星を仰ぐふたりのシナリオ

TAKAHARA HIROKI

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【欧州編】第7章:ベネチアへの逃避行

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その列車は、夜を切り裂くように走っていた。
ロンドンからパリを経由し、スイスの山々を抜け、イタリアへ。
コンパートメントの窓に流れる景色は、もはや意味を成さない光の帯に過ぎなかった。
「……本当に、やっちゃったね」
優音が呟く。
テーブルの上には、電源を切った二台のスマートフォンが置かれている。
優音のマネージャーからの着信は数十件を超え、蓮のエージェントからは訴訟をちらつかせるメッセージが届いていたが、すべて遮断した。
世界ツアー中の歌手と、次回作を控えたトップ俳優の失踪。
明日の朝には、世界中のメディアが騒ぎ立てるだろう。
「後悔してるか?」
車窓を見つめたまま、蓮が問う。
「ううん。……不思議なくらい、静かな気持ち」
優音は嘘偽りなく答えた。
恐怖はない。むしろ、積み上げてきたキャリアという重荷を降ろしたことで、身体が羽根のように軽かった。
列車がサンタ・ルチア駅に滑り込んだのは、翌日の夕暮れ時だった。
駅を出た瞬間、潮の香りと湿った風が二人を包み込む。
目の前には、道路の代わりに運河が広がり、ヴァポレット(水上バス)が行き交っていた。
ベネチア。水に浮かぶ迷宮都市。
「ここなら、誰も追ってこられない」
蓮が優音の手を引く。
二人は水上タクシーには乗らず、迷路のような路地(カッレ)を歩き始めた。
地図はない。目的地のホテルも予約していない。
剥がれ落ちた漆喰の壁、運河にかかる小さな橋、行き止まりの広場。
彷徨うこと自体が、今の二人には必要だった。
日が沈み、街が闇に沈むと、運河の水面に街灯のオレンジ色が揺れる。
「お腹、空いたな」
蓮が少年のように笑った。
「あそこのお店、いい匂いがする」
二人が飛び込んだのは、観光客向けではない、地元の漁師たちが集う小さなバーカロ(居酒屋)だった。
言葉は通じなくても、ジェスチャーでワインとチケッティ(小皿料理)を注文する。
安ワインの味は酸っぱくて、どこか懐かしい味がした。
かつて東京の公園で飲んだ、ぬるい缶ビールのように。
「乾杯」
「何に?」
「……共犯者の俺たちに」
グラスを合わせる音が、心地よく響いた。
ここでは彼らは「スター」ではない。ただの、少し疲れた東洋人の旅行客だ。
その夜、二人は運河沿いの古びたペンションに宿を取った。
窓の外からは波の音だけが聞こえる。
同じベッドで眠るのは久しぶりだったが、触れ合うことはしなかった。
身体を重ねるよりも深く、魂が寄り添っているのを感じながら、二人は泥のように眠った。
(第7章 完)
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