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第二章 尾張国編「さまよう赤い糸」
第二話② 道三対面(2)
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熱田神社を出た帰蝶は単衣をかぶって顔を隠し、光秀の隣を歩いていた。
熱田湊にある宮宿。
ここは港に着いた物品や書状を輸送するための集落で、宿場も備えている。旅ばかりしている光秀にとっては歩き慣れた庭も同然であるようだった。
「三軒先にある松乃屋に入り、おかみに明智十兵衛光秀の妹だと言うんだ。いいね」
耳打ちして帰蝶の背中を押すと、光秀はゆったりとその後ろを歩き出した。
帰蝶はのれんをくぐると硬い声音でいつわりの身分を告げた。
光秀がよく利用していると言う部屋に通される。部屋に面した通りからは、ひっきりなしに人馬や押し車が往来するにぎやかな音が聞こえた。
湯を注いだ椀を差し出しながら、女将はにこやかに言った。
「お兄様はいつも急にいらっしゃるんですよ。おかげでいつもこの部屋は空けておかないとならなくて」
困った風に言いながらもおかみはどこか嬉しそうだ。目の輝きから、この年上の女性は光秀に惚れているのだと直感した。
少しして、光秀が現れた。おかみは、こんなに美しい妹さんがいたなんて、ちっとも話してくれなかったじゃないですか、と光秀の肩をぴしゃりと叩く。光秀は白い歯を見せておかみに微笑みかける。
「妹は旅で疲れているので少し休ませます。起きたらおかみに、湯漬けかなにかを俺から頼みに行きます。しばらく放っておいてやってください」
おかみが部屋を出ていくと、光秀の表情が一変した。
「変わらず綺麗だ。姫、ずいぶん探したよ」
光秀は甘い声音で帰蝶に言った。
光秀は、帰蝶は熱田へ行ったと菫に聞くや馬を走らせ熱田へ赴き、広大な境内を、その姿を求めて歩き続けていたのだった。
「私はこれまでずっと那古野城にいたわよ。三年も」
帰蝶はふいっと横を向いた。
この三年間、思い人からも夫からもほったらかしにされていた帰蝶はあからさまにすねた表情を光秀に晒した。
「そうすねるな、美しい顔が台無しだ、ほら、笑って見せて」
光秀は帰蝶の前にひざまずく。指先で顎を引き、そらした顔を向き直らせる。目と目が合う。
「いいか、姫」
光秀が囁くと帰蝶は目を伏せて睫毛を震わせた。
光秀の唇が控えめに触れ、すぐに離れた。
帰蝶の唇が、ときめきと怒りに震えた。
「光秀・・・遅い!どうしてもっと早く会いに来てくれなかったの」
帰蝶は光秀の胸に飛び込んだ。光秀の首に腕をまわし、今度は帰蝶から唇を重ねた。
「寂しかった。心細かった。会いたかった」
涙声で囁くと、光秀の背を抱いて仰向けに倒れた。光秀の切れ長の眼差しが、苦しそうに帰蝶を見下ろしている。
帰蝶は帯を自らほどいた。
夕暮れ時の宮宿は、昼にもましてにぎやかだ。
日没前に急げとばかり往来する人々の慌ただしい雰囲気が、車の音や足音、声から伝わってくる。そんな喧騒をよそに、帰蝶と光秀は横たわって見つめ合っていた。
「姫、じつは道三さまから手紙を預かってきたんだ」
「父が、私に手紙を?」
「道三さまが、信長殿と面会したいそうだ」
光秀が言うと、帰蝶は体を起こし襦袢を羽織りなおしながらため息を漏らした。
「せっかく二人だけなのに、父上や夫の話をもちだすなんて。光秀も意地悪が過ぎるわ」
座った帰蝶を、光秀は後ろから抱きしめ、囁いた。
「尾張国はもはや敵だらけだ。道三様は娘であるお前を心底心配している。
実は、同じ尾張領内の織田彦五郎殿から、ともに信長殿を攻めないかと持ち掛けられているそうだ」
「尾張守護代の彦五郎殿は、以前から信長を下に見て疎んじていたわ」
「彦五郎殿はまた信長殿に戦を仕掛け、尾張の頂点に君臨しようとしている。
この先尾張は内部抗争で荒れに荒れるだろう・・・今川軍も信長攻撃の機会を狙っている。姫、美濃に戻っておいで」
光秀の腕に、ぎゅっと力がこもった。
「こんどこそ、俺と一緒になれ」
帰蝶は腕の中で、その言葉を噛み締めるように目を閉じた。
が、すぐに目を開け、光秀の腕をそっとつかんで体から外した。
「父上は、信長と会って、どうするつもりなの」
「信長殿がどのような方なのか自らの目で確かめてから、攻めるかどうか判断する、と言っている」
「さすがは父上ね。用心深い。攻撃前の偵察ということね」
帰蝶は憎々しげに言った。一度目の婚姻で暗殺の片棒を担がされ、二度目の婚姻を強引に決められた。もはや父には憎しみの感情しかなかった。
かといっていつまでもいたずらに憎んでばかりでは先に進めまい。
父の意のままになどなるものか。これ以上自分の運命を翻弄されるのはごめんだった。自分の進む道は、自分が決めたい。
帰蝶は思案し、光秀を振り返った。
「父・道三が勝てば、尾張は道三のものになるわ。けれども、もし信長が勝てばどうなる?」
「道三様が亡き者となり、信長殿が尾張と美濃をおさめることになる。だが、姫、道三様が信長殿に負ける可能性があるというのか」
光秀が真剣なまなざしで言った。
「父が必ず勝つとは言い切れない。万が一信長が勝って、美濃がその手に渡った時、信長の隣に私がいたならば」
光秀の双眸に閃光がはしった。
「姫のもとに美濃衆が集まり、美濃の民を守ることができる」
帰蝶はうなずいた。
「私の婚姻は、政略結婚。いわば、国と国との結婚。だからいま、信長から離れることはできない」
帰蝶は振り返り、揺るがぬ意志を宿した眼を光秀に向けた。
いまは、父の命や夫の命の無事ばかりを祈願している立場ではないのだ。その大将の影に何百、何千という領民たちの命があるのだ。
熱田大神様の大きな風に抱かれた時、帰蝶はそれに気づかされたのだった。
───民の命を守るための最良の道が、他にはないだろうか・・・
思案し、帰蝶は目が覚めたように目を見開いた。
───尾張の民のために、信長が負けるわけにはいかない。おなじように、美濃の民のために、父・道三も、負けてはならない。これが私の、本当の願いだ。
「光秀。私はいざというときのために尾張に残る。でも本当は、信長と父を戦わせたくない。どうしたらいい」
「ああ、姫の言うとおりだ。戦をまじえず、互いの領地を守るために協力し合える関係を築くことこそが大切だった。俺は間違っていたよ」
光秀も目を輝かせてうなずいた。
「そのための対面にしなければね」
帰蝶は言うと、どうしたものかと眉をひそめ、じっと虚空を見つめて思案しだした。
「さすがは道三様の娘、美濃が誇る勇敢な姫君“濃姫”だ。これくらいのことで故郷に逃げ帰るような女ではないな。俺が思っているよりはるかにあなたは、強くて優しい」
考え込んでいた帰蝶が、ふと顔をあげ、目で光秀に聞き返した。深く考えていたせいで光秀の声が聞こえなかったのだ。
光秀は少し悲しそうにふっと笑った。
「一大決心で姫を迎えに来たけど、手痛くふられてしまったな」
帰蝶は向き直り光秀をまっすぐに見た。
「光秀、もう私は信長の妻なの」
「姫、それは俺にもよくわかっている。わかってはいるが、俺は・・・」
「光秀、私、光秀が好き。でも、本当に、遅かったのよ。光秀」
帰蝶は唇を噛んだ。
ずっとずっと求めていたものがもう少しで手に入りそうだったのに、みすみす見逃すことになった。この時のことを一生悔やむかもしれないと思うと、胸がキリキリ痛んだ。
「よくわかった」
光秀は背中を向けてうつむいた。
体を交えておきながら光秀とは一緒にならない。不埒だと咎められて当然だ。けれども光秀はそれを責めてくれなかった。それが光秀の、帰蝶へのささやかな仕返しのように思えた。
光秀は立ち上がると無駄のない仕草で支度をして部屋を出た。おかみに湯漬けを頼む声がして、そのまま旅籠を出ていく気配がした。
帰蝶はじっとその足音に耳を澄ませ、動かなかった。少しでも動けば、突き動かされるように光秀を追ってしまうかもしれなかった。
けれども今は、どうしても、信長のもとを離れる気にはなれなかった。信長のそばに付き、一番の理解者になりたかった。そして、本当は弱虫なあの信長を私が抱きしめてやらなければという思いが強くなっていた。
ちょうど、鷹のヒナだった峰花をそっと抱きしめて連れ去った時のように、帰蝶の心に柔らかな幸福感が芽吹いていたのだ。
熱田湊にある宮宿。
ここは港に着いた物品や書状を輸送するための集落で、宿場も備えている。旅ばかりしている光秀にとっては歩き慣れた庭も同然であるようだった。
「三軒先にある松乃屋に入り、おかみに明智十兵衛光秀の妹だと言うんだ。いいね」
耳打ちして帰蝶の背中を押すと、光秀はゆったりとその後ろを歩き出した。
帰蝶はのれんをくぐると硬い声音でいつわりの身分を告げた。
光秀がよく利用していると言う部屋に通される。部屋に面した通りからは、ひっきりなしに人馬や押し車が往来するにぎやかな音が聞こえた。
湯を注いだ椀を差し出しながら、女将はにこやかに言った。
「お兄様はいつも急にいらっしゃるんですよ。おかげでいつもこの部屋は空けておかないとならなくて」
困った風に言いながらもおかみはどこか嬉しそうだ。目の輝きから、この年上の女性は光秀に惚れているのだと直感した。
少しして、光秀が現れた。おかみは、こんなに美しい妹さんがいたなんて、ちっとも話してくれなかったじゃないですか、と光秀の肩をぴしゃりと叩く。光秀は白い歯を見せておかみに微笑みかける。
「妹は旅で疲れているので少し休ませます。起きたらおかみに、湯漬けかなにかを俺から頼みに行きます。しばらく放っておいてやってください」
おかみが部屋を出ていくと、光秀の表情が一変した。
「変わらず綺麗だ。姫、ずいぶん探したよ」
光秀は甘い声音で帰蝶に言った。
光秀は、帰蝶は熱田へ行ったと菫に聞くや馬を走らせ熱田へ赴き、広大な境内を、その姿を求めて歩き続けていたのだった。
「私はこれまでずっと那古野城にいたわよ。三年も」
帰蝶はふいっと横を向いた。
この三年間、思い人からも夫からもほったらかしにされていた帰蝶はあからさまにすねた表情を光秀に晒した。
「そうすねるな、美しい顔が台無しだ、ほら、笑って見せて」
光秀は帰蝶の前にひざまずく。指先で顎を引き、そらした顔を向き直らせる。目と目が合う。
「いいか、姫」
光秀が囁くと帰蝶は目を伏せて睫毛を震わせた。
光秀の唇が控えめに触れ、すぐに離れた。
帰蝶の唇が、ときめきと怒りに震えた。
「光秀・・・遅い!どうしてもっと早く会いに来てくれなかったの」
帰蝶は光秀の胸に飛び込んだ。光秀の首に腕をまわし、今度は帰蝶から唇を重ねた。
「寂しかった。心細かった。会いたかった」
涙声で囁くと、光秀の背を抱いて仰向けに倒れた。光秀の切れ長の眼差しが、苦しそうに帰蝶を見下ろしている。
帰蝶は帯を自らほどいた。
夕暮れ時の宮宿は、昼にもましてにぎやかだ。
日没前に急げとばかり往来する人々の慌ただしい雰囲気が、車の音や足音、声から伝わってくる。そんな喧騒をよそに、帰蝶と光秀は横たわって見つめ合っていた。
「姫、じつは道三さまから手紙を預かってきたんだ」
「父が、私に手紙を?」
「道三さまが、信長殿と面会したいそうだ」
光秀が言うと、帰蝶は体を起こし襦袢を羽織りなおしながらため息を漏らした。
「せっかく二人だけなのに、父上や夫の話をもちだすなんて。光秀も意地悪が過ぎるわ」
座った帰蝶を、光秀は後ろから抱きしめ、囁いた。
「尾張国はもはや敵だらけだ。道三様は娘であるお前を心底心配している。
実は、同じ尾張領内の織田彦五郎殿から、ともに信長殿を攻めないかと持ち掛けられているそうだ」
「尾張守護代の彦五郎殿は、以前から信長を下に見て疎んじていたわ」
「彦五郎殿はまた信長殿に戦を仕掛け、尾張の頂点に君臨しようとしている。
この先尾張は内部抗争で荒れに荒れるだろう・・・今川軍も信長攻撃の機会を狙っている。姫、美濃に戻っておいで」
光秀の腕に、ぎゅっと力がこもった。
「こんどこそ、俺と一緒になれ」
帰蝶は腕の中で、その言葉を噛み締めるように目を閉じた。
が、すぐに目を開け、光秀の腕をそっとつかんで体から外した。
「父上は、信長と会って、どうするつもりなの」
「信長殿がどのような方なのか自らの目で確かめてから、攻めるかどうか判断する、と言っている」
「さすがは父上ね。用心深い。攻撃前の偵察ということね」
帰蝶は憎々しげに言った。一度目の婚姻で暗殺の片棒を担がされ、二度目の婚姻を強引に決められた。もはや父には憎しみの感情しかなかった。
かといっていつまでもいたずらに憎んでばかりでは先に進めまい。
父の意のままになどなるものか。これ以上自分の運命を翻弄されるのはごめんだった。自分の進む道は、自分が決めたい。
帰蝶は思案し、光秀を振り返った。
「父・道三が勝てば、尾張は道三のものになるわ。けれども、もし信長が勝てばどうなる?」
「道三様が亡き者となり、信長殿が尾張と美濃をおさめることになる。だが、姫、道三様が信長殿に負ける可能性があるというのか」
光秀が真剣なまなざしで言った。
「父が必ず勝つとは言い切れない。万が一信長が勝って、美濃がその手に渡った時、信長の隣に私がいたならば」
光秀の双眸に閃光がはしった。
「姫のもとに美濃衆が集まり、美濃の民を守ることができる」
帰蝶はうなずいた。
「私の婚姻は、政略結婚。いわば、国と国との結婚。だからいま、信長から離れることはできない」
帰蝶は振り返り、揺るがぬ意志を宿した眼を光秀に向けた。
いまは、父の命や夫の命の無事ばかりを祈願している立場ではないのだ。その大将の影に何百、何千という領民たちの命があるのだ。
熱田大神様の大きな風に抱かれた時、帰蝶はそれに気づかされたのだった。
───民の命を守るための最良の道が、他にはないだろうか・・・
思案し、帰蝶は目が覚めたように目を見開いた。
───尾張の民のために、信長が負けるわけにはいかない。おなじように、美濃の民のために、父・道三も、負けてはならない。これが私の、本当の願いだ。
「光秀。私はいざというときのために尾張に残る。でも本当は、信長と父を戦わせたくない。どうしたらいい」
「ああ、姫の言うとおりだ。戦をまじえず、互いの領地を守るために協力し合える関係を築くことこそが大切だった。俺は間違っていたよ」
光秀も目を輝かせてうなずいた。
「そのための対面にしなければね」
帰蝶は言うと、どうしたものかと眉をひそめ、じっと虚空を見つめて思案しだした。
「さすがは道三様の娘、美濃が誇る勇敢な姫君“濃姫”だ。これくらいのことで故郷に逃げ帰るような女ではないな。俺が思っているよりはるかにあなたは、強くて優しい」
考え込んでいた帰蝶が、ふと顔をあげ、目で光秀に聞き返した。深く考えていたせいで光秀の声が聞こえなかったのだ。
光秀は少し悲しそうにふっと笑った。
「一大決心で姫を迎えに来たけど、手痛くふられてしまったな」
帰蝶は向き直り光秀をまっすぐに見た。
「光秀、もう私は信長の妻なの」
「姫、それは俺にもよくわかっている。わかってはいるが、俺は・・・」
「光秀、私、光秀が好き。でも、本当に、遅かったのよ。光秀」
帰蝶は唇を噛んだ。
ずっとずっと求めていたものがもう少しで手に入りそうだったのに、みすみす見逃すことになった。この時のことを一生悔やむかもしれないと思うと、胸がキリキリ痛んだ。
「よくわかった」
光秀は背中を向けてうつむいた。
体を交えておきながら光秀とは一緒にならない。不埒だと咎められて当然だ。けれども光秀はそれを責めてくれなかった。それが光秀の、帰蝶へのささやかな仕返しのように思えた。
光秀は立ち上がると無駄のない仕草で支度をして部屋を出た。おかみに湯漬けを頼む声がして、そのまま旅籠を出ていく気配がした。
帰蝶はじっとその足音に耳を澄ませ、動かなかった。少しでも動けば、突き動かされるように光秀を追ってしまうかもしれなかった。
けれども今は、どうしても、信長のもとを離れる気にはなれなかった。信長のそばに付き、一番の理解者になりたかった。そして、本当は弱虫なあの信長を私が抱きしめてやらなければという思いが強くなっていた。
ちょうど、鷹のヒナだった峰花をそっと抱きしめて連れ去った時のように、帰蝶の心に柔らかな幸福感が芽吹いていたのだ。
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