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第8話

6・モフモフ野郎の幻

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気がついたら、俺は電車に乗っていた。
あれ、バイト──って思ったけど、そういえば店長に「今日は休みでいいから」って言われたんだった。
俺、今日クローズまで担当だったのに。しかも、今日のクローズ担当3人しかいないはずなのに。

(店長が代わりに残るのかな)

よくわかんねぇ。
というか、そんなの今、考えることじゃない気がする。
ボーッとしていたら、下車駅で下りそびれた。ありえねぇ。次の電車で上り列車に乗り換えないと。
なのに、身体が重い。
いっそ、このままずっと終点まで流されてしまいたい。

(辞めようか)

もうバイトを辞めちまおうか。
「逃げてもいい」って言ってたの、誰だっけ。
大賀? それとも神森?
でも、今、辞めたら俺が横領したことにされんのかな。
それは嫌だな。だって俺、マジで無実だし。
じゃあ、どうすればいい?
逃げないなら、逃げられないなら──

(「誰かを頼れ」だっけ?)

それは、誰を?
店長? バイトの先輩たち?
でも、そのあたりを頼れるなら、俺こんなめにあっていなくないか?
店長や先輩たちより、坂沼のほうがどう考えても立場が上なわけだし。

(坂沼よりエラいヤツ──大賀?)

そうだ、あいつ、前に坂沼をやりこめていたじゃん。
それに人間じゃない。神様だ。その時点で、おそらくこの世界にいる人間の誰よりも「エラいヤツ」だ。
脳裏に、あいつの尻尾が浮かんだ。
フサフサモフモフのあの尻尾。表情よりも雄弁なあの尻尾は、今回の俺の話を聞いたらどう反応するのだろう。
あれこれ考えているうちに、なんだか泣きたくなってきた。

(バカだ)

なんで今更、あいつを頼ろうとしているんだろう。
あいつは、もういない。
きっと二度と会うこともない。
だって、俺が追い出してしまったんだから。

(いつも、そうだ)

いつも俺は、うまいことやれない。
あのとき──大賀と神森のたくらみを知ったとき。
俺が適当なところで大賀を許していたら? 俺は今、あいつに泣きついて相談にのってもらうことができていたかもしれないよな?
なんなら、高校時代──監督に勧められるままに、ピッチャー以外のポジションにも興味を示していたら? 大賀にくだらないコンプレックスを抱くことなく、高校生活を送ることができていたら?
きっと、俺は大賀にこじれた感情を抱かなかった。
あいつが差し伸べてくれた手を、喜んで握り返していたはずだ。

(あるいは……)

川野ちゃんの件を、スルーできていたら?
坂沼に媚びを売ることができていたら?
くだらない噂をたてられた時点で、このバイトを辞めていたら?
考えれば考えるほど、頭がぼんやりとしてくる。
──ダメだ、やっぱり考えがうまくまとまらない。
それでもはっきりしているのは、俺がいつも選択肢を間違えてきたということ。
ああ、そうだ。今回のことで痛感した。
俺はバカだ。
きっとバカなんだ。
バカだから、いつも正解を間違える。
バカだから、正しい選択をできない。

(ダメだな、俺)

ほんと、ダメなヤツだよなぁ。
ぼんやり考えたところで、車内アナウンスが耳に届いた。
ああ、やばい──いい加減、上り列車に乗り換えないと。
ドアが開き、半ば流されるままに俺はホームに降り立った。
けれど、そこから先に進めない。あとから降りてきた人たちに舌打ちされても、これから乗ろうとしている人たちに怪訝な顔をされても、どうしても次の一歩を踏み出せない。
どうしよう、進まなきゃ。
上り列車に乗り換えなくちゃ。
重たい足をなんとか動かそうとしたところで、誰かが俺の前に立ちはだかった。

「若井?」
「……え」

あれ、大賀だ。
なんで大賀がこんなところにいるんだろう。
いや、でも尻尾がない。
ということは、大賀じゃないのかも。
あいつ今、神様でモフモフ野郎のはずだし。

「どうした、若井。しっかりしろ」

──しっかり? しっかりって何?

「若井、おい! 若井!」

ああ、大賀がすごく焦った顔をしている。
ってことは、やっぱりこれは大賀じゃないな。
だって、あいつは、いつだって──それこそ、ノーアウト満塁のときだって一切表情を変えないようなヤツだったから。
じゃあ、誰だ?
今、目の前にいるのはどこのどいつだ?

(もしかして、幻?)

そんなに俺──大賀に会いたかったのかな。
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