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第2章:忍法・千鳥足の接待
繭の最初のターゲットとして現れたのは、建設省の道路局長、橋本という五十代の男だった。
小太りで、脂ぎった額に汗を浮かべ、いかにも小心者といった風情だが、その目は決して笑っていない。彼は「鉄壁の橋本」という異名を持つ、ガードの堅い官僚だった。リニア新幹線の地下ルート選定に関する極秘情報を握っている重要参考人だ。
「おい、新入り。酒が遅いぞ」
橋本がソファに深く沈み込みながら、傲慢な口調で言った。
「申し訳ございません、すぐに」
繭はしなやかな動作で膝をつき、テーブルに向かう。
今夜の武器は、ウィスキー「響」と、南アルプスの天然水。
(狙うは、思考力だけを奪い、意識は覚醒させ続ける魔の配合……黄金比率「霧幻(むげん)」)
通常、水割りは酒1に対して水2、あるいは2・5で作るのが一般的だ。だが、繭は違う。
マドラーを回す指先に神経を集中させる。彼女が使うのは**「水遁・流体制御の術」の応用だ。
繭は、グラスに入れる氷の角をアイスピックで瞬時に削り取り、表面積を計算した。
そして、水1に対して、酒2・5という極めて濃い配合で注ぐ。
これでは本来、濃すぎて飲めたものではない。しかし、ここで忍術を使う。
繭はマドラーを超高速で回転させ、遠心力によってアルコール分子と水分子のクラスターを強制的に微細化し、融合させた。超高速のステア(撹拌)。
これにより、舌に触れた瞬間の口当たりは驚くほどまろやかで水のように飲みやすいが、胃の中に落ちた瞬間、体温で結合が解け、爆発的にアルコールが気化して脳へ直撃する「危険な水」が完成する。
これが、くノ一に伝わる秘術、「水遁・無限水割り」**。
「どうぞ、橋本様」
差し出されたグラスを、橋本は疑わしげに見下ろし、一口飲んだ。
「……ん? なんだこれは」
橋本の眉が動く。
「薄いんじゃないか? 水みたいだぞ」
「ふふ、橋本様のようなお強い方には、これくらいが丁度よいかと存じまして」
繭はあえて否定せず、男の自尊心をくすぐるように微笑む。
飲みやすい。だから橋本はペースを上げる。二杯、三杯。
十分も経たないうちに、橋本の顔色が赤く染まり始めた。だが、本人はまだ自分が酔っていることに気づいていない。脳の前頭葉、理性を司る部分だけがピンポイントで麻痺し始めているのだ。
「……で、最近はどうなんだ、道路の方は」
繭はさりげなく話を振る。
「んあ? ああ、うるさい連中が多くてな……どいつもこいつも、地下がどうとか……」
橋本の呂律がわずかに怪しくなる。ガードが緩んだ。
その時だ。
橋本の手元が狂い、満たされたばかりのグラスが傾いた。
「あっ」
黒いスーツのズボンに、琥珀色の液体が降り注ぐ――はずだった。
繭の世界が、スローモーションになる。
落ちていくグラス。飛び散る液体。その軌道を、繭の動体視力は完全に捉えていた。
彼女は思考するよりも速く動いた。
左手でテーブルの上のお絞りをひったくり、滑るように床へ投げる。お絞りは生き物のように空中を飛び、液体の落下地点へと先回りして滑り込んだ。
同時に右手で、回転しながら落ちていくグラスの底を、指先だけで優しく受け止める。
ガカラッ。
乾いた氷の音がしただけで、グラスは割れることなく、繭の手の中に収まっていた。
スーツには、一滴の染みもついていない。
常人には「橋本がグラスを落としそうになり、繭がキャッチした」としか見えないだろう。だが、その間に行われたのは、音速に近い体術の連鎖、**「忍法・燕返し」**の応用だった。
「……お、おっと。すまないね」
橋元が呆気にとられた顔で繭を見る。今の動きが見えていなかったのだ。
「いいえ、私が不調法で。グラスが汗をかいておりましたわ」
繭は橋本の失態を自分のせいにして被り、濡れたお絞りを回収しながら、上目遣いで男を見上げた。
その瞬間、橋本の瞳孔が開いたのが見えた。
「守られた」という安堵感と、自分のミスをカバーしてくれた女への信頼。
精神的防壁(ファイアウォール)に、決定的な亀裂が入った。
「……君は、いい子だな」
橋本の声が粘り気を帯びる。
「実はな、ここだけの話だが……次のルートは、大田区の地下を通るんだ」
勝った。
繭は勝利の笑みを心の奥底に隠し、うっとりとした表情で相槌を打った。
「まあ、すごいですわ。橋本様」
忍法・千鳥足の接待。それは相手を酔わせ、自分はシラフのまま、相手の魂のバックアップを取る恐るべきハッキングだった。
小太りで、脂ぎった額に汗を浮かべ、いかにも小心者といった風情だが、その目は決して笑っていない。彼は「鉄壁の橋本」という異名を持つ、ガードの堅い官僚だった。リニア新幹線の地下ルート選定に関する極秘情報を握っている重要参考人だ。
「おい、新入り。酒が遅いぞ」
橋本がソファに深く沈み込みながら、傲慢な口調で言った。
「申し訳ございません、すぐに」
繭はしなやかな動作で膝をつき、テーブルに向かう。
今夜の武器は、ウィスキー「響」と、南アルプスの天然水。
(狙うは、思考力だけを奪い、意識は覚醒させ続ける魔の配合……黄金比率「霧幻(むげん)」)
通常、水割りは酒1に対して水2、あるいは2・5で作るのが一般的だ。だが、繭は違う。
マドラーを回す指先に神経を集中させる。彼女が使うのは**「水遁・流体制御の術」の応用だ。
繭は、グラスに入れる氷の角をアイスピックで瞬時に削り取り、表面積を計算した。
そして、水1に対して、酒2・5という極めて濃い配合で注ぐ。
これでは本来、濃すぎて飲めたものではない。しかし、ここで忍術を使う。
繭はマドラーを超高速で回転させ、遠心力によってアルコール分子と水分子のクラスターを強制的に微細化し、融合させた。超高速のステア(撹拌)。
これにより、舌に触れた瞬間の口当たりは驚くほどまろやかで水のように飲みやすいが、胃の中に落ちた瞬間、体温で結合が解け、爆発的にアルコールが気化して脳へ直撃する「危険な水」が完成する。
これが、くノ一に伝わる秘術、「水遁・無限水割り」**。
「どうぞ、橋本様」
差し出されたグラスを、橋本は疑わしげに見下ろし、一口飲んだ。
「……ん? なんだこれは」
橋本の眉が動く。
「薄いんじゃないか? 水みたいだぞ」
「ふふ、橋本様のようなお強い方には、これくらいが丁度よいかと存じまして」
繭はあえて否定せず、男の自尊心をくすぐるように微笑む。
飲みやすい。だから橋本はペースを上げる。二杯、三杯。
十分も経たないうちに、橋本の顔色が赤く染まり始めた。だが、本人はまだ自分が酔っていることに気づいていない。脳の前頭葉、理性を司る部分だけがピンポイントで麻痺し始めているのだ。
「……で、最近はどうなんだ、道路の方は」
繭はさりげなく話を振る。
「んあ? ああ、うるさい連中が多くてな……どいつもこいつも、地下がどうとか……」
橋本の呂律がわずかに怪しくなる。ガードが緩んだ。
その時だ。
橋本の手元が狂い、満たされたばかりのグラスが傾いた。
「あっ」
黒いスーツのズボンに、琥珀色の液体が降り注ぐ――はずだった。
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落ちていくグラス。飛び散る液体。その軌道を、繭の動体視力は完全に捉えていた。
彼女は思考するよりも速く動いた。
左手でテーブルの上のお絞りをひったくり、滑るように床へ投げる。お絞りは生き物のように空中を飛び、液体の落下地点へと先回りして滑り込んだ。
同時に右手で、回転しながら落ちていくグラスの底を、指先だけで優しく受け止める。
ガカラッ。
乾いた氷の音がしただけで、グラスは割れることなく、繭の手の中に収まっていた。
スーツには、一滴の染みもついていない。
常人には「橋本がグラスを落としそうになり、繭がキャッチした」としか見えないだろう。だが、その間に行われたのは、音速に近い体術の連鎖、**「忍法・燕返し」**の応用だった。
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その瞬間、橋本の瞳孔が開いたのが見えた。
「守られた」という安堵感と、自分のミスをカバーしてくれた女への信頼。
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「……君は、いい子だな」
橋本の声が粘り気を帯びる。
「実はな、ここだけの話だが……次のルートは、大田区の地下を通るんだ」
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