40 / 50
第10章:嵐の前の静寂(アフター)
しおりを挟む
午前三時。
「胡蝶」の重厚な扉が閉ざされ、営業終了の看板が出された。
客たちの喧騒が消え、BGMのジャズも止まった店内には、換気扇の回る低い音だけが響いている。
戦いは終わった。少なくとも、今夜の分は。
バックヤードの更衣室。そこには、張り詰めた糸が切れたように脱力した、くノ一たちの姿があった。
華やかな京友禅の着物はハンガーに掛けられ、鋼鉄のワイヤーが入った帯も解かれている。
Tシャツにスウェット、あるいはジャージ姿。メイクも落とし、すっぴんになった彼女たちは、どこにでもいる普通の疲れた女性たちだ。だが、その身体には、接客という名の戦闘で負った「見えない傷」が無数に刻まれている。
「あー、もう! 足の指が千切れそう!」
新人の繭(マユ)が、床に座り込んで悲鳴を上げた。
一五センチのピンヒールで六時間、常に体幹を締め、笑顔を保ち続けた代償だ。ふくらはぎはパンパンに張り、足の裏は熱を持ってジンジンと痺れている。
「だらしないわね、繭。こっちへ来なさい」
ベテランの麗華(レイカ)が手招きする。
麗華は繭の足を自身の太腿に乗せると、オイルを手に取り、慣れた手つきでマッサージを始めた。
「医療忍術・活法(かっぽう)・百足(ムカデ)揉み」。
ただの指圧ではない。麗華の指先から微弱な「気」が放出されている。
筋肉の繊維に沿って、滞った乳酸と血流を、波打つような指の動きで強制的に流していく。
「い、痛たたたっ! 先輩、そこツボに入りすぎです!」
「我慢なさい。ここが詰まっていると、明日の『足指針(そくししん)』のキレが悪くなるわよ」
麗華の指が、繭の足裏にある急所「湧泉(ゆうせん)」をグリグリと押し込む。
激痛の後に訪れる、嘘のような軽さ。
これは互いの身体をメンテナンスし、翌日の戦闘能力を回復させるための神聖な儀式だ。
部屋の隅では、アゲハが一人、窓の外を見つめていた。
彼女の手には、安物のマグカップに入った熱い白湯(さゆ)。
高級ブランデーでもシャンパンでもない。戦い疲れた内臓を癒やすのは、結局のところ、ただの湯だ。
窓の外、歌舞伎町の空は、不気味なほど赤黒く淀んでいる。
アゲハの研ぎ澄まされた第六感――**「忍法・虫の知らせ」**が、肌をチリチリと刺していた。
カラスが鳴かない。ネズミも走らない。
街全体が、息を潜めて震えている。
「……ママ?」
繭が声をかけた。
アゲハはゆっくりと振り返る。その表情は、夜の女帝のそれではなかった。家族の身を案じる、母の顔だった。
「みんな、今日は早く帰って、泥のように眠りなさい」
アゲハの声は静かだったが、部屋の空気が一変した。
「明日は、店を開けるわ。……でも、今までで一番長い夜になるかもしれない」
誰も聞き返さなかった。
彼女たちはプロだ。アゲハの言葉の意味を、肌で理解している。
敵対する甲賀企業連合が、なりふり構わぬ実力行使に出る予兆。
経済戦争という名の冷戦が終わり、物理的な熱戦が始まろうとしているのだ。
帰り道、繭はコンビニでおにぎりとウコンの力を買った。
始発を待つ駅のホーム。朝日が眩しい。
普通のOLたちが通勤していく中、繭は逆方向の電車に乗る。
(負けない。私は、この街の蝶だもの)
彼女は深くシートに沈み込み、短い眠りについた。
嵐の前の、最後の静寂だった。
「胡蝶」の重厚な扉が閉ざされ、営業終了の看板が出された。
客たちの喧騒が消え、BGMのジャズも止まった店内には、換気扇の回る低い音だけが響いている。
戦いは終わった。少なくとも、今夜の分は。
バックヤードの更衣室。そこには、張り詰めた糸が切れたように脱力した、くノ一たちの姿があった。
華やかな京友禅の着物はハンガーに掛けられ、鋼鉄のワイヤーが入った帯も解かれている。
Tシャツにスウェット、あるいはジャージ姿。メイクも落とし、すっぴんになった彼女たちは、どこにでもいる普通の疲れた女性たちだ。だが、その身体には、接客という名の戦闘で負った「見えない傷」が無数に刻まれている。
「あー、もう! 足の指が千切れそう!」
新人の繭(マユ)が、床に座り込んで悲鳴を上げた。
一五センチのピンヒールで六時間、常に体幹を締め、笑顔を保ち続けた代償だ。ふくらはぎはパンパンに張り、足の裏は熱を持ってジンジンと痺れている。
「だらしないわね、繭。こっちへ来なさい」
ベテランの麗華(レイカ)が手招きする。
麗華は繭の足を自身の太腿に乗せると、オイルを手に取り、慣れた手つきでマッサージを始めた。
「医療忍術・活法(かっぽう)・百足(ムカデ)揉み」。
ただの指圧ではない。麗華の指先から微弱な「気」が放出されている。
筋肉の繊維に沿って、滞った乳酸と血流を、波打つような指の動きで強制的に流していく。
「い、痛たたたっ! 先輩、そこツボに入りすぎです!」
「我慢なさい。ここが詰まっていると、明日の『足指針(そくししん)』のキレが悪くなるわよ」
麗華の指が、繭の足裏にある急所「湧泉(ゆうせん)」をグリグリと押し込む。
激痛の後に訪れる、嘘のような軽さ。
これは互いの身体をメンテナンスし、翌日の戦闘能力を回復させるための神聖な儀式だ。
部屋の隅では、アゲハが一人、窓の外を見つめていた。
彼女の手には、安物のマグカップに入った熱い白湯(さゆ)。
高級ブランデーでもシャンパンでもない。戦い疲れた内臓を癒やすのは、結局のところ、ただの湯だ。
窓の外、歌舞伎町の空は、不気味なほど赤黒く淀んでいる。
アゲハの研ぎ澄まされた第六感――**「忍法・虫の知らせ」**が、肌をチリチリと刺していた。
カラスが鳴かない。ネズミも走らない。
街全体が、息を潜めて震えている。
「……ママ?」
繭が声をかけた。
アゲハはゆっくりと振り返る。その表情は、夜の女帝のそれではなかった。家族の身を案じる、母の顔だった。
「みんな、今日は早く帰って、泥のように眠りなさい」
アゲハの声は静かだったが、部屋の空気が一変した。
「明日は、店を開けるわ。……でも、今までで一番長い夜になるかもしれない」
誰も聞き返さなかった。
彼女たちはプロだ。アゲハの言葉の意味を、肌で理解している。
敵対する甲賀企業連合が、なりふり構わぬ実力行使に出る予兆。
経済戦争という名の冷戦が終わり、物理的な熱戦が始まろうとしているのだ。
帰り道、繭はコンビニでおにぎりとウコンの力を買った。
始発を待つ駅のホーム。朝日が眩しい。
普通のOLたちが通勤していく中、繭は逆方向の電車に乗る。
(負けない。私は、この街の蝶だもの)
彼女は深くシートに沈み込み、短い眠りについた。
嵐の前の、最後の静寂だった。
0
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
アガルタ・クライシス ―接点―
来栖とむ
SF
神話や物語で語られる異世界は、空想上の世界ではなかった。
九州で発見され盗難された古代の石板には、異世界につながる何かが記されていた。
同時に発見された古い指輪に偶然触れた瞬間、平凡な高校生・結衣は不思議な力に目覚める。
不審な動きをする他国の艦船と怪しい組織。そんな中、異世界からの来訪者が現れる。政府の秘密組織も行動を開始する。
古代から権力者たちによって秘密にされてきた異世界との関係。地球とアガルタ、二つの世界を巻き込む陰謀の渦中で、古代の謎が解き明かされていく。
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる