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第6章:深紅の肺活量、咆哮する排気音
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お盆を過ぎても、東京の暑さは衰えることを知らなかった。
日中の最高気温は三十五度超。路面からの輻射熱を含めれば、体感温度は四十度を優に超える。
人間にとっても過酷だが、内燃機関(エンジン)にとっては、まさに地獄のような環境だ。特に、過給機(ターボ)を持つ車にとっては。
午後三時。一台の日産・シルビア(S15)が、息も絶え絶えといった様子でピットに入庫した。
オーナーの若者は、首を傾げながらボンネットを開けている。
「美羽さん、なんか最近、車が遅いんです。ブーストは掛かってるはずなのに、高回転で『詰まった』感じがして、パワーが出ないというか……」
「なるほど。この暑さですからね。……ちょっと失礼します」
美羽はエンジンルームを覗き込む。社外の「キノコ型」と呼ばれる、黄色いフィルターの剥き出しエアクリーナーが装着されている。
彼女はそのフィルターの蛇腹部分を指でなぞった。指先には、黒い煤と油汚れがベットリと付着した。
「原因は複合的ですが、まず第一にこれです。エアクリーナーが完全に目詰まりしています。人間で言えば、マスクを三枚重ねて全力疾走しているような状態ですよ」
美羽は新しいフィルターを用意しながら、ホワイトボードに向かった。
「エンジンは、ガソリンを燃やす機械である前に、**『巨大なエアポンプ(空気入れ)』**なんです」
彼女はエンジンの断面図を書き始めた。
「どんなに高性能な燃料ポンプでガソリンを吹いても、それを燃やすための『酸素』が入ってこなければ爆発力は生まれません。特にターボ車は、タービンで空気を圧縮して無理やり押し込むので、入り口(吸気)が少しでも詰まると、致命的なパワーダウンを起こします」
さらに、美羽はエンジンルーム内のレイアウトを指差した。
「それと、このエアクリーナーの位置です。ラジエーターのファンの真後ろで、エンジンルーム内の熱気を直接吸ってしまっています」
「えっ、剥き出しの方が吸う量が増えていいんじゃないんですか?」
「量は吸えますが、**『密度』**が低いんです。空気は熱くなると膨張しますよね? 同じ体積でも、熱い空気は酸素の分子量が少ないんです。夏場にパワーダウンするのは、酸素が薄い空気を吸っているからです」
美羽は遮熱板(ヒートシールド)のカタログを見せた。
「フレッシュエア、つまり外の冷たい空気を吸えるように、隔壁を作りましょう。吸気温度が10度下がれば、馬力は数パーセント変わりますよ」
次に、美羽は車の下に潜り込み、マフラー(排気管)を点検した。
ハンマーの柄でコンコンと叩くと、鈍い音がする。
「出口(排気)の方も少し詰まり気味ですね。純正の触媒やマフラーは、消音と環境性能のために内部が複雑な迷路になっていて、排気の抜けが悪い(背圧が高い)んです。吸った空気をスムーズに吐き出せないと、新しい空気が入ってきません」
「入り口を冷やして広げて、出口もスムーズにする……ってことですね」
「その通りです。たくさん冷たい空気を吸って、爆発させて、素早く吐き出す。これが内燃機関の基本サイクルです」
エアクリーナーの交換と、アルミ板を加工した即席の遮熱板の設置。そしてマフラー内の煤払い洗浄(カーボン除去)を行ったシルビア。
エンジンを掛けると、吸気音が「シュオオオッ!」と勇ましく響き、レスポンスが見違えるように鋭くなった。
「すげぇ! アクセル踏んだ瞬間に回転が跳ね上がる!」
若者は歓喜の声を上げ、乾いた排気音を残して走り去っていった。
夕方。美羽は工場の掃除をしながら、西の空を見上げた。
日が落ちると、少しだけ風が変わる。
夜になれば、気温は下がる。空気の密度が上がる。
それは、ターボ車が本来の力を取り戻す「魔の時間」の始まりだ。
美羽は自分のRX-7のリフトアップを開始した。
今夜は、エンジンのセッティングを煮詰める。
ボンネットを開ける。そこに鎮座するのは、マツダの魂、13B-REW型ロータリーエンジン。
おにぎり型のローターが回転運動をするこのエンジンは、吸気・圧縮・燃焼・排気というサイクルを、ピストンエンジンの倍以上の効率で行う。
レシプロエンジンが「呼吸」だとするなら、ロータリーは「暴風」だ。
「あんたの肺活量は、こんなもんじゃないわよね」
美羽は、カーボン製のインテークボックスを確認する。
熱害に極端に弱いロータリーのために、バンパーの開口部から走行風をダイレクトに取り込めるようにダクトを引き直してある。
さらに、インタークーラーは純正の置き場所から変更し、ラジエーターとV字型に配置する**「Vマウント」**化してある。これで吸気冷却と水温冷却を両立させているのだ。
そして排気系。
タービンの直後にあるフロントパイプから、マフラーエンドまで、チタン製のフルストレート構造。
ロータリー特有の超高温・高圧力の排気を、淀みなく後方へ吐き出すための「筒」だ。
「吸気温度センサー、異常なし。排気温度計、動作確認」
美羽は助手席にノートパソコンを置き、ECU(エンジン制御ユニット)に繋いだ。
画面に表示される燃料噴射マップ(フューエルマップ)と点火時期マップ。
ドライの冷えた夜気なら、もっと酸素が入る。
ガソリンを濃くして冷却する「安全マージン」を少し削り、爆発力を高める「パワー空燃比」へと書き換える。
「ブースト圧、0.9キロで固定。……これ以上上げるとアペックスシールが飛ぶ」
キーボードを叩く指が踊る。
整備士としての慎重さと、走り屋としての貪欲さが交錯する時間。
これは整備ではない。調律(チューニング)だ。
夜10時。
美羽はRX-7を走らせ、湾岸エリアの工業地帯へと向かった。
信号のない直線道路。アスファルトは完全に乾いている。
窓を少し開けると、ヒンヤリとした夜気が入ってきた。最高のコンディションだ。
「行くよ、セブン」
2速、アクセル全開。
『バァァァァァァーーーン!!』
ロータリーサウンドが炸裂する。
レシプロエンジンのような「ドロドロ」という脈動感はない。モーターのように、あるいはジェット機のように、どこまでも滑らかに、そして指数関数的に回転数が上昇していく。
シーケンシャルツインターボのプライマリーが回り、4500回転でセカンダリーへと切り替わる。
背中をシートに叩きつけられる加速G。
7000、8000、そしてレブリミットの警告ブザーが鳴る9000回転まで、一瞬の出来事だ。
「……速いッ!」
吸排気のバランスが整ったロータリーは、まるで生き物のように酸素を貪り、力を生み出す。
恐怖を感じるほどの加速。だが、美羽の口元には笑みが浮かんでいた。
これなら戦える。
美羽はアクセルを緩め、クーリング走行に入った。
脳裏に浮かぶのは、あの青いGT-Rの後ろ姿。
GT-Rに搭載されているRB26DETTエンジンも、直列6気筒ツインターボという化け物だ。排気量で勝るあちらの方が、絶対的なトルクは太いだろう。
だが、レスポンスなら負けない。
コーナーの立ち上がり、アクセルをミリ単位で踏み込んだ瞬間の「ツキ」の良さ。そこで前に出る。
「パワーだけじゃない。……この『軽さ』と『反応』が武器になる」
美羽は確信した。
吸気、排気、足回り、ブレーキ。
一つ一つのピースが埋まっていく。
まだ見ぬライバル、黒木。彼も今頃、どこかの空の下で、同じように牙を研いでいるのだろうか。
美羽はパーキングエリアに車を停め、ボンネットを開けて熱を逃がした。
チタンマフラーが「キン、キン」と金属音を立てて冷えていく音を聞きながら、彼女は夜空を見上げた。
星が瞬いている。
嵐の前の静けさ。
準備は、整いつつある。
次は、より実戦的な「駆動系」――クラッチとデフの確認だ。
美羽は缶コーヒーを飲み干し、再びコックピットへと戻った。
(第6章 完)
日中の最高気温は三十五度超。路面からの輻射熱を含めれば、体感温度は四十度を優に超える。
人間にとっても過酷だが、内燃機関(エンジン)にとっては、まさに地獄のような環境だ。特に、過給機(ターボ)を持つ車にとっては。
午後三時。一台の日産・シルビア(S15)が、息も絶え絶えといった様子でピットに入庫した。
オーナーの若者は、首を傾げながらボンネットを開けている。
「美羽さん、なんか最近、車が遅いんです。ブーストは掛かってるはずなのに、高回転で『詰まった』感じがして、パワーが出ないというか……」
「なるほど。この暑さですからね。……ちょっと失礼します」
美羽はエンジンルームを覗き込む。社外の「キノコ型」と呼ばれる、黄色いフィルターの剥き出しエアクリーナーが装着されている。
彼女はそのフィルターの蛇腹部分を指でなぞった。指先には、黒い煤と油汚れがベットリと付着した。
「原因は複合的ですが、まず第一にこれです。エアクリーナーが完全に目詰まりしています。人間で言えば、マスクを三枚重ねて全力疾走しているような状態ですよ」
美羽は新しいフィルターを用意しながら、ホワイトボードに向かった。
「エンジンは、ガソリンを燃やす機械である前に、**『巨大なエアポンプ(空気入れ)』**なんです」
彼女はエンジンの断面図を書き始めた。
「どんなに高性能な燃料ポンプでガソリンを吹いても、それを燃やすための『酸素』が入ってこなければ爆発力は生まれません。特にターボ車は、タービンで空気を圧縮して無理やり押し込むので、入り口(吸気)が少しでも詰まると、致命的なパワーダウンを起こします」
さらに、美羽はエンジンルーム内のレイアウトを指差した。
「それと、このエアクリーナーの位置です。ラジエーターのファンの真後ろで、エンジンルーム内の熱気を直接吸ってしまっています」
「えっ、剥き出しの方が吸う量が増えていいんじゃないんですか?」
「量は吸えますが、**『密度』**が低いんです。空気は熱くなると膨張しますよね? 同じ体積でも、熱い空気は酸素の分子量が少ないんです。夏場にパワーダウンするのは、酸素が薄い空気を吸っているからです」
美羽は遮熱板(ヒートシールド)のカタログを見せた。
「フレッシュエア、つまり外の冷たい空気を吸えるように、隔壁を作りましょう。吸気温度が10度下がれば、馬力は数パーセント変わりますよ」
次に、美羽は車の下に潜り込み、マフラー(排気管)を点検した。
ハンマーの柄でコンコンと叩くと、鈍い音がする。
「出口(排気)の方も少し詰まり気味ですね。純正の触媒やマフラーは、消音と環境性能のために内部が複雑な迷路になっていて、排気の抜けが悪い(背圧が高い)んです。吸った空気をスムーズに吐き出せないと、新しい空気が入ってきません」
「入り口を冷やして広げて、出口もスムーズにする……ってことですね」
「その通りです。たくさん冷たい空気を吸って、爆発させて、素早く吐き出す。これが内燃機関の基本サイクルです」
エアクリーナーの交換と、アルミ板を加工した即席の遮熱板の設置。そしてマフラー内の煤払い洗浄(カーボン除去)を行ったシルビア。
エンジンを掛けると、吸気音が「シュオオオッ!」と勇ましく響き、レスポンスが見違えるように鋭くなった。
「すげぇ! アクセル踏んだ瞬間に回転が跳ね上がる!」
若者は歓喜の声を上げ、乾いた排気音を残して走り去っていった。
夕方。美羽は工場の掃除をしながら、西の空を見上げた。
日が落ちると、少しだけ風が変わる。
夜になれば、気温は下がる。空気の密度が上がる。
それは、ターボ車が本来の力を取り戻す「魔の時間」の始まりだ。
美羽は自分のRX-7のリフトアップを開始した。
今夜は、エンジンのセッティングを煮詰める。
ボンネットを開ける。そこに鎮座するのは、マツダの魂、13B-REW型ロータリーエンジン。
おにぎり型のローターが回転運動をするこのエンジンは、吸気・圧縮・燃焼・排気というサイクルを、ピストンエンジンの倍以上の効率で行う。
レシプロエンジンが「呼吸」だとするなら、ロータリーは「暴風」だ。
「あんたの肺活量は、こんなもんじゃないわよね」
美羽は、カーボン製のインテークボックスを確認する。
熱害に極端に弱いロータリーのために、バンパーの開口部から走行風をダイレクトに取り込めるようにダクトを引き直してある。
さらに、インタークーラーは純正の置き場所から変更し、ラジエーターとV字型に配置する**「Vマウント」**化してある。これで吸気冷却と水温冷却を両立させているのだ。
そして排気系。
タービンの直後にあるフロントパイプから、マフラーエンドまで、チタン製のフルストレート構造。
ロータリー特有の超高温・高圧力の排気を、淀みなく後方へ吐き出すための「筒」だ。
「吸気温度センサー、異常なし。排気温度計、動作確認」
美羽は助手席にノートパソコンを置き、ECU(エンジン制御ユニット)に繋いだ。
画面に表示される燃料噴射マップ(フューエルマップ)と点火時期マップ。
ドライの冷えた夜気なら、もっと酸素が入る。
ガソリンを濃くして冷却する「安全マージン」を少し削り、爆発力を高める「パワー空燃比」へと書き換える。
「ブースト圧、0.9キロで固定。……これ以上上げるとアペックスシールが飛ぶ」
キーボードを叩く指が踊る。
整備士としての慎重さと、走り屋としての貪欲さが交錯する時間。
これは整備ではない。調律(チューニング)だ。
夜10時。
美羽はRX-7を走らせ、湾岸エリアの工業地帯へと向かった。
信号のない直線道路。アスファルトは完全に乾いている。
窓を少し開けると、ヒンヤリとした夜気が入ってきた。最高のコンディションだ。
「行くよ、セブン」
2速、アクセル全開。
『バァァァァァァーーーン!!』
ロータリーサウンドが炸裂する。
レシプロエンジンのような「ドロドロ」という脈動感はない。モーターのように、あるいはジェット機のように、どこまでも滑らかに、そして指数関数的に回転数が上昇していく。
シーケンシャルツインターボのプライマリーが回り、4500回転でセカンダリーへと切り替わる。
背中をシートに叩きつけられる加速G。
7000、8000、そしてレブリミットの警告ブザーが鳴る9000回転まで、一瞬の出来事だ。
「……速いッ!」
吸排気のバランスが整ったロータリーは、まるで生き物のように酸素を貪り、力を生み出す。
恐怖を感じるほどの加速。だが、美羽の口元には笑みが浮かんでいた。
これなら戦える。
美羽はアクセルを緩め、クーリング走行に入った。
脳裏に浮かぶのは、あの青いGT-Rの後ろ姿。
GT-Rに搭載されているRB26DETTエンジンも、直列6気筒ツインターボという化け物だ。排気量で勝るあちらの方が、絶対的なトルクは太いだろう。
だが、レスポンスなら負けない。
コーナーの立ち上がり、アクセルをミリ単位で踏み込んだ瞬間の「ツキ」の良さ。そこで前に出る。
「パワーだけじゃない。……この『軽さ』と『反応』が武器になる」
美羽は確信した。
吸気、排気、足回り、ブレーキ。
一つ一つのピースが埋まっていく。
まだ見ぬライバル、黒木。彼も今頃、どこかの空の下で、同じように牙を研いでいるのだろうか。
美羽はパーキングエリアに車を停め、ボンネットを開けて熱を逃がした。
チタンマフラーが「キン、キン」と金属音を立てて冷えていく音を聞きながら、彼女は夜空を見上げた。
星が瞬いている。
嵐の前の静けさ。
準備は、整いつつある。
次は、より実戦的な「駆動系」――クラッチとデフの確認だ。
美羽は缶コーヒーを飲み干し、再びコックピットへと戻った。
(第6章 完)
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