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03 Yori
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求めることは、悪なのか。
その部屋に足を踏み入れた途端、青い女は顔を顰めた。生臭い。部屋の真ん中でキーボードを叩く少女は、とてもこのようなことが出来るような少女には見えなかった。
カタカタと、小気味よい音だけが響く。
仁科ヨリは青い女の存在に気付き、立ち上がった。視界を遮る前髪をかき分け、信じられないとでも言いたげに驚愕を顔に浮かべた。
「誰か、なんて聞かないでくれ。私からは何も話せないことになっているんだ」
「……そうですか」
ひどく小さい声だった。この部屋に他の音がないからこそ聞こえたのであり、少しでも音があれば、きっとヨリの声は青まで届かなかっただろう。
青は部屋の中を見回した。やはり、それをこの気弱そうな少女がやったのだとは、まったく思えない。
「汚いですけど、その、座りますか」
自身が座っていた席の正面の椅子を引きながら、ヨリが青に声をかけた。
怯えた表情とは裏腹に、すっと背筋は伸びている。これは期待できそうだと内心溜め息を吐き、青はヨリに促されるまま席に着いた。
「すみません、お茶でも出せたらよかったんですけど、見ての通り、母は死んでるので」
「構わないさ。ただ、話を聞きに来ただけだから」
「そうですか、話、を」
どこから話せばいいのか。苦笑しつつ、ヨリも部屋を見回す。
生臭いのは、床にも壁にも飛び散る血のせい。もう乾いてはいるものの、床に倒れる両親であった死体、姉と妹であった死体は腐り始めている。生臭さが消えたとしても、次は腐臭が漂い始めることだろう。
「……気味が悪い、ですね」
「それは、どういう意味かな」
青にはヨリが何を考えているかわかっていた。わかっていながら、あえて問う。
「……私、これ見ても、全然こわくないんです」
「へえ」
「全然、少しもこわくなくて、むしろぞくぞくするんです。これを私がやったんだと思うと、嬉しくてたまらないんです。やっと、やっと楽になれたんだって」
ヨリの悲しげな表情の中に、確かな喜びがあることを認めた青は、手に持っていた二冊の本のうち、一冊を開いてヨリに差し出した。
まだまだ先のある少女だというのに。これから己が行うことに嫌悪を抱きながら、青はヨリを見つめる。
「君の物語を、ここに」
「私、つまんない人間ですよ」
そう言ったヨリの笑みは、最も苦しみに満ちていた。
ヨリはごく平凡な家庭に生まれた。一人っ子の多くなってきたこの頃、ヨリ含め三人の子どもに恵まれた家庭だ。両親の中も、姉妹の中も良好だった。
特別幸せな家庭だったとは言えないが、不幸な家庭でもなかった。ヨリ自身も、特に平凡から外れることはなかった。あの出来事が起こるまでは。
どんなに環境が良くても『悪』は生まれるのだと知ったのは、小学校高学年に上がってすぐだった。
ヨリが通っていた小学校は評判のいい学校で、それまでヨリもいじめや何やらと言って、世間で騒がれている問題とは無縁だと思っていた。
けれど、それはごく身近なものだったと、気付く。
クラスの大人しい女子が、いじめにあっているのだと学校と両親に相談したらしい。
そして、その主導者は、仁科ヨリだと。
まったく身に覚えのない話だった。ヨリとその女子とは、ほとんど接点がなかったのだ。話をしたのも数えきれるだけしかなく、それらはすべてと言っていいほど他愛ないものばかりだ。必死になって思い出してみても、それらがいじめと言うものに繋がるとは思えなかった。
幸いにも、クラスメートたちはヨリの味方をした。明るいヨリにはたくさんの友人がいたが、大人しく無口な彼女にはあまりいない。圧倒的にヨリの方が有利だったのだ。
それが覆されたとき、よりは絶望というものを知った。
女子の涙は恐るべきものだと思う。一人、また一人と味方を増やしていった彼女は、ヨリが気付いたときには完全に形勢逆転、彼女が有利になっていた。
そしてよりは、あるはずもない証拠を並べられ、責められた。あれこそがいじめだったのだと気付いたのは、もう一歩も動けなくなってからだ。
以来ヨリは、家から出られなくなったまま、小学校を卒業した。
中学は遠いところに通った。知り合いは一人もいない。
そこでヨリはようやく外に出られるようになり、以前のように明るく、普通の中学生になれた。
しかし、ヨリの中に生まれた闇は消えない。
ふとした時にヨリを呑みこもうとする闇は、あのときの絶望の何倍もの強さだ。少しでも気を抜くと、引き込まれてしまう。
なんとかそれを逃がす方法を見つけてからも、決してそれが消えることはなかった。
ごく普通の日常を過ごした。
ごく普通の学生をした。
ごくたまに、悪になった。
道をそれてしまったのは気付いていた。日々をやり過ごしても、心は冷たいままだった。
よくある無気力と孤独感、それらを太らせながら、ヨリは、それでも普通であることを望んだ。
ヨリにとっての普通とは、どこにでもいるような人間を指している。
とりたてていいところもなく、とりたてて悪いところもない人間のことだ。特別優れているところもなければ、劣っているところもない。そこにいることが当たり前であるのに、意識されていない。そんな人間であることを望んだ。
そんな人間は最早普通ではない。ヨリは気付いている。
それでも、ヨリは自らの思う普通を思い求めた。
しかし、問題は家族だった。
自らを普通に近づけたいのなら、そう思う行動を心がけていればいい。けれど家族は、ヨリの思う普通など理解出来るはずもない。
血は繋がっても所詮は他人でしかないのだ。ヨリ自身は完璧に普通になりつつある。不満は日々積み上がっていった。こればかりは、ヨリが耐えていなければならない。
耐えることには慣れていた。思えば昔から、ヨリは耐えることが多かったような気がする。
兄弟姉妹がいれば、真ん中にいる子どもが耐えなければならなくなるのだ。これはヨリ個人の考えだが、確かにその傾向があるようだ。少なくともヨリの周囲ではそうだった。
これが否定ばかりされていたら、また違ったのかもしれない。
共感され肯定されたことにより、闇が力をつけてしまった。
段々とヨリは耐えられなくなる。
厳しくされていても、結局は期待されている姉。
もうそんなに幼くないのに、甘やかされ続ける妹。
けれど、ヨリはどうだ。姉の失敗を見て同じことを避け上手くやってみせても、褒められるどころか放置されるだけ。手のかからない子どもだと、すべてヨリ自身が選ぶ自由が与えられたかわりに、両親はヨリをあまり構わない。どんな賞をとっても、どんなにいい成績を残しても、何もない。そのくせ悪いところだけは必要以上に叱られる。姉や妹が同じことをしても、何も言わないくせに。
日に日によりは家族が嫌いになり、憎しみさえ覚えていくようになる。だが、すんでのところで留まっていた。普通の子どもはここで耐えられるだろう。ここでこんな考えは持たないだろう。普通は、普通はと自らの中の理想を思って耐えていた。
それはもう、普通ではない。初めはそれなりに平凡な姿を思い描いていたそれは、大きく歪んでいた。
そうしていると、次第に何も感じなくなった。かつてのような激しい怒りも、大きくはないが確かに存在していた向上心もなくなった。ただ、体に穴が開いたような無気力だけが、ヨリを支配していた。
ヨリの異変に気付く者はなかった。外面だけは完璧なヨリは、誰にも悟らせなかったのだ。
異常なほど無気力であるのは、ヨリが一番理解していたのだ。
学校の門をくぐれば、何も楽しいことなどないのに笑顔になる。意識して作っていたならまだよかった。その笑顔は、完全に、ヨリの意識から離れていた。
ヨリは自分が自分でなくなっていくのを感じた。
外に向かっていくヨリと、内へ潜っていくヨリ。そんな風に、別れて行った。
それでいいと思っていた。間違いだったと気付くのは、元に戻れないところまでやってきてしまってからだった。
きっかけは何だったのか。わからない。ほんの些細なことだったような気がする。
ふと我に返ったとき、ヨリは包丁を手に立っていた。
状況を理解出来ないまま、体だけは動いていた。
夢を見ているような、ぼんやりとした気持ちだった。柔らかい母の肉の感触が今も鮮明に思い出せる。姉も、妹も、父も、みんなヨリに殺された。
自分のどこにこんな力があったのだろう。ただ、不思議に思えた。大人のチカラには勝てないはずだったし、運動も何もしていないヨリが、こんなに深くさせるとは思わなかった。
悲しみも、罪悪感もない。そこには、ヨリが殺したという事実しかなかった。
怖くなるほどに冷静に、ヨリはすべてを理解していた。
その次の日は金曜日、家族全員が家を留守にする日だ。父は会社へ、母は友人と出かける約束があり、姉と妹は学校だ。
とりあえず、母親の携帯電話から、約束を断るメールを送り、同じ中学校に通う妹の欠席届に判子を押した。流石に父親の会社に電話するわけにもいかず、仕方なく放置する。
ごく普通の、日常と何ら変わりない日として、ヨリは学校へ向かう。相変わらず校門をくぐれば口角が上がった。
何もない、平凡な日だった。
そんな日を長らく過ごしたかのように思えたが、実際はまだ一週間もたっていない。
カレンダーには昨日までの日付にバツ印が付けられている。近頃は暑くなってきて、冷房がなければ家族は腐ってしまうだろう。寒いくらいに冷えた部屋でも、そろそろ腐るだろう。
だが、どこかに捨てに行こうとは思わなかった。そこにあってもなくても、状況は変わらない。あれば殺人罪、遺棄すればその分上乗せされる。そもそも、ヨリ一人の力では無理だ。
死体と生活する少女。
これは面白い題材だ。ヨリは居間にノートパソコンを持ってきて、キーボードを叩き続ける。
自覚はなくともストレスはあったのだろう。ただ無心になってキーボードを叩く。灯りをつけることもなく、ただ、ひたすらに叩き続けた。
そうして創り上げられた作品は、未完のまま、終わるのだろう。
ヨリの話を聞いても、青は眉一つ動かさなかった。感情のこもらない声で、そうか、とだけ。
ヨリもヨリで、暗い笑みを浮かべている。今にも泣きそうな顔だった。
「普通で、平凡で、面白味のない人生だったんです。私は、本当は特別になりたかったのかもしれません。でもなれないから、自ら普通であろうとしているんだって思い込んで、それを家族に押し付けた。その結果がこれです」
「反省も、後悔もしていないんだね」
「はい。反省なんてしてやるものですか。ようやく特別になれたんです。後悔なんて、するはずもありませんよ」
青はヨリの手を取り、そのまま開いた本に押し付けた。
そして、少し待っていて、とキッチンへ行き、戻ってきたその手には包丁が握られている。
「痛くても、我慢出来るね」
「どうせ、死ぬんでしょう。あなたが殺すんでしょう」
「そうだね、これ以上に痛いことをするんだ。耐えるも耐えないも関係ないね」
「そうですよ」
軽く笑って、青は包丁をヨリの手に振り下ろす。貫通するほどの勢いだった。しかし、絶妙な力加減で、本には少しも傷がついていない。
傷口から流れた血が本に吸われていく。真っ白なページが真っ赤になり、やがて白に戻る。
そこで青は、ぴくりと眉を動かした。あ、と呟いてしまうほどだった。
ヨリの本に浮かび上がった文字。ヨリの人生を書き綴ったそれは、少しだけ、ほんの少しだけ他の人間の本と違う色をしていた。
茶色というのか、何と言うのか。赤褐色なのか、茶褐色なのか、それとも赤墨色なのか。黒に近い赤の文字は、他の本ではありえない色だ。
「……早く終わらせよう。試したいことがあるんだ」
「これから人を殺すっていうのに、あなた、すごいですね」
「褒め言葉として受け取るよ。君はもしかしたら、私が求めていた人間なのかもしれない」
「たぶん、違うと思いますよ」
「それはどうして」
「だって、私はごく普通の、どこにでもいる平凡な学生ですもん。特別な存在になんて、なれないってわかってます。私が、一番」
刺された手の痛みを気にしながらも、ヨリは笑った。
その姿のどこかが普通で、平凡なのだろう。それを青は言葉にしなかった。
「まあいいさ、早く終わらせた方が、君にとってもいいことだろう」
「そうですね。今、すっごくテンションが上がってるんです。なんか、今ならあなたを殺せるんじゃないかってくらい。無理なのはわかってますけど」
「……君、やっぱりおかしいよ。嫌いじゃない」
「ありがとうございます」
立ち上がり、さあどうぞどこにでも刺してください、と言わんばかりに、ヨリは両腕を大きく広げた。
「あ、それ」
思い出したようにヨリが声を上げた。
あと少しで胸の肉に突き刺さっていた包丁を止め、青は続きを促す。
「その包丁、私の家族を刺したやつです。どうでもいいけど、それでご飯も作ってました。簡単なやつですけど」
「……それは、君の家族に失礼なことをしようとした。君は家族と同じもので殺されていい人間じゃない」
「どっちでもよくないですか」
「いいや、よくないよ。さてどうすべきか……」
「奥の部屋に、代々受け継がれてきただか何だか知りませんけど、日本刀ありますよ。使いますか」
「仕方ない、それにしよう」
これから殺す側の人間と、殺される側の人間の会話とは思えない会話だった。
軽い雰囲気のまま、ヨリが血まみれの手でその日本刀を持ってくる。受け取って、今度こそ青はヨリの胸を貫いた。
それは見事に肋骨の隙間を突き、ヨリの命を奪う。
ゆっくりと床に倒れたヨリが血だまりを作る。その顔は、すっきりとした笑みを浮かべている。
もう一冊の本を開き、期待と共にヨリの血をすくって垂らす。
これまでにないほど大きく反応した。本全体がぼんやりと光った。
しかし、その光もすぐに消え、ページに何も残らない。
「違ったのか。でもまあ、これで手がかりは得られた」
なんとなく、青は『純粋な悪』が何なのかわかってきた。ただの人殺しではなく、それは『純粋』でなくてはならない。
人が人を殺すのは、欲や憎しみ、愛情、その他様々な感情が高ぶったときだ。『純粋な悪』はそうではない。淡々と、何のきっかけもいらない人間が殺すからこそ、『純粋な悪』なのだ。
あえてヨリの胸にもう一度刀を突きたてる。
青はその後、一度も振り返らずに、立ち去った。『Yori Nishina』と題された本と、多くの人間の血を吸った本を抱えて。
数日後、この事件は全国に衝撃を与えた。
近所の人々にも好かれ、ごく普通の仲の良い家庭だったその家の、次女が家族を殺した。
数日の間、次女は家族を殺したにも関わらず、学校に通い続ける。異変は誰も気付かず、また気付かせなかった。
しかしその次女も、何者かに日本刀で刺されたまま、死んでいた。
はじめは次女ともう一人犯人がいて、共犯関係にあったが仲違いをして次女は殺されたのだと考えられていたが、いつの間にか真実に近い形となって報道された。
だが、近所に住む幼い女の子は、「青い髪の女」を見たという。
数十年が過ぎても、この事件が解決されることは、なかった。
その部屋に足を踏み入れた途端、青い女は顔を顰めた。生臭い。部屋の真ん中でキーボードを叩く少女は、とてもこのようなことが出来るような少女には見えなかった。
カタカタと、小気味よい音だけが響く。
仁科ヨリは青い女の存在に気付き、立ち上がった。視界を遮る前髪をかき分け、信じられないとでも言いたげに驚愕を顔に浮かべた。
「誰か、なんて聞かないでくれ。私からは何も話せないことになっているんだ」
「……そうですか」
ひどく小さい声だった。この部屋に他の音がないからこそ聞こえたのであり、少しでも音があれば、きっとヨリの声は青まで届かなかっただろう。
青は部屋の中を見回した。やはり、それをこの気弱そうな少女がやったのだとは、まったく思えない。
「汚いですけど、その、座りますか」
自身が座っていた席の正面の椅子を引きながら、ヨリが青に声をかけた。
怯えた表情とは裏腹に、すっと背筋は伸びている。これは期待できそうだと内心溜め息を吐き、青はヨリに促されるまま席に着いた。
「すみません、お茶でも出せたらよかったんですけど、見ての通り、母は死んでるので」
「構わないさ。ただ、話を聞きに来ただけだから」
「そうですか、話、を」
どこから話せばいいのか。苦笑しつつ、ヨリも部屋を見回す。
生臭いのは、床にも壁にも飛び散る血のせい。もう乾いてはいるものの、床に倒れる両親であった死体、姉と妹であった死体は腐り始めている。生臭さが消えたとしても、次は腐臭が漂い始めることだろう。
「……気味が悪い、ですね」
「それは、どういう意味かな」
青にはヨリが何を考えているかわかっていた。わかっていながら、あえて問う。
「……私、これ見ても、全然こわくないんです」
「へえ」
「全然、少しもこわくなくて、むしろぞくぞくするんです。これを私がやったんだと思うと、嬉しくてたまらないんです。やっと、やっと楽になれたんだって」
ヨリの悲しげな表情の中に、確かな喜びがあることを認めた青は、手に持っていた二冊の本のうち、一冊を開いてヨリに差し出した。
まだまだ先のある少女だというのに。これから己が行うことに嫌悪を抱きながら、青はヨリを見つめる。
「君の物語を、ここに」
「私、つまんない人間ですよ」
そう言ったヨリの笑みは、最も苦しみに満ちていた。
ヨリはごく平凡な家庭に生まれた。一人っ子の多くなってきたこの頃、ヨリ含め三人の子どもに恵まれた家庭だ。両親の中も、姉妹の中も良好だった。
特別幸せな家庭だったとは言えないが、不幸な家庭でもなかった。ヨリ自身も、特に平凡から外れることはなかった。あの出来事が起こるまでは。
どんなに環境が良くても『悪』は生まれるのだと知ったのは、小学校高学年に上がってすぐだった。
ヨリが通っていた小学校は評判のいい学校で、それまでヨリもいじめや何やらと言って、世間で騒がれている問題とは無縁だと思っていた。
けれど、それはごく身近なものだったと、気付く。
クラスの大人しい女子が、いじめにあっているのだと学校と両親に相談したらしい。
そして、その主導者は、仁科ヨリだと。
まったく身に覚えのない話だった。ヨリとその女子とは、ほとんど接点がなかったのだ。話をしたのも数えきれるだけしかなく、それらはすべてと言っていいほど他愛ないものばかりだ。必死になって思い出してみても、それらがいじめと言うものに繋がるとは思えなかった。
幸いにも、クラスメートたちはヨリの味方をした。明るいヨリにはたくさんの友人がいたが、大人しく無口な彼女にはあまりいない。圧倒的にヨリの方が有利だったのだ。
それが覆されたとき、よりは絶望というものを知った。
女子の涙は恐るべきものだと思う。一人、また一人と味方を増やしていった彼女は、ヨリが気付いたときには完全に形勢逆転、彼女が有利になっていた。
そしてよりは、あるはずもない証拠を並べられ、責められた。あれこそがいじめだったのだと気付いたのは、もう一歩も動けなくなってからだ。
以来ヨリは、家から出られなくなったまま、小学校を卒業した。
中学は遠いところに通った。知り合いは一人もいない。
そこでヨリはようやく外に出られるようになり、以前のように明るく、普通の中学生になれた。
しかし、ヨリの中に生まれた闇は消えない。
ふとした時にヨリを呑みこもうとする闇は、あのときの絶望の何倍もの強さだ。少しでも気を抜くと、引き込まれてしまう。
なんとかそれを逃がす方法を見つけてからも、決してそれが消えることはなかった。
ごく普通の日常を過ごした。
ごく普通の学生をした。
ごくたまに、悪になった。
道をそれてしまったのは気付いていた。日々をやり過ごしても、心は冷たいままだった。
よくある無気力と孤独感、それらを太らせながら、ヨリは、それでも普通であることを望んだ。
ヨリにとっての普通とは、どこにでもいるような人間を指している。
とりたてていいところもなく、とりたてて悪いところもない人間のことだ。特別優れているところもなければ、劣っているところもない。そこにいることが当たり前であるのに、意識されていない。そんな人間であることを望んだ。
そんな人間は最早普通ではない。ヨリは気付いている。
それでも、ヨリは自らの思う普通を思い求めた。
しかし、問題は家族だった。
自らを普通に近づけたいのなら、そう思う行動を心がけていればいい。けれど家族は、ヨリの思う普通など理解出来るはずもない。
血は繋がっても所詮は他人でしかないのだ。ヨリ自身は完璧に普通になりつつある。不満は日々積み上がっていった。こればかりは、ヨリが耐えていなければならない。
耐えることには慣れていた。思えば昔から、ヨリは耐えることが多かったような気がする。
兄弟姉妹がいれば、真ん中にいる子どもが耐えなければならなくなるのだ。これはヨリ個人の考えだが、確かにその傾向があるようだ。少なくともヨリの周囲ではそうだった。
これが否定ばかりされていたら、また違ったのかもしれない。
共感され肯定されたことにより、闇が力をつけてしまった。
段々とヨリは耐えられなくなる。
厳しくされていても、結局は期待されている姉。
もうそんなに幼くないのに、甘やかされ続ける妹。
けれど、ヨリはどうだ。姉の失敗を見て同じことを避け上手くやってみせても、褒められるどころか放置されるだけ。手のかからない子どもだと、すべてヨリ自身が選ぶ自由が与えられたかわりに、両親はヨリをあまり構わない。どんな賞をとっても、どんなにいい成績を残しても、何もない。そのくせ悪いところだけは必要以上に叱られる。姉や妹が同じことをしても、何も言わないくせに。
日に日によりは家族が嫌いになり、憎しみさえ覚えていくようになる。だが、すんでのところで留まっていた。普通の子どもはここで耐えられるだろう。ここでこんな考えは持たないだろう。普通は、普通はと自らの中の理想を思って耐えていた。
それはもう、普通ではない。初めはそれなりに平凡な姿を思い描いていたそれは、大きく歪んでいた。
そうしていると、次第に何も感じなくなった。かつてのような激しい怒りも、大きくはないが確かに存在していた向上心もなくなった。ただ、体に穴が開いたような無気力だけが、ヨリを支配していた。
ヨリの異変に気付く者はなかった。外面だけは完璧なヨリは、誰にも悟らせなかったのだ。
異常なほど無気力であるのは、ヨリが一番理解していたのだ。
学校の門をくぐれば、何も楽しいことなどないのに笑顔になる。意識して作っていたならまだよかった。その笑顔は、完全に、ヨリの意識から離れていた。
ヨリは自分が自分でなくなっていくのを感じた。
外に向かっていくヨリと、内へ潜っていくヨリ。そんな風に、別れて行った。
それでいいと思っていた。間違いだったと気付くのは、元に戻れないところまでやってきてしまってからだった。
きっかけは何だったのか。わからない。ほんの些細なことだったような気がする。
ふと我に返ったとき、ヨリは包丁を手に立っていた。
状況を理解出来ないまま、体だけは動いていた。
夢を見ているような、ぼんやりとした気持ちだった。柔らかい母の肉の感触が今も鮮明に思い出せる。姉も、妹も、父も、みんなヨリに殺された。
自分のどこにこんな力があったのだろう。ただ、不思議に思えた。大人のチカラには勝てないはずだったし、運動も何もしていないヨリが、こんなに深くさせるとは思わなかった。
悲しみも、罪悪感もない。そこには、ヨリが殺したという事実しかなかった。
怖くなるほどに冷静に、ヨリはすべてを理解していた。
その次の日は金曜日、家族全員が家を留守にする日だ。父は会社へ、母は友人と出かける約束があり、姉と妹は学校だ。
とりあえず、母親の携帯電話から、約束を断るメールを送り、同じ中学校に通う妹の欠席届に判子を押した。流石に父親の会社に電話するわけにもいかず、仕方なく放置する。
ごく普通の、日常と何ら変わりない日として、ヨリは学校へ向かう。相変わらず校門をくぐれば口角が上がった。
何もない、平凡な日だった。
そんな日を長らく過ごしたかのように思えたが、実際はまだ一週間もたっていない。
カレンダーには昨日までの日付にバツ印が付けられている。近頃は暑くなってきて、冷房がなければ家族は腐ってしまうだろう。寒いくらいに冷えた部屋でも、そろそろ腐るだろう。
だが、どこかに捨てに行こうとは思わなかった。そこにあってもなくても、状況は変わらない。あれば殺人罪、遺棄すればその分上乗せされる。そもそも、ヨリ一人の力では無理だ。
死体と生活する少女。
これは面白い題材だ。ヨリは居間にノートパソコンを持ってきて、キーボードを叩き続ける。
自覚はなくともストレスはあったのだろう。ただ無心になってキーボードを叩く。灯りをつけることもなく、ただ、ひたすらに叩き続けた。
そうして創り上げられた作品は、未完のまま、終わるのだろう。
ヨリの話を聞いても、青は眉一つ動かさなかった。感情のこもらない声で、そうか、とだけ。
ヨリもヨリで、暗い笑みを浮かべている。今にも泣きそうな顔だった。
「普通で、平凡で、面白味のない人生だったんです。私は、本当は特別になりたかったのかもしれません。でもなれないから、自ら普通であろうとしているんだって思い込んで、それを家族に押し付けた。その結果がこれです」
「反省も、後悔もしていないんだね」
「はい。反省なんてしてやるものですか。ようやく特別になれたんです。後悔なんて、するはずもありませんよ」
青はヨリの手を取り、そのまま開いた本に押し付けた。
そして、少し待っていて、とキッチンへ行き、戻ってきたその手には包丁が握られている。
「痛くても、我慢出来るね」
「どうせ、死ぬんでしょう。あなたが殺すんでしょう」
「そうだね、これ以上に痛いことをするんだ。耐えるも耐えないも関係ないね」
「そうですよ」
軽く笑って、青は包丁をヨリの手に振り下ろす。貫通するほどの勢いだった。しかし、絶妙な力加減で、本には少しも傷がついていない。
傷口から流れた血が本に吸われていく。真っ白なページが真っ赤になり、やがて白に戻る。
そこで青は、ぴくりと眉を動かした。あ、と呟いてしまうほどだった。
ヨリの本に浮かび上がった文字。ヨリの人生を書き綴ったそれは、少しだけ、ほんの少しだけ他の人間の本と違う色をしていた。
茶色というのか、何と言うのか。赤褐色なのか、茶褐色なのか、それとも赤墨色なのか。黒に近い赤の文字は、他の本ではありえない色だ。
「……早く終わらせよう。試したいことがあるんだ」
「これから人を殺すっていうのに、あなた、すごいですね」
「褒め言葉として受け取るよ。君はもしかしたら、私が求めていた人間なのかもしれない」
「たぶん、違うと思いますよ」
「それはどうして」
「だって、私はごく普通の、どこにでもいる平凡な学生ですもん。特別な存在になんて、なれないってわかってます。私が、一番」
刺された手の痛みを気にしながらも、ヨリは笑った。
その姿のどこかが普通で、平凡なのだろう。それを青は言葉にしなかった。
「まあいいさ、早く終わらせた方が、君にとってもいいことだろう」
「そうですね。今、すっごくテンションが上がってるんです。なんか、今ならあなたを殺せるんじゃないかってくらい。無理なのはわかってますけど」
「……君、やっぱりおかしいよ。嫌いじゃない」
「ありがとうございます」
立ち上がり、さあどうぞどこにでも刺してください、と言わんばかりに、ヨリは両腕を大きく広げた。
「あ、それ」
思い出したようにヨリが声を上げた。
あと少しで胸の肉に突き刺さっていた包丁を止め、青は続きを促す。
「その包丁、私の家族を刺したやつです。どうでもいいけど、それでご飯も作ってました。簡単なやつですけど」
「……それは、君の家族に失礼なことをしようとした。君は家族と同じもので殺されていい人間じゃない」
「どっちでもよくないですか」
「いいや、よくないよ。さてどうすべきか……」
「奥の部屋に、代々受け継がれてきただか何だか知りませんけど、日本刀ありますよ。使いますか」
「仕方ない、それにしよう」
これから殺す側の人間と、殺される側の人間の会話とは思えない会話だった。
軽い雰囲気のまま、ヨリが血まみれの手でその日本刀を持ってくる。受け取って、今度こそ青はヨリの胸を貫いた。
それは見事に肋骨の隙間を突き、ヨリの命を奪う。
ゆっくりと床に倒れたヨリが血だまりを作る。その顔は、すっきりとした笑みを浮かべている。
もう一冊の本を開き、期待と共にヨリの血をすくって垂らす。
これまでにないほど大きく反応した。本全体がぼんやりと光った。
しかし、その光もすぐに消え、ページに何も残らない。
「違ったのか。でもまあ、これで手がかりは得られた」
なんとなく、青は『純粋な悪』が何なのかわかってきた。ただの人殺しではなく、それは『純粋』でなくてはならない。
人が人を殺すのは、欲や憎しみ、愛情、その他様々な感情が高ぶったときだ。『純粋な悪』はそうではない。淡々と、何のきっかけもいらない人間が殺すからこそ、『純粋な悪』なのだ。
あえてヨリの胸にもう一度刀を突きたてる。
青はその後、一度も振り返らずに、立ち去った。『Yori Nishina』と題された本と、多くの人間の血を吸った本を抱えて。
数日後、この事件は全国に衝撃を与えた。
近所の人々にも好かれ、ごく普通の仲の良い家庭だったその家の、次女が家族を殺した。
数日の間、次女は家族を殺したにも関わらず、学校に通い続ける。異変は誰も気付かず、また気付かせなかった。
しかしその次女も、何者かに日本刀で刺されたまま、死んでいた。
はじめは次女ともう一人犯人がいて、共犯関係にあったが仲違いをして次女は殺されたのだと考えられていたが、いつの間にか真実に近い形となって報道された。
だが、近所に住む幼い女の子は、「青い髪の女」を見たという。
数十年が過ぎても、この事件が解決されることは、なかった。
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隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
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