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【欧州編】第9章:ゴンドラ上のアリア
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狂乱のカーニバルが遠ざかり、静寂が戻ってきた。
二人は一艘のゴンドラを雇い、夜の運河へと漕ぎ出した。
観光ルートではない、迷路のような細い水路。
櫂(かい)が水をかく音だけが、静かに響く。
「……さっきの曲、もう一度聴かせてくれないか」
仮面を外し、ゴンドラのシートに深く沈み込みながら蓮が言った。
優音も仮面を膝の上に置いた。
月明かりに照らされた彼女の横顔は、ステージ上のどの瞬間よりも美しかった。
「うん。……まだ、歌詞はないけど」
優音は静かに歌い始めた。
伴奏はない。ギターも、ピアノもない。
あるのは、チャプ、チャプという水音だけ。
けれど、その声は深かった。
東京の地下ライブハウスで叫んでいた頃の「焦り」とも、売れっ子歌手として求められた「綺麗さ」とも違う。
喜びも、悲しみも、後悔も、全てを飲み込んで凪いだ海のような歌声。
『ラララ……』
言葉にならないスキャットが、石造りの壁に反響し、夜空へと昇っていく。
蓮は目を閉じて聴いていた。
身体中の細胞が粟立つのが分かった。
(これが……『生命』だ)
ジャン・リュックが言っていた「飢え」とは、貧しさのことではない。
生きていることの実感。泥臭く、不恰好で、それでも鼓動を止めない魂の熱量のことだったのだ。
「……優音、そのまま歌い続けてくれ」
蓮は懐からスマートフォンを取り出した。
カメラを起動し、インカメラにする。
照明はない。月明かりだけが頼りだ。メイクもしていない、無精髭のままの顔。
録画ボタンを押す。
蓮は画面の中の自分に向かって、いや、画面の向こうにいるジャン・リュックに向かって、静かに語りかけた。
セリフではない。
優音の歌声を聴いて、心が震えている「今の感情」を、そのまま表情に乗せた。
「……聞こえますか、監督。これが俺の『現在地』です」
蓮の目から、一筋の涙が零れた。
悲劇を演じようとしたのではない。優音の歌が、あまりにも優しくて、痛かったからだ。
「俺は空っぽでした。でも、今は違う。……この歌が聞こえる限り、俺は人間でいられる」
約一分間のビデオメッセージ。
蓮は迷わず送信ボタンを押した。
宛先は、ジャン・リュック監督のプライベートアドレス。
「……送っちゃった」
蓮がスマホを放り出すと、優音も歌うのをやめた。
「いい顔してたよ、蓮」
「お前の歌のおかげだ」
ゴンドラが橋の下をくぐる。
暗闇の中で、二人は強く手を握り合った。
返事が来る保証はない。全てを失うかもしれない。
だが、二人の顔には、憑き物が落ちたような清々しい笑みが浮かんでいた。
(第9章 完)
二人は一艘のゴンドラを雇い、夜の運河へと漕ぎ出した。
観光ルートではない、迷路のような細い水路。
櫂(かい)が水をかく音だけが、静かに響く。
「……さっきの曲、もう一度聴かせてくれないか」
仮面を外し、ゴンドラのシートに深く沈み込みながら蓮が言った。
優音も仮面を膝の上に置いた。
月明かりに照らされた彼女の横顔は、ステージ上のどの瞬間よりも美しかった。
「うん。……まだ、歌詞はないけど」
優音は静かに歌い始めた。
伴奏はない。ギターも、ピアノもない。
あるのは、チャプ、チャプという水音だけ。
けれど、その声は深かった。
東京の地下ライブハウスで叫んでいた頃の「焦り」とも、売れっ子歌手として求められた「綺麗さ」とも違う。
喜びも、悲しみも、後悔も、全てを飲み込んで凪いだ海のような歌声。
『ラララ……』
言葉にならないスキャットが、石造りの壁に反響し、夜空へと昇っていく。
蓮は目を閉じて聴いていた。
身体中の細胞が粟立つのが分かった。
(これが……『生命』だ)
ジャン・リュックが言っていた「飢え」とは、貧しさのことではない。
生きていることの実感。泥臭く、不恰好で、それでも鼓動を止めない魂の熱量のことだったのだ。
「……優音、そのまま歌い続けてくれ」
蓮は懐からスマートフォンを取り出した。
カメラを起動し、インカメラにする。
照明はない。月明かりだけが頼りだ。メイクもしていない、無精髭のままの顔。
録画ボタンを押す。
蓮は画面の中の自分に向かって、いや、画面の向こうにいるジャン・リュックに向かって、静かに語りかけた。
セリフではない。
優音の歌声を聴いて、心が震えている「今の感情」を、そのまま表情に乗せた。
「……聞こえますか、監督。これが俺の『現在地』です」
蓮の目から、一筋の涙が零れた。
悲劇を演じようとしたのではない。優音の歌が、あまりにも優しくて、痛かったからだ。
「俺は空っぽでした。でも、今は違う。……この歌が聞こえる限り、俺は人間でいられる」
約一分間のビデオメッセージ。
蓮は迷わず送信ボタンを押した。
宛先は、ジャン・リュック監督のプライベートアドレス。
「……送っちゃった」
蓮がスマホを放り出すと、優音も歌うのをやめた。
「いい顔してたよ、蓮」
「お前の歌のおかげだ」
ゴンドラが橋の下をくぐる。
暗闇の中で、二人は強く手を握り合った。
返事が来る保証はない。全てを失うかもしれない。
だが、二人の顔には、憑き物が落ちたような清々しい笑みが浮かんでいた。
(第9章 完)
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