『CRIMSON APEX』 (クリムゾン・アペックス)

TAKAHARA HIROKI

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第10章:蒼き悪夢、紅き凱歌(がいか)

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バックミラーが、青白い閃光で埋め尽くされた。
 抜いたはずのGT-Rが、物理法則を無視したような加速で、瞬く間に背後へと迫ってくる。
『ドォォォォォォォッ!!』
 RB26DETTの爆音が、RX-7の薄いリアガラスを震わせ、美羽の鼓膜を直接叩く。
 近い。あまりにも近い。
 バンパーとバンパーの隙間は、わずか数十センチ。
 それはレースというよりも、巨大な肉食獣に背後から喉元を狙われているような、原初的な恐怖だった。
「ッ……! なんてプレッシャーなの!」
 美羽は素手で握るステアリングに、滲む汗を感じていた。
 秋名の下りは、リズムが命だ。
 だが、後ろの「蒼い幻影」は、そのリズムを狂わせようと、あらゆる手段を使ってくる。
 コーナーの進入でインを鼻先で伺い、立ち上がりではアウトから大排気量のトルクで威圧する。
 ヘッドライトの光軸が、美羽の車内を暴力的に照らし出す。
「離れない……! コーナーで離しても、直線の加速ですぐに帳消しにされる!」
 美羽は歯を食いしばった。
 RX-7の武器は「軽さ」と「コーナリングスピード」。
 対してGT-Rの武器は「パワー」と「AWDのトラクション」。
 短いストレートでも、GT-Rは怒涛の加速を見せる。
 まるで、背後から巨大な手で押し潰されるような感覚。
 コースは終盤、リズムの取りにくい中高速セクションへ。
 路面のうねりが激しく、サスペンションの性能が試される区間だ。
 美羽は集中力を極限まで高めた。
(私のセブンは、この日のために足を仕上げた。しなやかに、猫のように!)
 右、左、右。
 美羽は縁石を大胆に跨ぎ、最短距離を突き進む。
『ガガガッ!』
 車体が激しく揺れるが、ダンパーが一発で衝撃を収束させる。タイヤが路面を離さない。
「いける……!」
 一方、後方の黒木。
 1.6トン近い巨体のGT-Rを、彼はねじ伏せるように操っていた。
 タイヤからは悲鳴のようなスキール音が絶え間なく響いている。
『キキキキキィィィッ!!』
 熱ダレにより、フロントタイヤのグリップ力は限界を迎えていた。アンダーステアが顔を出し始めている。
 だが、黒木はアクセルを緩めない。
 リアを流し、強制的に車の向きを変え、四輪すべての摩擦円を使い切って美羽に食らいつく。
(やるな、女……。だが、スタミナ勝負ならこっちの勝ちだ!)
 黒木は、次のブレーキングポイントで勝負を賭けた。
 目の前に迫る、きつい左コーナー。
 美羽がブレーキングの体勢に入る。テールランプが赤く染まる。
 黒木はその瞬間を待っていた。
「そこだッ!」
 GT-Rのノーズを、強引にイン側へねじ込む。
 クロスライン。
 美羽がアウトから被せようとするラインの内側を、強引にこじ開けようとする荒業。
『ズガガガガッ!』
 ABSを効かせながら、GT-Rがインを刺す。
 並んだ。
 サイドバイサイド。
 美羽の右側に、青い鉄の塊が迫る。
「させるかぁぁぁッ!!」
 美羽は絶叫した。
 ここで引けば負ける。
 彼女はブレーキを緩め、アウト側の狭いラインに賭けた。
 路面には、落ち葉と砂利が浮いている。滑れば即、ガードレールへ激突だ。
 だが、美羽の整備士としての目が、路面のカント(傾斜)を見抜いていた。
(ここは外側がバンクしてる……! タイヤを信じる!)
 美羽はアクセルを踏み込んだ。
『バァァァァァァン!!』
 RX-7のリアタイヤが砂利を跳ね飛ばしながら、路面を噛む。
 アウト側から、被せるように加速。
 GT-Rはインをついた分、立ち上がりのラインがきつい。黒木が一瞬アクセルを戻す。
 その隙を見逃さない。
 RX-7は弾丸のように加速し、再びGT-Rの鼻先を掠めて前へ出た。
「チッ……! 踏めるのか、あの砂利で!」
 黒木が舌打ちをするのが聞こえるようだった。
 残り距離はあと僅か。
 ゴール地点の駐車場まで、最後のストレートを残すのみ。
 だが、美羽のRX-7にも限界が近づいていた。
 水温計の針は95度を超え、油温は110度に達している。Vマウントでも冷やしきれないほどの連続全開走行。
 そして何より、タイヤだ。
 熱で溶けたゴムの匂いが車内に充満している。グリップのピークは過ぎ、氷の上を走っているような浮遊感がステアリングから伝わってくる。
(保って……! あと少し!)
 美羽は祈るように、しかし力強くステアリングを握りしめた。
 最終コーナー。
 ここを抜ければ、ゴールまでの全開区間だ。
 黒木が最後の牙を剥く。
 GT-Rのブースト圧が最大まで高まり、RB26が狂ったような咆哮を上げる。
『グオオオオオォォォッ!!』
 コーナーの出口。
 美羽はリアを流しながら、ゼロカウンターで立ち上がる。
 黒木は四輪ドリフトで、RX-7の真後ろ――スリップストリームに入った。
 空気抵抗を極限まで減らし、最後の加速で抜き去る算段だ。
「来る……!」
 バックミラーの中で、青い車体が巨大化する。
 ストレートの中間地点。
 GT-Rがスリップから抜け出し、右側に並びかけてくる。
 エンジンの排気量差が、ここで残酷なまでに現れる。
 伸びるGT-R。
 懸命に回るRX-7。
 美羽の横に、黒木の顔が見えた。
 鬼のような形相で前を見据えている。
 バンパーが並ぶ。
 ドアが並ぶ。
 完全に横並びになった。
「負けない……私は、整備士よ!」
 美羽はシフトノブを握りしめ、幻の「6速」があるかのように念じた。
 エンジンの調律は完璧だ。点火時期、燃調、すべて私が組んだ。
 信じろ。私の技術を。私のセブンを。
「回れぇぇぇぇッ!!」
 タコメーターの針が、レッドゾーンの9000回転を超え、未知の領域へと飛び込む。
 ロータリー特有の超高回転域。
 レシプロエンジンが苦しがる領域で、ロータリーはさらに息継ぎをして伸びる。
『キィィィィィィィン!!』
 ジェット機のような金属音が炸裂した。
 一瞬、GT-Rの伸びが止まった。
 RB26のレブリミットか、それとも熱ダレによるパワーダウンか。
 そのコンマ数秒の隙に、RX-7が鼻先一つ分、前に出た。
 ゴールの駐車場が目の前に迫る。
 二台のマシンは、一つの巨大な火の玉となって、ゴールラインを駆け抜けた。
『ドォォォォォ……!』
 風圧で、道端の草がなぎ倒される。
 勝敗は――。
 美羽はフルブレーキングを行い、ハザードを点滅させた。
 全身の力が抜け、シートに沈み込む。
 横を見る。
 GT-Rが並走して減速している。
 その位置は、美羽のRX-7より、わずかに半車身分、後ろだった。
「……勝った」
 呟いた瞬間、安堵と興奮が一度に押し寄せ、指先が震え出した。
 勝った。
 あの怪物、GT-Rに。
 雨でも、ドライでも、最強と言われたマシンに。
 二台は広い駐車場の奥に並んで停車した。
 エンジンを切ると、静寂が一気に戻ってくるはずだったが、そうはならなかった。
 『チン、カン、キン……』
 極限まで熱せられた金属たちが、冷却に伴って悲鳴のような収縮音を奏でている。
 ボンネットからは、陽炎のような熱気が立ち上り、ブレーキローターは赤黒く発光し、焦げたパッドの匂いが鼻をつく。
 それは、死力を尽くした機械たちの、荒い呼吸音だった。
 美羽はドアを開け、夜風を吸い込んだ。
 汗で張り付いたツナギに風が通る。
 隣のGT-Rから、黒木が降りてきた。
 彼はボンネットに手をつき、一つ大きく息を吐いてから、ゆっくりと美羽の方へ歩いてきた。
 その顔には、以前のような冷徹さはなく、憑き物が落ちたような、清々しい表情があった。
「……完敗だ」
 黒木は短く言った。
「最後のアウトからの被せ、そして直線の伸び。……俺のRが、パワーで競り負けるとはな」
 彼はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。紫煙が夜空に昇る。
「整備士と言ったな。……お前が組んだのか、あのエンジン」
「ええ。バランス取りから、ポート研磨まで」
 美羽が胸を張って答えると、黒木は微かに笑った。
「恐ろしい女だ。……ドライバーとしても、チューナーとしても」
 黒木は美羽に右手を差し出した。
「黒木だ。……いい走りだった」
 美羽はその大きな手を握り返した。
 ゴツゴツとした、走り屋の手。そして自分の手は、油と煤にまみれた整備士の手。
「如月美羽です。……楽しかったわ、黒木さん」
 握手をする二人の横で、RX-7とGT-Rが、互いの健闘を称え合うように、月明かりの下で静かに佇んでいた。
 紅きロータリーと、蒼きスカイライン。
 伝説の峠に、新たな歴史が刻まれた夜だった。
(第10章 完)
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