帰蝶の恋~Butterfly effect~

平梨歩

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第一章 結婚編「蜜に似た毒」

第二話 鷹

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婚儀を済ませたその夜、帰蝶は頼充と閨で差し向かい、夫の盃に酒を注いだ。

「大丈夫か、手が震えている。そんなに緊張することはない。話をしよう。お前のことをよく知りたい」

頼充は帰蝶の緊張をほぐそうと微笑んで見せた。

「お前は、何が好きか」

「鷹が好きです」

「鷹狩が得意と聞いている。狩りが好きとは、女にしては珍しい」

「狩りよりも、育てることが好きなのです」

「そうか、鷹は可愛いか」

「ええ。とても。褒めれば喜びますし、撫でれば目を細めます」

頬を緩めて語った帰蝶の言葉に頼充は思わず微笑んだ。

「お前はきっと、いい母親になる」

肩を抱かれ、そのまま横になった。
体が硬直してしまう。帯の結び目が緩み、胸元が開かれる。頼充の、思いのほか冷たい手のひらに帰蝶は思わずびくりと体を跳ね上げた。唇が耳元から首筋へと降りていく。凍り付いたように固くなった帰蝶の体は頼充の接吻をいくら浴びてもなかなか解けない。頼充の方も心ばかりが急いているのか、体が欲情に追いつかない。

「なにも急ぐことはない。今日はお互いに疲れている」

頼充はそう言って、自らの書に印を押すように帰蝶の額に唇を押し付けた。
結局その夜は、互いの手を取り合って眠りに落ちた。



頼充は物腰が柔らかく、優しい。
日中は騎射の稽古に励んでいるが、風になびく旗に似てどこか頼りなく力無い。
土岐源氏の嫡流であるがゆえに大将として祭り上げられてきたものの、本人はもともと武芸が好きではないのだ。
歌や茶に興じているときのほうが、頼充は生き生きとしていた。
おてんばな帰蝶から見れば退屈だった。草原を馬で駆け、矢を射、剣術に励む。そんなふうに体を動かす方が好きなのだ。



数日後。

馬上の帰蝶は、峰花を片腕に乗せ、高台からじっと野原を見つめていた。力強く生い茂った草の葉の、濃厚な緑が、初夏の風に煌めいて波打つ。

その草の隙間に、小さな黒い影がちらりと見え隠れした。風の流れとは無関係に、右に左に動いてはとまり、草の根付近を跳ねるように移動している。

帰蝶はその小動物の影を見失わないように凝視したまま、峰花の頭に被せてあった小さな革製の目隠し帽を外した。

峰花が獲物を察知するその鋭さは帰蝶の比ではない。光を得た峰花は、首をわずかに巡らせただけで、草の間を動き回る一匹のウサギを鋭い視線で捉えた。

峰花を乗せていた帰蝶の腕が、空めがけて振り上げられた。
羽を広げた峰花の体が、空に吸い上げられるように宙に浮く。

ひと羽、ふた羽。
風を抱いて体をさらに浮上させると、羽を広げて滑空の姿勢を取った。風を切り、草原の上空を物凄い速さで進む。両翼を広げた線対称の影が、緑のきらめきの上を滑ったかと思うと、突如羽の角度を変えて前進をとめ、急降下した。

見上げたウサギの上に、羽の影が覆いかぶさる。
逃げようと跳ね上げた後ろ足に、峰花の爪が食い込んで、ウサギは動きを封じられた。

帰蝶は馬から降りて走った。
夢中になってウサギの首元をくちばしでえぐろうとする峰花を、笛の音に似た声で呼んだ。

「ほーーうかぁーー」

我に返って向き直った峰花に、帰蝶は用意していた骨付きのシカ肉の破片を差し出した。
峰花はシカ肉につられて帰蝶の腕に載ったが、獲物を捕らえた興奮からか、両翼を力いっぱい広げて見せた。

草の間には、息絶えたウサギが横たわっている。
橘が、その脚をひもでくくって引き上げた。

「よくやったね、峰花。ほら、おたべ」
帰蝶は褒美のシカ肉を食いちぎる峰花をしばし見つめ、頼充を振り返った。

「帰蝶、見事だ」

帰蝶は頬を赤らめた。

頼充はこれまで、他の武将たちとは違い、狩りを敬遠してきた。血や動物の死骸に恐怖を感じるようだった。

そんな頼充が尾張国の斯波氏から鷹のヒナを送られたのを機に、帰蝶の鷹狩が見たいと申し出てくれたのだった。

帰蝶は心が弾んだが、狩りをする女など、はしたないと嫌われるのではないかと不安だった。
しかしそれは杞憂に終わった。頼充は帰蝶と峰花の息の合った狩りの様子に見惚れ、白い頬を上気させるほどだったのだ。

男のすることと咎められながらも、鷹が好きで仕方なかった。鷹と触れ合うことが、何よりも好きなのだ。そのためには生々しい狩りも厭わない。元来生き物は殺生なしでは生きていけないのだから、命は感謝していただくべきものだ。
殺生も、流れ出る血も、すべては他のものが生きるための糧となって新たな命を授かるものなのだ。


「私にも鷹を育てられるか」
頼充が尋ねる。

「もちろんです。頼充さまの優しい心根に触れれば、鷹は賢く育つにちがいありません」



その夜、帰蝶は父・道三に、鷹の一件を知らせるべく書をしたためた。

もとは美濃国の内乱を封じるための政略婚として父に決められた嫁入りだった。しかし今は違う。自分は頼充を愛することができる。私は妻として、幸福な人生を遂げるのだ。

───私は自らの意志で、心優しく理解ある頼充さまをお守りする。

父の思惑から解き放たれたことを、知らせるのだ。これは父への勝利宣言でもあった。



それからというもの、夜になれば二人で閨で過ごした。少しの酒を酌み交わし、横たわって語り合う。そして、夜が更けると決心したように肌に触れあわせた。
ところが頼充の体はどうしても交わる準備ができない。
あるとき頼充は帰蝶に言った。どうやら自分には子をなす力がないようだ、と。

自分の体では頼充を扇情できないのか。
帰蝶は女として不出来であるという烙印を押されたような気分だった。しかし、頼充が告白した時の、あの切羽詰まった、悲壮感に満ちた顔を思い、辛いのは頼充の方なのだと言い聞かせた。

───私は本来、溶け出る欲情を全身から垂れ流し、淫らな姿に化ける女なのだ。ただし、それは光秀の前だったからなのか。

それは光秀の前でしか現れない、女としての、帰蝶なのかもしれなかった。
帰蝶に触れる頼充の臆病な指先は、欲求の芽を吹かせるだけで、体いっぱいに悦びを満たすことはなかった。

ある夜、頼充の寝息が聞こえた頃を見計らって、光秀の肌を思い出しながら自分を慰め、帰蝶は泣きたい気持ちになった。


そんな日の翌朝。
光秀が帰蝶の居室に訪れた。

頼充は連歌の会で留守だった。土岐氏の縁戚で、歌にも精通する光秀は連歌の会に必ず呼ばれるはずだが。

───お断りした

と何でもない風に言って帰蝶の前に座した。

「姫様ご無沙汰しております」

首を下げたまま言う光秀に、帰蝶は呆れたように笑って見せた。

「もう姫ではない。お方様、よ」

「俺にとっていつまでも姫だ」

光秀は眩しそうな目で帰蝶を見た。断りもなく帰蝶の前に進み出ると、じっと顔を覗き込む。

「眠れていないのか」

帰蝶はむっと頬を膨らませて、関係ないと答えた。

「関係ないわけないだろう。俺は心配しているんだ。心の兄として」

「心の妹のことなど気にかけなくて結構。もう私は優しい殿にお守りいただいてるので。もう帰って。こんなところにいないで連歌の会に出て」

「まったく、ご機嫌麗しいな」

光秀は笑った。

「光秀は呑気ね。私は人質として幽閉生活だというのに・・・光秀、私をここから連れ出してよ」

「何を言う?周囲では姫は頼充さまと睦まじくされていると噂だ」

「そう、見えるでしょうね」

「・・・姫、言いたいことがあるならはっきり言え」

「私は本当に人質なの。お世継ぎは、きっと産めない。頼充さまの妻としての役割は果たせない。ただ、ここにいるだけ。土岐家にとって私は、道三の矛先がこちらに向かないようにするだけの、ただの盾。道具なのよ」

「世継ぎを産めないとはどういうことか」

帰蝶は光秀の問いに、もっと近づくようにと目配せした。耳元で静かに言った。

「頼充さまのお体は、子をなす準備ができないの。毎晩のように、肌を触れ合わせているのに」

光秀の横顔が硬直した。

「全身で頼充さまをお誘いしてるのに。私に何かが足りないのね」



───いや、お前は魅力的だ

ひとの妻でありながら、光秀からそう言ってほしかった。

どんな状況でも悪びれずに自分の思いを言い放つ、強い男。相手が欲しい言葉が何かを瞬時に察して言ってのける、人たらし。この光秀であれば、今失いつつある女としての自信を呼び戻してくれるのではと期待した。同時に、少しくらい妬いてくれてもいいのに、と光秀の心を試す意地悪な思いもあった。

けれども光秀は何も答えなかった。表情一つ変えずに、帰蝶のもとを立ち去ってしまったのだった。



それから数日後、光秀から文と包みが送られてきた。

「先日のご相談の件、お館様よりこの妙薬をお送りするよう命じられました。二人でお休みになる前、頼充さまに一包さしあげてください。お二人の前途が美濃国の平和をもたらすものだと、信じています。帰蝶さまのお幸せを願う 光秀」

文から、甘い香りが漂ってくる。
光秀に抱かれにいったあの晩、月夜に照らされ、むせ返るような芳香が立ち込めていた明智の屋敷の庭を思い、体が疼くのを覚えた。

帰蝶は文を素早くたたむと、菫についと差し出した。

「なんなの、これ」

菫は手紙と包みを見てうなずいた。

「強壮剤か。頼充さまのあれを、奮い立たせる」

口を押さえてむふふふと笑った。

「笑い事ではないわ。光秀は一体どういうつもりでこんなものをよこしたの?」

「書いてある通りかと。それに、そもそも相談したのは帰蝶の方では」

「たしかにそうだけど・・・」

「あいつと寝るな、って言わせたかったのか・・・。まったく、帰蝶は子どもだ。それにくらべてさすがは光秀さま、大人だ」

からかうように横目で見る菫を睨み返した。

「もういいわ・・・あんな男のことはもう忘れるわ」

「それがいい。光秀さまのことなど忘れて薬の効き目を試してみるといい。今夜は多めに酒を用意しようか」

「そうしてちょうだい」



その夜、帰蝶は頼充に注いだ酒にこっそり粉薬を一包混ぜ入れた。

が、頼充はいつも通り、上機嫌に帰蝶と語り合うと、穏やかに寝入ってしまった。

その翌日も同じように手元でさりげなく一包を酒に溶かして飲ませてみた。
初めはいつも通り頬を赤く染め、うまそうに二杯目を求めた。全く効かない・・・そう思ったところで、頼充の様子がいつもとは違う様相を現し始めた。

「帰蝶・・・」

とろりとした眼差しで帰蝶を見つめ、頬に手を滑らせた。

「おまえは、本当に美しいな」

首筋に手を差し入れて引き寄せ、唐突に口づけた。

柔らかな舌を滑り込ませ、帰蝶の口蓋を甘くくすぐってくる。豹変した頼充の挙動に帰蝶の方が慌てふためいている。帯を解かれ、むき出しにされた肌に頼充の唇が這った。男の肌が、異様に熱い。頬を赤く染めた頼充は帰蝶を抱きすくめ、甘く蕩けるような顔つきで見下ろしてきた。

帰蝶の下腹に触れる頼充の体が、獣のように猛々しく女の体を求めてきた。促されて開いた両足のあいだに頼充が体を差し入れた。溶け合いそうな感覚に帰蝶は思わず叫んだ。頼充は憑かれたように帰蝶に体を絡みつけた。

そうしてひと晩の間に何度同じことが繰り返されたか。二人が疲れ果て、泥のように眠りはじめたころには朝日が差し込んでいた。



頼充はそれから、帰蝶の体への執着に歯止めをかけることができなくなった。粉薬は二包しかなかった。にもかかわらず、服用を終えた翌日も、その翌日も、激しく帰蝶の体を求めた。

一度開花した欲望は帰蝶の体の上で生命を得たように頼充を奮いたたせた。帰蝶は頼充を全身で受け入れた。

帰蝶はようやく頼充を我が物にできたのだと思った。粉薬はきっかけにすぎなかったのだ。薬の効能があったのかも最早疑わしい。帰蝶の心づもりの変化が頼充に伝わり、二人の心が一つになっただけなのかもしれない。

初めて抱かれてから五度目の夜、頼充の腕の中で初めての絶頂を迎えた。
そのとき帰蝶は、私はこの男と生きていく、と心の中で叫んだ。


翌朝。
帰蝶は目を覚まし、事態の異変に気付いて叫んだ。


眠っていたはずの夫の体が、冷たくこわばっていた。帰蝶の横で頼充は、息絶えていたのだった。


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