『CRIMSON APEX』 (クリムゾン・アペックス)

TAKAHARA HIROKI

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第5章:しなやかなる骨格、制動の美学

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梅雨が明け、東京は連日、殺人的な猛暑に見舞われていた。
 午後二時。路面温度は六十度近くに達しているだろう。アスファルトからは陽炎が立ち上り、オートボックスのピット内も、大型扇風機が熱風を撹拌するだけのサウナ状態となっていた。
 だが、この乾いた熱気こそが、タイヤのグリップ力を最大化させる「ドライコンディション」の合図でもある。
 リフトの上には、一台のライトウェイトスポーツ、マツダ・ロードスター(NC型)が上げられていた。
 オーナーの若者、相田(あいだ)は、深刻な表情で愛車を見上げている。
「美羽さん、やっぱり変なんです。もっとキビキビ走れるようにと思って車高を下げたのに、乗り心地は最悪だし、コーナーで『ガタン!』って衝撃が来て、どこかに飛んでいきそうになるんです」
「なるほど……。相田さん、これを見てください」
 美羽はサスペンションの奥、ダンパーのロッド部分を指差した。そこには黒い油が滲み出し、砂埃と混ざってベットリと汚れていた。
「**『オイル漏れ』**です。ダンパーが完全に抜けて、死んでいます」
「えっ? 新品のダウンサス(短いバネ)を入れたばかりですよ?」
「純正のダンパーに、極端に短いバネだけを組んだのが原因ですね。サスペンションの有効ストローク(動く幅)がなくなって、常に底付き(ボトムアウト)しているんです」
 美羽はホワイトボードに向かい、マーカーを走らせた。整備士としての講義の時間だ。
「車の足回りには、大きく分けて二つの主役がいます。車の重さを支え、衝撃を受け止める**『スプリング(バネ)』。そして、バネの『ビヨンビヨン』という反発運動を抑え込んで収束させる『ショックアブソーバー(ダンパー)』**です」
 彼女は波線と、それを抑える矢印を描く。
「今の相田さんの車は、バネを短くしすぎて、ダンパーが縮む余裕がありません。段差を越えるたびに『ガツン』と底を打ち、その衝撃がボディに直接伝わっています。さらに、ダンパーがオイル漏れを起こしているので、一度揺れ始めたら止まらない。これでは、タイヤが路面から離れてしまいます」
「タイヤが離れる……?」
「はい。サスペンションの最大の役割は、乗り心地ではありません。どんな路面状況でも、タイヤを地面に押し付け続けること――つまり**『接地性(トラクション)』**の確保なんです。タイヤが浮けば、どんなに良いブレーキもハンドルも効きません」
 美羽は厳しい表情で続けた。
「それに、ブレーキローターもレコード盤のように傷だらけです。止まらない車で飛ばすことほど、自殺行為に近いものはありません」
「うう……。じゃあ、どうすれば」
「足回りをトータルで設計された『車高調(サスペンションキット)』に交換しましょう。そしてブレーキも、熱に強いものへ強化します」
 作業が始まった。
 美羽が提案したのは、ストリートからサーキット走行まで対応できる、減衰力調整式のサスペンションキットだ。
 古い足回りを外す。錆びついたボルトに潤滑剤を吹き、長いスピンナーハンドルで力を込める。「パキン!」という乾いた金属音と共にボルトが緩む。
 外した純正ダンパーは、手で押し込むと抵抗なく沈み、二度と戻ってこなかった。完全に機能不全だ。
 新しいサスペンションを組み込む。鮮やかな色のスプリングが、リフトの下で輝く。
 美羽の手つきは慎重だ。仮組みをした状態で、一度リフトを少し下げる。
「ここが重要です。締め付けは**『1G(ワンジー)締め』**で行います」
「ワンジー?」
「はい。タイヤを接地させて、車重(1G)がかかった状態を作り出してから、ボルトを本締めするんです。車が浮いた状態で締めると、ゴムブッシュがねじれた状態で固定されてしまい、サスペンションがスムーズに動かなくなりますから」
 ジャッキを使ってアームを持ち上げ、実走行に近い状態を作ってから、規定トルクで締め上げる。これをするかしないかで、車の動きは別物になる。
 次にブレーキだ。
 摩擦材が炭化しかけていたパッドを外し、耐フェード性の高いスポーツパッドに交換する。
 そして、ブレーキフルードの交換。
「ブレーキは、運動エネルギーを摩擦熱という『熱エネルギー』に変換して車を止める装置です。ハードな走行をすると、ローター温度は数百℃になり、その熱がフルード(油)に伝わります」
 美羽は琥珀色の液体をタンクに注ぐ。
「古いフルードは空気中の水分を吸って沸点が下がっています。もし沸騰してしまうと、配管内に気泡ができて圧力が伝わらなくなる。これを**『ベーパーロック現象』**と言います。ブレーキペダルがスカスカになって、コーナーで崖下に……なんてことにならないよう、沸点の高い『DOT4』規格以上を使います」
 全ての作業が終わり、アライメント調整を済ませたロードスター。
 試乗から戻ってきた相田は、興奮気味に車から飛び出してきた。
「すごい! 全然違う! 段差を越えても『タンッ』って一瞬で収まるし、ハンドルを切った瞬間にスッとノーズが入る! まるで別の車です!」
「それが、その車が本来持っていたポテンシャルですよ。しなやかな足は、速くて安全なんです」
 喜んで帰っていく相田を見送りながら、美羽は西日に目を細めた。
 相田のロードスターは生まれ変わった。
 では、自分のセブンはどうだ?
 先日目撃した、あの青いGT-R。
 一瞬のすれ違いだったが、路面の継ぎ目を越えた時の挙動が脳裏に焼き付いている。
 車体はフラットなまま、タイヤだけが動いて衝撃を吸収していた。魔法のような接地感。そして、強大なパワーを受け止めるだけの強靭なブレーキ。
 あれは、ただ硬いだけの足ではない。計算し尽くされた「動く足」だ。
「……負けてられないわね」
 美羽は工場のシャッターを半分下ろし、自分のRX-7のリフトアップを開始した。
 時刻は午後七時。ここからは、自分との戦いだ。
 RX-7(FD3S)のサスペンション形式は、前後ともに**「ダブルウィッシュボーン式」**。
 F1マシンにも採用される、理想的な構造だ。タイヤのキャンバー変化をコントロールしやすく、剛性も高い。
 だが、セッティングは難しい。特にリアサスペンションは、ブッシュのたわみを利用して旋回性能を上げる「トーコントロール機能」がついているが、限界域ではそれが挙動を乱すこともある。
「ドライの峠。……逃げ場のないハイスピードバトル」
 美羽はレンチを手に、自身のセッティングを大幅に見直すことにした。
 GT-Rは四輪駆動(AWD)。四本のタイヤすべてで路面を掻く。立ち上がりの加速は向こうが上だ。
 対して、RX-7はFR(後輪駆動)。
 勝機は、軽さを活かした「突っ込み(ブレーキング)」と「コーナリングスピード」にある。
「フロントの減衰を上げて、ノーズダイブを抑える。……その分、ブレーキの初期制動を強くして、前のめりな姿勢を作る」
 美羽はダンパーの調整ダイヤルを回し、「カチッ、カチッ」とクリック音を確認する。
 そして、ブレーキキャリパーを確認する。純正でも対向4ポットの強力なブレーキだが、美羽はさらに冷却用のダクトを引き直していた。
 ロータリーエンジンはエンジンブレーキが効きにくい。フットブレーキへの依存度が高いのだ。
 アライメントテスターの数値を睨む。
「フロントキャンバーはネガティブ2度45分。コーナーリング中の最大接地面積を狙う。……リアのトーは、少しインに向けて直進安定性を稼ぐ」
 ミクロン単位の調整。
 ボルトを締める手のひらに、乾いたアスファルトのざらつきを想像する。
 峠の下り。時速100キロを超える領域からのフルブレーキング。
 そこで車が暴れれば、死ぬ。
 逆に、ビシッと安定していれば、コンマ一秒でも遅くブレーキを踏める。そのコンマ一秒が、勝敗を分ける。
「よし……」
 調整を終え、RX-7を地面に降ろす。
 1G状態となったセブンは、獲物を狙う猛獣のように低く構えていた。
 フェンダーとタイヤの隙間は指一本分。しかし、決して干渉はしない絶妙なクリアランス。
 美羽はウエスで手を拭き、愛車のボディを撫でた。
 タイヤは地面と握手するための手。サスペンションは、その腕。そしてブレーキは、理性を保つための手綱。
 すべてが繋がった。
「準備はいい? セブン」
 心なしか、リトラクタブルライトの隙間が鋭く見えた。
 あのGT-Rのドライバー――黒木という男。
 まだ言葉も交わしていないし、向こうはこちらを認識さえしていないかもしれない。
 だが、美羽の中には確信があった。
 同じ領域にいる人間は、惹かれ合う。
 いずれ必ず、峠(ステージ)で出会うことになるだろう。
 美羽は空を見上げた。
 星が瞬いている。明日の夜も、間違いなく晴れだ。
 条件は整った。
 しなやかなる骨格を手に入れた紅きロータリーは、来るべき夜明けを静かに待っていた。
(第5章 完)
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