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第二章 尾張国編「さまよう赤い糸」
第三話 長良川
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雄叫びを上げて軍勢を鼓舞しながら、信長は刃先をつき上げて先陣を切っていた。
斎藤道三から家督を継いだ長男・斎藤義龍が、隠居の身の道三を討つべく兵を挙げた。
義龍軍一万七千。
対して道三の軍勢はたった二千七百。
信長は道三のために援軍をそろえた。
が、隙をついて信長の城に攻撃を仕掛けた尾張内の敵対勢力にてこずって、出陣が遅れた。
信長は軍勢を引き連れ、道三と義龍が激突する長良川へ向かったが、手前の木曽川の川べりで、押し寄せてきた義龍の軍と対峙した。
馬の蹄が土を蹴り、轟音が地を揺らし、刀がぶつかり合う音が、砂塵舞う風を切り刻む。
うめき声と怒号が響き渡り、血しぶきの霧で赤く染まった視界の向こうに、入り乱れて戦う影が波打っている。
振りかざされる刀に刀をぶつけて跳ねのけながら、信長はひときわ大きな叫び声が近づいて来るのを耳にした。
「お館様ぁぁっ、道三様が、敗死なさいました」
敵地に赴き、戦場をかいくぐって戻った梁田政綱の、喉から振り絞る涙声。
「くそ、遅かったか」
信長はくそ、くそ、と叫びながら、怒りに任せて攻め入る兵を数名立て続けに切り倒した。
「これ以上傷を負うのは無駄だ。ひけ、お前ら、ひけ!」
血と泥まみれのどす黒い顔の中で、涙をはらんだ瞳がギラギラと煌めいている。
ひけ、ひけ!涙の粒をまき散らし、信長は迫りくる敵方を切り捨てるのをやめない。
「俺はいいから、さきにひけ!」
大将の剣幕に追い立てられて、手勢の軍が馬首を廻らせて元来た道を駆け出した。
戻ってゆく馬の後足が舞い上げる砂塵。
視界を遮るその砂埃の幕を割って、馬が一頭、退陣する人馬とすれ違い、こちらへ向かってかけてくる。
「ひけ、ひくんだ。もどれ!」
叫びながら目を凝らせば、馬上の人は長い黒髪を風になびかせ、薙刀を脇に抱えている。
「何やってるんだ、帰蝶、おまえはばかか」
そのとき、信長の耳元で金属音が響いた。
敵から突き出された刀を、すでに真横に張り付いた帰蝶の薙刀がはねのけた。
刀を押された敵兵は、勢いのままに馬から落ちて、帰蝶が振った弓月型の刃で首元をかっさらわれた。
吹き上げる血を片頬に浴びながら、帰蝶は叫んだ。
「父を助ける」
「帰蝶まて、もう遅い。道三殿は敗死なされた」
「そんなの敵のデマだわ」
向かい来る敵馬の脚を薙刀ですくい上げ、次々と倒しながら、帰蝶は叫び、なおも前進する。
信長は馬を打って隣を駆け、帰蝶の馬と並走した。
「聞け、親父殿は死んだんだ」
「うそよ。あのマムシの道三が死ぬわけないわ」
叫びながら薙刀を振り回す。近づく歩兵が吹っ飛び、転がって蹴散らされる。
信長は馬の鞍に立ち上がるや否や、驚くべき跳躍で帰蝶の馬に飛び移った。
帰蝶を後ろから抱えて手綱を奪うと、馬首を巡らせて力いっぱい腹を蹴った。
「お前まで死んだらどうする」
帰蝶を抱きくるめて体を前傾し、速度を上げる。背後に飛んでくる矢の雨から何とか逃げおおせながら必死で馬を追い立てる。
視界の先に、川がある。数十名の鉄砲隊と一艘の船が待っていた。
「鉄砲は全部船に置いて、先に退け。馬で川を渡れ、渡れ!しんがりは俺だ」
馬から降り刀を振り上げ手勢の武者たちを追い立てた。
「帰蝶、俺から離れるな」
帰蝶を抱きかかえて船に飛び乗る。船上で構えていた陣夫が川向こう目指して漕ぎ出した。
鉄砲放ちが信長に、着火した鉄砲を差し出した。
信長は背後に帰蝶を庇い、迫りくる敵陣に銃口を向けた。
水際まで来た敵兵が一人、血を吹いて頭から倒れた。
信長は鉄砲放ちから鉄砲を受け取り、的確な動きで構えては撃ち、置いては次を構えて撃つ。
鉛玉を受けた敵兵たちがばたばたと仰向けに転がった。
弾丸が尽きると今度は弓をとり、怒りの唸り声を上げながらつぎつぎに矢を放った。
川の流れに踏み入って迫りくる兵たちが、胸に矢を突き立てて、赤い水しぶきを上げて川面に倒れ込む。
やがて船を追う者はいなくなった。
信長の勇ましい奮闘ぶりを見て、帰蝶は動けなくなった。
父を思ったらいてもたってもいられなくて、馬で駆け出した。兄・義龍への怒りが、帰蝶の体に殺意をみなぎらせて戦地に赴かせた。
そして信長に抱かれて初めて、自分が恐ろしい地獄に足を踏み入れていたことに気づいて急に体が動かなくなったのだ。
ゆらりゆらりと船が二人を運んでいく。
茫漠と続く平地に、無数のぼり旗が遠ざかるのが見えた。道三の首を取り、興奮冷めやらぬまま信長をも追い詰めた義龍の軍が、引いていく。
「兄上は父を脅すようにして家督を奪ったの。そのうえ隠居の父を殺すなんて」
帰蝶はこみ上げる悲しみに、震える唇をかんだ。信長は血と砂塵と涙で汚れた帰蝶の頬を親指で拭った。
「隠居後も道三殿の権力は絶大だった。それゆえ道三殿を排除したかったようだ」
信長は言って、震える帰蝶の体を力強く抱きしめた。
「見ていろ帰蝶。いつか必ず俺たちの手に美濃を取り戻す」
美濃国での覇権争いに端を発したこの戦、「長良川の戦い」が終わった。
尾張の国の中央に位置する、清州城。
帰蝶は、信長が帰蝶のために用意した美しい広間でひとり、ひたすらに時が過ぎるのを待っていた。
このころ信長と帰蝶は、那古野城から、尾張の守護が代々居城した由緒あるこの優美な水辺の城に居を移していた。信長は着実に、尾張内での勢力を広げている。
───あの戦で父は命を奪われた。父のために、何百、何千という人が命を終えた。
そう思うと、寝所に入ってもまったく眠ることができなかった。
やっとのことで目を閉じれば、血しぶきが舞う赤い空、赤黒く染まった川面、鋼がぶつかる冷たい音、矢が風を切る音、敵兵を切る瞬間の、気味の悪い手ごたえなどが蘇って何度も跳ね起きた。
この悪夢から、いつになったら抜け出すことができるのか。
眠れていないせいで昼夜の区別もおぼつかない。
そんな時を過ごして十日ほど経ったころ、美濃の情勢を探りに出ていた菫がもどってきた。
菫は裾の短い小袖に脚絆と手っ甲、頭を包んだ桂巻姿。飴売りの変装姿のまま帰蝶のもとに現れた。
「道三様は崇福寺に手厚く葬られたとのことです」
言葉もなく帰蝶は両手で顔を覆った。
今や義龍が君臨する美濃と、道三に与した尾張は敵対関係。帰蝶が美濃に出向いて道三の墓前に手を合わせるのもままならない。
父は死んだ。しかも殺したのは、兄。失ったものも、憎むべきものも、あまりにも大きい。
「帰蝶さま、あまりふさぎ込んでは体に毒です」
そういう菫も頬がこけていた。焼き払われた戦のあとを駆け回ったのだろう。着ているものも顔も、煤や泥で汚れたままだ。
ただ、と菫は続けた。目を閉じた瞬間、一粒の涙が、汚れた頬に美しい筋道を描く。
「光秀さまは、南へ落ちのびた様子です」
うつむいていた帰蝶がはっと顔を上げた。
───光秀が生きている!
叔父が城主を務める明智城は義龍軍に焼かれ、叔父は籠城の末自害した、という噂だけが耳に届いていた。
叔父にしたがって道三方で奮闘した光秀は、今や美濃国内では逆賊の立場。討ち死にしたか、逃亡か、その消息は、これまで不明のままだった。
そこに舞い込んだ、光秀が生きているという知らせ。
帰蝶は絶望の中に一筋の光を見た気がした。
帰蝶はいても立ってもいられなくなった。
熱田で光秀に会えるような胸騒ぎを覚え、菫に留守居を頼み、隠密に城を出た。
松乃屋の前を通りかかると、不意に袖をつかまれて、戸口に引き入れられた。松乃屋のおかみだった。
「お兄様が部屋に身を隠しています。お会いになって」
おかみは囁いた。
帰蝶は駆け上がって光秀の部屋に向かった。障子を開くと、中央に敷かれた薄い布団のうえで光秀が大の字で眠っている。
美しい顔に、生々しい向こう傷の跡が赤紫色のすじとなって走っている。肩に巻かれたさらしは、滲んだ血が乾いて茶色く汚れていた。
「光秀」
帰蝶は横に座り、そっと声をかけた。光秀は目を細めて帰蝶を見た。焦点が合うまで、帰蝶はじっとその目を見つめて待った。光秀ははっきりと目を見開いたあと、ばつが悪そうに笑って見せた。
「情けないところを見られたな」
「光秀・・・生きていたのね」
「ああ。俺がここで死ぬわけにはいかない」
傷の養生のために上半身には何も着ていなかった。さらしを外しては薬を塗る、を繰り返していたのだろう。
「傷の手当は誰が」
「自分でさ」
光秀はそう言って自らの肩をそっと撫でた。
「もう少し良くなったら、ここを出る」
「どこへ行くつもり」
「越前だ」
「越前はきっと寒いわ」
帰蝶が言うと、光秀は首を振った。
「そこは姫、越前に行ってしまったら寂しい、と素直に言えよ」
からかうように口角を引き上げ、光秀は白い歯を見せた。
「寂しいと言ったら、行かない?」
帰蝶は言った。冗談が半分、残りの半分は本気だった。光秀が尾張にいたらどんなに心強いか、と思った。光秀は寂しそうに首を横に振った。
帰蝶のうなじに手を回し、そっと引き寄せる。頬に息がかかる距離まで、帰蝶の顔が光秀に近づいた。光秀の肌の香りが懐かしい。
「できることならずっとこうしていたい」
光秀は言って、帰蝶を抱き寄せた。隣に横たわった帰蝶は光秀の胸に手を当て、その心音を肌に感じて目をとじる。
「俺はもっと強くならないといけない。強くなって、いつになるかは分からないが、必ず戻って明智の家を再興する。そう叔父上と約束したから」
この戦で、帰蝶は父を、光秀は父親代わりの叔父を失った。二人はしばらくの間、抱き合って離れなかった。
光秀の指が帰蝶の頬に触れた。
「姫、こんな時にあなたのそばにいられないのがつらい。でも姫には信長殿がいる。あの方なら安心して帰蝶を任せることができるよ」
光秀の腕の中で、帰蝶の目から涙が噴きこぼれた。
───赤い糸のたどり着く先は、光秀ではなかった
戦地で帰蝶を抱きかかえ、死に物狂いでしんがりをやり遂げた信長の雄姿を想う。
あのときの信長の、命を燃やす力強い抱擁を、帰蝶は一生涯、忘れることはできない。
けれども、光秀のこの胸のぬくもりもまた、帰蝶の記憶から消し去ることのできない、かけがえのないものに違いなかった。
斎藤道三から家督を継いだ長男・斎藤義龍が、隠居の身の道三を討つべく兵を挙げた。
義龍軍一万七千。
対して道三の軍勢はたった二千七百。
信長は道三のために援軍をそろえた。
が、隙をついて信長の城に攻撃を仕掛けた尾張内の敵対勢力にてこずって、出陣が遅れた。
信長は軍勢を引き連れ、道三と義龍が激突する長良川へ向かったが、手前の木曽川の川べりで、押し寄せてきた義龍の軍と対峙した。
馬の蹄が土を蹴り、轟音が地を揺らし、刀がぶつかり合う音が、砂塵舞う風を切り刻む。
うめき声と怒号が響き渡り、血しぶきの霧で赤く染まった視界の向こうに、入り乱れて戦う影が波打っている。
振りかざされる刀に刀をぶつけて跳ねのけながら、信長はひときわ大きな叫び声が近づいて来るのを耳にした。
「お館様ぁぁっ、道三様が、敗死なさいました」
敵地に赴き、戦場をかいくぐって戻った梁田政綱の、喉から振り絞る涙声。
「くそ、遅かったか」
信長はくそ、くそ、と叫びながら、怒りに任せて攻め入る兵を数名立て続けに切り倒した。
「これ以上傷を負うのは無駄だ。ひけ、お前ら、ひけ!」
血と泥まみれのどす黒い顔の中で、涙をはらんだ瞳がギラギラと煌めいている。
ひけ、ひけ!涙の粒をまき散らし、信長は迫りくる敵方を切り捨てるのをやめない。
「俺はいいから、さきにひけ!」
大将の剣幕に追い立てられて、手勢の軍が馬首を廻らせて元来た道を駆け出した。
戻ってゆく馬の後足が舞い上げる砂塵。
視界を遮るその砂埃の幕を割って、馬が一頭、退陣する人馬とすれ違い、こちらへ向かってかけてくる。
「ひけ、ひくんだ。もどれ!」
叫びながら目を凝らせば、馬上の人は長い黒髪を風になびかせ、薙刀を脇に抱えている。
「何やってるんだ、帰蝶、おまえはばかか」
そのとき、信長の耳元で金属音が響いた。
敵から突き出された刀を、すでに真横に張り付いた帰蝶の薙刀がはねのけた。
刀を押された敵兵は、勢いのままに馬から落ちて、帰蝶が振った弓月型の刃で首元をかっさらわれた。
吹き上げる血を片頬に浴びながら、帰蝶は叫んだ。
「父を助ける」
「帰蝶まて、もう遅い。道三殿は敗死なされた」
「そんなの敵のデマだわ」
向かい来る敵馬の脚を薙刀ですくい上げ、次々と倒しながら、帰蝶は叫び、なおも前進する。
信長は馬を打って隣を駆け、帰蝶の馬と並走した。
「聞け、親父殿は死んだんだ」
「うそよ。あのマムシの道三が死ぬわけないわ」
叫びながら薙刀を振り回す。近づく歩兵が吹っ飛び、転がって蹴散らされる。
信長は馬の鞍に立ち上がるや否や、驚くべき跳躍で帰蝶の馬に飛び移った。
帰蝶を後ろから抱えて手綱を奪うと、馬首を巡らせて力いっぱい腹を蹴った。
「お前まで死んだらどうする」
帰蝶を抱きくるめて体を前傾し、速度を上げる。背後に飛んでくる矢の雨から何とか逃げおおせながら必死で馬を追い立てる。
視界の先に、川がある。数十名の鉄砲隊と一艘の船が待っていた。
「鉄砲は全部船に置いて、先に退け。馬で川を渡れ、渡れ!しんがりは俺だ」
馬から降り刀を振り上げ手勢の武者たちを追い立てた。
「帰蝶、俺から離れるな」
帰蝶を抱きかかえて船に飛び乗る。船上で構えていた陣夫が川向こう目指して漕ぎ出した。
鉄砲放ちが信長に、着火した鉄砲を差し出した。
信長は背後に帰蝶を庇い、迫りくる敵陣に銃口を向けた。
水際まで来た敵兵が一人、血を吹いて頭から倒れた。
信長は鉄砲放ちから鉄砲を受け取り、的確な動きで構えては撃ち、置いては次を構えて撃つ。
鉛玉を受けた敵兵たちがばたばたと仰向けに転がった。
弾丸が尽きると今度は弓をとり、怒りの唸り声を上げながらつぎつぎに矢を放った。
川の流れに踏み入って迫りくる兵たちが、胸に矢を突き立てて、赤い水しぶきを上げて川面に倒れ込む。
やがて船を追う者はいなくなった。
信長の勇ましい奮闘ぶりを見て、帰蝶は動けなくなった。
父を思ったらいてもたってもいられなくて、馬で駆け出した。兄・義龍への怒りが、帰蝶の体に殺意をみなぎらせて戦地に赴かせた。
そして信長に抱かれて初めて、自分が恐ろしい地獄に足を踏み入れていたことに気づいて急に体が動かなくなったのだ。
ゆらりゆらりと船が二人を運んでいく。
茫漠と続く平地に、無数のぼり旗が遠ざかるのが見えた。道三の首を取り、興奮冷めやらぬまま信長をも追い詰めた義龍の軍が、引いていく。
「兄上は父を脅すようにして家督を奪ったの。そのうえ隠居の父を殺すなんて」
帰蝶はこみ上げる悲しみに、震える唇をかんだ。信長は血と砂塵と涙で汚れた帰蝶の頬を親指で拭った。
「隠居後も道三殿の権力は絶大だった。それゆえ道三殿を排除したかったようだ」
信長は言って、震える帰蝶の体を力強く抱きしめた。
「見ていろ帰蝶。いつか必ず俺たちの手に美濃を取り戻す」
美濃国での覇権争いに端を発したこの戦、「長良川の戦い」が終わった。
尾張の国の中央に位置する、清州城。
帰蝶は、信長が帰蝶のために用意した美しい広間でひとり、ひたすらに時が過ぎるのを待っていた。
このころ信長と帰蝶は、那古野城から、尾張の守護が代々居城した由緒あるこの優美な水辺の城に居を移していた。信長は着実に、尾張内での勢力を広げている。
───あの戦で父は命を奪われた。父のために、何百、何千という人が命を終えた。
そう思うと、寝所に入ってもまったく眠ることができなかった。
やっとのことで目を閉じれば、血しぶきが舞う赤い空、赤黒く染まった川面、鋼がぶつかる冷たい音、矢が風を切る音、敵兵を切る瞬間の、気味の悪い手ごたえなどが蘇って何度も跳ね起きた。
この悪夢から、いつになったら抜け出すことができるのか。
眠れていないせいで昼夜の区別もおぼつかない。
そんな時を過ごして十日ほど経ったころ、美濃の情勢を探りに出ていた菫がもどってきた。
菫は裾の短い小袖に脚絆と手っ甲、頭を包んだ桂巻姿。飴売りの変装姿のまま帰蝶のもとに現れた。
「道三様は崇福寺に手厚く葬られたとのことです」
言葉もなく帰蝶は両手で顔を覆った。
今や義龍が君臨する美濃と、道三に与した尾張は敵対関係。帰蝶が美濃に出向いて道三の墓前に手を合わせるのもままならない。
父は死んだ。しかも殺したのは、兄。失ったものも、憎むべきものも、あまりにも大きい。
「帰蝶さま、あまりふさぎ込んでは体に毒です」
そういう菫も頬がこけていた。焼き払われた戦のあとを駆け回ったのだろう。着ているものも顔も、煤や泥で汚れたままだ。
ただ、と菫は続けた。目を閉じた瞬間、一粒の涙が、汚れた頬に美しい筋道を描く。
「光秀さまは、南へ落ちのびた様子です」
うつむいていた帰蝶がはっと顔を上げた。
───光秀が生きている!
叔父が城主を務める明智城は義龍軍に焼かれ、叔父は籠城の末自害した、という噂だけが耳に届いていた。
叔父にしたがって道三方で奮闘した光秀は、今や美濃国内では逆賊の立場。討ち死にしたか、逃亡か、その消息は、これまで不明のままだった。
そこに舞い込んだ、光秀が生きているという知らせ。
帰蝶は絶望の中に一筋の光を見た気がした。
帰蝶はいても立ってもいられなくなった。
熱田で光秀に会えるような胸騒ぎを覚え、菫に留守居を頼み、隠密に城を出た。
松乃屋の前を通りかかると、不意に袖をつかまれて、戸口に引き入れられた。松乃屋のおかみだった。
「お兄様が部屋に身を隠しています。お会いになって」
おかみは囁いた。
帰蝶は駆け上がって光秀の部屋に向かった。障子を開くと、中央に敷かれた薄い布団のうえで光秀が大の字で眠っている。
美しい顔に、生々しい向こう傷の跡が赤紫色のすじとなって走っている。肩に巻かれたさらしは、滲んだ血が乾いて茶色く汚れていた。
「光秀」
帰蝶は横に座り、そっと声をかけた。光秀は目を細めて帰蝶を見た。焦点が合うまで、帰蝶はじっとその目を見つめて待った。光秀ははっきりと目を見開いたあと、ばつが悪そうに笑って見せた。
「情けないところを見られたな」
「光秀・・・生きていたのね」
「ああ。俺がここで死ぬわけにはいかない」
傷の養生のために上半身には何も着ていなかった。さらしを外しては薬を塗る、を繰り返していたのだろう。
「傷の手当は誰が」
「自分でさ」
光秀はそう言って自らの肩をそっと撫でた。
「もう少し良くなったら、ここを出る」
「どこへ行くつもり」
「越前だ」
「越前はきっと寒いわ」
帰蝶が言うと、光秀は首を振った。
「そこは姫、越前に行ってしまったら寂しい、と素直に言えよ」
からかうように口角を引き上げ、光秀は白い歯を見せた。
「寂しいと言ったら、行かない?」
帰蝶は言った。冗談が半分、残りの半分は本気だった。光秀が尾張にいたらどんなに心強いか、と思った。光秀は寂しそうに首を横に振った。
帰蝶のうなじに手を回し、そっと引き寄せる。頬に息がかかる距離まで、帰蝶の顔が光秀に近づいた。光秀の肌の香りが懐かしい。
「できることならずっとこうしていたい」
光秀は言って、帰蝶を抱き寄せた。隣に横たわった帰蝶は光秀の胸に手を当て、その心音を肌に感じて目をとじる。
「俺はもっと強くならないといけない。強くなって、いつになるかは分からないが、必ず戻って明智の家を再興する。そう叔父上と約束したから」
この戦で、帰蝶は父を、光秀は父親代わりの叔父を失った。二人はしばらくの間、抱き合って離れなかった。
光秀の指が帰蝶の頬に触れた。
「姫、こんな時にあなたのそばにいられないのがつらい。でも姫には信長殿がいる。あの方なら安心して帰蝶を任せることができるよ」
光秀の腕の中で、帰蝶の目から涙が噴きこぼれた。
───赤い糸のたどり着く先は、光秀ではなかった
戦地で帰蝶を抱きかかえ、死に物狂いでしんがりをやり遂げた信長の雄姿を想う。
あのときの信長の、命を燃やす力強い抱擁を、帰蝶は一生涯、忘れることはできない。
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