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【欧州】第5章:アビー・ロードの亡霊
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伝説は、重圧となって優音にのしかかっていた。
ロンドン、セント・ジョンズ・ウッドにあるアビー・ロード・スタジオ。
ビートルズをはじめ、数々の歴史的名盤が生まれた「聖地」だ。その第2スタジオの空気は、ひんやりとしていて、神聖ですらあった。
「Nice to meet you. I'm Elena.」
ピアノの前に座っていた女性が、譜面から顔を上げずに言った。
エレナ。イギリス貴族の血を引くというクラシックピアニスト。プラチナブロンドの髪をタイトにまとめ、蒼白い肌は陶器のようだ。
挨拶は短く、冷ややかだった。彼女にとって、東洋から来たポップシンガーの伴奏など、片手間の仕事に過ぎないという態度が透けて見えた。
「ワンテイクで行くわ。ついてきて」
エレナの細い指が鍵盤に触れた瞬間、スタジオの空気が一変した。
優音が用意していた新曲のバラード。そのイントロが、彼女のタッチによって、まるで深海のような重厚さと、カミソリのような鋭利さを帯びて響き渡った。
(え……?)
優音は歌い出しのタイミングを一瞬、見失いかけた。
慌てて声を出すが、自分の声がひどく薄っぺらく聞こえる。
エレナのピアノは「伴奏」ではなかった。それは優音の歌声を侵食し、飲み込み、その未熟さを残酷なまでに暴き出す、圧倒的な「主役」の演奏だった。
曲が終わると、静寂が痛かった。
ブースの向こうのエンジニアたちは感嘆の声を上げていたが、それは優音の歌に対してではない。エレナのピアノに対してだ。
「……綺麗な声ね」
エレナが初めて優音の方を向いた。その瞳は、パリで出会ったジャン・リュックと同じ色をしていた。
「でも、重さがない。霧の中を漂う羽みたい。……あなた、人生で本当に何かを喪ったことはある?」
優音は言葉に詰まった。
蓮との別れ、東京での苦悩。それなりに辛い思いはしてきたつもりだ。けれど、目の前の彼女が奏でる音の深淵に比べれば、それは子供の遊びのように思えてしまった。
「やり直しましょう。私の音に殺されないように、必死で噛みついてきて」
その日のレコーディングは深夜まで続いたが、OKテイクは出なかった。
ホテルに戻った優音は、ベッドに倒れ込んだ。
スマートフォンを握りしめる。蓮の声が聴きたかった。
「私の歌なんて、誰も必要としてないのかも」と弱音を吐きたかった。
だが、画面に表示された蓮のSNSのタイムラインを見て、指が止まる。
そこには、パリの裏街で、無精髭を生やし、泥だらけの服で座り込む蓮の写真が、ファンによって盗撮・拡散されていた。
『Ren、奇行? パリでホームレス化?』
ゴシップ記事の見出し。
けれど優音には分かった。蓮は戦っているのだ。自分の「綺麗すぎる殻」を破るために、自ら泥の中に身を投じているのだ。
(蓮も戦ってる……。邪魔しちゃいけない)
優音はメッセージを送るのをやめ、暗い部屋の天井を見上げた。
アビー・ロードの亡霊たちに、「お前は本物か?」と問いかけられている気がした。
(第5章 完)
ロンドン、セント・ジョンズ・ウッドにあるアビー・ロード・スタジオ。
ビートルズをはじめ、数々の歴史的名盤が生まれた「聖地」だ。その第2スタジオの空気は、ひんやりとしていて、神聖ですらあった。
「Nice to meet you. I'm Elena.」
ピアノの前に座っていた女性が、譜面から顔を上げずに言った。
エレナ。イギリス貴族の血を引くというクラシックピアニスト。プラチナブロンドの髪をタイトにまとめ、蒼白い肌は陶器のようだ。
挨拶は短く、冷ややかだった。彼女にとって、東洋から来たポップシンガーの伴奏など、片手間の仕事に過ぎないという態度が透けて見えた。
「ワンテイクで行くわ。ついてきて」
エレナの細い指が鍵盤に触れた瞬間、スタジオの空気が一変した。
優音が用意していた新曲のバラード。そのイントロが、彼女のタッチによって、まるで深海のような重厚さと、カミソリのような鋭利さを帯びて響き渡った。
(え……?)
優音は歌い出しのタイミングを一瞬、見失いかけた。
慌てて声を出すが、自分の声がひどく薄っぺらく聞こえる。
エレナのピアノは「伴奏」ではなかった。それは優音の歌声を侵食し、飲み込み、その未熟さを残酷なまでに暴き出す、圧倒的な「主役」の演奏だった。
曲が終わると、静寂が痛かった。
ブースの向こうのエンジニアたちは感嘆の声を上げていたが、それは優音の歌に対してではない。エレナのピアノに対してだ。
「……綺麗な声ね」
エレナが初めて優音の方を向いた。その瞳は、パリで出会ったジャン・リュックと同じ色をしていた。
「でも、重さがない。霧の中を漂う羽みたい。……あなた、人生で本当に何かを喪ったことはある?」
優音は言葉に詰まった。
蓮との別れ、東京での苦悩。それなりに辛い思いはしてきたつもりだ。けれど、目の前の彼女が奏でる音の深淵に比べれば、それは子供の遊びのように思えてしまった。
「やり直しましょう。私の音に殺されないように、必死で噛みついてきて」
その日のレコーディングは深夜まで続いたが、OKテイクは出なかった。
ホテルに戻った優音は、ベッドに倒れ込んだ。
スマートフォンを握りしめる。蓮の声が聴きたかった。
「私の歌なんて、誰も必要としてないのかも」と弱音を吐きたかった。
だが、画面に表示された蓮のSNSのタイムラインを見て、指が止まる。
そこには、パリの裏街で、無精髭を生やし、泥だらけの服で座り込む蓮の写真が、ファンによって盗撮・拡散されていた。
『Ren、奇行? パリでホームレス化?』
ゴシップ記事の見出し。
けれど優音には分かった。蓮は戦っているのだ。自分の「綺麗すぎる殻」を破るために、自ら泥の中に身を投じているのだ。
(蓮も戦ってる……。邪魔しちゃいけない)
優音はメッセージを送るのをやめ、暗い部屋の天井を見上げた。
アビー・ロードの亡霊たちに、「お前は本物か?」と問いかけられている気がした。
(第5章 完)
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