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第1章
第9話 その殺し屋、神聖がないらしい①
しおりを挟むピタリ、と男が動かなくなったのを見て、私は漸く我に返った。
「ッハァ、ッハァ、ッハァ……」
肩が上下し、肺が焼けるように空気を求めている。
冷えた床の上、倒れた男を見下ろしたまま、私はその場に膝をついた。
(……終わった)
だが、安堵よりも先に胸を満たしたのは、違和感と指先の痺れと、震え。
刃を握っていた手が、まだ熱い。私は、わなわなとする掌を見つめながら、先程の戦闘を反芻する。
(何、あの動きは………)
確かに私の前世は殺し屋。かつて〝魔女〟と呼ばれ、恐れられていたプロの殺し屋だ。
でも、今の私はサフィラ。
サフィラ・フォン・パパラチアと言う、この世界で『輝石の聖女』と呼ばれる、今はまだ幼い貴族令嬢の筈だ。
ゲームのユニットとしてのサフィラは魔力こそ強いが、フィジカル面で尖った性能や設定はなかった。
手のひらを、そっと見つめる。
薄い指先、可愛げな爪、華奢な手首――どう見ても幼い少女のそれなのに。
たった今、自分がしたことは、殺し屋時代の全盛期にすら並ぶ……いやそれ以上の動きだった。
(私の身体……どうなっているの?)
立ち上がろうとした瞬間、足元がわずかによろめく。
重心の感覚が、ほんの少しズレている気がする。まるで、力の出どころが違うみたいに感じた。
「……サフィラ!!」
はっと顔を上げると、ルベルがこちらに駆け寄ってきていた。まだ足元はふらついているけれど、その深紅の瞳は真っ直ぐに、私のことを見ていた。
「大丈夫? どこか怪我してない……!?」
その声は、恐怖や不安のせいか、かすかに震えていた。
それでも、私の様子を確かめようとする真摯な気遣いが、はっきりと滲んでいる。
あんなに怖い思いをしたのに、私のことを心配してくれるだなんて。……本当に、彼が無事でよかった。
改めて思う。私の推し、ルベル・フォン・カルブンクルスは、世界一尊い最高の存在だ。
「私は大丈夫です。むしろ、殿下こそよくご無事でいてくださいました」
私がそう言って微笑むと、ルベルもほっとしたように息をついた。だがすぐに、床に倒れている賊の男へ視線を向ける。
「この人……死んでしまったの?」
「いいえ、気絶しているだけです。急所は外したので、命に別状もないと思います」
そこまで言って、私はハッとする。
公爵令嬢であるサフィラが、人の急所だとか知るよしもないのに。つい、流れで口走ってしまった。
だけどルベルは「……よかった」と、静かに頷いただけだった。怪しまれなかったことに、ホッと胸を撫で下ろす。
自分を襲った賊にまで、優しさを向けるルベル。こんな状況でさえ、他者に気を遣えるだなんて。……彼の思いやりに、心を打たれそうになった。その時だった。
「やっぱり、サフィラはすご――っわ!」
「殿下!!」
ふらりと、体勢を崩しその場に座り込むルベル。
私はすかさず、その身体を支える。すると、私たちは自然に向かい合う形になっていた。
お互いの顔が至近距離にあることに気付き、私は思わず目を逸らす。彼もまた、少し照れたように笑った。
気まずさと、推しの顔が近くにあると言う事実に、頬に熱が集まる。
だが――ふと、彼の青白い頬が目に入った。
元より透明感のある肌ではあるが、血の気がすっかり引いており、どこか脆く、今にもこの場に倒れてしまいそうな頼りない色彩を宿していた。
やはりルベルは、本当はずっと怖かったのかもしれない。
それなのに気丈に振る舞い、無理をしていたのだ。にも関わらず、私を気遣うだなんて。なんて健気で、いじらしいのだろう。
そう思ったら、私は無意識に彼の頬に手を伸ばしていた。触れるか触れないかの距離まで来て、少しだけ躊躇ったが、彼の頬に指先がそっと触れる。
その肌は驚くほど冷たくて、でも確かに〝生きている〟温度があった。
震えていたのは彼の身体なのか、私の指先なのか。その一瞬が、やけに長く感じられた。
ルベルは、驚いたように目を見開いた。けれど、すぐに目元を緩めて、ほんの少しだけ、彼の頬が私の掌に寄り添う。
それはまるで、安堵のようだった。
「サフィラ、助けてくれて……本当にありがとう」
そう言った後、彼は少しだけ言い淀む。
けれど、すぐに小さく息を吸って、ゆっくりと話しはじめた。
「僕ね、サフィラが来なかったら、このままどうなっていたんだろう……って、今でも考えると、怖いんだ」
小さな手が、自身の服の裾をギュッと握る。その手は、震えているが、彼の瞳は一度も私から逸れなかった。
ルベルは今、本当の気持ちを、弱さを、私に見せてくれている。そのことが、たまらなく嬉しい。
「……あなたが、私を信じてくれたから、私はここまで戦えたんです」
私は彼の頬からそっと手を離す。けれど瞳だけは、まっすぐに彼を見つめたまま、静かに、しっかりと、たった今抱いた自分の気持ちを彼に伝える。
「……大丈夫です。殿下はもう、ひとりではありませんよ。私が傍にいますから」
ルベルは、息を呑んだように目を大きく見開いた。
そしてふっと、唇の端を緩める。それはまるで、ほんの一筋の光が差し込んだような微笑みだった。
「……サフィラ。あのね、僕……君みたいに、」
彼が何かを言いかけた、その時だった。
廊下の向こうから、コツ、コツ、と規則正しい足音が響いてきた。
それは、軽やかながらも軍靴のような確かなリズムで、こちらへと近づいてくる。
私は反射的に身構え、ルベルの手を握る。
先程までの空気が一変し、警戒の色が全身に走る。
(誰? ……賊の仲間? それとも、見張りの兵?)
そんな思考がよぎる間もなく、扉が勢いよく開かれた。
「お嬢様!!!!」
目の前に飛び込んできたのは――黒いメイド服姿の女性だった。
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