星を仰ぐふたりのシナリオ

TAKAHARA HIROKI

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星を仰ぐふたりのアンコールII:欧州編 第1章:カンヌの熱狂と秘密の約束

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―銀幕の恋人たちと古都の旋律―

地中海の風は、カリフォルニアのそれよりも少し湿り気を帯びていて、高級な香水の匂いがした。
第80回カンヌ国際映画祭。
世界中のセレブリティが集うこの場所で、蓮(れん)は蝶ネクタイを少し緩めた。
「Cut!(カット!)」
という声はかからない。これは映画ではないからだ。
無数のフラッシュ、絶え間ない歓声。
「Ren! Look at here!」
「Ren!」
三年前、東京の地下劇場で「通行人B」を演じていた男は今、世界で最も注目されるアジア人俳優として、レッドカーペットの中央に立っていた。
主演したハリウッド大作がコンペティション部門にノミネートされたのだ。隣には有名なフランス人女優が腕を組んでいるが、蓮の表情はどこか上の空だった。
彼の視線はカメラのレンズではなく、群衆の遥か後方、警備員によって仕切られたフェンスの向こう側を、鷹のような鋭さで探していた。
(遅いな……)
約束の時間はとっくに過ぎている。
まさか、飛行機が遅れたのか。それとも、マネージャーに見つかってホテルに缶詰めになっているのか。
一抹の不安がよぎり、作り笑顔が崩れそうになったその時だった。
人混みの隙間から、黒いキャスケットを目深に被り、大きなサングラスをかけた小柄な女性が、遠慮がちに手を振るのが見えた。
その手には、場違いなほど大きなギターケースではなく、エレガントなクラッチバッグが握られている。
優音(ゆおん)だ。
目が合った瞬間、彼女はサングラスを少しだけずらし、悪戯っぽくウィンクをした。
その瞬間、蓮の周囲の音が消えた。
どんな名監督の指示よりも、そのウィンク一つが、蓮の心を完璧に「主役」に引き戻してくれる。
「Sorry, mademoiselle. My muse has arrived.(失礼。女神が到着したようだ)」
蓮は隣の女優に短く詫びると、予定されていたフォトセッションの列を離れ、優音の元へと歩き出した。
「Ren!? Where are you going?」
パブリシストの叫び声も、カメラマンたちの怒号も聞こえない。
フェンス越しに優音の手を掴むと、蓮はそのままセキュリティゲートを強引に抜け、裏口に停めてあった黒塗りの車へと彼女をエスコートした。
ドアが閉まり、車が走り出すと、ようやく静寂が訪れた。
「……やりすぎだよ、蓮。明日の新聞、一面トップ決定ね」
優音はサングラスを外し、呆れたように、けれど嬉しそうに笑った。
「構わないさ。退屈なパーティより、君とのドライブの方がよっぽどドラマチックだ」
蓮も蝶ネクタイを解き、シートに深く身体を沈めた。
「それに、やっと会えた」
「うん。やっと、会えたね」
二人は車内で、確かめ合うように強く抱き合った。
蓮の残り香と、優音の髪の香り。
東京ドームの熱狂も、ハリウッドのプレッシャーも、この狭い車内には存在しない。
ただ、恋人同士の温もりだけがあった。
車は海岸沿いのハイウェイ「プロムナード・デ・ラ・クロワゼット」を疾走する。
窓の外には、夜の地中海が広がっていた。東京の空よりも暗く、そして深い青。
「ねえ、蓮。このままどこまで行くの?」
「台本はないよ。パリでも、ロンドンでも、君が行きたい場所へ」
蓮が優音の手を握る。
その指先には、ギターの弦でできた硬いタコがあった。それが何より愛おしいと、蓮は思う。
「じゃあ、まずはパリへ。……どうしても、蓮に見せたい景色があるの」
優音は夜空を見上げた。
カンヌの星は、フラッシュの光にかき消されて見えなかったけれど、二人の瞳には確かな光が宿っていた。
(第1章 完)
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