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第10章:嵐の前の静寂(アフター)
午前三時。
「胡蝶」の重厚な扉が閉ざされ、営業終了の看板が出された。
客たちの喧騒が消え、BGMのジャズも止まった店内には、換気扇の回る低い音だけが響いている。
戦いは終わった。少なくとも、今夜の分は。
バックヤードの更衣室。そこには、張り詰めた糸が切れたように脱力した、くノ一たちの姿があった。
華やかな京友禅の着物はハンガーに掛けられ、鋼鉄のワイヤーが入った帯も解かれている。
Tシャツにスウェット、あるいはジャージ姿。メイクも落とし、すっぴんになった彼女たちは、どこにでもいる普通の疲れた女性たちだ。だが、その身体には、接客という名の戦闘で負った「見えない傷」が無数に刻まれている。
「あー、もう! 足の指が千切れそう!」
新人の繭(マユ)が、床に座り込んで悲鳴を上げた。
一五センチのピンヒールで六時間、常に体幹を締め、笑顔を保ち続けた代償だ。ふくらはぎはパンパンに張り、足の裏は熱を持ってジンジンと痺れている。
「だらしないわね、繭。こっちへ来なさい」
ベテランの麗華(レイカ)が手招きする。
麗華は繭の足を自身の太腿に乗せると、オイルを手に取り、慣れた手つきでマッサージを始めた。
「医療忍術・活法(かっぽう)・百足(ムカデ)揉み」。
ただの指圧ではない。麗華の指先から微弱な「気」が放出されている。
筋肉の繊維に沿って、滞った乳酸と血流を、波打つような指の動きで強制的に流していく。
「い、痛たたたっ! 先輩、そこツボに入りすぎです!」
「我慢なさい。ここが詰まっていると、明日の『足指針(そくししん)』のキレが悪くなるわよ」
麗華の指が、繭の足裏にある急所「湧泉(ゆうせん)」をグリグリと押し込む。
激痛の後に訪れる、嘘のような軽さ。
これは互いの身体をメンテナンスし、翌日の戦闘能力を回復させるための神聖な儀式だ。
部屋の隅では、アゲハが一人、窓の外を見つめていた。
彼女の手には、安物のマグカップに入った熱い白湯(さゆ)。
高級ブランデーでもシャンパンでもない。戦い疲れた内臓を癒やすのは、結局のところ、ただの湯だ。
窓の外、歌舞伎町の空は、不気味なほど赤黒く淀んでいる。
アゲハの研ぎ澄まされた第六感――**「忍法・虫の知らせ」**が、肌をチリチリと刺していた。
カラスが鳴かない。ネズミも走らない。
街全体が、息を潜めて震えている。
「……ママ?」
繭が声をかけた。
アゲハはゆっくりと振り返る。その表情は、夜の女帝のそれではなかった。家族の身を案じる、母の顔だった。
「みんな、今日は早く帰って、泥のように眠りなさい」
アゲハの声は静かだったが、部屋の空気が一変した。
「明日は、店を開けるわ。……でも、今までで一番長い夜になるかもしれない」
誰も聞き返さなかった。
彼女たちはプロだ。アゲハの言葉の意味を、肌で理解している。
敵対する甲賀企業連合が、なりふり構わぬ実力行使に出る予兆。
経済戦争という名の冷戦が終わり、物理的な熱戦が始まろうとしているのだ。
帰り道、繭はコンビニでおにぎりとウコンの力を買った。
始発を待つ駅のホーム。朝日が眩しい。
普通のOLたちが通勤していく中、繭は逆方向の電車に乗る。
(負けない。私は、この街の蝶だもの)
彼女は深くシートに沈み込み、短い眠りについた。
嵐の前の、最後の静寂だった。
「胡蝶」の重厚な扉が閉ざされ、営業終了の看板が出された。
客たちの喧騒が消え、BGMのジャズも止まった店内には、換気扇の回る低い音だけが響いている。
戦いは終わった。少なくとも、今夜の分は。
バックヤードの更衣室。そこには、張り詰めた糸が切れたように脱力した、くノ一たちの姿があった。
華やかな京友禅の着物はハンガーに掛けられ、鋼鉄のワイヤーが入った帯も解かれている。
Tシャツにスウェット、あるいはジャージ姿。メイクも落とし、すっぴんになった彼女たちは、どこにでもいる普通の疲れた女性たちだ。だが、その身体には、接客という名の戦闘で負った「見えない傷」が無数に刻まれている。
「あー、もう! 足の指が千切れそう!」
新人の繭(マユ)が、床に座り込んで悲鳴を上げた。
一五センチのピンヒールで六時間、常に体幹を締め、笑顔を保ち続けた代償だ。ふくらはぎはパンパンに張り、足の裏は熱を持ってジンジンと痺れている。
「だらしないわね、繭。こっちへ来なさい」
ベテランの麗華(レイカ)が手招きする。
麗華は繭の足を自身の太腿に乗せると、オイルを手に取り、慣れた手つきでマッサージを始めた。
「医療忍術・活法(かっぽう)・百足(ムカデ)揉み」。
ただの指圧ではない。麗華の指先から微弱な「気」が放出されている。
筋肉の繊維に沿って、滞った乳酸と血流を、波打つような指の動きで強制的に流していく。
「い、痛たたたっ! 先輩、そこツボに入りすぎです!」
「我慢なさい。ここが詰まっていると、明日の『足指針(そくししん)』のキレが悪くなるわよ」
麗華の指が、繭の足裏にある急所「湧泉(ゆうせん)」をグリグリと押し込む。
激痛の後に訪れる、嘘のような軽さ。
これは互いの身体をメンテナンスし、翌日の戦闘能力を回復させるための神聖な儀式だ。
部屋の隅では、アゲハが一人、窓の外を見つめていた。
彼女の手には、安物のマグカップに入った熱い白湯(さゆ)。
高級ブランデーでもシャンパンでもない。戦い疲れた内臓を癒やすのは、結局のところ、ただの湯だ。
窓の外、歌舞伎町の空は、不気味なほど赤黒く淀んでいる。
アゲハの研ぎ澄まされた第六感――**「忍法・虫の知らせ」**が、肌をチリチリと刺していた。
カラスが鳴かない。ネズミも走らない。
街全体が、息を潜めて震えている。
「……ママ?」
繭が声をかけた。
アゲハはゆっくりと振り返る。その表情は、夜の女帝のそれではなかった。家族の身を案じる、母の顔だった。
「みんな、今日は早く帰って、泥のように眠りなさい」
アゲハの声は静かだったが、部屋の空気が一変した。
「明日は、店を開けるわ。……でも、今までで一番長い夜になるかもしれない」
誰も聞き返さなかった。
彼女たちはプロだ。アゲハの言葉の意味を、肌で理解している。
敵対する甲賀企業連合が、なりふり構わぬ実力行使に出る予兆。
経済戦争という名の冷戦が終わり、物理的な熱戦が始まろうとしているのだ。
帰り道、繭はコンビニでおにぎりとウコンの力を買った。
始発を待つ駅のホーム。朝日が眩しい。
普通のOLたちが通勤していく中、繭は逆方向の電車に乗る。
(負けない。私は、この街の蝶だもの)
彼女は深くシートに沈み込み、短い眠りについた。
嵐の前の、最後の静寂だった。
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