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歌を忘れた小鳥と
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※自殺未遂、自傷行為の描写が有ります。
※11~16年前に鴇矢名義で書いた2冊の同人誌を改稿しています。
12/10、12/11の2回更新で完結です。
おとなのせかいはとても汚い。
それが現実。
僕も汚い。
でも、それでも。
生きるということはとても汚い。
だから本日僕は、自分の「世界」を捨てます。
ぬるい風がゆるく吹き抜ける。
とても、それが気持ち悪かった。
「これでも死ねなかったな……」
手首には、無数の赤黒い線が縦横無尽に走っていた。そっと撫でるとちりりと痛む。
洞上千鶴はそっと両手首を眼の高さまで掲げてそれを眺める。
そこには自分で傷つけた無数の切り傷。
ドラマや漫画よろしく手首を掻っ切って水の張ったバスタブに浸けて、睡眠薬などを飲んで寝てみたけれど、起きたら血は止まっていた。
その前は、大量に薬を飲んでみたし、その前の前は首を吊ろうとしたけれど、どれもこれもが失敗。
「なんで、死なせてくれないんだろう」
頬を涙が伝う。
どんよりとした空は、今にも雨粒を落としてきそうだった。
ずぶ濡れのまま、千鶴は住んでいるマンションの屋上に上がる。
大きな貯水槽と、電気設備と、申し訳程度の柵がそこにあるすべてだった。
目の前に広がるのは灰色と街灯で彩られた街。
ここに住んでいる人のどれくらいが綺麗なんだろうと、千鶴は首を傾げながらじっと見つめる。
きっと綺麗な人などいないのだ、この世界には。
みんな少しずつ汚れている。
全てがなくなれば、この光景も綺麗にみえるのだろうか。もしそうならば世界などなくなってしまえばいいのに、と破滅的な考えをしてしまうくらい、千鶴は全てに絶望していた。
最近はもうニュースも天気予報も全然見ていないけれど、空の雲は渦巻いていた。きっと時期的に台風でもくるのだろう。
住んでいるマンションの屋上は、今にも台風の渦に突入しそうで、千鶴はおかしくなって声を立てて笑った。
もういっそ、風が自分をここから吹き飛ばしてしまえばいい。
そうしたらきっと考える間もなく、地面に叩きつけられて死ねるのに。
もう、自分で命を絶とうと行動を取るのも、その方法を考えるのも疲れた。人様の迷惑になるからと取らなかった方法を取ってしまうくらい。
だから、千鶴はずるずるとバスルームから濡れて赤く染まった服のままこの屋上に来ていた。高いところは嫌いだけれど、この際四の五の言ってられない。
早く、早くこの世から消えてなくなりたかった。
*****
千鶴は高校を出た後、いわゆる芸能界と呼ばれる世界に飛び込んだ。人に可愛いといわれる容姿だったり、皆が褒めてくれる歌だったり、それら全てがその世界に入るきっかけとなった。
ぼんやりとだけれど人を幸せに出来る綺麗な歌を歌えればいいという夢を持って、千鶴はその世界に飛び込んだ。
きらきらしていた世界は画面越しに見ている間はとても綺麗だったのに、一度その世界に入ってしまえば、そこは汚くて、寒くて、そして偽りの世界だった。
欺き、偽り、驕り、諂い。
謀略、争い、媚。
綺麗だと思っていたその世界はとても汚かった。千鶴が今まで過ごしていた世界を水道水とするならば、そこは既にヘドロの詰まった汚い泥の中。
余りに汚すぎて、汚れていて、千鶴はすぐにそこから逃げ出した。
けれど、後ろから追ってくる汚い大人に捕らわれそうになって、夢を、理想を盾に取られて、しばらく泥水に浸かっていた。
既に自分の両手は真っ黒だ。
打算と、策略に何度自分の信念を曲げざるを得なかったか。
それでもしばらく頑張れば、その中に清流を流せると思っていた。少なくとも自分の周りで息ができるくらいは。
そんな幻想を持って頑張っていたけれど、千鶴の身体はずぶずぶと泥の中に埋まりこんでいくだけで。
少し人気に陰りが見えてしまえば、周りは手のひらを返して千鶴を捨てた。唯一の身内である姉は結婚して子供も産んで幸せな生活を送っているから、この汚い世界の相談も出来なかったし、触れさせたくなかった。
そうして、世界に絶望した千鶴は、この世からいなくなることを選んだ。
*****
千鶴の身体を揺らす風は、どんどん強くなっていく。
ふらふらと、柵へと近づく。柵を持って下を見下ろしてみると、さすが二十六階の高さは眩暈がするほど怖かった。
「――死ぬのに怖いって、なんか変な感じ」
死ぬ恐怖と、元々生理的に苦手な高さは別なんだと、千鶴は頭を仰向けた。視界一杯に灰色の不思議な色合いをした世界が広がる。
あれは、多分綺麗なもの。
自然はどんな姿をしていてもとても綺麗。
すさまじいスピードで流れる雲を見ていると、だんだんと平衡感覚も怪しくなってくる。
いい感じに血も下がって、千鶴は一度だけ瞬きをすると仰向いたままフェンスを乗り越えた。フェンスの先にも数歩分のゆとりがあったのは覚えてる。だから千鶴は仰向いたまま雲の流れる方向に向かって足を進めた。一歩、また一歩。そして残りの一歩を踏み出す。
世界よ、さようなら。
願わくばこの先自我がある所に行くのだったら、真っ白で綺麗な場所に行けます様に。
そう思えば高さによる恐怖も忘れて、躊躇うことなく足を踏み出せた。予想通り、最後だと思って踏み出したその先に踏み締めるべきコンクリートはない。
ぐらりと身体が傾いたのを確認して千鶴は眼を閉じた。
なのに。
重力に添って下に移る筈の力は、なぜか千鶴を反対側に引き寄せた。すごい力に引っ張られて、千鶴はふわりと浮き上がるとさっきまで立ち尽くしていたマンションの屋上へ引き戻された。
重力に添って落ちたのはそのすぐ後。
ドスンと大きな音を立てて屋上へと引き戻された。
「っ――!!」
受身もなしにコンクリートに叩きつけられる形になった千鶴は、その衝撃に息すらも止まる。
その後、一瞬動きを止めた肺が空気を求めて軋んだ。
激しく打った肩を抑えながら目を開けると目の前には人の足。ピカピカに磨かれた革靴には鏡のように自分が映っている気がした。
底から目をそらすように、顔をしかめながら、その足の持ち主を確かめるべく見上げる。
そこに立っていたのはスーツの男。
渦巻く暗い空を背景に、ただ男は表情なく千鶴を見下ろしていた。きっと彼が千鶴をこちらに引き戻したのだ。
「なんでっ、邪魔するんだ!?」
「人の住んでるマンションから飛び降りんな。どうせなら人様に迷惑かからない死に様を選べや」
思わず問いかけると、男は表情を崩さず、西の出身を感じさせる言葉でそんなことを返してきた。明るい色の柔らかそうな少し長めの髪が、風に乱されている。
「そんなの出来てたら、ここになんか来ない……」
悔しそうに千鶴が呟くと男はしゃがみこんで、左腕をぐいっと取られた。
千鶴の傷だらけの腕を、男は眉間に皺を寄せながら見つめる。
無数の浅い傷に、意を決したように走る一本の深い傷。
それを見つめる男を千鶴は間近で見て、少しだけ心が落ち着いた。
男の顔は、今まで見た誰よりも、ただ綺麗だった。
彼は、彼だけは、何事にも汚されないと千鶴が思えるほど綺麗だった。
「死にたいん?」
男は千鶴の腕を掴んだまま顔を上げると、真剣でもなく、かといって茶化す訳でもなく聞いてくる。
千鶴はその綺麗な男に問われて、コクリと頷く。
「生きるの辛い。――世界から、消えたい」
すっと、千鶴の頬を暖かいものが伝った。どのくらいぶりに流す涙だろう。
「世界から消えたいんやったら。いなくなればいい」
男はその美しい顔に壮絶な笑みを浮かべると、千鶴の腕を引っ張り、無理矢理立たせる。
見た感じ細身なのに、その力は尋常ではなくて、千鶴は引っ張られる痛みに耐えながら立ち上がった。
そのままずるずると屋上の扉まで引っ張っていかれた。
空は渦を巻いて、千鶴が屋内に入る時には最初の雨粒を落とした。
階段を下りた先には最上階のエレベーターエントランス。そのまま男は千鶴の腕を離さずにエレベーターを通り過ぎて住居のある廊下を歩く。
一番奥の部屋の鍵を開けるとそのまま男は千鶴とともに中に入る。
薄暗いマンションの一室はひんやりと涼しかった。自分の部屋とはちょっとだけ違う間取りに、千鶴は少し戸惑う。
男はそんな千鶴の反応など気にすることもなくずんずんと廊下を進むと、ドアを開けて暗い部屋に入った。
部屋に入った途端、屋上に引きずり戻されたその力でまた千鶴は投げ飛ばされた。ただ、次に襲ってきたのはコンクリートの衝撃ではなく、とても柔らかい感触。
それにビックリして上半身だけ起き上がらせる。見渡してみればそこは恐らく寝室だった。大きなベッドが部屋の中心にあって、他の家具は全くない。
カーテンすら閉められていない窓の外は、既に暴風雨。
男は茫然とベッドに座り込む千鶴をじっと見ていた。
そして、千鶴の視線が、部屋の入り口に立ったままの男に戻ってきたのを確認すると、ゆっくりとベッドに近づいてくる。
ぎしり、と千鶴はベッドの上で後退りをする。
彼の意図はいったいなんなんだろう。
ただ分かっているのは、彼はとても綺麗だということだけ。
世界はあんなにも汚いのに、彼はとても綺麗。
彼はそのままベッドに乗り上げると後退る千鶴を物ともせずに、あっという間に組み敷いた。
「ここに居れば世界から消えられる」
傷だらけの千鶴の左手を取って男はそっとその傷に口付けた。
先ほど千鶴の身体を投げたのとは打って変わって、とても優しい動作だった。
仕草一つ一つが綺麗で、千鶴は抵抗することも忘れて彼に見とれる。
彼の舌がそっと傷を舐めた。ちりりと痛みが走って、千鶴は思わず顔をしかめる。
「痛い? これ自分でつけたんやろ?」
無数に走る傷を、彼はゆっくりと両手分舐めると満足したのか、そのまま顔を近づけてきた。
そのまま口付けられて、唇を割られれば、広がるのは血の味。
千鶴の血の味。
「ふっ……んっ……」
抵抗も出来ずにただ彼のするままに口腔内を貪られる。
彼はそのまま千鶴の息が上がり、腕が押し返すまでキスを続けた。
「……慣れてへんな、おまえ」
「――ちづる――」
「あ?」
「おまえじゃない、千鶴」
嘲るように、ビックリしたような顔でそんなことを吐く彼に、千鶴は思わず言い返す。確かにこういう行為に慣れているほうではないし、けれど言われているだけじゃ腹が立って言い返した。
彼はしばらくビックリしたように千鶴を見つめると、見間違いと思うかのような笑みをふんわりと浮かべた。
「千鶴っていうんや。分かった、俺は啓二」
「けーじ?」
「そう、啓二」
そう笑ったように言いながら啓二は千鶴の唇をもう一度塞いだ。
先ほどまでの強引ではなく、易しく愛しむような行為で。
このまま彼と触れ合えば、彼の綺麗さで自分もすこしだけでも綺麗になれるのかな。
ぼうっとしてきた頭で千鶴はそんなことを考える。
彼の唇はいつのまにか首筋に移っていて、時折ちりりとした痛みをもたらす。彼の手は既に千鶴の胸の飾りを弄っていた。
「やぁっ!!」
「ふぅん、男でも感じるんや」
本当に感心したかのように、啓二はその胸をきゅっと握る。
千鶴は唇を噛んで、その得も知れぬ感覚をやり過ごそうとした。
「っ……」
胸をいじられることに気を取られていて、気付いた時には啓二の右手は既に千鶴の一番弱い場所を掴んでいた。
しばらく自慰すらもしていないそこは、何度か擦り上げられただけで、すぐに反応してしまう。
「くぅっ……あっ」
「そうやって声殺しとるの、男を煽ってるって気付いてないやろ」
啓二は楽しそうに笑って、千鶴を追い立てる。
千鶴のそれが爆ぜるまで、たいした時間もかからなかった。
どろりと独特のにおいが部屋に広がる。千鶴は肩で息をして、その余韻をやり過ごしていた。自分が身を置いている状況の変化に頭がついていかない。
そんな千鶴にお構いなく、啓二はその奥に指を進めた。
「え……なに?」
どろりとした間隔が、あり得ない所を触って、千鶴は思わず声を上げる。
「なにって、イイコト」
啓二の声は笑っていながらも艶を含んでいて、千鶴は思わずぞくりと背中を揺らした。
その隙を突いて、啓二は指をずるりと後孔に滑り込ませた。
「ひぃっ、あ……」
初めて感じる間隔に、千鶴が悲鳴を上げる。
すぐに弛緩していた身体は、強張った。
途端、感じるのは自分の身の内に埋められた啓二の指。
「きっついなぁ、力抜いてたほうが、後々楽やで」
そんな呆れた声を啓二は呟くと、千鶴の首筋をぺろりと舐めた。
びくりと、千鶴の隙を狙ってもう一本指を追加する。
「いっつ――痛、い」
一本ならば違和感だけで済んだ感覚も、二本目が滑り込んだ時に痛みに変わる。
背中からはうーんとか、なんだか緊張感にかける啓二の声が聞こえた。
きゅうきゅうと彼の指を締め付けているのがわかる。
次の瞬間、ばらばらと埋め込まれた指が動き始めた。
千鶴はシーツを握り締めて、その感覚に耐えた。
そして、身体の中で蠢く指に耐えていたとき、びりっと何かにその指が触れる。
「あぁっ……んっ……!!嘘!!なんな、の」
感じたのは確かに快感。前を擦り上げられるのとは、全く違うそれが千鶴の全身を襲った。
「あー良かった、見つかった」
そんなのんきな声が聞こえて、指は一層いやらしく蠢いて、その千鶴の快感を感じたところに触れる。千鶴はもはや声を抑えることなど出来ず、嬌声を上げることしか出来なくなる。
何時の間にか指は増えて、好き放題に千鶴の内部を弄る。
ずるりと抜かれる頃には既に千鶴の息は絶え絶えだった。こんな快感、生まれてから一度も感じたことがない。
そして、身体は次に来る衝撃を知っているかのごとく、何かを求めて燻っていた。
意識を飛ばしている千鶴を啓二はころりと仰向けにする。
その足を掲げて、千鶴の足にキスをする。強く吸われて、千鶴は小さな声を上げた。
「世界がなんぼのもんや。ここはお前のいた世界と違う世界や」
そう、啓二は笑った。ぐっと唇を合わせると、もう数え切れないくらい絡めた舌をまた絡めてくる。
啓二との口付けに夢中になって、下半身を襲う熱に気付かなかった。
千鶴は、その次に襲ってきた衝撃に千鶴は悲鳴を上げるも、全て 啓二に吸い取られた。
気付いた時には身体の真ん中に、なにか熱いものが刺さっていた。脈打つそれがなんだか分からないほど、千鶴も子供ではない。
「あ、つい……」
「なんや熱は分かるんや。痛くない?」
「ん……。少し」
「ほんなら気持ちよくなるまでしばらく我慢やな」
言葉が終わらぬうちに、身体に埋められたものが前後に動き出す。内臓が裡から押し上げられて、気持ち悪い感覚としばらく千鶴は闘った。
啓二は千鶴の腹を押しながら、腰を突き入れる。腹を押されると、身に埋め込まれている熱いそれの存在がよりリアルに感じられて千鶴は息をつめた。
啓二が腰を引いて角度を変えて突いて来た時、千鶴の喉から今までで一番大きい嬌声が響いた。
「あっあ――――!!」
そこは、指で弄られた時に、快感の芽を発見した場所。
「ここやったな――」
「やぁっ……。嘘っや……」
しかし千鶴の制止を聴かなかったことにしたのか、啓二はそこを 重点的に突いて来る。
初めての感覚で、千鶴は声を抑えることも忘れて、揺さ振られるごとに喉から喘ぎ声を出した。引きずり出された快感は千鶴の精神を苛む。
頭が真っ白になるくらい激しく苛まれて、千鶴は次第に快感に溺れていく。
「くっ……」
気付いた時には耳元で息をつめる啓二の声を聞きながら精を放っていた。後半は殆ど触りもしなかったのに自分の腹を汚す精液が信じられない。
ただそれとほぼ同時に身の裡に放たれた暖かいものがとても心地よくて、千鶴は意識を手放した。世界は汚れていたはずなのに、最後に見た光景はただ、真っ白で綺麗な世界だった。
*****
ザーザーと音が聞えた。
耳を塞いだ時に聞える音によく似ているそれは、千鶴を安らかな眠りへと導いていた。
意識が浮き上がって身じろぎをすれば倦怠感を身体が襲う。
倦怠感の理由に記憶が追いついた時、千鶴は飛び起きた。
体の痛みも感じてはいたけれどそれどころではなくなって、信じられないようにあたりを見回す。
そこは確かにあの屋上での出来事の後、連れてこられた殺風景な部屋だった。
色々なものにまみれたシーツは洗い立てのそれに換えられていたし、千鶴の肌もさらりとして、パジャマまで着せられている。
傷だらけの両腕には丁寧に包帯も巻かれていて、コンクリートに叩きつけられた時に酷くぶつけた所には湿布が貼られていた。
千鶴は状況が理解できずに暫くその場に佇む。
『ここに居れば世界から消えられる』
彼は笑ってそう言っていた。
千鶴はそっとベッドを起き出す。
外の雨は止む気配を見せない。カーテンもついていない窓には雨粒が叩きつけられていた。
この風雨じゃ、きっとやっぱり台風だったんだろう。
目の前に広がるのは灰色で、凄い速度で流れている雲。
千鶴は身体の負担にならないようにゆっくりと部屋を出る。
夏なのに、この部屋の中はどこもひんやりしていた。火照った身体に足の裏から伝わるフローリングの冷たさがとても心地よかった。
薄暗い廊下の突き当たりにあるあの扉は千鶴の部屋にあるのと同じ。だから、きっとあの先はリビングだろう。
かちゃり、とバーに手をかけて開けると、ソファに座り込んでノートパソコンを見ている男の後姿があった。やっぱりそこはリビングとそれに続いたダイニングになっていて、寝室と同様に殺風景だった。
それでもソファとテレビと隅に置かれたパソコンデスクが少しだけ人の居住する場所という生活感を出している。
「なぁ……」
「おう、起きたんか」
きっと千鶴が入ってきたことなどわかっているだろうに、いつまでたっても振り向かない啓二と名乗った男に千鶴は困りきって声をかける。すると、啓二はすっとソファから立ち上がった。
出逢った時のスーツとは違うTシャツにスウェットのラフな格好。
欠伸をしながら、リビングの入り口に立ち尽くしている千鶴の側まで歩いてくると、千鶴の両腕を取った。
「たっ……」
「包帯はそのままでええな。風呂の水くらい抜いて来いやお前。血だらけやったで」
ほんま血ぃ固まって湯船洗うの苦労したし、と啓二が疲れたように肩を鳴らす。
「え?」
「あの部屋、引き払うんか?それともそのままにしとくん?」
とりあえず当面の着替えだけは持ってきてやったで、と部屋の隅を指差した。
確かにそこには千鶴の服が積んである。
千鶴は信じられない思いで啓二の顔を見つめた。
確かに千鶴は血だらけの浴槽をそのままに部屋を出た。そして、このマンションはオートロックだし、部屋に帰る予定もなかった千鶴は鍵を持たなかった。
この男はどうやって千鶴の部屋に入ったというのだろう。
『違う世界』
最中に彼の言った事がようやく理解できた。
ここに千鶴がいることは、誰も知らない。
千鶴もここを出ない。
この部屋の外の世界から、確かに洞上千鶴は消えるのだ。
それに気づいた時、千鶴は胸につかえていた色んなものがなくなった気がして、啓二に向かって微笑んでいた。
「――引き払ってくれればいいよ」
そうしたらみんな自分がどこかに逃げたと思うだろう。それでいい。誰も、自分のことなど待たなければいい。
「そっか、わかった」
誰がどんな手続きをするかなんて細かい事は聞かずに、啓二も頷いた。彼はそれが出来るから自分に聞いたのだろう。
「部屋で、持ってきて欲しいのあるか?あるんやったらその辺にメモっとき」
啓示はテーブルに放って置かれたメモを指差す。
「うん」
頷いて千鶴は啓二が座っていたソファに座り込んだ。当然のように、千鶴にコーヒーが出てくる。
自分好みの砂糖とミルクの量。
初めて逢ったはずなのにどうして彼は自分を知っているのか。
少しだけ考えて、千鶴は首を振った。
「なんや、具合悪いのか?」
自分のコーヒーを持った啓二が隣に座る。
「――なんでもないよ」
千鶴はそう笑って、啓二の膝の上に乗り上げるとその綺麗な顔を見つめながら彼の唇を触った。
啓二も拒絶もせずに千鶴を見つめて、させるがままだ。
「綺麗なものなんかヒトの中にないと思ってたけど、啓二は綺麗」
「そんなん見かけだけや」
「ううん、啓二は綺麗――」
嬉しそうに笑って千鶴はそのまま啓二のかさついた唇に口付ける。
何度も、何度も。
繰り返しているうちに、啓二にマグカップを取り上げられて、ローテーブルにこつんと置く音がした。
離れるのがいやいやと、啓二に抱きつくと、耳元で小さな笑い声が聞こえた。抱きしめられたまま、背中をトントンと叩かれる。
「ここはお前のいた世界やない、別の世界や。俺とお前だけのな」
だから安心すればいい――
こうして千鶴は自分の生きた世界から消えた。
*****
啓二の部屋で暮らし始めた千鶴が最初に啓二から貰ったのはスマートフォンだった。メッセージアプリには啓二の連絡先だけが入っている。
「ほんまは家におれたらいいんやけど、仕事あるから」
啓二の仕事はなんだか分からないけど、朝早くに出て行くこともあれば、一日中家にいることもあった。
啓二が外に出ている時に帰りの時間などの連絡をよこしたり、千鶴が欲しいものを啓二にねだる為のスマートフォン。
遮断された啓二の部屋は、啓二以外の誰も訪れることなく、千鶴は啓二と二人だけの世界にいる。
一緒に寝て、一緒にご飯を食べて、そして時々セックスをする。
なぜ啓二が、死に際の千鶴をこの世界に引き戻して抱くのか、千鶴は不思議に思ったけれど聞かなかった。聞いてもこの世界が変わるわけないし、もうどうでもいい話。啓二は綺麗だし、一緒にいて心地いい。
――それがこの二人きりの世界の全て。
*****
「そういえば、啓二がベタ褒めだった洞上千鶴?行方不明になっちゃったんだってね。折角一緒に組まないかって持ちかける予定だったのに」
ギターを手に取って音の確認をする啓二に、マネージャーが残念そうに洞上千鶴の事務所からの返事を見せた。
『――洞上千鶴は○月○日を持って弊社を退社後、引退いたしました。ご希望に添うことが出来ずまことに申し訳ございません。しかしながら、KEIJI様よりのお申し出にお答えするべく、若手実力シンガーを数組推させて頂きます。添付しました資料をご覧頂き、是非お仕事をご一緒させていただきたく……』
陳腐な言葉が並ぶ手紙と共にマネージャーは同封されてきたと思わしき資料を抱えていた。啓二はそれを一瞥するとぐしゃりと手紙を握り潰してゴミ箱へ投げ捨てた。
「洞上千鶴やないと意味ないし。そっくりそのまま返しとけや」
千鶴を捨てたくせに他のタレントを使ってどうにかしようなんて虫唾が走る。啓二は眉間に皺を寄せながら、盛大に舌打ちをする。
まさか、あの日。
仕事帰りにふと非常階段の方を振り向いてふらふらと血だらけのままマンションの屋上に上がっていく千鶴を見た時は寒気がした。
その日はずっと注目していて、なにより、一目惚れに近い形で好意を持っていた彼に、一緒に組んで仕事をしませんかという伺いの手紙を出した、正に当日だったのだから。
まさか引っ越したばかりの自分の所有しているマンションに彼が住んでいたなんて思いもしなかったし、何より白かったはずの彼のシャツが血で染まって、虚ろな表情で階段を昇って行く彼の後を思わず追いかけてしまった。
彼が手を掲げればそこには無数の赤い跡。彼がなぜ血まみれの格好をしていたのか理解できた時は、血の気が引いた。
案の定、屋上の柵を乗り越えた時は、走っていた。
刺激しないように、努めて冷静に話しかければ、彼が世界の全てに絶望しているのが痛いほどわかって。
――気付いた時には引きずり込んで抱いていた。
なのに彼は、笑ったのだ。
啓二の部屋で世界が完結すれば、外の世界から消えられるという啓二の詭弁に乗る形で。
――そこでもう一度彼を襲った様々からの絶望を知ったのだ。
死なれる位だったら、このまま壊れててもいい、生きてくれれば。
彼が、千鶴が望むならば、このまま二人の世界にいればいい。
千鶴のことを傷つけるものなど、誰もいない二人の部屋で。
千鶴は自分の事を綺麗だというけれど、啓二からしてみれば、千鶴の方がずっと綺麗だ。初めてその笑顔を画面の向こうに見た時、鳥肌が立った。あまりに綺麗で、可愛くて。
その声は形容しがたいそれこそ神に恵まれた声で。
曲がりなりにも音楽業界に顔は出さないまでも携わっていた 啓二を一瞬で虜にした。
――もっと早く出逢えていたらと思う。
そうしたら、千鶴を壊すことなど、自分が許さなかった。
今は、彼と二人、鍵のついていない檻の中で、彼の傷を癒すだけだ。
彼がもう一度、彼が汚れているという世界に飛び立つまで。
いっそこのまま壊れたままでも、いい。
そうしたら彼は未来永劫、自分ひとりのものなのだから。
※11~16年前に鴇矢名義で書いた2冊の同人誌を改稿しています。
12/10、12/11の2回更新で完結です。
おとなのせかいはとても汚い。
それが現実。
僕も汚い。
でも、それでも。
生きるということはとても汚い。
だから本日僕は、自分の「世界」を捨てます。
ぬるい風がゆるく吹き抜ける。
とても、それが気持ち悪かった。
「これでも死ねなかったな……」
手首には、無数の赤黒い線が縦横無尽に走っていた。そっと撫でるとちりりと痛む。
洞上千鶴はそっと両手首を眼の高さまで掲げてそれを眺める。
そこには自分で傷つけた無数の切り傷。
ドラマや漫画よろしく手首を掻っ切って水の張ったバスタブに浸けて、睡眠薬などを飲んで寝てみたけれど、起きたら血は止まっていた。
その前は、大量に薬を飲んでみたし、その前の前は首を吊ろうとしたけれど、どれもこれもが失敗。
「なんで、死なせてくれないんだろう」
頬を涙が伝う。
どんよりとした空は、今にも雨粒を落としてきそうだった。
ずぶ濡れのまま、千鶴は住んでいるマンションの屋上に上がる。
大きな貯水槽と、電気設備と、申し訳程度の柵がそこにあるすべてだった。
目の前に広がるのは灰色と街灯で彩られた街。
ここに住んでいる人のどれくらいが綺麗なんだろうと、千鶴は首を傾げながらじっと見つめる。
きっと綺麗な人などいないのだ、この世界には。
みんな少しずつ汚れている。
全てがなくなれば、この光景も綺麗にみえるのだろうか。もしそうならば世界などなくなってしまえばいいのに、と破滅的な考えをしてしまうくらい、千鶴は全てに絶望していた。
最近はもうニュースも天気予報も全然見ていないけれど、空の雲は渦巻いていた。きっと時期的に台風でもくるのだろう。
住んでいるマンションの屋上は、今にも台風の渦に突入しそうで、千鶴はおかしくなって声を立てて笑った。
もういっそ、風が自分をここから吹き飛ばしてしまえばいい。
そうしたらきっと考える間もなく、地面に叩きつけられて死ねるのに。
もう、自分で命を絶とうと行動を取るのも、その方法を考えるのも疲れた。人様の迷惑になるからと取らなかった方法を取ってしまうくらい。
だから、千鶴はずるずるとバスルームから濡れて赤く染まった服のままこの屋上に来ていた。高いところは嫌いだけれど、この際四の五の言ってられない。
早く、早くこの世から消えてなくなりたかった。
*****
千鶴は高校を出た後、いわゆる芸能界と呼ばれる世界に飛び込んだ。人に可愛いといわれる容姿だったり、皆が褒めてくれる歌だったり、それら全てがその世界に入るきっかけとなった。
ぼんやりとだけれど人を幸せに出来る綺麗な歌を歌えればいいという夢を持って、千鶴はその世界に飛び込んだ。
きらきらしていた世界は画面越しに見ている間はとても綺麗だったのに、一度その世界に入ってしまえば、そこは汚くて、寒くて、そして偽りの世界だった。
欺き、偽り、驕り、諂い。
謀略、争い、媚。
綺麗だと思っていたその世界はとても汚かった。千鶴が今まで過ごしていた世界を水道水とするならば、そこは既にヘドロの詰まった汚い泥の中。
余りに汚すぎて、汚れていて、千鶴はすぐにそこから逃げ出した。
けれど、後ろから追ってくる汚い大人に捕らわれそうになって、夢を、理想を盾に取られて、しばらく泥水に浸かっていた。
既に自分の両手は真っ黒だ。
打算と、策略に何度自分の信念を曲げざるを得なかったか。
それでもしばらく頑張れば、その中に清流を流せると思っていた。少なくとも自分の周りで息ができるくらいは。
そんな幻想を持って頑張っていたけれど、千鶴の身体はずぶずぶと泥の中に埋まりこんでいくだけで。
少し人気に陰りが見えてしまえば、周りは手のひらを返して千鶴を捨てた。唯一の身内である姉は結婚して子供も産んで幸せな生活を送っているから、この汚い世界の相談も出来なかったし、触れさせたくなかった。
そうして、世界に絶望した千鶴は、この世からいなくなることを選んだ。
*****
千鶴の身体を揺らす風は、どんどん強くなっていく。
ふらふらと、柵へと近づく。柵を持って下を見下ろしてみると、さすが二十六階の高さは眩暈がするほど怖かった。
「――死ぬのに怖いって、なんか変な感じ」
死ぬ恐怖と、元々生理的に苦手な高さは別なんだと、千鶴は頭を仰向けた。視界一杯に灰色の不思議な色合いをした世界が広がる。
あれは、多分綺麗なもの。
自然はどんな姿をしていてもとても綺麗。
すさまじいスピードで流れる雲を見ていると、だんだんと平衡感覚も怪しくなってくる。
いい感じに血も下がって、千鶴は一度だけ瞬きをすると仰向いたままフェンスを乗り越えた。フェンスの先にも数歩分のゆとりがあったのは覚えてる。だから千鶴は仰向いたまま雲の流れる方向に向かって足を進めた。一歩、また一歩。そして残りの一歩を踏み出す。
世界よ、さようなら。
願わくばこの先自我がある所に行くのだったら、真っ白で綺麗な場所に行けます様に。
そう思えば高さによる恐怖も忘れて、躊躇うことなく足を踏み出せた。予想通り、最後だと思って踏み出したその先に踏み締めるべきコンクリートはない。
ぐらりと身体が傾いたのを確認して千鶴は眼を閉じた。
なのに。
重力に添って下に移る筈の力は、なぜか千鶴を反対側に引き寄せた。すごい力に引っ張られて、千鶴はふわりと浮き上がるとさっきまで立ち尽くしていたマンションの屋上へ引き戻された。
重力に添って落ちたのはそのすぐ後。
ドスンと大きな音を立てて屋上へと引き戻された。
「っ――!!」
受身もなしにコンクリートに叩きつけられる形になった千鶴は、その衝撃に息すらも止まる。
その後、一瞬動きを止めた肺が空気を求めて軋んだ。
激しく打った肩を抑えながら目を開けると目の前には人の足。ピカピカに磨かれた革靴には鏡のように自分が映っている気がした。
底から目をそらすように、顔をしかめながら、その足の持ち主を確かめるべく見上げる。
そこに立っていたのはスーツの男。
渦巻く暗い空を背景に、ただ男は表情なく千鶴を見下ろしていた。きっと彼が千鶴をこちらに引き戻したのだ。
「なんでっ、邪魔するんだ!?」
「人の住んでるマンションから飛び降りんな。どうせなら人様に迷惑かからない死に様を選べや」
思わず問いかけると、男は表情を崩さず、西の出身を感じさせる言葉でそんなことを返してきた。明るい色の柔らかそうな少し長めの髪が、風に乱されている。
「そんなの出来てたら、ここになんか来ない……」
悔しそうに千鶴が呟くと男はしゃがみこんで、左腕をぐいっと取られた。
千鶴の傷だらけの腕を、男は眉間に皺を寄せながら見つめる。
無数の浅い傷に、意を決したように走る一本の深い傷。
それを見つめる男を千鶴は間近で見て、少しだけ心が落ち着いた。
男の顔は、今まで見た誰よりも、ただ綺麗だった。
彼は、彼だけは、何事にも汚されないと千鶴が思えるほど綺麗だった。
「死にたいん?」
男は千鶴の腕を掴んだまま顔を上げると、真剣でもなく、かといって茶化す訳でもなく聞いてくる。
千鶴はその綺麗な男に問われて、コクリと頷く。
「生きるの辛い。――世界から、消えたい」
すっと、千鶴の頬を暖かいものが伝った。どのくらいぶりに流す涙だろう。
「世界から消えたいんやったら。いなくなればいい」
男はその美しい顔に壮絶な笑みを浮かべると、千鶴の腕を引っ張り、無理矢理立たせる。
見た感じ細身なのに、その力は尋常ではなくて、千鶴は引っ張られる痛みに耐えながら立ち上がった。
そのままずるずると屋上の扉まで引っ張っていかれた。
空は渦を巻いて、千鶴が屋内に入る時には最初の雨粒を落とした。
階段を下りた先には最上階のエレベーターエントランス。そのまま男は千鶴の腕を離さずにエレベーターを通り過ぎて住居のある廊下を歩く。
一番奥の部屋の鍵を開けるとそのまま男は千鶴とともに中に入る。
薄暗いマンションの一室はひんやりと涼しかった。自分の部屋とはちょっとだけ違う間取りに、千鶴は少し戸惑う。
男はそんな千鶴の反応など気にすることもなくずんずんと廊下を進むと、ドアを開けて暗い部屋に入った。
部屋に入った途端、屋上に引きずり戻されたその力でまた千鶴は投げ飛ばされた。ただ、次に襲ってきたのはコンクリートの衝撃ではなく、とても柔らかい感触。
それにビックリして上半身だけ起き上がらせる。見渡してみればそこは恐らく寝室だった。大きなベッドが部屋の中心にあって、他の家具は全くない。
カーテンすら閉められていない窓の外は、既に暴風雨。
男は茫然とベッドに座り込む千鶴をじっと見ていた。
そして、千鶴の視線が、部屋の入り口に立ったままの男に戻ってきたのを確認すると、ゆっくりとベッドに近づいてくる。
ぎしり、と千鶴はベッドの上で後退りをする。
彼の意図はいったいなんなんだろう。
ただ分かっているのは、彼はとても綺麗だということだけ。
世界はあんなにも汚いのに、彼はとても綺麗。
彼はそのままベッドに乗り上げると後退る千鶴を物ともせずに、あっという間に組み敷いた。
「ここに居れば世界から消えられる」
傷だらけの千鶴の左手を取って男はそっとその傷に口付けた。
先ほど千鶴の身体を投げたのとは打って変わって、とても優しい動作だった。
仕草一つ一つが綺麗で、千鶴は抵抗することも忘れて彼に見とれる。
彼の舌がそっと傷を舐めた。ちりりと痛みが走って、千鶴は思わず顔をしかめる。
「痛い? これ自分でつけたんやろ?」
無数に走る傷を、彼はゆっくりと両手分舐めると満足したのか、そのまま顔を近づけてきた。
そのまま口付けられて、唇を割られれば、広がるのは血の味。
千鶴の血の味。
「ふっ……んっ……」
抵抗も出来ずにただ彼のするままに口腔内を貪られる。
彼はそのまま千鶴の息が上がり、腕が押し返すまでキスを続けた。
「……慣れてへんな、おまえ」
「――ちづる――」
「あ?」
「おまえじゃない、千鶴」
嘲るように、ビックリしたような顔でそんなことを吐く彼に、千鶴は思わず言い返す。確かにこういう行為に慣れているほうではないし、けれど言われているだけじゃ腹が立って言い返した。
彼はしばらくビックリしたように千鶴を見つめると、見間違いと思うかのような笑みをふんわりと浮かべた。
「千鶴っていうんや。分かった、俺は啓二」
「けーじ?」
「そう、啓二」
そう笑ったように言いながら啓二は千鶴の唇をもう一度塞いだ。
先ほどまでの強引ではなく、易しく愛しむような行為で。
このまま彼と触れ合えば、彼の綺麗さで自分もすこしだけでも綺麗になれるのかな。
ぼうっとしてきた頭で千鶴はそんなことを考える。
彼の唇はいつのまにか首筋に移っていて、時折ちりりとした痛みをもたらす。彼の手は既に千鶴の胸の飾りを弄っていた。
「やぁっ!!」
「ふぅん、男でも感じるんや」
本当に感心したかのように、啓二はその胸をきゅっと握る。
千鶴は唇を噛んで、その得も知れぬ感覚をやり過ごそうとした。
「っ……」
胸をいじられることに気を取られていて、気付いた時には啓二の右手は既に千鶴の一番弱い場所を掴んでいた。
しばらく自慰すらもしていないそこは、何度か擦り上げられただけで、すぐに反応してしまう。
「くぅっ……あっ」
「そうやって声殺しとるの、男を煽ってるって気付いてないやろ」
啓二は楽しそうに笑って、千鶴を追い立てる。
千鶴のそれが爆ぜるまで、たいした時間もかからなかった。
どろりと独特のにおいが部屋に広がる。千鶴は肩で息をして、その余韻をやり過ごしていた。自分が身を置いている状況の変化に頭がついていかない。
そんな千鶴にお構いなく、啓二はその奥に指を進めた。
「え……なに?」
どろりとした間隔が、あり得ない所を触って、千鶴は思わず声を上げる。
「なにって、イイコト」
啓二の声は笑っていながらも艶を含んでいて、千鶴は思わずぞくりと背中を揺らした。
その隙を突いて、啓二は指をずるりと後孔に滑り込ませた。
「ひぃっ、あ……」
初めて感じる間隔に、千鶴が悲鳴を上げる。
すぐに弛緩していた身体は、強張った。
途端、感じるのは自分の身の内に埋められた啓二の指。
「きっついなぁ、力抜いてたほうが、後々楽やで」
そんな呆れた声を啓二は呟くと、千鶴の首筋をぺろりと舐めた。
びくりと、千鶴の隙を狙ってもう一本指を追加する。
「いっつ――痛、い」
一本ならば違和感だけで済んだ感覚も、二本目が滑り込んだ時に痛みに変わる。
背中からはうーんとか、なんだか緊張感にかける啓二の声が聞こえた。
きゅうきゅうと彼の指を締め付けているのがわかる。
次の瞬間、ばらばらと埋め込まれた指が動き始めた。
千鶴はシーツを握り締めて、その感覚に耐えた。
そして、身体の中で蠢く指に耐えていたとき、びりっと何かにその指が触れる。
「あぁっ……んっ……!!嘘!!なんな、の」
感じたのは確かに快感。前を擦り上げられるのとは、全く違うそれが千鶴の全身を襲った。
「あー良かった、見つかった」
そんなのんきな声が聞こえて、指は一層いやらしく蠢いて、その千鶴の快感を感じたところに触れる。千鶴はもはや声を抑えることなど出来ず、嬌声を上げることしか出来なくなる。
何時の間にか指は増えて、好き放題に千鶴の内部を弄る。
ずるりと抜かれる頃には既に千鶴の息は絶え絶えだった。こんな快感、生まれてから一度も感じたことがない。
そして、身体は次に来る衝撃を知っているかのごとく、何かを求めて燻っていた。
意識を飛ばしている千鶴を啓二はころりと仰向けにする。
その足を掲げて、千鶴の足にキスをする。強く吸われて、千鶴は小さな声を上げた。
「世界がなんぼのもんや。ここはお前のいた世界と違う世界や」
そう、啓二は笑った。ぐっと唇を合わせると、もう数え切れないくらい絡めた舌をまた絡めてくる。
啓二との口付けに夢中になって、下半身を襲う熱に気付かなかった。
千鶴は、その次に襲ってきた衝撃に千鶴は悲鳴を上げるも、全て 啓二に吸い取られた。
気付いた時には身体の真ん中に、なにか熱いものが刺さっていた。脈打つそれがなんだか分からないほど、千鶴も子供ではない。
「あ、つい……」
「なんや熱は分かるんや。痛くない?」
「ん……。少し」
「ほんなら気持ちよくなるまでしばらく我慢やな」
言葉が終わらぬうちに、身体に埋められたものが前後に動き出す。内臓が裡から押し上げられて、気持ち悪い感覚としばらく千鶴は闘った。
啓二は千鶴の腹を押しながら、腰を突き入れる。腹を押されると、身に埋め込まれている熱いそれの存在がよりリアルに感じられて千鶴は息をつめた。
啓二が腰を引いて角度を変えて突いて来た時、千鶴の喉から今までで一番大きい嬌声が響いた。
「あっあ――――!!」
そこは、指で弄られた時に、快感の芽を発見した場所。
「ここやったな――」
「やぁっ……。嘘っや……」
しかし千鶴の制止を聴かなかったことにしたのか、啓二はそこを 重点的に突いて来る。
初めての感覚で、千鶴は声を抑えることも忘れて、揺さ振られるごとに喉から喘ぎ声を出した。引きずり出された快感は千鶴の精神を苛む。
頭が真っ白になるくらい激しく苛まれて、千鶴は次第に快感に溺れていく。
「くっ……」
気付いた時には耳元で息をつめる啓二の声を聞きながら精を放っていた。後半は殆ど触りもしなかったのに自分の腹を汚す精液が信じられない。
ただそれとほぼ同時に身の裡に放たれた暖かいものがとても心地よくて、千鶴は意識を手放した。世界は汚れていたはずなのに、最後に見た光景はただ、真っ白で綺麗な世界だった。
*****
ザーザーと音が聞えた。
耳を塞いだ時に聞える音によく似ているそれは、千鶴を安らかな眠りへと導いていた。
意識が浮き上がって身じろぎをすれば倦怠感を身体が襲う。
倦怠感の理由に記憶が追いついた時、千鶴は飛び起きた。
体の痛みも感じてはいたけれどそれどころではなくなって、信じられないようにあたりを見回す。
そこは確かにあの屋上での出来事の後、連れてこられた殺風景な部屋だった。
色々なものにまみれたシーツは洗い立てのそれに換えられていたし、千鶴の肌もさらりとして、パジャマまで着せられている。
傷だらけの両腕には丁寧に包帯も巻かれていて、コンクリートに叩きつけられた時に酷くぶつけた所には湿布が貼られていた。
千鶴は状況が理解できずに暫くその場に佇む。
『ここに居れば世界から消えられる』
彼は笑ってそう言っていた。
千鶴はそっとベッドを起き出す。
外の雨は止む気配を見せない。カーテンもついていない窓には雨粒が叩きつけられていた。
この風雨じゃ、きっとやっぱり台風だったんだろう。
目の前に広がるのは灰色で、凄い速度で流れている雲。
千鶴は身体の負担にならないようにゆっくりと部屋を出る。
夏なのに、この部屋の中はどこもひんやりしていた。火照った身体に足の裏から伝わるフローリングの冷たさがとても心地よかった。
薄暗い廊下の突き当たりにあるあの扉は千鶴の部屋にあるのと同じ。だから、きっとあの先はリビングだろう。
かちゃり、とバーに手をかけて開けると、ソファに座り込んでノートパソコンを見ている男の後姿があった。やっぱりそこはリビングとそれに続いたダイニングになっていて、寝室と同様に殺風景だった。
それでもソファとテレビと隅に置かれたパソコンデスクが少しだけ人の居住する場所という生活感を出している。
「なぁ……」
「おう、起きたんか」
きっと千鶴が入ってきたことなどわかっているだろうに、いつまでたっても振り向かない啓二と名乗った男に千鶴は困りきって声をかける。すると、啓二はすっとソファから立ち上がった。
出逢った時のスーツとは違うTシャツにスウェットのラフな格好。
欠伸をしながら、リビングの入り口に立ち尽くしている千鶴の側まで歩いてくると、千鶴の両腕を取った。
「たっ……」
「包帯はそのままでええな。風呂の水くらい抜いて来いやお前。血だらけやったで」
ほんま血ぃ固まって湯船洗うの苦労したし、と啓二が疲れたように肩を鳴らす。
「え?」
「あの部屋、引き払うんか?それともそのままにしとくん?」
とりあえず当面の着替えだけは持ってきてやったで、と部屋の隅を指差した。
確かにそこには千鶴の服が積んである。
千鶴は信じられない思いで啓二の顔を見つめた。
確かに千鶴は血だらけの浴槽をそのままに部屋を出た。そして、このマンションはオートロックだし、部屋に帰る予定もなかった千鶴は鍵を持たなかった。
この男はどうやって千鶴の部屋に入ったというのだろう。
『違う世界』
最中に彼の言った事がようやく理解できた。
ここに千鶴がいることは、誰も知らない。
千鶴もここを出ない。
この部屋の外の世界から、確かに洞上千鶴は消えるのだ。
それに気づいた時、千鶴は胸につかえていた色んなものがなくなった気がして、啓二に向かって微笑んでいた。
「――引き払ってくれればいいよ」
そうしたらみんな自分がどこかに逃げたと思うだろう。それでいい。誰も、自分のことなど待たなければいい。
「そっか、わかった」
誰がどんな手続きをするかなんて細かい事は聞かずに、啓二も頷いた。彼はそれが出来るから自分に聞いたのだろう。
「部屋で、持ってきて欲しいのあるか?あるんやったらその辺にメモっとき」
啓示はテーブルに放って置かれたメモを指差す。
「うん」
頷いて千鶴は啓二が座っていたソファに座り込んだ。当然のように、千鶴にコーヒーが出てくる。
自分好みの砂糖とミルクの量。
初めて逢ったはずなのにどうして彼は自分を知っているのか。
少しだけ考えて、千鶴は首を振った。
「なんや、具合悪いのか?」
自分のコーヒーを持った啓二が隣に座る。
「――なんでもないよ」
千鶴はそう笑って、啓二の膝の上に乗り上げるとその綺麗な顔を見つめながら彼の唇を触った。
啓二も拒絶もせずに千鶴を見つめて、させるがままだ。
「綺麗なものなんかヒトの中にないと思ってたけど、啓二は綺麗」
「そんなん見かけだけや」
「ううん、啓二は綺麗――」
嬉しそうに笑って千鶴はそのまま啓二のかさついた唇に口付ける。
何度も、何度も。
繰り返しているうちに、啓二にマグカップを取り上げられて、ローテーブルにこつんと置く音がした。
離れるのがいやいやと、啓二に抱きつくと、耳元で小さな笑い声が聞こえた。抱きしめられたまま、背中をトントンと叩かれる。
「ここはお前のいた世界やない、別の世界や。俺とお前だけのな」
だから安心すればいい――
こうして千鶴は自分の生きた世界から消えた。
*****
啓二の部屋で暮らし始めた千鶴が最初に啓二から貰ったのはスマートフォンだった。メッセージアプリには啓二の連絡先だけが入っている。
「ほんまは家におれたらいいんやけど、仕事あるから」
啓二の仕事はなんだか分からないけど、朝早くに出て行くこともあれば、一日中家にいることもあった。
啓二が外に出ている時に帰りの時間などの連絡をよこしたり、千鶴が欲しいものを啓二にねだる為のスマートフォン。
遮断された啓二の部屋は、啓二以外の誰も訪れることなく、千鶴は啓二と二人だけの世界にいる。
一緒に寝て、一緒にご飯を食べて、そして時々セックスをする。
なぜ啓二が、死に際の千鶴をこの世界に引き戻して抱くのか、千鶴は不思議に思ったけれど聞かなかった。聞いてもこの世界が変わるわけないし、もうどうでもいい話。啓二は綺麗だし、一緒にいて心地いい。
――それがこの二人きりの世界の全て。
*****
「そういえば、啓二がベタ褒めだった洞上千鶴?行方不明になっちゃったんだってね。折角一緒に組まないかって持ちかける予定だったのに」
ギターを手に取って音の確認をする啓二に、マネージャーが残念そうに洞上千鶴の事務所からの返事を見せた。
『――洞上千鶴は○月○日を持って弊社を退社後、引退いたしました。ご希望に添うことが出来ずまことに申し訳ございません。しかしながら、KEIJI様よりのお申し出にお答えするべく、若手実力シンガーを数組推させて頂きます。添付しました資料をご覧頂き、是非お仕事をご一緒させていただきたく……』
陳腐な言葉が並ぶ手紙と共にマネージャーは同封されてきたと思わしき資料を抱えていた。啓二はそれを一瞥するとぐしゃりと手紙を握り潰してゴミ箱へ投げ捨てた。
「洞上千鶴やないと意味ないし。そっくりそのまま返しとけや」
千鶴を捨てたくせに他のタレントを使ってどうにかしようなんて虫唾が走る。啓二は眉間に皺を寄せながら、盛大に舌打ちをする。
まさか、あの日。
仕事帰りにふと非常階段の方を振り向いてふらふらと血だらけのままマンションの屋上に上がっていく千鶴を見た時は寒気がした。
その日はずっと注目していて、なにより、一目惚れに近い形で好意を持っていた彼に、一緒に組んで仕事をしませんかという伺いの手紙を出した、正に当日だったのだから。
まさか引っ越したばかりの自分の所有しているマンションに彼が住んでいたなんて思いもしなかったし、何より白かったはずの彼のシャツが血で染まって、虚ろな表情で階段を昇って行く彼の後を思わず追いかけてしまった。
彼が手を掲げればそこには無数の赤い跡。彼がなぜ血まみれの格好をしていたのか理解できた時は、血の気が引いた。
案の定、屋上の柵を乗り越えた時は、走っていた。
刺激しないように、努めて冷静に話しかければ、彼が世界の全てに絶望しているのが痛いほどわかって。
――気付いた時には引きずり込んで抱いていた。
なのに彼は、笑ったのだ。
啓二の部屋で世界が完結すれば、外の世界から消えられるという啓二の詭弁に乗る形で。
――そこでもう一度彼を襲った様々からの絶望を知ったのだ。
死なれる位だったら、このまま壊れててもいい、生きてくれれば。
彼が、千鶴が望むならば、このまま二人の世界にいればいい。
千鶴のことを傷つけるものなど、誰もいない二人の部屋で。
千鶴は自分の事を綺麗だというけれど、啓二からしてみれば、千鶴の方がずっと綺麗だ。初めてその笑顔を画面の向こうに見た時、鳥肌が立った。あまりに綺麗で、可愛くて。
その声は形容しがたいそれこそ神に恵まれた声で。
曲がりなりにも音楽業界に顔は出さないまでも携わっていた 啓二を一瞬で虜にした。
――もっと早く出逢えていたらと思う。
そうしたら、千鶴を壊すことなど、自分が許さなかった。
今は、彼と二人、鍵のついていない檻の中で、彼の傷を癒すだけだ。
彼がもう一度、彼が汚れているという世界に飛び立つまで。
いっそこのまま壊れたままでも、いい。
そうしたら彼は未来永劫、自分ひとりのものなのだから。
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