『CRIMSON APEX』 (クリムゾン・アペックス)

TAKAHARA HIROKI

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第7章:噛み合う歯車、伝達する意志

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八月の終わり。お盆を過ぎても、東京の夜は熱帯夜から抜け出せずにいた。
 オートボックスのピット内には、独特の焦げ臭い匂いが漂っていた。それは、オイルの焼ける匂いとは違う、摩耗材が炭化した特有の刺激臭だ。
 この時期、エンジンだけでなく、駆動系のトラブルを抱える車が急増する。熱ダレするのは人間だけではない。金属同士が激しく噛み合うギアやクラッチもまた、悲鳴を上げているのだ。
 午後六時。一台のトヨタ・アルテッツァ(SXE10)が、弱々しいエンジン音を立てて入庫した。
 オーナーは二十代の走り屋見習い、健一だ。彼は泣きそうな顔で美羽に訴えかけた。
「美羽さん、車が壊れました……。アクセルを踏んでも、エンジンが『ヴーーッ』って唸るだけで、全然前に進まないんです。坂道発進なんて、もう無理で」
「なるほど、その匂いと症状……典型的ですね」
 美羽は運転席に座り、クラッチペダルを踏んでみる。踏力(踏みごたえ)がなく、どこで繋がるのか分からないほどフワフワしていた。
 サイドブレーキを引き、ギアをローに入れて少し繋いでみる。本来ならエンストするはずが、エンジンは回り続けている。
「健一くん、これは**『クラッチ滑り』**です。完全に寿命ですね」
 美羽は健一をリフトの下へ連れて行き、トランスミッションのつなぎ目を指差した。
「クラッチというのは、回っているエンジンと、止まっているトランスミッション(変速機)を繋いだり切ったりする『握手』のようなパーツです」
 彼女はホワイトボードに簡単な図を描いた。
「エンジンの動力を伝える円盤(フライホイール)と、変速機側の円盤(クラッチディスク)が、強力なバネの力で押し付けられて、摩擦力で一緒に回っています。健一くんの車は、この間の摩擦材(フェーシング)がすり減って、ツルツルになっているんです。だから、全力で握手しなきゃいけないのに、手汗で滑って空回りしているような状態です」
「うわぁ、そんな状態だったのか……」
「それと、もう一つ相談があって。最近ドリフトの練習を始めたんですけど、どうもスピンばかりしちゃうんです。片方のタイヤだけ『空転』して、煙が出るだけで前に進まないというか」
「それは、デファレンシャルギア(デフ)がノーマルの『オープンデフ』だからですね」
 美羽はもう一つ、車軸の真ん中にあるスイカのような形の部品、デフケースの図を描いた。
「車がカーブを曲がる時、内側のタイヤと外側のタイヤは走る距離が違いますよね? 外側の方が長く走る。その回転差を調整して、スムーズに曲がれるようにするのが『デフ』の役割です」
 美羽は赤いマーカーで強調する。
「でも、スポーツ走行ではこの便利機能が邪魔になります。コーナリング中に片方のタイヤが浮いたり滑ったりすると、オープンデフは『楽な方』、つまり滑っている方のタイヤにばかりパワーを逃がしてしまうんです。だから空転するだけで前に進まない」
「あ! まさにそれです! 内側のタイヤだけが回って、外側が喰わないんです!」
「ドリフトや速いコーナリングをするなら、**『LSD(リミテッド・スリップ・デフ)』**が必要です。これは、タイヤが滑り始めたら強制的に左右をロックして(制限して)、両輪で路面を蹴り出す装置です」
 健一の目は輝いた。
「お願いします! クラッチ交換と一緒に、そのLSDってやつも入れたいです!」
「分かりました。街乗りもするなら、扱いやすい『1.5way』がおすすめですよ。アクセルオンでしっかり効いて、オフの時は少し緩む。これなら初心者でも挙動がマイルドですから」
 作業は深夜に及んだ。
 重たいミッションケースを下ろし、焼けたクラッチディスクを交換する。
 そして、デフ玉の交換。LSDの中には多数の金属プレートが入っており、その噛み合わせ調整(バックラッシュ調整)はミクロン単位の精度が求められる。
「リングギアの歯当たりよし。シム調整、プラス0.05ミリ……完璧」
 美羽の手は油まみれだが、その表情は充実していた。
 駆動系は、パワーを無駄なく路面に伝えるための「筋肉」だ。ここが貧弱では、先日の吸排気チューンで作ったパワーも、ただの騒音と熱に変わってしまう。
 翌朝、生まれ変わったアルテッツァを引き渡し、美羽は大きく伸びをした。
「さて……私のセブンも、最終確認といきますか」
 お客様の車を触っていると、自分の車の調子も確かめたくなるのが整備士の性(さが)だ。
 いや、それだけではない。
 美羽の中には、明確な目的があった。
 その夜。
 美羽はRX-7に乗り込み、首都高湾岸線を流していた。
 向かったのは、走り屋たちが集う有名なパーキングエリア(PA)。
 平日の深夜だが、何台かのスポーツカーが止まっている。
 美羽はあえて目立つ場所に車を止め、エンジンを切った。
 静寂の中に、チタンマフラーが冷える「チン、カン」という金属音と、遠くの波音が混じる。
 彼女のセブンには、既に**「カーボンLSD」**が組まれている。
 金属プレート式のLSDは「バキバキ」という作動音(チャタリング音)が激しく、唐突に効くが、カーボン式は反応がリニアで、滑り出しが驚くほどスムーズだ。
 FR(後輪駆動)のRX-7にとって、リアタイヤのコントロール性は生命線。
 アクセルワークだけで車の向きを変える。その繊細な対話を可能にするのが、このデフだ。
「……いるなら、出てきてよ」
 美羽は自販機で買ったブラックコーヒーを開けながら、闇を見つめた。
 今夜ここに来たのは、偶然ではない。
 あの「蒼い幻影」が、深夜のこのエリアに出没するという情報を掴んでいたからだ。
 待っているだけじゃない。こちらから引きずり出してやるつもりだった。
 その時。
 空気を震わせる重低音が近づいてきた。
『ドロロロロロ……』
 聞き覚えのある、腹の底に響くアイドリング音。
 駐車場に入ってきたのは、鮮烈なベイサイドブルーの車体。
 日産・スカイラインGT-R(BNR34)。
 美羽の口元に、微かな笑みが浮かぶ。
「やっぱり、来た」
 GT-Rは、まるで吸い寄せられるように、美羽のRX-7から一台分空けたスペースに滑り込んだ。
 エンジンが止まる。
 重厚なドアが開き、長身の男が降りてきた。黒いレザージャケットに身を包み、鋭い眼光を放っている。以前、店にオイル交換に来た客――黒木だ。
 だが、今の彼は「客」ではない。「走り屋」の顔をしていた。
 黒木は、美羽がそこにいることを最初から知っていたかのように、迷わず歩み寄ってきた。
 そして、RX-7の前で足を止めた。
 その視線が、フロントの車高、キャンバー角、そしてリアタイヤの摩耗具合を瞬時にスキャンしていく。
「……いい音だったな」
 挨拶代わりの低い声。
 美羽は逃げずにその視線を受け止めた。
「あなたのRB26もね。遠くからでも分かったわ」
 黒木はフッと鼻を鳴らし、視線をRX-7のリアデフ付近に向けた。
「さっきのバックでの駐車。……LSDのチャタリング音がほとんどしない。カーボンか?」
 美羽は眉をひそめなかった。むしろ、言い当てられたことを楽しむように答える。
「ええ。ATSのカーボンハイブリッド。唐突なロックはいらない。私はペダルワークで曲げるから」
「なるほど。FRらしい、神経質な選択だ」
 黒木は美羽の目を見た。
「俺のRはメタルだ。四輪すべてで路面を『喰いちぎる』ために、ガチガチに締めている。雨だろうがドライだろうが、踏めば前に出る仕様だ」
 それは、互いの「武器」の開示だった。
 繊細なコントロールで舞うように走るRX-7。
 圧倒的なトラクションでねじ伏せるように走るGT-R。
 黒木は、RX-7のボンネットに手をかざすような仕草をした。
「吸排気も煮詰めてある。アイドリングの脈動が乾いている。……ただ流すだけの車じゃない。本気で踏める車だ」
 黒木は一歩踏み出し、美羽との距離を詰めた。
「探していた。……この辺りで、俺のRについて来られそうな奴を」
「奇遇ね」
 美羽は握りしめた缶コーヒーを掲げ、言い放った。
「私も探していたのよ。……『蒼い幻影』なんて大層な名前で呼ばれてるGT-Rを。ウチの店のお客さんが怖がってるのよ、速すぎて」
 美羽の言葉に、黒木の瞳に初めて感情の色が灯った。
 それは、獲物を見つけた喜びか、好敵手への敬意か。
「今週末。……天気はドライだ」
 黒木は踵を返し、背中越しに言った。
「北関東、秋名(あきな)のダウンヒル。深夜2時。……そこで待つ」
「待たなくていいわ」
 美羽の声が、夜の駐車場に凛と響いた。
 黒木が足を止める。
「私もそのつもりだったから。……あなたに挑戦状を叩きつけに行くつもりだったの。逃げないでよ?」
 黒木は振り返り、ニヤリと凶暴な笑みを浮かべた。
「いい度胸だ。……なら、話は早い」
 彼はGT-Rに乗り込んだ。
「遅れるなよ。整備士」
 GT-Rのエンジンが始動する。
 RB26DETTの咆哮が、宣戦布告のファンファーレのように轟いた。
 ハザードも点滅させず、GT-Rは猛然と加速し、本線へと消えていった。
 残された美羽は、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
 恐怖はない。
 あるのは、ようやく「噛み合った」という実感だけだ。
 駆動系のギアがガッチリと噛み合い、動力が伝わる瞬間の衝撃。今、二人の意志がそうなった。
「上等じゃない……!」
 空き缶をゴミ箱に投げ入れる。カラン、と乾いた音が響く。
 向こうが四駆でトラクションの化物なら、こっちはカーボンLSDと軽量ボディで、コーナーを切り裂くだけだ。
「行くよ、セブン。……狩りの時間だ」
 美羽はRX-7のキーを回した。
 ロータリーエンジンが、主人の高揚に応えるように、鋭く、高く吠えた。
 全ての準備は整った。
 あとは、秋名の峠で決着をつけるだけだ。
(第7章 完)
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