星を仰ぐふたりのシナリオ

TAKAHARA HIROKI

文字の大きさ
44 / 49

【欧州】第5章:アビー・ロードの亡霊

しおりを挟む
伝説は、重圧となって優音にのしかかっていた。
ロンドン、セント・ジョンズ・ウッドにあるアビー・ロード・スタジオ。
ビートルズをはじめ、数々の歴史的名盤が生まれた「聖地」だ。その第2スタジオの空気は、ひんやりとしていて、神聖ですらあった。
「Nice to meet you. I'm Elena.」
ピアノの前に座っていた女性が、譜面から顔を上げずに言った。
エレナ。イギリス貴族の血を引くというクラシックピアニスト。プラチナブロンドの髪をタイトにまとめ、蒼白い肌は陶器のようだ。
挨拶は短く、冷ややかだった。彼女にとって、東洋から来たポップシンガーの伴奏など、片手間の仕事に過ぎないという態度が透けて見えた。
「ワンテイクで行くわ。ついてきて」
エレナの細い指が鍵盤に触れた瞬間、スタジオの空気が一変した。
優音が用意していた新曲のバラード。そのイントロが、彼女のタッチによって、まるで深海のような重厚さと、カミソリのような鋭利さを帯びて響き渡った。
(え……?)
優音は歌い出しのタイミングを一瞬、見失いかけた。
慌てて声を出すが、自分の声がひどく薄っぺらく聞こえる。
エレナのピアノは「伴奏」ではなかった。それは優音の歌声を侵食し、飲み込み、その未熟さを残酷なまでに暴き出す、圧倒的な「主役」の演奏だった。
曲が終わると、静寂が痛かった。
ブースの向こうのエンジニアたちは感嘆の声を上げていたが、それは優音の歌に対してではない。エレナのピアノに対してだ。
「……綺麗な声ね」
エレナが初めて優音の方を向いた。その瞳は、パリで出会ったジャン・リュックと同じ色をしていた。
「でも、重さがない。霧の中を漂う羽みたい。……あなた、人生で本当に何かを喪ったことはある?」
優音は言葉に詰まった。
蓮との別れ、東京での苦悩。それなりに辛い思いはしてきたつもりだ。けれど、目の前の彼女が奏でる音の深淵に比べれば、それは子供の遊びのように思えてしまった。
「やり直しましょう。私の音に殺されないように、必死で噛みついてきて」
その日のレコーディングは深夜まで続いたが、OKテイクは出なかった。
ホテルに戻った優音は、ベッドに倒れ込んだ。
スマートフォンを握りしめる。蓮の声が聴きたかった。
「私の歌なんて、誰も必要としてないのかも」と弱音を吐きたかった。
だが、画面に表示された蓮のSNSのタイムラインを見て、指が止まる。
そこには、パリの裏街で、無精髭を生やし、泥だらけの服で座り込む蓮の写真が、ファンによって盗撮・拡散されていた。
『Ren、奇行? パリでホームレス化?』
ゴシップ記事の見出し。
けれど優音には分かった。蓮は戦っているのだ。自分の「綺麗すぎる殻」を破るために、自ら泥の中に身を投じているのだ。
(蓮も戦ってる……。邪魔しちゃいけない)
優音はメッセージを送るのをやめ、暗い部屋の天井を見上げた。
アビー・ロードの亡霊たちに、「お前は本物か?」と問いかけられている気がした。
(第5章 完)
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

今さらやり直しは出来ません

mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。 落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。 そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

フッてくれてありがとう

nanahi
恋愛
「子どもができたんだ」 ある冬の25日、突然、彼が私に告げた。 「誰の」 私の短い問いにあなたは、しばらく無言だった。 でも私は知っている。 大学生時代の元カノだ。 「じゃあ。元気で」 彼からは謝罪の一言さえなかった。 下を向き、私はひたすら涙を流した。 それから二年後、私は偶然、元彼と再会する。 過去とは全く変わった私と出会って、元彼はふたたび──

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

【短編】ちゃんと好きになる前に、終わっただけ

月下花音
恋愛
曖昧な関係を続けていたユウトとの恋は、彼のインスタ投稿によって一方的に終わりを告げた。 泣くのも違う。怒るのも違う。 ただ静かに消えよう。 そう決意してトーク履歴を消そうとした瞬間、指が滑った。 画面に表示されたのは、間の抜けたクマのスタンプ。 相手に気付かれた? 見られた? 「未練ある」って思われる!? 恐怖でブロックボタンを連打した夜。 カモメのフンより、失恋より、最後の誤爆が一番のトラウマになった女子大生の叫び。

処理中です...