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君の世界が終わった日
しおりを挟む※自殺未遂、自傷行為の描写が有ります。
※11~16年前に鴇矢名義で書いた2冊の同人誌を改稿しています。
相沢啓二は歌わない小鳥をひとり、飼っている。
世俗の泥に塗れて、自ら手折れようとしていた、綺麗な綺麗な小鳥だった。
死ぬくらいならと無理矢理この世に引き止めて、そして自分が守ってやれる檻に閉じ込めた。
世俗から離れられた小鳥は、それに気づいた時、歓喜し、自分だけに綺麗な笑みを見せてくれている。
小鳥は決して歌わない。
ただ自分の側で笑ってくれていればいいと思う。
けれど
もう一度あの声を、歌を聴きたいと思うのは、自分のエゴだろうか?
*****
「啓二、今日何時までいられんの?」
都内某所のレコーディングスタジオ。決して広くはないそこをアーティストと製作陣が慌ただしく作業をこなしている。そんな中、一番ど真ん中で顔を顰めて画面と睨めっこしていた啓二に仲のいいスタジオミュージシャンである永井が声をかけた。
「んー。あと二時間くらいやな」
時計を見ると既に早朝に分類されるであろう午前四時。
「げ、終わんのかよ」
「終わらせなかったら持って帰ってやるだけや」
既に歌は撮り終わったから残るは調整だ。
「だって起きる頃には帰るって約束したし」
ポツリと呟いた言葉はスタッフのざわめきにかき消されて首をかしげている永井にも届かなかった。
あの夏の嵐の日、千鶴を拾ってから気づけばもう半年ほどが過ぎていた。
事務所を辞めた時に失踪かと少しだけ騒がれた以外、既にテレビの中の人たちは千鶴を話題にすることはなかった。今年のベストソングに昔の映像が出てくるくらいだ。
こうしてあっという間に忘れ去られてしまうのかとも思う。
インターネットの中では根強いファンが消息を探してはいるが、概ね引退と受け止められているようだった。裏側を追求しようとする雑誌には、ちょっとした伝手を辿って、記事を差し止めた。
真実を知っているのは啓二だけでいい。
ただ、啓二に出来るのはそこまでだ。
千鶴を傷つける全てのものを排除している。ただ愛していると伝えて、心に傷を負った千鶴が癒されるのを待つ。
ただ自分の元で笑っていてくれればいいと思いながら、その影に自分以外の誰にも見せたくないという暗い想いを抱えている。
『けいじは、ホント綺麗』
千鶴は何度もそう言って、うっとりとした顔で啓二の顔を見つめる。
確かに顔は世間一般から見て綺麗だと言われることが多いが、正直それ以外の評判はすこぶる悪い。それを千鶴に隠しているつもりもないのに、千鶴は啓二の存在自体が綺麗だと笑う。
千鶴が笑っているのだから否定する事はないけれど、それでも啓二はいつも首を傾げる。
だって。
千鶴のほうがずっと綺麗だ。顔も心も。あんな真っ白で天使みたいな声で愛を歌われたらきっと誰もが心洗われるだろうと思うのに。
この世のなんと哀れな事か、千鶴の歌さえも、この世界の泥は侵食してしまおうとした。
もっと早くに出逢うことが出来ていたらと思う。
もっと早くに出逢えていたら、千鶴を傷つけさせたりなんか、しなかった。
守ってやれる腕も力もあったのに、出逢えていなかっただけで千鶴は死のうとしたのだ。
だから啓二は実は、千鶴が歌っているのを画面の向こうでしか聴いた事がない。
知った時には遅かった。
ただ、その身を空に投げ出した千鶴の腕を取ることが出来た、そんな間一髪のタイミングで、今二人は一緒にいる。
*****
ようやく空が明るくなってきた冬の朝。
啓二はそっと自分の部屋に入る。
まだ寝室の電気は消えたままで、安らかな寝息を聞いてホッと胸をなでおろす。何度か約束を違えた時、千鶴は随分と拗ねて大変だったのだ。拗ねるだけならまだいい、恐慌状態にならなければ。
千鶴をこの部屋に閉じ込めてからすぐに、一度約束の時間を大幅に過ぎても、連絡も出来ずに帰られなかったときがあった。
どうにか家に帰った啓二が見たのは、ただ呆然と虚空を見上げて静かに泣いていた千鶴の空っぽの瞳だった。もうあんな胸が苦しくなるような哀しい目を見たくはない。
寝ている千鶴の枕元に静かに腰をかける。伸びっぱなしになった髪はこの間千鶴が自分で切っていた。器用に切るものだと思いながら刃物を使う千鶴を見ていた啓二を千鶴はおかしそうに笑っていた。
時計を見れば朝六時。もう一時間もすれば規則正しい千鶴は起き出す時間だけれども、啓二は着ていた服を脱ぐとそのままベッドに滑り込む。ぽかぽかと暖かい布団と暖かい千鶴。コレがきっと幸せって奴なんだろうなぁと柄にも無く思いながら徹夜明けの重たい瞼を閉じた。
*****
朝の光と共に眼を覚ますと、昨日の夕方出掛けて行ったはずの啓二が自分を抱きこんですやすやと眠っていた。
しばらくぽぉっと寝ぼけた顔でそれを見て、そしてそのまま啓二の身体に身を寄せる。
ホント、なんなんだろうな、この人。
自分の理想と、それを許さない世界に悲観して命を落とそうとした千鶴を、啓二は飼っている。
最初はもう考える事なんてどうでもよくなって、ただ自分の前にいるやたらと綺麗な啓二を見ているだけでよかった。
ただ、啓二と一緒にいて、ただこの部屋の中でぬくぬくと過ごして、それだけで幸せだった。
いや、今でも納得してるし、十分幸せだ。
思考回路はようやく正常といえる所まで戻ってきている気はする。
だって色々な疑問が頭の中に浮かんでくるようになったからだ。
そんな大分元に戻った思考で考えてみると、あの時の自分が如何に追い詰められていて、マイナスな意味で一直線だったのかが分かる。
コンクリートのその先の空に飛び出た感覚を思い出すと、今でも身震いがする。もともと高い所は大嫌いなのだ。
馬鹿なことをしたものだと、今になって思う。
手を伸ばせば両手に沢山の白い筋。もう手に触るざらつきも少なくなってきたけれど、ここは確かに自分で切りつけた傷が残っている。もう少しすれば後も残らずに消えるんじゃないかと啓二が言っていた。
あの時、本当に死ぬつもりだった。だってあの屋上に引き戻す啓二の手がなければ本当に死んでいたのだから。よくもまあ大して体格の変わらない男を一人、腕一本で屋上に引き戻したと思う。啓二の腕の筋肉や力強さは千鶴の良く知る所ではあるけれど、それでもよく間に合って、そして大丈夫だったものだ。
啓二は何も言わない。
自分のことも千鶴のことも、何も言わない。
なぜ、千鶴を助けたのか。
なぜ、側に置くのか。
千鶴は啓二がどんな仕事をしているかも知らない。
どうして啓二は、千鶴を世界から守る檻をくれたのだろう?
聞き出したいとも思わないけれども、ただ千鶴は不思議だった。
髭でざらついた啓二の顎を撫でて、その身体に抱きつく。
無意識なのか、寝たまま起きない啓二は抱きこんでいた腕の力を強めて、ぎゅっと抱きしめてくれた。
ただ、それが幸せでいいと、思っている。
啓二がようやく起きた時には、千鶴はいつも通りパジャマから部屋着に着替えてリビングで本を読んでいた。
リビングには大きなテレビがあるけれども、テレビ番組がついている事は殆どない。時々千鶴が見たいと言ったDVDが流されていたり、啓二が車やバイクレースを見ていたりするくらいだ。だから基本、この家は静寂に包まれている。会話は最小限だし、しかしそれで不便を感じてはいないから、改善する気は更々なかった。
「おはよ、コーヒー飲む?」
リビングに立ち尽くす啓二に気づいた千鶴が笑いながら立ち上がった。それに頷きながら、コーヒーを用意する千鶴の後に続いてダイニングテーブルにどっかりと座って、欠伸をしながら千鶴をぼんやりと眺める。
ずっと壊れたままなのかと危惧していた千鶴は、最近だいぶ落ち着いてきた。
でも自分のことについて語ることはしないし、啓二について聞いてくることはしないし勿論、この部屋から出る素振りすら見せない。
そんな事をつらつらと考えていると、コーヒーを持った千鶴が向かいに座る。
「何時ごろ帰って来た?」
「あー、たしか六時頃。約束守ったやろ?」
「……仕事無理するくらいだったら連絡くれればいいのに」
目の下クマになってる。拗ねた顔で千鶴が啓二の目元を指差す。
時計を見ればまだ九時過ぎで寝てないもんなぁと啓二は苦笑した。
「やって千鶴が泣いてないか不安で不安で」
茶化すように啓二が言うと、千鶴はフンと顔を背けた。
「もう泣かない」
だから無理しないで、とぽそりと聞えた言葉に啓二は思わず笑みを浮かべる。いやいや、千鶴がいなかった頃のスケジュールの無茶振りに比べれば、全然かわいいものなのだ。だって仮眠も取れるし、徹夜が二日三日続くのもいつもの事だし。そんなもろもろを飲み込んで、啓二はただ分かってる、と頷いた。
その後啓二は仕事だと、自分の部屋を出て、数階下のとある部屋に向かう。千鶴の前で仕事関連の諸々を見せるわけにはいかなかったから、空いている部屋を仕事部屋として使っているのだ。
しかし、仕事部屋に直接向かわず、啓二はその更に奥の部屋へ向かった。
表札の外されたその部屋の鍵穴に、持っている鍵を突っ込む。
――ゆっくりと廻せば鍵はやたらと廊下に響いた音を立てて開いた。
開かないはずないのだ。だってこのマンションのマスターキーなんだから。
主を失った部屋は静謐に包まれていた。あれだけ掃除をしたのに、少々の埃のにおいに僅かに感じる鉄のにおい。この扉を初めて開けたあの日の衝撃は、今でも鮮明に思い出せる。
ドアを開けた途端、むせ返るような血の匂い。
血の主は自分のベッドで静かに眠っているのに、戦慄を覚えずにはいられなかった。
廊下には点々と水と血の混ざったものが滴った跡が続いていた。その源で見つけたのは血まみれのバスタブ。傷口はそう深くはなかったから死ねなかったのであろうが、バスタブの水は真っ赤に染まっていた。思わず窓を開けて換気をして、シャワーを流しっぱなしにしてひたすらに血を流す。そしてバスルームの隅にあった浴室用洗剤もこれでもかとかけて暫く置いた。
そしてようやく啓二は、千鶴の部屋をゆっくり眺めたのだ。
散乱する紙には隙間のないくらい言葉が埋められていた。愛を欲しがり、そして悲観する歌詞が。
正直意外だった。
ちょっと物悲しいけれど幸せの隙間みたいな歌を歌っていた、洞上千鶴。
ずっと幸せそうに歌って、そしてカメラの前での心が温かくなるような笑みを浮かべていたから、彼の生活は合いに満ち溢れているのだとばかり思い込んでいた。けれどそれはかりそめに過ぎなくて、彼の心はいつの間にか闇に落ちてしまっていた。
彼の心の叫びが聞こえた気がして、呆然とする。所狭しと文字が散乱する部屋で、啓二は一人立ち尽くしてしまったのだ。
千鶴が啓二の元にとどまって、そしてその部屋をどうするか聞いた時、ただ彼は笑って「引き払ってくれればいいよ」とだけ言った。
きっと大事にしていた本も写真もギターもキーボードも、それらを全ていらないと言い切った彼は、あの時確かに狂っていたのだろう。
その言葉に頷いただけだったけれども、啓二はそのまま部屋を取っておいた。どうせ自分の持ち物だ、空き室を遊ばせておくくらい、なんともない。
たまに来ては、千鶴の残した言葉を一枚一枚読んでいる。
家族を思う気持ちが痛いほど伝わって来て、千鶴に内緒で、千鶴の家族には千鶴が自分のもとにいることを伝えている。新しいプロジェクトにかかわってもらっているという名目で。
それだって、何年誤魔化すことが出来るかはわからないけれども。
千鶴個人を、啓二は愛している。
そして一人のミュージシャンとして、洞上千鶴を尊敬している。
まぁ早く言えばファンなのだ。想いの募ったゆえの申し出は間に合わなかった。一緒に活動してみたいと思ったあの声。
聴いてみたいと切に思う。けれどそれが千鶴の心を壊すなら、すっぱりと諦められる。
――もし彼がもう一度歌いたいと言ってくれたなら。
考えても千鶴の心の中までは分からないからなぁとため息をついて、よいしょと啓二は立ち上がった。
もし、もしいつか千鶴がこちら側に戻ってくる時に、いつでもこれらの物が使えるように、メンテナンスを啓二はしていた。
パソコンに電源を入れてバックアップを取りながら、手元に山と積まれた紙を眺める。
千鶴の書いたとても沢山の言の葉。
啓二は随分前に言葉を書くことを辞めてしまっているが、どうやら千鶴は言葉が泉のごとく湧いてくる性質だったらしい。
こうしてたまに来ては読み進めているのだが、一向に読み終わる気配すらない。
ギシリ、と椅子を鳴らして、啓二は天井を見上げる。
自分のしたことについて、後悔はしていない。
そりゃ無理矢理抱くなんて、流石にないな、と思うことはあったけれど、結果的に至った今の千鶴との関係には満足しているし、幸せだと思う。
けれど。
その先を願うことは、贅沢なことなのだろうか?
*****
その腕で、千鶴を少し乱暴にかき抱きながら啓二は噛みつくように愛してるという。
少しだけ低い体温が、自分と同じほどに熱くなっていくのを感じるのが千鶴は好きだ。そのまま自分の身の裡に、啓二を沈めて、本能のまま愛を感じるのが大好きだ。
啓二は仕草が乱暴なくせに、時々ガラスを扱うかのようにおどおどと自分を触ってくる。
以前それを指摘してみたら、なんだかこの世の終わりみたいな顔をして落ち込んだ後、スマンとだけ謝って来た。
なんだかそれがあまりにも可愛くて、思わずその頭を撫でてみたら、しばらく拗ねていた。
知れば知るほど、啓二のことが好きになっていく。
それとともに、自分が捨てたはずのいろいろが頭をよぎる。
家族や仕事や夢を。
狂っていた自分を啓二は拾ってくれて、そしてただ愛してると自分を愛しんでくれて。
自分はなにも返せないのに。
でもまだこの部屋の外の世界はあまりにも怖くて、千鶴はこの部屋から出ることすらできない。
それどころかテレビをつけることもできない。
啓二は新聞も取っていないから、完全に世俗から隔離された世界は、千鶴を傷つけることはなかった。
愛を与えられて、ようやく思考は正常に戻って、そして千鶴の喉は、囀りたがっていた。
愛をもう一度、信じてもいいのかな。
愛をもう一度、歌ってもいいのかな。
でもどうやって?
もうずいぶん歌っていないから歌おうと思っても、声は出ない。
出し方も忘れてしまった気がする。
ただあまりにも心は啓二への愛に溢れてしまってもどかしくてたまらない。
もう一度歌いたいって言ったら啓二はなんていうだろう。
そもそも啓二は自分の職業を知っているのかな。
結局そんなことをぐるぐる考えて、最近の日中は過ぎて行く。
愛を歌えるのだろうか、しかしどうやって?
多分社会的に千鶴は行方不明状態のはずだ。自分がしでかしたことの大きさを、じわじわと感じ始めている。後悔はしない、だってそうしなかったら啓二に逢えなかった。
久々にあったかいお風呂に浸かるような、けれど激しい恋をした。不思議な感覚だとは思うけれども、千鶴の心は高揚していた。
今この愛を、この気持ちを歌えたらどんなに幸せなのだろうか。
歌を忘れたはずの自分はもう一度歌うことなど出来るのだろうか。
もし歌うことが出来たとして、あの泥沼のような仮初の世界をもう一度渡っていく自信は全くない。それほどにあの光の下の世界は魑魅魍魎ばかりだった。
握り締めた手はただ爪が食い込むばかりで、千鶴は途方に暮れる。
眉間に皺を寄せた千鶴を見て、啓二も眉間に皺を寄せる。あぁそんな顔させたいわけじゃないのにな、と見上げると、すっと目元を指で拭かれた。
そして、爪が食い込んだ手を啓二の顔に似合わず少々無骨な手のひらに絡め取られる。
「泣くんやったら、声上げて泣けばええのに。どうしてそんな静かに泣くんやろうな、千鶴は」
苦笑しながら啓二が、キスを落としてくる。
幸せだと、本当に思う。
啓二の手のひらに導かれて、そのたくましい背中に両腕を回す。自分の腕に残るようなざらついた感触をなぞってもう一度爪を立てる。
身体の裡に啓二を迎え入れれば、もう悩んでいたことなんて忘れて、ただ啓二と熱を上りつめることだけに集中できた。
「けいじっ……愛してる」
ただ絶頂に上りつめながら想いをぶつけると、このときばかりは顔を高潮させた啓二が、とても綺麗な顔で笑ってくれた。
この愛だけが、今の千鶴の現実の全て。
*****
それに気づいたのは、久しぶりに千鶴と朝食を取った後だった。
千鶴の唇が、時折言葉を紡ぐように、否、歌うように動いていたのを見た。
それを見た途端、啓二の中で歓喜が沸き起こる。
歌を忘れた鳥が、もう一度歌おうと思っているかもしれない。
それがまだ無意識の行動だったとしてもいつかは。
希望が持てるその行動に啓二の機嫌は上り調子だ。
「あ、そうだ。啓二。あの啓二が注目してた洞上千鶴っていたじゃん?」
いつも通りスタジオに篭って作った曲の調整をしていたら、プロデュースしているバンドの面々がぞろぞろと集まって来た。
久しぶりの千鶴の話題に、啓二は胡乱な顔で返事をする。
「こないだやってた今年の総合チャートで映像見たんだけどさ、いい声してたよね」
「あぁせやから声かけようと思ったんだし。曲、ほとんど自分で作っとったらしいで?」
「こないだ俺ら一緒にライブDVDとか全部見ちゃったもん。もったいないね」
「――もしかしたら全く別口でひょんと出てくるかもしれへんで」
だってそれだけの才能を持っている。その時は。
もし、もう一度彼がスポットライトの下に出る時は。
その手を握っていられたら。
*****
その日は見事な流星群が見られると啓二に聞いて、思わず千鶴はベランダに出た。
星はとても綺麗で啓二が「仕事」に出かけたこともあり、一人で空を見上げる。都会の明かりは空を白く照らして星は見え辛かったけれども、それでも時折尾を引いた星が降ってくる。
「きれい」
その言葉の後。その唇は、音を紡いでいた。
音が口をついた途端、溢れるように声に乗る。
それに気づいた時、涙が溢れてきた。
あぁ音楽は、自分の体の中に捨てられないほど浸食していて、そして自分はそれを発することが大好きなのだと。
しゃがみこんで嗚咽を漏らす。
「……やっぱり、歌いたいよ……!!」
どんなに苦しくても歌うことで、幸せになれる。どんなに泥沼な時でも、笑ってくれるファンの子たちと居る時は幸せだった。
一度は手放してしまったそれを。でもどうしても好き過ぎて、身の内に溜まった想いは、もうとっくにこの身体に満杯になってしまっていた。
「――やったら、歌えばええやん」
静かに、背後から言葉を投げられた。千鶴は思わずびくりと背中を揺らす。
恐る恐る振り返ってみると、啓二が窓に寄りかかって立っていた。その表情は、僅かに笑っているように見えた。
「どうして……?」
どうしてそれをそんな簡単に肯定してしまうの。
腕をひかれて、温かい部屋の中に戻ってくる。そのままぎゅっと抱きしめられて、ポンポンと背中を叩かれた。
「大丈夫、歌える。――俺がついてる」
そのまま着替えさせられて、千鶴は連れ込まれてから初めて、啓二の部屋の外に出た。久しぶりに出る外の世界はまるで夢の中の様で、ただぎゅっと繋いだ啓二の掌だけが現実の様で。
縋るようにその手を強く握って、地下まで下りる。目の端にまだ止まったままの自分の車が映ってびっくりしている千鶴を啓二は一番奥にある車庫に連れて行った。
啓二のらしい車に連れられて、夜の街を走って。
たどり着いたのは一軒のビルだった。
黒くシンプルなそこの鍵を啓二は開けると、すれ違う人たちとの挨拶もそこそこに、ずんずんと千鶴の手を握ったまま、奥へと進んで行った。声の気安さから、啓二がよくここに来ていることはわかったが、ガラス越しに区切られたそれらの部屋の機材が意味するものと、啓二との関係がわからずにただただ千鶴は連れられるがままに進んで行った。
そうして連れてこられたのは以前の自分にもなじみ深かった、その場所。
ポンとガラス越しのその部屋に投げ込まれる。
「歌いたいなら歌えばええ」
ガラス越しの部屋の向こうには啓二が一人。
「お前の音源は全部用意してある」
なんやったらステージも準備しようか?と啓二が笑う。
なにがなんだかわからないけれど、目の前のマイクに向かって、
ベランダで歌った曲を歌うと、追うように音が付いてきた。
途端に音に混じって、懐かしい楽器の生演奏が聞こえた。
反対側のブースにいた人たちが、こっちをみてニコニコと楽器を弾いてくれている。デビュー当時お世話になった、面々だった。事務所の都合で付けてもらえなくなった、懐かしく、そして素晴らしい人たち。
歌いながら、頬を涙が伝う。
啓二はただ、笑みを浮かべて座っていた。
何曲か一気に歌いきって、ただ呆然と千鶴はブースに立ちつくしている。気づいたら隣のブースにいたバンドの皆は姿を消していた。
ただ、啓二だけがじっと、ガラス越しに千鶴をじっと見つめていた。
「どうして……?」
どうして、自分の音源がこれだけそろっているのか。
どうして、懐かしいメンバーがそこにいたのか。
どうして、啓二がスタジオに連れてきたのか。
頭の中を信じられない「どうして」が駆け巡る。
へたり、と座りこんで、ただ啓二を見ていたら、啓二が何か操作をして、そしてスタジオに入って来た。途端、スタジオの中に心地のいい音が響き始める。
音に覚えはなかった。ただその癖のあるような柔らかいメロディはどこかで聴いた何かに似ていた。
そして響くのは、ちょっと低めの心地いい声。
目を見開いて、声の主を確かめようとする。
ぺったりと座りこんだ千鶴の隣に、啓二が胡坐をかいた。
声を掛けようと思うと、じっと床を睨むようにして彼の唇から漏れる、囁くような、そして呟くようなその声は今スタジオに流れるその声と一致する。
紛れもなく流れているのは啓二の歌声。
そしてその言葉が呟く歌詞は。
曲が終わって、そしてスタジオが静寂に包まれる。
「おれの、かいた言葉――」
その千鶴の声が、思ったよりよく響いて、啓二がちょっとだけ笑って、千鶴の方に向き直った。
「滅多に見ないテレビなんぞを久々に見た時に千鶴を見つけて、んで一目惚れやった。なのに、声を掛けようとした時、千鶴はもう事務所にいなかった。――驚いたで、血まみれでふらふらしとるお前を見た時は」
やわらかな笑みを浮かべて啓二は静かに語る。
「こっちの世界では初めまして、やな。プロデューサーをやってるKEIJIこと相沢啓二といいます。――おかえり」
あぁそういえば。とても繊細な曲を作るプロデューサーの名前を聞いたことがある。千鶴と年が近いらしく、顔もいいのに、偏屈で絶対表舞台に出てこなくて。人付き合いも苦手な変わり者と噂をされていたそのひと。
差し出されたその手を、思わず握り締めた。
「ごめんな、お前の部屋、そのままにしてあるん。片付けてた時に言葉の束見つけて。勝手に音つけた。んで勝手に歌ってみた」
全てを知って、そして啓二は千鶴のことを愛して、そしてずっと黙ってくれていた。
「もう一度千鶴の歌声が聴きたいと思う」
歌いたい、と思う。歌うことはやっぱり自分のやりたいことだ。
ファンの前で歌いたいと思う。
けれど、あの世界は。
けれども今、確実に思うことは。
啓二と一緒に歌ってみたい。
千鶴はさっきの歌詞と譜面を貰った。
何度か啓二の歌った曲を聞いて、譜面を読んでそして色ペンで色をつけて啓二に渡した。
「一緒に歌ってくれる?」
「もちろん」
千鶴のお願いも、すんなりと啓二は聞き入れてくれた。
いつのまにか隣のブースに男性スタッフが何人か入っていた。
啓二の指示でもう一本マイクが用意されて、啓二の合図で音が流れ始める。
交互に歌い、そしてサビで声が合わさった時。
外にいるスタッフだけじゃなくて、啓二も、千鶴も驚いて顔を見合わせた。
間奏中に、うそ、と音にせずに呟いた千鶴に啓二は初めて見る、いたずらが成功したような顔を見せた。
歌い終わった後、外の部屋にいた人たちが、拍手をしていた。
歌い終わった後の心地よい高揚感が、千鶴を支配している。
コーラスを入れることは勿論あったし、ちゃんとハモることは出来ていた。
けれど。
啓二の声は自分の中に沁み込むように呼応して、そして、多分自分の声以上の声が出ていた気がする。
もったいない、と純粋に思った。
そうして脳裏に響く、誰かの声。
『デモテープが結構ものすごくよかった、そのプロデューサー』
もったいないよね本当に。
昔の事務所の誰かが聞かせて貰ったと言っていた、多分その声の主が啓二だ。
この声を、この音を、世の中の人に伝えないなんてなんてもったいない。
そうぐるぐると考えているうちに、ガラス越しの部屋の人の誰かが操作したらしく、スタジオ一杯についさっき歌った曲が流れ始める。
途端、啓二と一緒に千鶴は見詰め合って首を傾げてしまった。
声質は、全く別のものだと思う。
音域だって、そう似ているものでもないと思う。
それなのに。
「すごい、一人の声みたいに聞こえとる」
思わずそう呟いたのは啓二で、千鶴も眼をまん丸にして頷くことしか出来なかった。
「絶対合わせたる、とか思っとったけど、これは流石に俺も予想外」
啓二がヘッドホンを外して、千鶴に向き直った。
「ずっと思っとった。いつか一緒に歌えたらなって。お前があの光の中に出ること、まだ恐いとおもっとるのも知っとる。でも歌いたいのも知っとる……。せやったら、俺がずっとついてる。せやから――一緒に歌おう」
*****
『本当にびっくりです。しばらく見ないなと思ったら、新しいプロジェクトの為だったんですね』
誰かがテレビの向こうで、興奮したようにそうコメントしていた。
「話題性溢れていたのはわかるんやけど。ちょっと騒ぎすぎじゃねえの、これ」
「だって啓二、顔いいもん。謎のプロデューサー・KEIJIが遂に歌手デビューって」
「それなら千鶴のほうやないの。可愛くなったーとか新境地とかいろいろ書かれてたで」
千鶴がご機嫌でギターをぽろぽろと弾いているその横で、小難しい顔をした啓二がパソコンとにらめっこしていた。
あのスタジオでの一件から、気付けば数ヶ月が経過していた。
啓二と千鶴は、新しいデュオとしてデビューしていた。一年近く姿を消していた歌手の千鶴と、ずっとプロデュースに徹していた啓二とのコンビは瞬く間にチャートを駆け上がり、気付けばやたらと街中で二人のポスターを見かける。
おおむね世間の評価は二人に好意的だ。デビュー前後に千鶴の元いた事務所から横槍が入ったりもしたけれど、それはそれで、きっちり啓二とKEIJIの事務所が返り討ちにしていた。
『あの光の中と、その裏の色々が恐いんやったら、俺が全部守ったる、ずっと隣にいてお前と闘う。せやから、一緒にいてくれ』
そう宣言した啓二は、有言実行、千鶴の噂の隅から隅まで把握して、マイナスになる前に叩いてくれている。
一緒に同じ場所に立ってくれる人がいるということがどんなに素晴らしいか、千鶴は初めて知った。
独りでは、黒い闇に落ちてしまったけれど、啓二と一緒ならどんなことでも闘える、そして乗り越えられる自信があった。啓二に守られるだけじゃなくて、啓二を守れるように、強くなりたいと思う。
啓二の事務所の社長はとても特徴的な人で、千鶴の意思をものすごく汲んでくれた。
啓二のいないところで、啓二がどれだけ前から裏で動いていたのかを笑い話を交えて教えてくれて、改めて啓二に愛されていたことを実感する。
『迎え入れる為のプロジェクトを立ち上げて、相手事務所にお手紙を送った時には千鶴、いなかったからね。お断りの手紙が来てもやけに冷静だから、変だとは思っていたんだ。まさか匿ってるとは思わなかったけれど』
死ぬところを拾われたんです、とは流石にそのままいえなかったけれど、どうやら拾われる前から啓二は準備していたらしい。
本人の弁で聞いてはいたけれど、それを見ていた第三者から実際に聞く話は思わず顔がにやけてしまうくらい、楽しくて幸せになれた。
聞けば啓二は、千鶴のバンドメンバーでつながりのあった人に声をかけて、千鶴の事務所移転を含めた準備もしてくれていた。
千鶴を自分の家に連れ込んだ後も、音を作ったり、事務所と折衝したりと随分と精力的に活動してくれていたらしい。
「踊りも歌も楽器もなんでもできるのに、頑なに表舞台に立とうとしなかった啓二を引っ張り出したのは、千鶴、君なんだよ。俺たちが十年かけて啓二を説得できなかったことを、君は存在一つでやってのけたんだ。それはとても大変なことで、君はそれだけ啓二に想われていることを誇っていい」
ただ、啓二が一生懸命になってくれて、自分は意見を言うことしか出来なくて不安だった時に、そう社長に言われた。
愛することに、愛されることに誇りと自信を持って、そして二人で歩いていけば、おのずと結果も、人もついてくるはずだ。
その言葉を聴いて、無意識にまた腕を撫でた。あの時ざらついていた傷跡は、もう殆ど消えていた。
「暗闇であがいたことも、死のうとしたことも。忘れることはない。それがその時の千鶴の意思なんやから。結果として、今俺と手を繋いで、そんで並んで歩けてるから。いつかそれは千鶴の中で糧になって、そんでまた千鶴が成長する。それでぇえやん。想いも経験も全てひっくるめて今のお前や」
この啓二の言葉を聴いて、千鶴の中であの暗闇に一気に光りが振ってきたような気がした。
あぁ、今、自分はこの啓二に本当に救いとられた。
「ありがとう」
そう面と向かって言うと、啓二は照れてそっぽを向いてしまうから。
ただ君がいてくれて、ありがとうの想いをこめて
「愛してる」
ひたすらそう伝える。
光りの中で歩いても、啓二が一緒にいてくれれば恐くない。
光りの裏で闇を投げられても、啓二と一緒だったら、迷わずに、恐がらずに進んでいける、闘える。
歌を忘れた小鳥は世界の終わりで、新しい世界に続く新しい光りを手に入れた。
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洞上千鶴(ほらがみ ちづる)23歳
高校在学中からインターネットを中心に活動をしていた。高校を卒業してからデビュー。20歳の時に出したバラードがバスって一気にチャートを駆けあがった。業界の汚い部分に触れて曲が迷走しているうちに少し人気が落ち、曲が作れなくなって事務所との契約が切れた。
黒髪の小柄な青年。
相沢啓二(あいざわ けいじ)25歳
同じく高校在学中から曲を作り、人気を博す。曲を提供していた友人バンドがブレイクするとともに知名度を上げた。顔もスタイルも頭も運動神経もプロデュース能力もいいが、いかんせん口が悪く、性格も悪い、きつい。脱色した少し長めの髪。時々ホストと間違えられる。
※もし、この話を読んだことがあるよって方、本当にお久しぶりです。
0
この作品は感想を受け付けておりません。
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その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
執着
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「国王でないならもう俺のものだ」
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「私の国の王妃にならないか」
いやいや、みんな何いってんの?
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