような響きだった。
『色褪せた台本』と『錆びた弦』。
そして、母たちの祈りを背に受けて。
まだ何者でもない二人の旅が、福岡の空から始まった。
(第0章 完)
(本編 第1章へ続く)
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