『CRIMSON APEX』 (クリムゾン・アペックス)

TAKAHARA HIROKI

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第4章:見えざるエネルギーの枯渇

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梅雨が明け、東京の空は一変して灼熱の太陽に支配されていた。
 気温三十五度。アスファルトからは逃げ水が立ち上り、整備工場の鉄屋根がじりじりと焼ける音を立てている。
 車にとって、夏は最も過酷な季節だ。エンジン冷却水(クーラント)の温度上昇、エアコンによる高負荷、そして何より――「電気」の激しい消耗戦が始まるからだ。
 午後一番。オートボックスのピットに、一台の軽ハイトワゴンが入庫した。
 運転していたのは、近所で訪問介護の仕事をしている女性、高橋だ。仕事柄、一日に何度もエンジンのストップ&ゴーを繰り返すシビアコンディションでの使用が多い。
「美羽さん、こんにちは。なんだか最近、エンジンの掛かりが悪い気がするの。『キュルル』っていう音が重たいというか……」
「こんにちは、高橋さん。その感覚、すごく大事ですよ。エアコンは常にオンにしていますか?」
「ええ、もうこの暑さだから全開よ。利用者さんを乗せることもあるし」
 美羽は頷き、すぐに診断ツールを手にした。
「バッテリーを診てみましょう。夏場はエアコンのブロアファン(送風機)がフル回転するので、電気の消費量が、車が作る発電量を上回ってしまいがちなんです」
 美羽はボンネットを開け、バッテリーの端子に**「バッテリーテスター」のワニ口クリップを接続した。
 バッテリーは、人間で言うところの心臓であり、スタミナ源だ。
「高橋さん、バッテリーの寿命判断には二つの数字が必要です。一つは『電圧(ボルト)』。もう一つは『CCA(コールド・クランキング・アンペア)』**です」
「シーシーエー?」
「はい。簡単に言うと『瞬発力』です。電圧が血液の量だとしたら、CCAは心臓が血液を送り出す筋力ですね」
 テスターが診断結果を弾き出し、レシートのような紙を吐き出した。
 美羽はその紙を高橋に見せた。
「見てください。電圧は『12.4V』。正常値より少し低いですが、まだ電気は入っています。でも、問題はこちら。CCA値が基準値の『40%』しかありません」
「半分以下……ってこと?」
「そうです。筋力が落ちているので、今はなんとかエンジンを掛けられていますが、明日の朝、急に掛からなくなる『突然死』のリスクが非常に高い状態です」
 美羽はバッテリーの側面を懐中電灯で照らした。半透明のケース内部にある極板が、白っぽく変色しているのが透けて見える。
「これは**『サルフェーション』**という現象です。バッテリーを使っていると、内部の鉛極板に非伝導性の結晶(硫酸鉛)が付着します。これが電気を通さない抵抗になってしまうんです。血管にコレステロールが溜まって詰まっていくようなイメージですね」
「怖い……。訪問先でエンジンが掛からなくなったら大変だわ」
「最近のバッテリーは性能が良いので、死ぬ直前まで普通に使えてしまうんです。昔のようにライトが暗くなったりする前兆が少ない。だからこそ、テスターでの数値管理が必要なんです」
 交換作業が決まった。
 美羽は新しいバッテリーを用意する。今回選んだのは、充電受入性能(回復力)が高い、青いケースが特徴的なパナソニック製の高性能バッテリーだ。
 作業に取り掛かる前、彼女は小さな箱型の機械を運転席の足元にあるOBDIIコネクタに差し込んだ。
「これは?」
「**『メモリーバックアップ』**です。最近の車はコンピューターで学習機能を管理しています。いきなりバッテリーを外すと、時計やラジオの設定だけでなく、エンジンのアイドリング制御やパワーウィンドウのオート機能までリセットされて、調子が悪くなることがあるんです。だから、予備電源を繋いで、車の記憶を守りながら手術をするんですよ」
 古いバッテリーを取り外す。
 マイナス端子、次にプラス端子の順で外す。これは鉄則だ。工具がボディ(アース)に触れてショートするのを防ぐためである。
 外した端子の内側には、白い粉のようなものが付着していた。
「これは錆の一種です。接触不良の原因になるので、綺麗にしますね」
 美羽はワイヤーブラシで端子を磨き、接点復活剤を含ませたウエスで丁寧に拭き上げた。ピカピカになった端子に、新しいバッテリーを接続する。今度はプラスから、そしてマイナスへ。
 最後に、固定ステーを締め付ける。強すぎず、弱すぎず。振動で動かないことを手で揺すって確認する。
「完了です、高橋さん。エンジンを掛けてみてください」
 高橋がキーを回す。
『キュッ、ブオン!』
 以前とは比べ物にならないほど力強く、短いクランキングでエンジンが始動した。
「わあ! 音が全然違う! 元気になったわ」
「これで安心です。この新しいバッテリーは大容量なので、エアコンを使いながらの渋滞でもしっかり耐えてくれますよ」
 高橋を見送った後、美羽はピットの隅に置かれた廃バッテリーの山を見つめた。
 その中には、メンテナンス不足で寿命を縮めたものも多い。
「電気は見えないからね……。でも、車を動かす最初の火種は、いつだって電気なのよ」
 日が暮れ、工場の片付けを終えた美羽は、自分のRX-7に乗り込んだ。
 キーを回し、イグニッションをONにする。
 追加メーターの一つ、電圧計の針が『12.6V』を指す。
 エンジン始動。
『キュキュ、ズドォン!』
 オルタネーター(発電機)が回り出し、電圧計の針が『14.1V』まで跳ね上がる。
「発電量よし。レギュレーター制御よし」
 RX-7(FD3S)は、電気負荷に弱い車だ。エンジンルームの熱害で配線が劣化しやすく、オルタネーターの発電量も現代の車に比べれば心許ない。
 だからこそ、美羽はバッテリーだけでなく、アース線の増設(アーシング)や、オルタネーターのB端子配線の強化など、見えない血管の強化を徹底している。
「行くよ、セブン。今夜は少し、空気を吸いに行こうか」
 美羽はRX-7を夜の街へと滑り出させた。
 向かう先は、都心から少し離れた埠頭エリア。信号が少なく、エンジンの調子を見るには丁度いいテストコースだ。
 夜風がインタークーラーを冷やし、エンジンの吹け上がりが軽い。
 ロータリーエンジンは、電気火花(スパーク)の強さが爆発力に直結する。点火系を強化し、安定した電圧を供給することで、低回転のトルクが太くなるのだ。
 埠頭の長い直線道路。
 美羽はアクセルを踏み込んだ。
 シーケンシャルツインターボが過給を開始する。プライマリータービンが回り、背中をシートに押し付ける加速Gが立ち上がる。
 4500回転、セカンダリータービンへの切り替わり。一瞬の谷間の後、爆発的な加速が襲う。
「いい燃焼してる。……電圧もドロップしない」
 彼女は冷静にメーターを読み取りながら、マシンの健康状態を確認する。
 その時だった。
 対向車線から、青白いHIDの光軸が近づいてきた。
 すれ違いざま、鼓膜を震わせる独特の排気音が響いた。
『カァァァーーーン!』
 直列6気筒、RB26DETTの高周波サウンド。
 一瞬の交差。
 街灯の光に照らされたのは、鮮やかなベイサイドブルーのボディと、特徴的な四つの丸いテールランプ。
「……ッ!?」
 美羽は思わずバックミラーを見た。
 その車は、減速することなく、さらに奥の高速道路の入り口へと吸い込まれていった。
 速い。
 ただ直線番長のように踏んでいるだけではない。路面のギャップをしなやかにいなし、車体が地面に張り付いているような安定感があった。
「今の……まさか」
 先日、常連客の嶋田が言っていた噂を思い出す。
『雨の峠道に出る、とんでもなく速い青いGT-R』
『蒼い幻影』
 美羽はハザードを焚いて路肩に停車した。
 自分の心臓の鼓動が、アイドリングの振動とシンクロして早くなっているのが分かる。
 間違いない。今の車が、その噂の主だ。
 ドライバーの顔は見えなかった。だが、あの走り去る後ろ姿だけで、並大抵の腕ではないことが分かる。
 排気音が、綺麗に整っていた。完璧にチューニングされたエンジンだけが出せる、濁りのない音。
「……本当にいたんだ」
 美羽は独りごちた。
 GT-R。日産が誇る最強のAWD(全輪駆動)マシン。
 すれ違っただけで肌が粟立つようなプレッシャー。
 彼は今、どこへ向かうのか。
 おそらく、峠だ。北関東の山々へ、深夜のトレーニングに向かうのだろう。
「次元が違うわね」
 悔しいが、認めざるを得ない。
 今の自分のセブンでは、あの領域にはまだ届かないかもしれない。
 バッテリーは満タンだ。エンジンの調子も最高だ。
 けれど、あのGT-Rの背中を追うには、まだ何かが足りない。
 それは技術なのか、マシンのスペックなのか、それとも――。
「焦ることはない。……私は私のやり方で、セブンを速くする」
 美羽は自分に言い聞かせるように呟き、ギアをローに入れた。
 Uターンし、工場へと戻る道すがら、彼女の頭の中では、すでに次のチューニングプランが組み上がり始めていた。
 電気、タイヤ、視界。基礎体力はついた。
 次に見直すべきは、走るための「骨格」――サスペンションとブレーキだ。
 夏の夜風には、まだ熱気が残っている。
 しかし、美羽の瞳には、まだ見ぬ強敵への冷徹なまでの闘志が宿り始めていた。
 遠く離れた山並みを見つめながら、彼女はアクセルを深く踏み込んだ。
(第4章 完)
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