『CRIMSON APEX』 (クリムゾン・アペックス)

TAKAHARA HIROKI

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第2章:路面を掴む黒い円環(リング)

午後になると、東京の上空には重たい鉛色の雲が垂れ込め始めていた。
 気象庁の予報によれば、今年の梅雨入りは例年よりも早いという。湿気をたっぷりと含んだ生暖かい風が、ピットの中に吹き込んでくる。整備士にとって湿度は大敵だが、それ以上に、車にとって最も厄介な敵の一つ――「水」との戦いが始まる季節の到来だ。
 如月美羽は、休憩スペースで少し冷めた缶コーヒーを啜りながら、窓の外のアスファルトが黒く濡れそぼっていく様子を眺めていた。
「降りそうね……いや、もう降り始めたか」
 雨の日は、事故が増える。その大半は、ドライバーの慢心と、整備不良が引き起こす必然の結果だ。
 彼女は無意識に右手の指先を動かす。雨の日のステアリングインフォメーションは、晴れの日とは全く異なる。路面とタイヤの間にミクロの水膜が介在することで、グリップの限界点(摩擦円)は恐ろしく小さくなるのだ。
 その時、工場の入り口に一台のスポーツカーが滑り込んできた。
 白いトヨタ・86(ZN6)。若者に人気のFR(後輪駆動)スポーツだ。
 しかし、その進入はどこかぎこちなかった。減速のためにブレーキを踏んだ瞬間、ノーズが不自然に左へ揺れ、ドライバーが慌てて修正舵を当てたのが見て取れた。ABS(アンチロック・ブレーキ・システム)が作動するような速度ではない。明らかに異常だ。
 車から降りてきたのは、二十代前半と思われる若い男性だった。顔面は蒼白で、ハンドルを握っていた手は微かに震えている。
「い、いらっしゃいませ。オートボックスへようこそ」
 美羽が声をかけると、男性――佐藤と名乗った客は、縋るような視線を向けてきた。
「あの、電話で予約した佐藤です。タイヤを見てほしくて……。さっき、そこの交差点で普通にブレーキを踏んだだけなのに、車がスピンしそうになって」
「お待ちしていました。お電話でも『雨の日に滑る』とおっしゃっていましたが、今の挙動、見ていましたよ。かなり肝を冷やしましたね」
「はい……。溝はまだあると思うんですけど、何が悪いんでしょうか」
 美羽は頷き、86の足元にしゃがみ込んだ。
 装着されているのは、純正ホイールに履かせた安価なアジアンタイヤだ。美羽はまず、トレッド面(路面と接する部分)の溝の深さをデプスゲージで計測する。残り4.0mm。スリップサインが出る1.6mmまではまだ余裕がある。
 一見すると、まだ使えるタイヤに見えるかもしれない。しかし、美羽の鋭い目は、トレッド表面の微細なヒビ割れ(クラック)を見逃さなかった。
 彼女は爪を立てて、トレッドのブロックをグッと押してみた。
 ――硬い。
 まるでプラスチックのような感触だ。
「佐藤さん、原因が分かりました」
 美羽は立ち上がり、残念な事実を告げる医師のように静かに言った。
「このタイヤ、寿命(ライフ)が終わっています」
「えっ? でも、溝はまだたっぷりありますよ?」
 佐藤が驚いて覗き込む。
「溝があっても、ゴムの『質』が死んでいたら意味がないんです。ここを見てください」
 美羽はタイヤのサイドウォールに刻印された、楕円で囲まれた四桁の数字を指差した。
「**『3518』**とありますね。これはセリアルナンバー(製造年週)といって、タイヤの誕生日です。後ろの『18』は2018年、前の『35』は35週目。つまり、このタイヤは約5年前に作られたものです」
「5年前……中古で買った時からついていたので、そこまでは気にしてませんでした」
 美羽は説明を続ける。
「タイヤのゴムは生鮮食品と同じです。紫外線や熱、オゾン、そして時間の経過によって油分が抜け、徐々に硬化していきます(経年劣化)。今のこのタイヤは、消しゴムのような弾力を失い、硬いプラスチックの塊になっている状態です」
 彼女は濡れたアスファルトを指差した。
「乾いた路面なら、摩擦熱でゴムが溶けて多少はグリップするかもしれません。でも、雨で冷やされた路面では、硬くなったゴムはアスファルトの微細な凹凸に食い込むことができません。だから、氷の上のように『ツルッ』と滑るんです」
 美羽の論理的な説明に、佐藤の顔から血の気が引いていく。
「俺、そんな状態で峠道を走っていたのか……」
「事故にならなくて本当に良かったです。これが高速道路でのハイドロプレーニング現象だったら、命に関わっていました」
 美羽は決して脅しているわけではない。整備士として、事実を伝える義務があるのだ。
「交換をお願いします。……雨に強くて、安心して走れるタイヤはありますか?」
「佐藤さんの86は、素直なハンドリングが持ち味の良い車です。その性能を殺さず、かつ雨の日の安全性を確保するなら……」
 美羽はカタログを広げ、一つの国産タイヤを提案した。
「この『スポーツコンフォートタイヤ』をおすすめします。最大の特徴は、ラベリング制度におけるウェットグリップ性能が最高ランクの**『a』**であることです」
「ウェットグリップ『a』?」
「はい。タイヤの性能表示には転がり抵抗とウェットグリップ性能がありますが、雨の日の止まりやすさを『a』から『d』の4段階で評価しています。『a』と『c』では、時速100キロからの制動距離で、車一台分以上の差が出ることがあるんです」
 美羽はカタログの断面図を示した。
「このタイヤは、シリカという成分を多く配合した特殊なコンパウンドを使っています。シリカは低温でもゴムをしなやかに保つ性質があるので、雨の冷たい路面でもしっかりと密着してくれるんです」
 佐藤の了承を得て、作業が始まった。
 美羽はタイヤチェンジャーを巧みに操る。『プシューッ!』というエアの音と共に古いタイヤのビードを落とし、ホイールから引き剥がす。
 新しいタイヤを組み込む際は、ビードクリームを丁寧に塗り、ホイールのリムやタイヤのビード部分を傷めないよう細心の注意を払う。
 バランサーにセットし、回転させながら美羽は語る。
「タイヤは黒くて丸いだけの部品に見えますが、ハイテクの塊なんです。カーカスと呼ばれる骨格、ベルト、そしてトレッドパターン。この溝の一つ一つが、路面の水を効率よく排水するために計算され尽くしています」
 ウェイトを貼り付け、バランスをゼロに合わせる。
「車一台、約1.3トンの重さを支えているのは、タイヤ4本合わせても、たった『ハガキ4枚分』の面積しかありません。そのわずかな接地面に、すべての命がかかっているんです」
 作業を終え、真新しい黒々としたタイヤを履いた86がリフトから降りた。
 佐藤は安堵した表情を見せたが、まだどこか不安げだった。
「美羽さん、タイヤが良くなったのは分かりました。でも……また滑るんじゃないかって、トラウマみたいになってて。雨の日の運転って、どうすればいいんでしょうか」
 美羽はウエスで手を拭きながら、佐藤の目を見つめた。
 ここからは整備士としてではなく、一人のドライバーとしての助言だ。
「技術的なアドバイスを二つだけ、お教えします。これを意識するだけで、世界が変わりますよ」
 彼女は自身のRX-7の運転席を指差した。
「一つ目は、**『操作をアナログにする』**ことです」
「アナログ、ですか?」
「はい。怖いとどうしても、人間は体が強張って、アクセルやブレーキを『スイッチ』のように操作してしまいがちです。オンかオフか、0か100か。でも、雨の日はそれが一番危険です。急激な荷重移動はタイヤの限界を一瞬で超えてしまいますから」
 美羽は右足でアクセルペダルを踏む動作をしてみせた。
「ペダルの下に、殻の薄い生卵があると思ってください。その卵を割らないように、じわーっと踏んで、じわーっと戻す。ステアリングも同じです。ガバッと切るのではなく、サスペンションが沈み込むのを感じながら、丁寧に舵角を入れていくんです」
「生卵……なるほど、イメージしてみます」
「二つ目は、**『センサーを研ぎ澄ます』**ことです。特にステアリングから伝わる手のひらの感覚です」
 美羽の声色が少し鋭くなる。
「車が滑り出す直前、ハンドルは必ず『フッ』と軽くなります。タイヤが路面を掴む力が抜けかけているサインです。その『軽くなった』瞬間を感じ取ったら、それ以上切り足してはいけません。アクセルも踏んではいけません。タイヤが再びグリップを取り戻すのを、祈るように待つのです」
「待つ……それが一番難しそうです」
「ええ、本能に逆らう行為ですから。でも、タイヤを信じて、余計なことをしないのが一番の回復方法なんです」
 佐藤は真剣な表情で頷き、メモを取っている。
「ありがとうございます。……なんだか、車を運転するのが少し楽しみになってきました。怖がるだけじゃなく、対話してみます」
「その意気です。新しいタイヤは一皮剥けるまで――約100キロくらいは慣らし運転が必要ですから、無理はしないでくださいね」
 佐藤は何度もお礼を言い、86に乗り込んだ。
 エンジンがかかり、走り去っていく後ろ姿は、来た時よりもずっとスムーズだった。丁寧なクラッチミートとアクセルワークが、排気音からも伝わってくる。
 その直後、雷鳴と共に激しい雨が本降りになった。
 アスファルトを叩く雨音が、工場内に反響する。
「本格的に降ってきたわね……」
 美羽はピットの入り口に立ち、煙るような雨のカーテンを見つめた。
 佐藤へのアドバイスは、自分自身への戒めでもある。
 FR(後輪駆動)で、しかも大パワーのロータリーターボを積むRX-7にとって、雨の路面は常に死と隣り合わせだ。
 だが、美羽はその緊張感が嫌いではなかった。
 タイヤのグリップ限界という、カミソリの刃の上を歩くようなギリギリの領域。そこでしか見えない景色、そこでしか得られない車との一体感がある。
「……そろそろ、アライメントを見直そうかな」
 彼女は独り言ちた。
 雨の日は路面抵抗が減る。ドライ路面用のセッティングのままでは、フロントの接地感が希薄になりがちだ。
 美羽は愛車のRX-7に歩み寄る。
 まだ見ぬ強敵や、これから起こるドラマなど知る由もなく、彼女はただひたすらに、目の前の機械と向き合っていた。
 東京の雨は、夜に向けてその激しさを増そうとしていた。
(第2章 完)

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