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第6話

10・ひとりの朝ごはん

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翌朝、のろのろと台所に向かうと、脚立代わりに使っている丸椅子の上に、丁寧にたたんだエプロンが置いてあった。
さらに、その上には、あいつが使っていたキッチンばさみまで。
なんだよ、このエプロンは自分で買ったやつだろ。
キッチンばさみだって、俺があげたやつなのに。
早朝の、冷たい空気が頬を刺す。
あいつが、もうこの家にいないのはなんとなく気づいていた。
だって、昨日まであった「気配」みたいなものがどこからも感じられないんだ。
まあ、すごい剣幕で「出ていけ」って言っちまったもんな。家主にそう言われたら、そうするしかないよな。
深々とため息をついて、自分のエプロンに手をのばす。
今日の朝食、何にしよう。
ひとりで食うなら、簡単なもんでいいよな。
なんて考えながら蛇口に手をのばしたところで、水切りカゴにボウルが伏せてあることに気がついた。
なんだ、これ。昨日は使っていないよな? そもそも昨夜は料理をしなかったから、洗い物もなかったはずだし。
よく見ると、ボウルにはまだ水滴がついている。それどころか、包丁とまな板も濡れたまま──まるで、少し前に洗ったかのようだ。
繰り返すが、昨夜は料理をしていない。
つまり、俺はこれらを洗っていない。

(……まさか)

しばらく台所をみまわしたあと、ハッとして居間に駆け込んだ。
案の定、こたつの上には手拭いをかぶせたトレイが置いてあった。いつも朝食を運ぶときに使っているやつ。俺は、すぐさま水色の手拭いを外した。

「……っ」

トレイの上にあったのは、マヨネーズの容器と千切りしたキャベツ、きゅうり。
それと──

「なんだ、これ」

丸とも三角ともいえない、いびつな白米のかたまり。
これのメニュー名を問われたら、いちおう「おにぎり」と答えはするだろう。
けれど、こいつは手に取ったとたん、ボロボロと崩れるに違いない。
おにぎりなのに。
おにぎりのくせに。
見事なくらい、その利点を台無しにしている。

「なんで、これを作ろうと思ったかなぁ」

俺、作り方、教えなかったじゃん。
それでも自分なら作れそうだ、って?
簡単そうだから余裕だろう、って?
それとも──

(どうしても作りたかった、ってか)

あいつなりのメッセージなのかな。
昨日の思い出話に絡めた何か──とか?
でも、あいつのことだから、案外何も考えていないのかもしれない。もともと「おにぎりを食いたい」って言ってたから、最後の最後で自分で挑戦してみたのかも。
わからない。
俺はあいつじゃないから、あいつがどんな思いでこれを握ったのか、まったくもって理解できない。
ただ、下手くそな白米のかたまりを前にして、ちょっとだけ思ったんだ。
一度くらいは作ってやればよかったな、って。
あんなに意地を張らなければよかったな、って。
まあ、今さらもう遅いんだけど。
俺は朝飯の前で正座すると、いつもより丁寧に手を合わせた。

「いただきます」

マヨネーズは、豪快に野菜全体に。
それからわしゃわしゃと箸で一気に混ぜる。
あいつ、千切りうまくなったよな。まあ、キャベツの一部が切れずにくっついてるけど。
おにぎりは──案の定、一口食べただけでぐしゃりと崩れた。
握りが甘いんだよな。力任せにギュッギュッと握っちまえば、いちおうおにぎりとして食いきることができたのに。

(もしかして、ごはんが熱すぎたとか?)

いや、でも、神様ってそういうの感じるもんなの? 気温とかは感じていないっぽいけど、そのあたりどうなっているんだろう。
考えたところで、正解はわからない。
あいつは、もうここにはいない。
たぶん、もう会うこともない。
てのひらの上では、崩れたおにぎりからツナの一部が顔を覗かせている。
このまま握りなおそうかとも考えたけれど、たぶん修復は無理だろう。
あきらめて、俺はてのひらに口を近づけた。
せめて、食べ残すことのないように。
崩れたおにぎりが、こぼれ落ちることのないように。
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