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第一章 結婚編「蜜に似た毒」
第四話 蜜に似た毒
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翌日、帰蝶は母である小見の方の寝所にいた。
病を発してはや四年。いまは日中も床に就き、ほとんどの時を眠って過ごすようになった母の、静かな寝顔を見つめ、なにをするでもなくただ時を過ごしていた。
突然夫を失った。そしてその死は、父の謀略に乗せられた自分の手によってもたらされたことを知った。これほどの裏切りと屈辱があるだろうか。母にこの理不尽な仕打ちを訴えたかった。けれども衰弱しきった母に声をかけても、もはや返答はない。
孤独だった。
大好きだった父には、今は憎しみしかない。温かな母の励ましもない今、生まれ育った稲葉山城にはもう自分の居場所がないように思えた。
───なんとかこの城を出る手立てはないか
とりとめもなくそんなことを考える。
「ご無礼つかまつる」
障子の向こうから響いた柔らかく響く声に、帰蝶は咄嗟に振り返った。
「光秀」
「姫。おひさしぶりです。叔母上に薬をお持ちした」
侍女が慣れた手つきで光秀から薬包を受け取ると、湯の用意を始めた。
「その薬、飲ませないで」
帰蝶は侍女を止め、光秀をじっと見つめた。
「この薬は利尿を助けるための、伯母上に必要な薬です。なのに、どうして」
見つめ返してくる光秀の美しい顔が憎々しかった。
「光秀、話が」
寝所を出て廊下を進むと庭に出た。
松の木の陰に隠れて懐刀を出すなり、光秀にとびかかった。
「夫の仇」
光秀の手が、振り上げられた帰蝶の細い手首を掴んだ。力を込められ、刀が振り落とされる。
手を掴まれたまま松の木の下に追い込まれ、幹に背中を押し付けられた。
「姫、会いたかった」
帰蝶は自由なほうの手でこぶしを作り、光秀の胸を叩いた。
「光秀が頼充さまに毒を」
思えば光秀は、様々な土地の薬について学んでいると話していた。なぜすぐに気づかなかったのだろう。薬包に添えられた手紙の文面。その裏にあった本当の意味を今さら、帰蝶は理解したのだった。
───お二人の前途が美濃国の平和をもたらすものだと、信じています。
あれは帰蝶と頼充が睦まじく暮らすことを願っての言葉ではなかったのだ。
<帰蝶が頼充を手にかけ、敵対する土岐氏の不穏因子を取り除くことで、美濃国に平和をもたらす>という意味だったのだ。
「私の幸せを願っています、なんて見え透いた嘘を」
「嘘などついていない。姫、あなたは頼充さまといて、本当に幸せだったか?俺に、自分を連れ出して欲しい、そう言わなかったか?」
───光秀、私をここから連れ出して
たしかにあの時、帰蝶は光秀に言ってしまった。
「私を連れ出すために、頼充さまに毒を?」
光秀はうなずきこそしなかったが、帰蝶の双眸をまっすぐ見つめ返している。
あのとき感情のままに発した言葉が、こんな事態を招くなどとは思ってもみなかった。
「帰ってきてくれてうれしいよ、姫」
「光秀、あなたは悪魔ね」
「なんとでも言ってくれ。俺は前にも言ったように、姫のためなら、なんだってする」
顔をそむけた帰蝶の顎を、指先で引き戻して見つめた。
「今夜、待ってるから」
「行くわけないでしょう」
帰蝶は光秀の胸に体当たりして跳ねのけ、そのまま走って自室を目指した。
その夜、帰蝶は馬を走らせていた。
あの男の得体が知れない。
好きなそぶりを見せながら、美濃のために他人に嫁げと言う。
ここから連れ出してと言えば、連れ出すどころか夫の毒殺の手引きまでする。
ともかく、土岐頼充が父に反旗を翻すことなくその命を終えたのは見紛うことのない事実だ。
しかし誰のためにそこまでするのか。私のためか、美濃国のためか。
美濃の行く末も帰蝶の心も、光秀の手中にあるようで恐ろしかった。
恐ろしい。なのに心が、光秀から離れない。
知れば知るほど恐ろしい男。なのに甘く蕩けるほど優しい男。それはまるで蜜にも似た毒だった。
その毒の味を再び味わいたい。帰蝶は抑えきれない衝動にかられ、光秀のもとへ馬を走らせていた。
このころ、斎藤道三は隣国・尾張国の織田信秀と和睦を結ぶべく画策を進めていた。
奇異な行動で周囲を呆れさせている「ただのばか」と有名な織田家嫡男、信長と帰蝶の婚姻話が、当人たちの知らないところで進んでいたのだった。
病を発してはや四年。いまは日中も床に就き、ほとんどの時を眠って過ごすようになった母の、静かな寝顔を見つめ、なにをするでもなくただ時を過ごしていた。
突然夫を失った。そしてその死は、父の謀略に乗せられた自分の手によってもたらされたことを知った。これほどの裏切りと屈辱があるだろうか。母にこの理不尽な仕打ちを訴えたかった。けれども衰弱しきった母に声をかけても、もはや返答はない。
孤独だった。
大好きだった父には、今は憎しみしかない。温かな母の励ましもない今、生まれ育った稲葉山城にはもう自分の居場所がないように思えた。
───なんとかこの城を出る手立てはないか
とりとめもなくそんなことを考える。
「ご無礼つかまつる」
障子の向こうから響いた柔らかく響く声に、帰蝶は咄嗟に振り返った。
「光秀」
「姫。おひさしぶりです。叔母上に薬をお持ちした」
侍女が慣れた手つきで光秀から薬包を受け取ると、湯の用意を始めた。
「その薬、飲ませないで」
帰蝶は侍女を止め、光秀をじっと見つめた。
「この薬は利尿を助けるための、伯母上に必要な薬です。なのに、どうして」
見つめ返してくる光秀の美しい顔が憎々しかった。
「光秀、話が」
寝所を出て廊下を進むと庭に出た。
松の木の陰に隠れて懐刀を出すなり、光秀にとびかかった。
「夫の仇」
光秀の手が、振り上げられた帰蝶の細い手首を掴んだ。力を込められ、刀が振り落とされる。
手を掴まれたまま松の木の下に追い込まれ、幹に背中を押し付けられた。
「姫、会いたかった」
帰蝶は自由なほうの手でこぶしを作り、光秀の胸を叩いた。
「光秀が頼充さまに毒を」
思えば光秀は、様々な土地の薬について学んでいると話していた。なぜすぐに気づかなかったのだろう。薬包に添えられた手紙の文面。その裏にあった本当の意味を今さら、帰蝶は理解したのだった。
───お二人の前途が美濃国の平和をもたらすものだと、信じています。
あれは帰蝶と頼充が睦まじく暮らすことを願っての言葉ではなかったのだ。
<帰蝶が頼充を手にかけ、敵対する土岐氏の不穏因子を取り除くことで、美濃国に平和をもたらす>という意味だったのだ。
「私の幸せを願っています、なんて見え透いた嘘を」
「嘘などついていない。姫、あなたは頼充さまといて、本当に幸せだったか?俺に、自分を連れ出して欲しい、そう言わなかったか?」
───光秀、私をここから連れ出して
たしかにあの時、帰蝶は光秀に言ってしまった。
「私を連れ出すために、頼充さまに毒を?」
光秀はうなずきこそしなかったが、帰蝶の双眸をまっすぐ見つめ返している。
あのとき感情のままに発した言葉が、こんな事態を招くなどとは思ってもみなかった。
「帰ってきてくれてうれしいよ、姫」
「光秀、あなたは悪魔ね」
「なんとでも言ってくれ。俺は前にも言ったように、姫のためなら、なんだってする」
顔をそむけた帰蝶の顎を、指先で引き戻して見つめた。
「今夜、待ってるから」
「行くわけないでしょう」
帰蝶は光秀の胸に体当たりして跳ねのけ、そのまま走って自室を目指した。
その夜、帰蝶は馬を走らせていた。
あの男の得体が知れない。
好きなそぶりを見せながら、美濃のために他人に嫁げと言う。
ここから連れ出してと言えば、連れ出すどころか夫の毒殺の手引きまでする。
ともかく、土岐頼充が父に反旗を翻すことなくその命を終えたのは見紛うことのない事実だ。
しかし誰のためにそこまでするのか。私のためか、美濃国のためか。
美濃の行く末も帰蝶の心も、光秀の手中にあるようで恐ろしかった。
恐ろしい。なのに心が、光秀から離れない。
知れば知るほど恐ろしい男。なのに甘く蕩けるほど優しい男。それはまるで蜜にも似た毒だった。
その毒の味を再び味わいたい。帰蝶は抑えきれない衝動にかられ、光秀のもとへ馬を走らせていた。
このころ、斎藤道三は隣国・尾張国の織田信秀と和睦を結ぶべく画策を進めていた。
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